ビアトリス・コロミーナ
、1996年6月1日、237ページ
ISBN=9784306043442
[論考]
だからともかくも、私にとってそう見えるのかもしれないが、ミースを通して、ミースの多くを拒絶することを通して、しかしそれでもミースを通して、《イームズ自邸》は生ま...せよ。邦訳=『マスメディアとしての近代建築──アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』(松畑強訳...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.166-181
[鼎談]
...ーナの書いた『マスメディアとしての近代建築──アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』(松畑強訳... ...いかな(笑)。その一番典型的なのが、ル・コルビュジェの『エスプリ・ヌーヴォー』に連載された「...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.54-70
[批評]
...,1994.[邦訳=『マスメディアとしての近代建築──アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』(松畑強訳... ...]。 ビアトリス・コロミーナは、『マスメディアとしての近代建築』の都市の章で、写真を同時期に急... ...ろう。例えば、少し時代は下るが一八七五年にアドルフ・ブラウンが撮影したパリ・オペラ座の写真に...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.230-241
[批評]
1 一九四二年、イタリア 一九四二年一一月、ソ連軍は独ソ戦始まって以来のはじめての大がかりで組織的な反撃を展開する。戦史に有名なスターリングラード包囲戦の始まりである。一一月一九日にスターリングラード南方で始まったソ連軍の攻勢は一二月一○日には北方戦線でも開始され、そしてこの地区における枢軸軍の主力が、イタリア遠征軍...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.154-170
[批評]
トーキョー・エクソシズム われわれはわれわれが見たものの主体たることを免れたり支配したりすることはできない。一方でわれわれの客体的状況の認識を与えているのは皮相な外部の知覚だけである。イマヌエル・カントは判断を分析的判断と総合的判断へとさらに分割しているが、前者は語源的な暗示や、そのものに出自するすべての知や、その語用...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.121-132
[批評]
ル・コルビュジエが白い服をたえず褒めたたえたのはもちろん、色彩の過剰を攻撃していたからである。『今日の装飾芸術』で彼は白く塗りつぶすことを実に熱心に宣伝し始めたが、これは色彩をファッショナブルに使うことを批判し始めたのとちょうど同じ箇所においてである。この書は第一○章の「建築の時」が宣言されるまでゆっくりと、しかしだん...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.95-112
[批評]
東京をもっとも集約的かつ刺激的に経験するのは、電車に乗ったときである。それは巨大な外科手術の跡をたどるように、都市を切り裂いて走る。ある朝車中で、私はある考えに行き当たった。こうした〈運動〉こそがこの都市についての正確なイメージを確立する唯一の方法かもしれない、と。 山の手線より山の手線より1 東京の性質を一言で表わす...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.109-120
[対談]
グリッドと風景 松畑──風景あるいはランドスケープという概念について今回の特集で僕が言おうとしたものの一つは、ランドスケープを政治的、経済的に捉えて、ランドスケープ、あるいは日本語における風致、景観、風景というものは国家とか階級と結びついているんじゃないかというところから始めているわけですが、一方で松岡さんは、そういう...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.58-67
[批評]
個人の人格がこれほど多くに分裂している時代では、おそらく怒りが最大のインスピレーションである。とつぜんにひとつのものが、ひとつの要素のなかでのすべてとなるのだ アイリーン・グレイ、一九四二年 「E1027」。一軒のモダンな白い家が、フランスのカップ・マルタン[マルタン岬]のロクブルンヌという人里離れた場所で、地中海か...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.218-226
[インタヴュー]
理論/歴史、実践 松畑強(以下MT)──コロミーナさん、『アッサンブラージュ』誌の三〇号を拝読いたしました。あなたはそこで、いくつか面白い問題を提起されていたと思います。たとえば理論/歴史と実践の違いとか、スペインとアメリカの違いとかです。これらの問題について議論するまえに、まずは『カレール・ド・ラ・シウタ』誌のことを...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.41-46
[批評]
1 英語の「ランドスケープ」という言葉と日本語の「風景」という言葉には、相似とともに相違があるだろう。オギュスタン・ベルクによれば、日本語の「風景」という言葉が中国から導入されたのは平安時代のことで、ひとそろいの美的図式とともに当時の日本の上層階級に「風景」を成立させたのだという★一。ベルクの指摘は興味深いものだが、と...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.68-87