中谷礼仁
鹿島出版会、2005年12月25日、280ページ
ISBN=9784306044609
[論考]
...れてきている。 例えば、中谷は『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(二〇〇五)で、アレグザンダ... ...九六七)。 ★四三──中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)一八...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.108-119
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 3]
仕事とは、隠喩や類推思考や多義性の大量注入によって都市を(しかして民主政治を)安全なものにしていくことにある。科学主義が標榜し自由放任主義が顕著な当世ではあるが...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.12-25
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 5]
大極殿の発見 奈良の平城京、とくに天皇による政(マツリゴト)の中心施設であった大極殿(ダイゴクデン)の位置同定には、もはや伝説とも言うべき逸話が存在する。 平城...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.13-25
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 7]
「真」であるということが、我々がおこなう記述とそれによって記述されるものとの間の厳密な一致を意味する、あるいは我々の抽象と演繹の全ネットワークと、外界に関する全...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.12-24
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 2]
1 建築職人ウィトルウィウス はたしてウィトルウィウスは建築家だったのだろうか。 あらためていうまでもなく、彼の著した『建築書』(De Architectura...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.12-25
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間6]
...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。... ...ロセスは事物一般にも当てはまるだろう。 セヴェラルネス(several-ness、 いくつか性)──事物に潜在... ...として考えてみる[図 10]。バケツにおけるセヴェラルネスは(たたくというカリブ的転用をのぞけば...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.13-24
[インタヴュー]
中谷礼仁──まずはタイトルの「トレーシング・ザ・藤森照信」について若干説明しておきます。私たち三人も藤森照信さんと同じ建築史という分野から自らの活動を始めました...三)という本を、最近ようやく『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)とい...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.54-77
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 1]
1 事物の歴史 ここで扱いはじめようとしているのは、事物(=thing)とよばれる、複数の知覚を通じて存在を感じることのできる何かと私たち自身のことである。その...ml*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.12-21
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間4]
円形競技場はきっちりとした形態を備え、その機能を明確に体現した形となっている。それはもともと、無造作な容れ物として考えられたものではなかったのであって、それどこ...*この原稿は加筆訂正を施し、『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』として単行本化されています。...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.12-23
[現代住宅論 4]
最近、若い建築家や建築研究者がクリストファー・アレグザンダーのデザイン理論に注目している。大きな潮流になっているわけではないが、彼らの紹介を通じて、アレグザンダ...。例えば建築史家の中谷礼仁は『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇六)にお...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.213-222
[論考]
一 ヒロシマの無縁仏/ナムサンの住宅地 丹下健三との共著というかたちをとった藤森照信の『丹下健三』(新建築社、二〇〇二)に、丹下自身が撮影したという建設中の広島...れと通底する指摘は、中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)にも...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.90-99
[都市表象分析 24]
1 都市の通過儀礼──パサージュから無用門へ 境界は異人たちの棲み処だった。橋や坂には遊女や乞食、呪術遣い、卜占師、芸能者といった異類の人々が群れ棲んでいた。橋...ついては、次を参照。中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)二〇...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.2-12
[都市表象分析 26]
1コンゲンカードの寓意 中谷礼仁を中心とする都市連鎖研究体は、古今東西の都市の上空写真、町並みの写真、集住形態、そして建築家による都市・建築作品などのサンプリン...七頁参照。 ★一二──中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)二一...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.2-12
[『日本の民家』再訪 2]
前号から「再訪『日本の民家』」の連載が始まった。この連載の基本にして最終の目標は、今和次郎が一九二二年に刊行した『日本の民家』という本を片手に、そこに紹介された民家の現在をすべて見て歩き、記録し、可能な限り紹介し、それによってこの一世紀近くの日本の変容を検討することである。それを建築レヴェルではなく、それが生えている大...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.13-20
[建築の解體新書 7]
論理的徴候 岡崎乾二郎 1 知られているように富永仲基(一七一五─一七四六)は荻生徂徠の思想の圧制をもっともよく批判しえた人物でした。富永仲基のような存在がなければ、本居宣長の出現はありえなかったかもしれない。端的に仲基はそのきわめて論理的な思考によって、思想を、その内実から断ちきって──即物的に書かれたものとして扱...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.12-20
[『日本の民家』再訪 3]
相模湖は神奈川県と東京の西端との境に位置する山間の湖である。その相模湖の南にある元内郷村・増原は今和次郎が『日本の民家』初版にその村落の全体配置図を掲載した村である[図1]。色付きの別綴一枚ものであったから、その調査は彼にとっても格別の意味を持ったものであったのだろう。 私たちが旧増原に訪れた初日のことである★一。訪問...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.13-30
[『日本の民家』再訪 1]
Walking on a thin line これから約三年にわたって、志を同じくする人々と、日本国内をまわり歩くことにした。すくなくとも現在の日本のさまざまな場所の姿をなるべく網羅的に見ておきたいと思ったからである。そこから何か新しい派生的なことが考えられればと望んでいるのだ。ただ、そのガイドとなる本はあらかじめ決め...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.14-24
[建築の解體新書 3]
詞の通路(かよひみち)と、建築の通路……岡崎乾二郎1 たとえば時枝誠記は、詞と辞に対立させて国語(日本語)を考えることの先駆を、鎌倉時代に書かれた『手爾葉大概抄』に見出しています。時枝による引用箇所を再び引くと、そこには、次のように書かれています (『対人関係を構成する助詞助動詞』より) 和歌の手爾波もの、(…中略…...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.206-225
[『日本の民家』再訪 8]
黒い戸 見飽きない写真がある。 故篠原一男設計による《白の家》(一九六六)のモノクロームの内観写真だ[図1]。その家の台所わきの裏口側から眺めた居間の様子が記録されている。村井修撮影によるこの写真の緊張感は、立ちつくす面皮柱、精妙に消え入る天井、開口のプロポーションをはじめとして、白い空間に置かれた家具や小物を含む写り...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.11-24
[建築の解體新書 6]
正確な絵本……中谷礼仁 0 約一年前、関西に越して最初のころ、どうにも馴染めなかったのは、住まいのまわりのいたるところに古墳が点在していることでした。 下宿先は、世界最大の墓と讚えられる仁徳天皇陵の近く、その隣の駅にありました。この付近は有名無名の古墳が点在する、ある筋では有名な過密地帯だったようです。その密度は、そ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.10-18
[会議2日目「福利更正」]
建築家は新奇なかたちや建築についての考え方を提案するのが仕事のひとつである。しかし彼らが社会的に有意義であるかどうかは、その新奇性が、同時に普遍性や社会的妥当性を有している必要がある。つまり新奇でありながらも説得力のあるかたちを作ることが求められているのである。 最近の若手・中堅の建築家が造った都市・小住宅を見ると、あ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.106-107
[『日本の民家』再訪 7]
島に居ること 伊豆大島を含む伊豆諸島は、フィリピン海プレートと本州との衝突によってうまれた褶曲の峰のひとつである。海面より露出したその島々の姿の直下に、ヒトの想像を超えた大地の活動がいまだにつづいている。 伊豆大島は、三原山という活火山をその中央に持つ島である。数百万年もの時間のなかで幾度も噴火を繰り返してきた火山とそ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.12-27
[『日本の民家』再訪 6]
山の村の事はやめて、海岸の漁師たちのはなしにうつろう。「漁村の人たちの家」 「田舎の人たちの家」は今和次郎『日本の民家』の冒頭の総論である。ここで今和次郎は、名もなき民家の特徴を水田の村、畠の村、山の村においてとそれぞれに書き進め、その章を終えるにあたって漁村の人たちとその家の姿を活写した。漁村のみならずその章全体...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.11-29
[対談]
実験住宅と社会的大儀 中谷──「実験住宅」という特集の企画趣旨を聞いたときに、「実験」なんて誰でもしているじゃないかと思ったんですね。町場の大工のみならず日曜大工中のわれわれが「どうしたらいいか」と試している状況まで含めれば、全部実験でしょう。だからまずは「実験住宅」といわれるものの本質を定義する必要にかられる(笑)。...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.38-51
[論考]
もしアレグザンダーが批判的まなざしを通して再召喚されているのだとしたら有意義でしょう。しかし先ずは忘れ去られた経緯について書いておくべきでしょう。 クリストファー・アレグザンダー(一九三六-)は最もロジカルなデザイン論である『形の合成に関するノート』(一九六四)や、パタン言語を建設行為に導入した『パタン・ランゲージ』(...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.144-145
[プロジェクト・論考]
「軒切り」という言葉を耳にして、どういうイメージを抱かれるだろうか。筆者自身の場合は、近代大阪の都市計画事業を調べているときに初めて知った言葉なのであった。それはどうやら、市電の敷設や道路の拡幅事業に伴う家屋正面の削減や後退のことを意味していたらしい。それら事業の激しかった大正時代に、街中から自然に生まれた言葉であった...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.113-118
[対談]
建築の下部構造としての「建築等」 岡崎── 僕は中谷さんに、建築の世界にとって、いわば異物だと呼ばれました。確かに自分でも、いつのまにか建築の人と接する機会が増えてきていて、それに並行して、そのことに対する違和感、なぜ門外漢がという疑念も強まってきていました。そういうときに、中谷さんたちが「建築等学会」というけったいな...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.197-210
[論考]
はじめに 生活の本拠を東京からずらして以来、仕事のために飛行機を使うことが多くなった。日本のさまざまな地を上空から訪れるのだ。目的地に近づき、雲つきぬけて眼前にその土地が現われる時、どんなに旅なれた人でもそこに広がるランドスケープにやはり眼を奪われてしまうのではなかろうか。筆者は東京に帰る時さえ、眼下に広がる都市のかた...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.140-145
[論考]
長谷川堯は建築評論家である。彼の一連の著作、そのなかでもとりわけ重要な初期の著作集が書店から姿を消して久しい。興味を持つ少数の人は、それらを所蔵する図書館に行くか、あるいはなけなしの金をはたいて古書店でそれを入手するかであった。著者も二十代の頃そのようにして彼の本を手に入れた。だから氏の著作集が復刊されることになったこ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.146-147
[建築の解體新書 2]
はじめに ……机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。それは、自分の脚で立つばかりでなく、他のあらゆる商品に対しては頭でも立っていて、ひとりで踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を、その木頭からくりひろげる。 ──カー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.226-242
[建築の解體新書 8]
不快な様式……岡崎乾二郎今回は前回の足りなかった部分を補い、中谷氏に対する問題提起という形式をとらせていただきます。 ★ よく知られていることですが、明治二七年、伊東忠太はarchitectureの訳として、すでに定着しつつあった造家という語に対して、次のような異議を唱えています。 「アーキテクチュール」の本義は決し...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.14-28
[建築の解體新書 5]
躾と添削……岡崎乾二郎1 わが国の学者は日本語で中華の書を読み、和訓と称している。訓詁(くんこ)という意味から出た言葉であろうが、実際は訳である。しかし人々は、それが訳であることに気づかない。古人は「読書千遍、その義はおのずから現われる」と言った。私は子供のころ、古人は「その義」がまだ現われないうち、どのようにして読書...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.13-28
[建築の解體新書 4]
空間の創出と喪失に関するメモ……中谷礼仁 はじめに 前回の岡崎氏の論旨は、日本語、というか、漢字にからみつくテニヲハのはたらきを、主体的感情(空間)を生み出すいわば装置としてとりあげ、その装置としてのテニヲハを類比的にあてはめることによって、日本建築の特性をつかみだそうとする試みでした[註参照]。不思議なことに、ヘー...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.13-26
[建築の解體新書 9]
月の住民 岡崎乾二郎 1 しかし技術と芸術ははたして明確に峻別されうるのでしょうか。むしろ技術がその実効的側面を強調すればするほど、その実効性を要請したところの起点はけっして合理性に解消しきれるものではないことを露呈させてしまうのではないか。また芸術と呼ばれているものの特質が、その存在をいかなる目的に回収することもで...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.10-18