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共感とテレパシーのあわいで | 平田知久
Between Sympathy and Telepathy | Tomohisa Hirata
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス, 2005年09月発行) pp.21-23

この書評欄は、時季ごとに数冊の近刊書(とそれに接続される限りでの古典的な著作)を評しながら、「新たなコミュニケーションの座標軸」についての問題やヒントを見出すことを目的とします。私と読者の皆さんのあいだの「コミュニケーション」でもあるこの場で、それが果たされることを願ってやみません。

ではなぜ初回の表題からかくも訝しげなのか、という問いはさておき、先に「共感」に関する二冊から始めよう。一冊目は、高橋哲哉『靖国問題』である。この本を共感の書として取り上げる理由は、靖国を考える道筋の前提にある「靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶」と「それぞれの側に共感する人々のあいだに存在する感情的断絶」の由来を考察し、靖国にまつわる諸論点をどう判断すべきかを導き出そうとしているからだ。
まず高橋は、喜び肯定する感情について、それが顕彰施設としての靖国の機能、すなわち遺族の悲しみを立派な戦死と称えて喜びに反転させる「感情の錬金術」に由来することを指摘し、この機能が戦場での戦死の現実を隠蔽し、国民を戦争へと動員する国家宗教的機能=靖国信仰であったことを批判する。逆に、靖国信仰から逃れる=合祀を悲しみ拒否することとは、「最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむ(…中略…)、国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないこと」である。だが高橋は、自然な悲哀の感情に留まるだけでも「日本人が自国の兵士の死を悼む、日本国民に閉じられた、日本国民内部で完結する追悼の共同体」が形成されるという点で不十分だと言う。なぜなら、そこには日本が引き起こした植民地戦争という性格を問う「歴史認識」が存在せず、日本という共同体の他者である国外の被害者が忘却され、追悼や共感の「正当性は、根底から瓦解してしまう」からである。
それゆえここには、①錬金術によって喜びの感情を持つ遺族、②喜びに共感する人々、③自然な悲哀の感情に従う遺族、④悲哀に共感する人々という四つの立場と、高橋が依拠する⑤追悼や共感を国外にまで広げ、歴史認識から判断される正当な追悼や共感を問おうとする立場がある。そして、高橋は⑤の立場から、特に②と④への「国家の政治的意思」の直接的/間接的(さらには今後の可能性まで含める)介入を問題にし、各章で「A級戦犯の靖国合祀─分祀問題」、「政教分離の問題」、「靖国文化論」、「新国立追悼施設案」という靖国にまつわる諸々の論点を難詰する。
結論として高橋は、①と③の遺族感情を尊重しながら、集団化にともなう政治性を混入させないために、追悼から顕彰への回路を断つ「不戦の誓い」、すなわち軍備廃絶の実現化と、それに根拠を与える「過去の戦争責任」を国家が果たすこと、つまり歴史認識の実現の必要性を指摘し、これらが果たされていない現実を鑑み、政治的現実そのものを変える不断の努力を強調する。もちろんここで、日本の政治の変化を担う諸個人が措定されることになるが、②や④の立場とは一線を画すことは言うまでもなく、この提起自体は妥当なものであろう。
しかし、追悼や共感から始まったこの本は、右の帰結を超えて語るべきことがあるのではないか。そのことを考えるべく次の共感の書に移ることにしよう。

二冊目は、鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』である。この本は、ある意味では前書に真っ向から対立する。実際、鈴木は冒頭で、Z・バウマンに由来する「カーニヴァル」という語を、インターネット上で起こった、政治意識がまったく欠如し、ほとんど躁状態の、イラク人質問題と北朝鮮人質問題家族会へのバッシングの盛隆=祭りに適用しつつ、「単に『若者が馬鹿になった』とか、『歴史意識や愛国心の欠如が問題だ』といった」非難ではなく、「そうした『歴史意識を欠いた』生が、所与のものとなっている人々の視線から、何が語りうるのかを考えるため」にこの本を著したと言っている。実は、この対立は単純なものではないのだが、ともあれ議論を先に進めよう。
続いて、先の躁状態(とその反動の鬱状態)の個人的様態が、終身雇用制崩壊後の日本の若年層の就労問題における、「『やりたいこと』へ向けて、瞬発的なハイ・テンションによって活動する自己と、『やりたいこと』の遠さ、叶わなさに冷めてしまう自己」との分裂として確認される。そして鈴木は、この不安定な自己分裂を可能にするメカニズムを、「監視社会化」における個人情報が蓄積されたデータベースと個人とのあいだの、「データベースを単なる個人情報の引き出し口として利用するだけではなく、そこに情報を登録するという作業」によって「相互審問」する関係に見る。
この相互審問とは、人間が「データベースへの問い合わせによって、自身が欲望するものをアルゴリズム的に提出してもらい」、「その結果に対して人間的な理由を見出す」、つまり自分の欲望するものをデータベースが考察したかのように感受し、躁的にそれを引き受ける(が、再度鬱的にデータベースに問い合わせる)ということである。このような個人のあり方は、例えばデータベースによって提示される「かくかくしかじかの私(客我)」の採用と棄却を「再帰reflex」的に反復する「ノンリニアなモードの個人化」(S・ラッシュ)と呼ばれる。
それゆえ、このような諸個人が切り結ぶ関係性は、(各人にとっての)対人関係そのものがデータベース化された、ケータイや電子メール、あるいはその進化形であるブログ等が代表例となる。その特徴は、地域や日本などの「何か事実的な繋がりを持った、体験に根ざしたもの」を担保として形成される「共同体」ではなく、アドレス帳に名前があることが確認できること、また内容は問わずともメールの送返信があることといった、感性の水準で「〈繋がりうること〉の証左を見出すこと」のみを担保として形成される「共同性」だということだ。カーニヴァルとは、素朴な感情が〈繋がりうる〉こととして可視化される限りで継続する共同性のことであり、データベースを離れた場合でも、日韓ワールドカップでの観客の熱狂等、例を挙げるのは容易い。
だが、右の確認から導かれる鈴木の帰結は厳しい。なぜなら、この共同性は一過性のものでしかなく、終焉すればまた新しい客我を求めるという反復の内に人は置かれ、その結果台頭するのは、現在の状況を否定するために、社会や政治になにかを訴えるといった契機を欠きながら、同時に現在の状況に満足するある種の「宿命論」だからである。

この二冊の対立は、政治の変容に対する積極的/消極的立場の対立のようにも映る。だが、双方が「(共同体の)他者との共感を求める」という点で一瞬交差し、一方がそこに可能性を、他方がそこに不可能性を見るのなら、双方をコミュニケートする次のような問いは、「新たな座標軸」のものとして誰かが引き受けてもよい。まず、高橋の議論を鈴木へと届けるための、歴史認識や政治性という文脈をまったく除いた、他者への追悼や共感それ自体の積極的意義とは何かという問いがある。そして、鈴木がK・サンスティーンの「サイバー・カスケード」(多くの人々が、ネットを通じて一斉に同じ主張に傾くこと)や「デイリーミー」(自分の好きなものだけを見ることができる情報のパッケージへの依存)といった言葉で説明する、共感の閉域を容易に形成する共同性に、いかにして自己に対する/自己における「他(者)」の契機を組み込むかという問いは、鈴木の議論を高橋へと届ける意味でも、また宿命論から(現実へ)の軟着陸を課題に据える鈴木自身にとっても、重要な位置を占める。では、これらの問いに答える指針はどこにあるのか。
そこで参照してみたいのが、「戦後最大の奇書」と評される沼正三『家畜人ヤプー』である。初出は一九五七年と古いが、近年江川達也によって漫画化され、SFとして約二〇〇〇年後の未来を舞台にしているという点では「新しい」この本の設定は次のとおりである。科学技術の発達した未来の女権制宇宙帝国イースは、唯一人権を持ち端的に自身の生を満喫する白人、その下に奴隷や重労働者として白人に従事する半人権しか持たない大量の黒人、さらに下層に遺伝子科学によってシミアス・サピエンス(知的猿猴)=ヤプーであることが証明され知性を持った家畜、家具、動力として身体的/精神的改造を施される黄色人種唯一の生き残りである日本人がいるという、極端な人種差別主義世界である。
だが、最も悲惨に思われるヤプーは、彼らの主観的判断としては幸福である。というのも、ヤプーの遺伝子特性と身体能力に沿った動物学的条件付けや改造を行なう、適切な「科学的判断」があり、その判断を踏まえた白人は「慈畜主義」に従い、ヤプー個々体に最適な仕事を享受させることで生と死の意味付けを与え、ヤプー自身は慈しみ深い白人(の局部)を神と崇める「白神信仰」でもって、鬱とは無縁の誇るべき自分の宿命を生きて、幸福の内に死んでいくからだ。
このとき、高橋と鈴木の問題意識が癒着することで、双方の問題そのものが雲散霧消すれば、そこにヤプーの生が導かれることは注目に値する。つまり、ヤプーは言わば自然に、政治性が取り払われた感情の錬金術(科学的判断と慈畜主義)を受け入れることで、個体レヴェルで共感の閉域を形成し、「他(者)」の契機の余地がない宿命論(白神信仰)によって、その生を享受するのであり、その意味でヤプーの生は、双方をコミュニケートする先の問いへの、否定的だがありうるひとつの解法なのだ。ただし、この世界の幸福の基礎を支えているのは──自然な感情の錬金術から、個体の意識を完全に奪うものまでさまざまであるが──、白人の意志がヤプーを身体的/精神的に規定する「テレパシー」である。
確かに、テレパシーはSFにありがちな観念ではある。だが、程度の差はあれ、追悼や共感も生者の死者に対するフィクシャスな関係であるならば、追悼や共感とテレパシーがいかなる意味で区別されるのかは、先の問いの重要な論点であるだろう。またその論点は、テレパシーで操られる主観的に幸福なヤプーに見え隠れする「不幸」と、宿命論からの軟着陸を考えるうえでの示唆を与えてくれるかもしれない。
それゆえ、まずは共感とテレパシーのあわいで、共感とテレパシーについて考えてみてはどうだろうか。むろん、あなたがヤプーでも構わないと言うのならば、話は別なのだが。

高橋哲哉『靖国問題』 (ちくま新書、2005)

高橋哲哉『靖国問題』
(ちくま新書、2005)

鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』 (講談社現代新書、2005)

鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』
(講談社現代新書、2005)

沼正三『家畜人ヤプー』 (幻冬舎アウトロー文庫、1999)

沼正三『家畜人ヤプー』
(幻冬舎アウトロー文庫、1999)

>平田知久(ヒラタ・トモヒサ)

1979年生
京都大学大学院文学研究科研究員(グローバルCOE)。近・現代思想、メディア論、コミュニケーション論。

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