Thomas Daniell
Princeton Architectural Press、2008年9月3日、192ページ
ISBN=9781568987767
[論考]
序─低い声 四本の柱が立ち、そこに屋根を架けた小屋は住宅の原型なのだろうか? [〈それ〉溝は作動している]あるいは、一本の柱が太古の平野に立てられた瞬間に構築が誕生したという、『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスを想起させる魅力的な思考。[いたるところで〈それ〉は作動している]これらはロージエの起源論、さらにはサマーソンに...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.130-145
[インタヴュー]
「様式の併立」をめぐって 日埜直彦──これまで伺ってきたお話を振り返ってみると、大きくは桂離宮を巡り端的に現われた日本の近代建築と伝統建築の問題ということになるかと思います。そしてそのことをもうすこし視野を広げて見れば、近代建築が日本において成立し、それ相応の具体化を遂げる過程で建築家がいかに考えてきたかということにな...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.187-197
[日本]
F.O.B.A 1994年、建築家梅林克を中心に設立。主な作品=《ORGAN I》《AURA》(97年度東京建築士会住宅建築賞受賞)、《ORGAN II》《CATALYST(KINOSAKI BEER FACTORY ‘GUBI-GABU’)》(2000 年度グッドデザイン賞受賞)、《STRATA》。2000年ヴェネツ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.146-147
[生産─技術]
わたしたちが望むのはモノを吟味し、モノにそれ自体が持つ形態を見つけ出させることである。モノにその外側から形態を授けること、モノを外部から決定すること、モノにどんな種類のであれ法則を押し付けること、モノを意のままにすること──これらはわたしたちの本意ではない。 フーゴ・ヘリング「形態への道程」(一九二五) アレハン...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.124-127
[論考]
西洋の想像力にとって日本は二つある。ひとつは急速かつ濃密、雨に濡れてネオンのまたたく、ぎゅうぎゅう詰めの人工的カオス。もう一方は静かかつ平穏、謎めいて官能的な、自然のサイクルと密接に関連した日本である。 日本の写真についての論は、たいていこれらのテーマのどちらか、あるいはもっと一般的には、両者の並列に注目している。近代...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.157-159
[column]
注目に値する数少ない例外を別とすれば、東京を対象とする研究は、物質的な組織編成としての都市よりも文化的な表徴としての都市に集中している。それらはしばしば個人的な逸 話(アネクドート)に基づき、現代のストリート・シーンの描写や古き江戸文学への参照において日常生活のディテールに力点を置く傾向にある。そのようなファクターが...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.127-129
[CONCEPTUAL 日本建築 5]
25 京間 ZASHIKI in Kyoto way measuring 関西普請は日本を席巻した 昔は、畳や襖をもって引越したものだ、そういう話を聞くことがある。 どうしてそんなことができるのか、真剣に考えこんだ建築家や工人は多いのではないか。内法高さは前章でみたように、全国的な統一があろう。だから襖や障子は可能か...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.306-319
[グローバリズム 3]
1 ロンドン 一九九一 浅田彰は西欧での現代日本文化の見方に関しては二つのオリエンタリズムの危険があるという。一つは安藤忠雄の建築に日本を見出すという古いタイプのそれであり、もう一つは猥褻さとメトロポリスの孤独などをテーマに作品を撮り続けてきた写真家アラーキーの「錯乱のトウキョウ」のような新しいタイプのそれだと彼はいう...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.225-236
[モノとマチの向こうに見えるもの 1]
はじめに 今回から連載というかたちでモノやマチ、社会が置かれている現在の状況を通して、プロダクトや建築・都市の今後、デザイナーのあり方を探ってみたい。 ジェネレーションY 昨今、各種企業のマーケティング戦略の中で、ジェネレーションY(Generation Y)への注目が集まってきている。ジェネレーションYというのは、...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.30-31
[「悪い場所」にて 10]
このところ、六〇年代末から七〇年代初頭にかけての美術の見直しが進んでいる。先頃も、鎌倉山に所在する鎌倉画廊で、六〇年代に静岡を拠点に活動した前衛芸術グループ「幻触」の旧作を集めた展覧会が開かれたばかりだし、秋には国立国際美術館で、「もの派」の再検討を含めた大型展が開かれるという。 「もの派」といえば、関根伸夫、李禹煥、...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.13-15
[グローバリズム 4]
1 東京 二〇〇三 vs 東京計画一九六〇 vs ドバイ二〇〇? 東京のど真ん中に誕生したばかりの新しい都市、「六本木ヒルズ」のそのまた中心を占めるタワーは武士の鎧をイメージしたのだという。設計者は日本人ではなくアメリカのKPFである。名古屋にもフランクフルトにも、もちろん本拠のシカゴにもタワーを建てているいわ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.208-220
[翻訳]
〈オーストリアの終焉(Finis Austriae)〉は過密した点を表わす。その結果として、オーストリア文化と二〇世紀のヨーロッパ文化双方においてそれは、マルチメタファーの形でこそ存在する。最も直接的にそれが示すのはハプスブルク帝国終焉の年月と戦争、そしてその余波のうちの社会状況であり、これは騒然とした崩壊過程であって...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.245-262
[論考]
《都城市民会館》(一九六六)[図1]は、ぎりぎりのタイミングで残されることになった。菊竹清訓の構想力の大きさを印象づけたこの建築も、新たな市の総合文化ホールの建設を機に、解体に向けた動きが着々と進行していた。二〇〇七年二月に市長が取り壊しを正式に発表、九月に議会で解体予算が採択されて、あとは解体工事を待つばかり。そんな...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.114-115
[作品構成]
1 あえて線形的に設計する OMAの《Casa da Musica》案の骨格は、住宅プロジェクト《Y2K》のために検討された案の流用によってもたらされたことが知られている。コールハースのこのいたずら心に満ちたパフォーマンスが意味をもつのは、建築家による設計プロセスが、そのような論理的飛躍の連続でなく、論理の積み重ねに...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.161-166
[論考]
シカゴの都市社会学派を代表するロバート・パークは、大都市(メトロポリス)をとある機械(マシーン)に見立てていた節があります。彼はこう述べていました──メトロポリスとは、一見したところ「方向変換と選別の巨大な機構」のようであると。つまり、膨大な数の人びとを惹き寄せて外延・拡大することで成長をつづけてきた都市は、同時に人々...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.124-125
[翻訳]
風水:もとの場所に居つづける限り地主の繁栄はつづくという古い中国信仰。 シンガポールのグリーンプラン:われわれはブルドーザを適正な場所に導きたい。 リー・クァンユー:シンガポールは多様で変化に富むものすごく大きな世界のなかのちっぽけな場所だから、機敏でなかったり、調整がすみやかにできなければ、消えるしかないだろうし、人...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.173-197
[住居の視点、住居の死角 3]
前号で、都市計画法改正にともなう〈用途地域・地区〉の都市計画線引きにふれて「法制都市・東京」の成就した姿を記述してみた(「法制都市・東京にGスポットはあるのか」)。この徹底した過程を踏み台にすれば、新宿副都心のビル回廊に連なるホームレス(路上生活者)の住居である「段ボールハウス」の出現を不可避なこととして、しかも未知な...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.41-44
[現代建築思潮]
海外建築情報の受容と読解 今村創平 今村──今回は「海外建築の受容」というテーマを取り上げてみたいと思います。まずは建築の文脈からは離れますが、資料として配りました丸山真男『日本の思想』、吉本隆明『初期歌謡論』、柄谷行人『批評とポストモダン』からの抜粋についてです。これらでは日本では何かを構築しようとしても難しく、特に...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.47-54
[ピクトリアリズムの現在 3]
鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》連作が問題としているのは、対象に「見入る」こと、すなわち「奥行き」という空間性の創出についてであった。言うまでもなくこれは遠近法的な消失点をもった奥行きではなく、『知覚の現象学』におけるようなそれである。「感官というものはすべて、それらがわれわれを存在の何らかの形式に到達させるはず...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.17-18
[1990年代以降の建築・都市 6]
九坪ハウスという現象 二〇〇二年一〇月一二日、TNプローブにおいて「九坪ハウスシンポジウム二〇〇二」が開催された。これはBoo-Hoo-Woo.comが仕掛けた住宅事業「九坪ハウス」により、八人の建築家・デザイナーがそれぞれにデザインした九坪ハウスを発表し、同時にそのシンポジウムを行なうイヴェントである。筆者は、このシ...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.184-193
[現代住宅論 5]
序 先頃、東京で開催された展覧会「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」において、ル・コルビュジエの《パリのアトリエ》、《小さな休暇小屋(カップ・マルタン)》、マルセイユの《ユニテ・ダビタシオン》の住戸単位の三つの空間の現寸大模型が展示された。それぞれ内部に入ることが可能であり、実際の空間のスケールを把握で...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.226-233
[1990年代以降の建築・都市 23]
教会のイメージ 日本人にとって教会とはなにか。これまでにも幾度か結婚式教会について考察してきたが、あえてフェイクに見慣れた目から、もう一度、本物の教会を考えてみたい。 漫画やドラマなど、サブカルチャーのシリーズ物における宗教ネタは、ほとんど例外なく、悪の組織として登場する。キリスト教系と思われるものも少なくない。ドラゴ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.39-41
[技術と歴史 11]
省エネルギーの多様化 建築においても、「持続可能性(サステイナビリティ)」が重要な概念となってきましたが、サステイナブルという言葉の定義が必ずしも明確なわけではありません。ワールドウオッチ研究所の所長をしていたレスター・ブラウンが一九八一年に『持続可能な社会の構築』という本を著し、「われわれの住んでいる環境は先祖からの...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.180-189
[年表]
日本の建築の近代について、これまでにどんな歴史的視点が生まれ、拡がり、変わっていったのだろうか。建築をきちんと考えよう、つまり歴史的に考えようとしたとき、否応なく気付かされるのは、他の多くのものと同じように「歴史」にも、それ自体連続していく歴史が存在するという事実である。私たちを何とはなしに取り囲んでいる枠組みを超えよ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.164-165
[特別掲載]
福岡オリンピック計画 2005年より、JOC(日本オリンピック委員会)は、名古屋(1988)、大阪(2008)の世界オリンピック大会会場招致の失敗の反省のうえにたって、2016年の第31回オリンピック競技大会には十分に日本への招致の可能性のある都市が立候補するように働きかけを始めた。数都市が名乗りを挙げたが、立候補意思...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.25-48
[音響場試論 3]
録音技術の普及 都市を音の響く場として捉え、さまざまな界隈で響く音の空間的な分布を、社会学的、経済学的、あるいはメディア論的な視点から分析し、パリを定点観測の軸として、都市や文化生産(消費)への理解の新たなとっかかりを見出そうというのがこのコラムの狙いであった。初回では音を囲い込み、より精度よく聴き手に向けて送り出す技...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.38-39
[都市表象分析 28]
1 都市の軟体動物 よく知られているように、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルはダニの生活史を記述するにあたって、ダニを取り囲む世界はダニ固有の「環境世界」に変化されている、と指摘した。この環境世界は、哺乳類の皮膚腺から発散される酪酸の刺激という嗅覚的標識、それに応じて落下したダニが哺乳類の毛に接触して得る触覚的標識、そし...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.2-12
[CONCEPTUAL 日本建築 8]
43 JAPONISME──「近代」に向かってめくられた最後の頁 Last pages towards the MODERN, which western society had to discover 高階秀爾の若き日の著作に『世紀末芸術』(紀伊國屋新書、一九六三)がある。 あたかも東京オリンピックの前年、破竹の勢い...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.222-237
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 1]
「ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ」と題した本稿が企図しているのは、ローレンス・レッシグが「アーキテクチャ(Architecture)」と呼び(Lessig[1999=2001])、東浩紀がこれをフーコーの権力論と対比することで導き出した「環境管理型権力」の概念(東[二〇〇二─二〇〇三])を継承しつつ、それ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.23-24
[「悪い場所」にて 7]
わたしも会員のひとりである「美術評論家連盟」という組織があって、今年で五〇周年を迎えるという。それにあわせて先頃「日本の美術評論のあり方」と題する記念シンポジウムも開かれ、コメンテーターとして参加したので、今回はこのことをきっかけに、いろいろ考えてみたい。 会場は東京国立近代美術館のホール。全体の構成は前半(もの派から...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.25-26
[1990年代以降の建築・都市 21]
アジア的なシドニーの景観 今秋、「rapt!」という日本とオーストラリアの交流年にあわせた美術系のイヴェントの一環で、初めてオーストラリアを訪れた。日本国内ではいつも睡眠が不規則のため、普段から時差ぼけ状態で日々過ごしている身にとっては、長い空の旅にもかかわらず、ほとんど時差がなく現地に到着するのは、なんとも奇妙な感覚...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.39-41
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 2]
前回、本連載ではP2P(Winny)を扱った。今回はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を対象に扱う。特に焦点を当てるのはmixiである。今年九月、株式上場で話題を集めたmixiは、現在ユーザ数六〇〇万超、PV(ページビュー)でYahoo Japanに次ぐ国内第二位の位置につけており、二〇〇四年のサービス開...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.49-51
[都市の断層線/切断線 4]
1 都市の座標系 今日の都市・東京に起こっている現実の多くは農村と都市というような対比の図式では理解しがたいものだろう。たしかに都市には古い地層が幾筋も堆積しているが、現在の表層に広がる東京を考えるとき、あるいは現在の東京にアクチュアルな像を与えようとするとき、都市化という概念は有効ではない。「三全総」(一九七七年策定...
[インタヴュー]
一九二〇年代の建築状況 日埜直彦──今回は磯崎さんの建築家としてのキャリアの最初期について伺いたいと思っています。 すでに『建物が残った』で当時のことについて多少書かれていますが、それを読んでいてもなかなか見えてこないのが岸田日出刀の特異な存在です。彼は戦中戦後の近代建築をリードし、その後の展開に大きな影響を与えたわけ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.149-158
[論考]
「それらには何か或るものが共有されていなくてはならない。さもないと、それらは「ゲーム」と呼ばれないから」などと言ってはならない。──そうではなく、それら全てに何か或るものが共有されているか否かを、良く見るべきなのである。──何故なら、君がそれを良く見れば、それら全てに共有されている何か或るものを見出す事はないとしても、...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.111-120
[論考]
はじめに 今回の特集もその一環なのかもしれないが、近年、日本の「近代建築」、「モダニズム」に関する議論が盛んだ。例えば、個人を対象とした実証的な取り組みがある。「近代か反近代か」という思想構造の中で、ともすれば取りこぼされていた作業であり、そうした区別を再編することにもなろう。それに伴って、「近代=戦前」/「現代=戦後...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.149-163
[論考]
1都市を浮遊するように生活するーホンコン・スタイル ノーマン・フォスターの新しい空港ができて、啓徳空港にジェットコースターのように降り立つスリリングさは二度と味わえなくなったが・香港ヘランディングする数十分間は、まさに都市の断面図を見る瞬間でもあった。空港は都市の心臓部に位置しており、飛行機の窓からは高密度な建物群を見...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.133-143
[論考]
だからともかくも、私にとってそう見えるのかもしれないが、ミースを通して、ミースの多くを拒絶することを通して、しかしそれでもミースを通して、《イームズ自邸》は生まれた。それはまったくオリジナルで、まったくアメリカ的だ。 ピーター・スミッソン★一 出版された最も古いその住宅の写真には、トラックが一台写っている。トラックは...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.166-181
[スタディ]
リチャード・バックミンスター・フラー(1895-1983)は、20世紀最大のテクノロジストであり哲学者である。彼は近代建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)やミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)より少し若いが、彼らとほとんど同時代を生き抜いた。アメリカで生まれ育ったフラーは、ヨーロッパ生まれのモ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.155-166
[図版構成]
TODAY'S JAPAN展コンセプト 今日私たちは7つの都市を生きている。この多層な都市において、個人の空間は都市空間であり、都市空間は個室である。 携帯用電話で友人と話しながら街を歩く。 ウォークマンで音楽を聴きながら電車に乗る。 TV座談会を見ながらFaxのコメントを送る。 自宅からパソコンのキーボードを叩いて...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.83-87
[論考]
日本を訪れた者は、現代の日本の都市はカオスであり、中には実にすばらしい建築があるにもかかわらず、全体的に美しくデザインされていないと感じるはずだ。 これは最近の意見ではなく、早くも一九三六年にブルーノ・タウトが述べたものである★一。日本の都市空間を理解せずに西洋の理論を押し付け、日本の都市環境を「改善」しようと試み...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.143-148
[論考]
焦土の幾何学 「あーきれいだ、絵画的だなー」★一。 疎開先の山梨から東京に戻り、強い夕日を受けた褐色の焼跡を見て、甚だけしからないことだと思いつつ、東京帝国大学教授の岸田日出刀はこうした感想を抱いた。彼にしてみれば、戦前の「街の姿のあまりの醜さを毎日みせつけられてウンザリしていた」し、防空の観点から木造都市の危うさをさ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.119-129
[都市/メディア]
ここ数年、いわゆる建築雑誌以外のメディアにおいて建築が取り上げられる機会が多くなってきた。NHKの『ETVカルチャースペシャル』で「建築家バトル」が行なわれたのはつい最近のことだ。また映画やゲーム、写真集といった身近なメディアにも現在の都市の姿は否応なく現われている。いやむしろ、そのようなメディアを通して都市のイメージ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.116-119
[都市/テクスト]
都市記号論を超えて 一九六〇年代にK・リンチやR・バルトが都市記号論を準備し、七〇年代にコンテクスチャリズム論が語られ、八〇年代は学際的な都市テクスト論が興隆した★一。これらは近代の都市計画がもっぱら建設者の論理だったのに対し、受容者の解読を多様化する試みといえよう。しかし、結局、読むための方法は作るための手法になりえ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.112-115
[論考]
OMA(Office for Metropolitan Architecture)は、著作・建築・都市などジャンルを超えた創造活動を行なう建築家組織だ。彼らは、一九七八年のデビュー以来、複数の建築家が対等な立場でプロジェクトを計画する都市的な新鮮さを持ち続けてきた。彼らの新しさは、都市的なパラダイムが原動力である。ここ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.165-172
[制度─都市]
オーギュスト・ペレはその著書『建築理論への寄与』のなかで、建物を美へと結びつける道標として「特質、スタイル、調和」を挙げている。それは構築的なるものの美に関する記述であるが、鉄筋コンクリートという新素材と建築の伝統の意匠様式が融合する地平を切り開いていったペレならではのバランス感覚がそこにはあると思う。同時代の多くのコ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.136-139
[対談]
1 八束──今回の特集では、作家や作品というよりも広義の意味での言説を中心に明治以降の近代建築史を概観するという趣旨で、ここでは「建築史」という言説タイプを取り上げようと思います。いろいろと「日本近代建築史」に関するテクストを読んでいると、当り前のことですが、それらもまた歴史の一部であるということを改めて感じないではい...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.62-76
[インタビュー]
〈もの〉ではなく、その効果 槻橋修──今回のインタビューにあたり、伊東さんの作品を言説を含め改めて見直したのですが、一九八四年の《シルバーハット》[図1]の頃から「建築を消したい」という発言が頻出するようになってきます。僕たちがこの「建築を消す」という言葉で想起するのはやはり「透明性」という概念です。これは伊東さんが翻...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.70-79
[翻訳]
主流へと参入するエスニック・ビジネス 新宿区歌舞伎町二丁目と大久保一丁目の境界に位置する職安通りには、一九八○年代後半から姿を現わし、ハングル文字の看板が掲げられたコリアンタウンが広がっている。そこにはレストランや小さな工場があり、食料品店では韓国の食材だけでなく種類豊富な韓国語の新聞や雑誌も販売している。それは戦前...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.119-133
[ディスカッション]
この討論は、特集である多摩ニュータウンを見学し、それぞれが現代で経験しつつあることとの関係の中で、はたしてこれまでのパラダイムで建築が考察されうるのか、という疑問を暗黙におきつつ、なおいたずらに抽象的な議論に終始することなく、建築を核にして人間の生存の様態を討議するためのものである。ここに参加していただいた三人の建築家...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.76-103
[論考]
序 東京にクラブとよばれる空間が、都市に穿たれた穴のように点在している。 一九八九年、現在に直接つながるクラブ、芝浦GOLDが出現した。九〇年代前半、バブル最後の仮象をはなったジュリアナ東京などの大型ディスコと入れ替わるようにして、クラブは増殖していく。その後、ハウス、テクノ、ヒップ・ホップ、トランス、レゲエなどへ細分...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.92-99
[論考]
私の目的は、万博の根本原理である国民国家に囚われない、自由な美術展を創造することにある。 万博と国民国家 アメリカの参加が意味するもの クレオール文学者のモーリス・ロッシュは、一九世紀に始まった万博は、西欧の都市国家から国民国家へ、そして市場経済形成へと近代化していく変遷の過程の産物であったとしている★一。一八七〇年...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.116-124
[論考]
一番悪いことは、突然の、おぞましい白日の苛酷さだった。わたしは見ることも見ないこともできなかった。見ることは恐怖であり見るのをやめることは額から喉までわたしをひき裂いた。 モーリス・ブランショ 1 ここに一枚の写真がある[図1]。右手に握り飯をつかんだ少年が、まっすぐにカメラを見つめている。頬や額を汚しているのは、傷...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.252-259
[特別寄稿]
0 はじめに 全体主義はこのようにはじまる。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、所属しない人、交わらない人、国籍や民族や宗教が多数派と異なるとされる人、理解や共感ができずに不安感を与える人は、そういう「しるし」にさ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.260-269
[論考]
90年代に生まれた最も新しい音は、レコードの上に乗る針の音である。 かつてないほど多くの音が90年代を飛び回っていた、ということをまず確認しておこう。 なによりも80年代のはじめに生まれ、80年代後半にはすでにアナログ・レコードの売り上げを追い抜いていたCD(コンパクト・ディスク)というデジタル音響メディアが音楽の主...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.106-107
[論考]
一 まなざしの送り返し 一九六〇年代前半から勃興しはじめたデザイン・サーヴェイが、保存の問題や設計リソースの収集という「有効性=有能性」を保持していたのに対して、六〇年代後半、雑誌『都市住宅』に連載されていたコンペイトウ★一や遺留品研究所★二などの活動は、前期のデザイン・サーヴェイがもつ「有効性=有能性」に対する批判と...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.108-119
[万博という問題系1]
《タカラビューティリオン》《東芝IHI館》 五十嵐——黒川先生のお仕事は多岐に渡っていますが、今日は「万博」をめぐっていくつかおうかがいしたいと思います。 まず、七〇年の大阪万博において、黒川先生は一九六〇年代に提案された実験的なアイディアを試みる場として、二つのパヴィリオンと空中展示のカプセル住居を手がけられています...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.64-79
[論考]
「Vertigo(眩暈)」の展覧会テーマに合う、現代の日本建築を教えてくれないか? と尋ねる英国人建築家へ返信のメール。 君もよく知っている妹島和世さんの集合住宅はどうかな? ついこの間、彼女が設計した《岐阜県営住宅ハイタウン北方》[図1]に行ってきたので、そのときの話を送ろうと思う。 ところで、彼女の建築的戦略がもっ...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.108-115
[論考]
* ダン・グレアムは、一九八九年から九一年にかけて、DIAセンター・フォー・ジ・アーツのビルの屋上を作り変えた。それが、有名な《Roof Top Urban Park Project / Two-Way Mirror Cylinder Inside Cube》である。 ギリシア語で「through」を意味する名を冠した...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.112-118
[図版構成]
都市の四畳半は、電子ネットワークと現実の都市の接点にかろうじて生じるミニマルな空間である。モーバイル・インテレクチャルを気取って四畳半をオフィスにするもよし、もしあなたが都市と戯れる術を持った人間なら、都築響一が言うようにシャレで借りることさえ可能だ。このような都市の部屋は「住まい」という概念からは遠く隔たっている。い...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.104-104
[批評]
ラテンアメリカ化するロサンジェルス 今福──「新しい地理学」をテーマに『10+1』が特集を組むときいて、ちょうどいま日本に滞在しているあなたと少しあらたまって対話ができたら、と思って今日は来ていただきました。この秋にアメリカのコーヒーハウス社から刊行されるあなたの新作小説『オレンジ回帰線』は、今日の鋭敏な社会科学者が直...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.158-172
[批評]
1 錯乱のプロローグ 一九八×年:おそらく二〇世紀の「東京」。人々は平和を謳歌している。見慣れた渋谷や新宿の風景。どこにでもいそうな公園の男女。ダンサーを志望する少女は、フリーターの不良少年に「何かに自分をぶつけてないと、生きてる気がしないものね。ただ、いまが一番いい時代だって気がするだけ」と語る。まったく社会は満たさ...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.80-90
[批評]
1 「上からの衛生」批判と「身体の規律化」論 一九九〇年代に入って、日本の近代都市空間の形成を、公衆衛生に注目して新しい観点から論ずる論考が見られるようになってきた[柿本、一九九一、成田、一九九三、重信、一九九六、成沢、一九九七]。もちろん従来、日本の近代都市空間の形成が公衆衛生の観点から論じられていなかったわけでは...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.156-167
[批評]
日本のあらゆる街がミニ東京と化したとき、〈東京〉はいかに描出されるのか? 東京のいたるところがマ ン ガ(シミュラークル)と化したとき、マンガは東京をいかに描くのか? 八〇年代にこうしたパラドックスが発生した頃からすでに、東京とマンガの関係は逆転していたと言ってよい。つまり東京は、マンガに魅力的な舞台を提供する側から、...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.91-98
[論考]
都市への想像力 先日、建築学科の学生と話をしていたら、ひとつ驚かされたことがあった。東京でいちばん好きなのは表参道だという話だったので、ホコ天がなくなったから僕にはつまんないねと言ってみたら、そんな話は聞いたことがないという。彼女はどうやら現代建築が並ぶ今の様子が気に入っていたらしく、八〇年代の竹の子族、九〇年代のバン...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.162-172