自分の乏しい海外体験を暴露するような話だが、今にいたるまで、私はロサンゼルスを訪れたことがない。この都市について知っているすべての情報は、メディアや伝聞を通じて間接的に仕入れたものにすぎないし、『ブレードランナー』の中に実現されたサイファーパンク・シティや、「ヘルタースケルター」展に象徴されるキッチュでグロテスクなアートシーンなど、この都市と分かちがたく結びついている文化事象への強い関心とて、決して自らの身体に根ざしたものではない。にもかかわらず、私が比較的長期にわたってこの未知の大都市への関心を持続してきたのは、恐らくそこに、この一〇数年来居住している東京との決して少なくはない共通点を直観していたからなのだろう。私がマイク・デイヴィスの『要塞都市LA』(村山敏勝+日比野啓訳、青土社)を手にとったのも、もっぱらそうした直観に触発されてのことであったし、一読した限り、その直観は決して誤りではなかったと思う。直観という言い方が曖昧な印象を与えるなら、既視感と言い換えてもよい。
『要塞都市LA』は、以前から一部の研究者や建築家の間では知られていた文献であるし、私もその名を知らぬわけではなかった。とはいえ、翻訳が出版されたのがつい最近ということを考えれば、やはり若干の──それも、可能な限り私の主観を交えないニュートラルな立場からの──紹介が必要だろう。言うまでもなく、本書の舞台はロサンゼルス。一九世紀から現代までのこの街の変遷を広くサーヴェイした一種のエスノグラフィで、全体としては、都市の光と闇の部分を描いた「陽光か、ノワールか?」、都市の権力構造を追跡する「パワーライン」、住宅と土地を巡る興亡を描いた「家からの革命」を前半に、またマフィアや犯罪者の盛衰を描いた「ハンマーとロック」、意外にも多数派を占めるこの地域のカトリック勢力について詳述した「新・告白録」、かつて製鉄で栄えたものの、今はさびれた近郊の町フォンタナを描いた「夢のゴミ捨て場」を後半に配して、両者の間には、現代のロサンゼルスにおける
そしてこのようなニュートラルな立場からの紹介は、必然的に本書を「ポストモダン」や「カルチュラル・スタディーズ」(以下CS)といった言説に対応する都市論として位置付けることになるだろう。冒頭でも挙げた『ブレードランナー』のようなサイファーパンクな都市観を触発しただけのことはあって、市警のいささか過剰なセキュリティ態勢やフランク・ゲーリーらの建築によって彩られたロサンゼルスの都市景観は、何ともポストモダンと喩えるのにふさわしいカオティックなたたずまいであるし、またそうしたニュアンスはこの都市の硬質で不透明なクオリティを言い表わした『City of Quartz(水晶都市)』という原題にも込められている。第一、「二〇世紀後期の知識人に欠かせない巡礼地」などという一文そのものが、ポストモダン的な惹句以外の何ものでもあるまい。他方、特に第一章で詳しく分析されていることであるが、ハイカルチャーにせよサブカルチャーにせよ、ニューヨークなどとは全く別個のコンテクストの下に発展してきたロサンゼルスの雑多なカルチャーは、いかにもCS向きの素材であるし、何より、著者デイヴィスが在野の著述家であるという事実は、アカデミズムの閉鎖性を追及するために、常々その外部に素材を求めようと虎視眈々なCS陣営にとって好都合なことに違いない。また現実の反響としても、本書はポストモダンやCSの側に立ったロサンゼルス学派の代表的な都市論と目されているそうだから、ここに九〇年代型の都市論の最良の成果を見ることも不可能ではないのだろう。ちょうど、六〇年代の都市記号論、七〇年代のコンテクスチュアリズム論、八〇年代の都市テクスト論などがそうであったように★一。
我ながら何とも当たり障りのない概要の紹介だとも思うが、しかし半面本書には、このような立場には決して回収されない過激な要素も孕まれている。例えば、第四章の「要塞都市LA」を再度繙いてみると、従来は不可分の関係にあると考えられている「都市」と「都市計画」が相互に対立する概念に見立てられ、諸々の物理的条件を抱え、必然的に様々な他者に対して開かれた公共圏として成立する前者と、その公共圏から他者性を退けようとする権力の側の欲望としての後者が鋭く対置させられていることがわかる。先に「ポストモダン」と呼んだロサンゼルスの都市景観は、まさに「都市」と「都市計画」の複雑に絡み合った闘争の産物というわけだが、しかしこの図式は、実はほかでもない東京にも適応できるものではないだろうか。ホームレスを締め出す施策の結果出現した、あのカラフルなプラスチック杭が林立する東京都庁舎の地下コンコース一帯の景観などは、まさにそうした「ポストモダン」な都市景観の格好の例であろう。本書が刊行された九〇年の時点でデイヴィスは「ロサンゼルスは──ニューヨークやパリや東京よりもはるかに──白熱したイデオロギー闘争の地なのである」と書いてロサンゼルスの先進性を自画自賛(もしくは自虐?)しているのだが、いまや同様の排斥が、東京をはじめとする世界各地の大都市で進行しつつあることは疑うべくもない。デイヴィスの先見性にあらためて驚かされると同時に、私が本書を手に取ったときの既視感にもどこか納得がいく。
高度資本主義が招来した消費社会下の都市環境についての重要な考察ということで、あるいは『要塞都市LA』をヴェンチューリの『ラスベガス』になぞらえるような読者もいるのかもしれない。しかし私の視界には、本書は何よりも徹底した反アーバニズム宣言として読まれるべき書物として捉えられており、その既視感を拡張していった先には、必ずや磯崎新の「都市破壊業KK」が現われてくることになる。かつて磯崎は、あくなき成長を遂げる巨大都市を、物理的にも記号のレベルでも破壊しなければならないと力説し──ときには「ライフラインに毒物を入れろ」との過激な主張も交えて──、二〇世紀が生み出したメトロポリスという都市概念の根本的な再考と、破壊された後の廃墟を起点とすることでしか生まれない新たな創造の可能性を開いたのだった。この主張を再確認した後でなら、都市の過去の記憶を「デベロッパーのブルドーザーが払い除ける残骸に過ぎない」と切り捨ててしまい、六〇年代よりははるかに加速されてしまった「先進資本主義のユートピアとディストピア」の中に、ロサンゼルスという巨大都市の未来像を探ろうとするデイヴィスの思考もまた、磯崎の主張と同じ地平に位置している、そのように考えても決して不自然ではないだろう。四〇年も前の反アーバニズムの主張をあらためて再構成した磯崎の「
註
★一──五十嵐太郎「九〇年代の建築/都市計画の文献をめぐって」(『10+1』No.19、INAX出版、二〇〇〇)を参照のこと。