青山真治
角川書店、2000年12月、289ページ
ISBN=9784048732673
[映画の地理学 6]
...こと、これが〈種の目〉の倫理である。 拙作『ユリイカ』と『路地へ』の二本は、どちらも「自由とい... ...す。『ユリイカ』もまた、そのような意図を以て作られている。 1──青山真治監督『ユリイカ』 配給...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.41-42
[論考]
...藤森『天下無双の建築学入門』。 ★一一──『ユリイカ』二〇〇四年一一月号、特集=藤森照信 建築... ...拙著『日本建築技術史の研究』。 ★一八──『ユリイカ』二〇〇四年一一月号。 ★一九──村松貞次郎...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.78-83
[インタヴュー]
...森──そうです。ほとんど並行しています。『ユリイカ』(二〇〇四年一一月号)で年譜を書いていて... ...藤森先生の本と向き合っていました。その時『ユリイカ』の藤森先生の年譜を見て、「一九六七年(昭...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.54-77
[映画の地理学 7]
...な[「Something Big」という曲がジムのアルバム『ユリイカ』にある]感化の運動が入り込んでいる」ため... ...ャメラマンについて考えようと思う。 1──ジム・オルーク『ハッピー・デイズ』2──同『ユリイカ』...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.36-37
[連載 8]
...における錬金術と神話のテーマ」高橋誠訳(『ユリイカ 総特集=ル・コルビュジエ』一九八八年一二... ...・コルビュジエ『直角の詩』与謝野文子訳(『ユリイカ 総特集=ル・コルビュジエ』)。この詩を中...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.198-212
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 3]
地震とディコンストラクション 一九九五年一月一七日未明、阪神地方をマグニチュード七・二の直下型地震が襲った。 筆者は当時、エディフィカーレの展覧会の準備に忙しく...果て』(筑摩書房、一九九六)への批判は、『ユリイカ』一九九六年八月号(青土社)にて掲載された...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.243-253
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 8]
白と灰の融合 一九八九年は東西の冷戦構造が崩壊し、日本では昭和が終わり、時代の変革を象徴づけた年になった。二〇世紀のシステムが終わった年とみることもできよう。こ...二七──奥出直人「マクドナルドに学べ」(『ユリイカ』一九八七年一二月号)。 ★二八──G・リッツ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.200-212
[グローバリズム 5]
1 中国(珠江デルタ):スーパーバブル=一九七八以降 PART 2 前回に引き続いてハーヴァードの「珠江デルタ」のリサーチ・レポート。彼らのパラフレーズ...ついて何を書く、あるいは書かないのか?」(『ユリイカ』二〇〇三年三月号、青土社)。このテクスト...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.190-206
[都市表象分析 11]
一、大虐殺の「イメージ」 「一九世紀の首都」パリを舞台に、近代の原史を回想過程で立ち現われるイメージに結晶化させようとした試みがヴァルター・ベンヤミンの『パサー...・記憶──九〇年代ゴダールをめぐって」(『ユリイカ』二〇〇二年五月号、二七〇頁)参照。 ★三〇...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.2-12
[グローバリズム 1]
1 前口上:グローバリズム、その私的再発見 我ながら最近の自分の立場なり関心とひどく懸け離れた主題を選んでしまったと思った。というと、過去の私の仕事を知る人々は...がなかったのでそうもいかない。直前に出た『ユリイカ』(二〇〇三年三月号)のリベスキンド特集で...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.209-216
[論考]
時は二〇〇四年四月。早くも日本滞在五年を迎えていた。間もなく台湾に帰る。帰国前、何か締め括りになることがないだろうかと思ったとき、藤森先生が実家の茶室の建築を手...先生の海外の処女作のはずだが、残念ながら『ユリイカ』の「藤森照信全建築作品解説」には取り上げ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.146-153
[批評]
しかし建築においては錘線器だけでは十分ではありません。例えば水準器等の他の道具も必要です。まあそれでも錘線器であるとしても悪くはありません。それがあれば幾つかの..." 29-30." [邦訳=「直角の詩」與謝野文子訳、『ユリイカ総特集ル・コルビュジエ』(青土社、一九八八...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.100-119
[論考]
一 近代アジア調査術の誕生 一九八五年、『東アジアの近代建築』という一冊の本が刊行された★一。これは、村松貞次郎退官記念として、藤森照信の主催で行なわれた同名の...─五十嵐太郎「天下無双の建築(史)家」(『ユリイカ』二〇〇四年一一月号、特集=藤森照信 建築...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.134-141
[批評]
1 軸線と権力 一九八〇年から続けられているダニ・カラヴァンのプロジェクト「大都市軸」[図1]は、パリの西北に位置する町セルジ・ポントワーズに設置された一二の滞...げられた人間──ツェランの遺したもの」、『ユリイカ』一九九二年一月号(青土社)一七六─二〇三...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.92-103
[論考]
0 ラバノーテーションとダンスする身体 新しい舞踏のあり方は、舞踏家マース・カニングハムと作曲家のジョン・ケージのコラボレーションにおける偶然性と不確定性...」一九九四年一月三一日。 ★九──佳手芙美『ユリイカ』一九九四年三月号、「ヴッパタール舞踏団作...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.146-161
[批評]
1 錯乱のプロローグ 一九八×年:おそらく二〇世紀の「東京」。人々は平和を謳歌している。見慣れた渋谷や新宿の風景。どこにでもいそうな公園の男女。ダンサーを志望す...上野俊哉「ジャパノイド・オートマトン」、『ユリイカ』一九九六年八月号(青土社)も参照されたい...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.80-90
[論考]
1 セクシュアリティが構成する空間 次のようなシチュエーションを想像してみてください。一〇月のある日曜日の午後、あなたはJR新宿駅東口を出て、青い秋空の下で新宿...─クィア・セオリーはどこまで開けるか」(『ユリイカ』青土社、一九九六年一 一月、九一頁)。 ★四...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.118-129
[映画の地理学 5]
私のいう〈実感〉について知り合いから、それは「リアル」または「物自体」と言われているものだろう、と言われた。「リアル」はラカンのいう「現実界」、「物自体」はカント的な哲学用語として知られている。それについては私も考えていたが、若干の違和感を感じてもいる。私は〈実感〉を、あくまで映像上の問題として考えているのであり、精神...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.50-51
[映画の地理学 4]
この連載の最初に〈実感〉という言葉を使った。しかしこの〈実感〉とは何か、私はいまだに明確に概念化できてはいない。映画にとってその本来の具象性とは無縁だが、しかしその誕生以来、映画は〈実感〉の呪縛から解放されたためしはなく、というよりそれが宿るのは映画や建築や音楽といった表象の場だけであり、さらに言うなら作り手の側がそれ...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.39-40
[映画の地理学 8]
例えば俳優に台詞を渡し、それを初見で声を出して読んでもらうとする。俳優が意味を考えず、書いてある台詞を字句通りの音として読むことのみに専念させる。それを撮影し、録音する。たぶんそれは、他人の理解を通過することのない生硬な音と映像に留まるだろう。次に俳優がその台詞の意味を考える時間を取り、その台詞に付帯すると想像しうる感...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.27-29
[映画の地理学 2]
例えばレオス・カラックス『ポーラX』(一九九九)のトンネルが物語の囲いから抜け出し、我々が身近に知るトンネルと親しげな微笑みを交わし始めるとしたら、それはカラックスの才能だけによるのではなく、トンネルという建築そのものの形状とその内部を豊かに彩る闇の存在が元来、映画にとってこの上なく現前性の高い舞台装置だからではないか...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.34-36
[映画の地理学 1]
スタンリー・キューブリックの死は、我々にある終焉を期待させる。 彼は「視覚的フェティシズム」の人だった。誰もがその画面の持つ独特な等質性を知っている。モノクロ期の巨匠たちならその陰影によって「触覚」として提示した光と影を、彼は過剰に厳密な構図主義によって均等に配すことで画面から深さを排除していく。また彼の映画を最も印象...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.37-39
[映画の地理学 3]
映画から構図主義が消えてしまったのはおそらく「世界のたががはずれてしまった」からだ。「世界のたががはずれてしまった」というのは、もちろん『ポーラX』の冒頭で引用されたハムレットの台詞だ。レオス・カラックス自身、それまではどちらかと言えば審美的な構図を用いて復古的なモチーフを新鮮に描く男だったが、『ポーラX』では終幕に近...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.42-44