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磯崎新の夢/レム・コールハースの現実 | 浅田彰
Review The Dream of Arata Isozaki/The Reality of Ren Koolhaas | Asada Asada
掲載『10+1』 No.23 (建築写真, 2001年03月発行) pp.32-35

磯崎新の実現されなかったプロジェクトばかりを集めた「アンビルト/反建築史」展が開かれ★一、それに合わせて『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)という二分冊からなる充実した書物(タイトルにもかかわらず現代建築史の資料としてもきわめて価値が高い)も出版された[図1]。そのインパクトは、実現された建築群に勝るとも劣らない。六〇年代の〈空中都市〉の、いかにもメタボリズム的な未来志向と、磯崎新独特の廃墟志向の重ね合わせ[図2・3]★二。七〇年代の〈電脳都市〉──とくに「コンピュータ・エイディッド・シティ」の、中央計算機を想定する点では古びてしまった、しかし巨大な被膜に覆われた空間の内部を自由に分割していくという点では今もって斬新な構想[図4]。磯崎新が都市から撤退しポストモダン建築の旗手とされた七〇年代半ば以降は後景に退いていたかに見えたそのような巨大都市の夢は、九〇年代に〈蜃楼都市〉──とくに「海市」という人工島の計画として甦ることになる[図5]。これらの図面、そしてとくに精巧な木製のモデルは、それ自体としても迫力に満ちているとともに、その時期に実際に建てられたさまざまな作品の背後にあった建築家のヴィジョンを知る上でもきわめて興味深い。だが、建築というジャンルの面白さがその不純さにあることもまた事実だろう。建築家の構想が、さまざまな社会的圧力や技術的制約のもとで変更を余儀なくされ、言わば満身創痍で建ち上がる。それでもやはり、建ち上がった巨大な空間は建築家の構想を超えた部分をもっているものだし、そこに刻まれたさまざまな闘いと譲歩の痕跡もまた建築に歴史的なリアリティを与えるものでもあるのだ。そういう意味も含めて、八〇年代の〈虚体都市〉の夢を託した傑作「東京都新都庁舎案」が実現されなかったことは、残念というほかない。落選を覚悟で超高層ビルというプログラムをのっけから無視して構想されたこのプランが実現していれば、東京は二〇世紀末を代表する建築を都庁舎として持ち得たはずだったのだ[図6]。
さて、磯崎新が、「アンビルト/反建築史」展で、実現されなかったからこそ無傷で残った建築と都市のユートピアを示そうとしているなら、レム・コールハースは、いかなる建築のユートピアをも粉砕しながら驀進する資本主義の「世界=都市」のおそるべきリアリティを、あくまでアイロニカルに肯定してみせる。一九九五年に出た、『S,M,L,XL』と題する、一四〇〇頁にも及ぼうかという文字通りX Lエクストララージな大冊は[図7]、彼自身の建築プランを主としながらも、すでにそのような都市論のマニフェストとも言うべきものを含んでいたが、いまボルドーで開催中の「Mutations(変異)」というイヴェントに際して出た同名の書物は、「世界=都市」とプリントされたいかにも悪趣味な黄色いビニールの外装の中に、まさにその「世界=都市」のありとあらゆる断面をやはり八〇〇頁にもわたってアト・ランダムに詰め込んでみせ、いっそう強い衝撃を与える[図8]★三。あくまでもニュートラルに広がるアメリカの都市。おそるべき規模と速度で増殖する中国の都市(とくに磯崎新の「海市」の予定地でもある珠江デルタ)。混沌としてしかも不思議な秩序をはらんだアフリカの都市(とくに美醜を超えた衝撃力を持つ写真の数々を通して見るラゴス)。この世界=都市のダイナミズムこそがリアルなのだ。それに背を向けて建築の美学などにうつつを抜かしているデザイナーは、時代遅れの観念論者に過ぎない。美しい建築が醜い都市に呑み込まれる? おおいに結構、ざまあみやがれだ。コールハースは、そう言って、アメリカや日本、そしてとくにヨーロッパの同業者たちにすごんでみせる。いや、「すごむ」という表現は適当ではない。これらの内容の多くをコールハース自身の講演で聞いた私の印象では、このオランダ人は、長身を少し前にかがめながら、早口でエネルギッシュに、しかしあくまでも生真面目に語り続け、そのことが、語られる内容のアイロニーをいっそう強烈にするのである★四。この本にまだ収められていない最近の講演でコールハースがよく使っていたのは、円とユーロとドルのマークを結びつけた〈¥€$〉というロゴだった[図9]。世界資本主義に観念的に〈NO〉と言ったところで現実は少しも変わらない、むしろ、あえて〈¥€$〉と断言してそのリアリティの中に飛び込むところから勝負が始まるのではないか。資本主義的ニヒリズムの極北に立つその脅迫は、旧世代の伝統主義者やユートピア主義者に対しては圧倒的な破壊力を発揮するだろうし★五、ラディカルな否定性が無効になったかに見える場所でなおラディカルであろうとする新世代には圧倒的な影響を与えるだろう★六。だが、本当にそれだけでいいのか。中国やアフリカ、いや、日本にも、おそるべき都市の混沌がある。そこの住人たちがそれを肯定しているかどうかなど気にもかけずに、ヨーロッパから見てその混沌をあえて称揚してみせる──かつて『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房)を称揚してみせた延長で、さらなる錯乱の深圳、一層さらなる錯乱のラゴス[図10]、と次々に移動していく──というのは、典型的な(ポスト)コロニアリズムではないのか。また、そのような態度と、コールハース自身の建築──たとえばあの《ボルドーの住宅》の美しいデザインとは、いったいどういう関係にあるのか。かつてそう問うた私に、コールハースはにやっと笑っただけで答えなかった。そう、もちろん彼は確信犯なのだ。しかし、その犯罪がおそるべきエネルギーと知性によって遂行されていることは認めておくべきだろう。そのまま肯定しようとは思わない。だが、現にそこにある「世界=都市」の現実に直面するためにも、われわれはこの黄色い本を開き、そこに詰め込まれた情報と映像の強烈な連続攻撃にあえて身をさらさなければならない。
ところで、この『Mutations』には、「シティーズ・オン・ザ・ムーヴ」展などで似たような方向を示してみせたハンス・ウルリヒ・オブリストのキュレーションのもと世界中の人々からのメッセージを集めた「都市の流言アーバン・ルーマーズ」というセクションが付属している。その中に、他ならぬ磯崎新のメッセージも入っているのだ[図11]。いかにもオブリスト流の荒っぽい手法で、どうやら締め切り間際に送られてきたらしいファクシミリがそのまま印刷されており、字が小さすぎてほとんど判読できないのだが、それは、一九六二年に書かれ、最初の本である『空間へ』(新版、鹿島出版会)の冒頭に序に代えて収録された「都市破壊業KK」──あくなき成長を続ける怪物としての都市を破壊しよう、とくに成長の加速によって自滅に導こうという反アーバニズム宣言の英語版なのである。「君たちがいま興奮して考えているようなことは原理的には私が四〇年前に書いてしまっているんだよ」という皮肉なメッセージ? そして、『反建築史』の冒頭には、この宣言をほぼ四〇年後に再考した「流言都市ルーマー・シティ」という刺激的なテクストが置かれているのだ[図12]。これらのテクストで、磯崎新は、自己をS(SIN)とA(ARATA)に分裂させ、否定と肯定、破壊と建築、トロツキストとスターリニスト(!)の一人二役を演じてみせる。そして、この分裂を抱えたまま、ラディカリズムの否定性と現実の生産性の間で引き裂かれた四〇年を駆け抜けてきた建築家は、この最新の宣言を、「アンとビルトの間を考えろ。(…中略…)間=ギャップだ。否定をいうな、肯定をいうな。昔濫用したアンビギュイティを忘れよ」と結ぶのである。その「間」こそ、たんにリアルでもなく、イマジナリーないしヴィジョナリーでもない、真にヴァーチュアルな空間への入り口なのではないか★七。いずれにせよ、磯崎新は、いまやSINとARATAの分裂を超え、Ji Qi Xin★八と名乗る国籍不明の第三者として海の彼方の蜃楼都市へと逃走する。その行方をめぐっては、さまざまな流言が飛び交うばかりだ。「反建築史」を標榜するだけのことはある鮮やかな不在証明とアリバイ言うべきだろう。鉄面皮なアイロニーをもって世界資本主義の波に乗ってみせるレム・コールハースと、老練にして柔軟な手管でその裏をかこうとする磯崎新。どちらがゲームに勝つか、勝負はまだこれからである。

1──『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)

1──『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)

2──《孵化過程》

2──《孵化過程》

3──「新宿計画(ジョイント・コア・システム)」

3──「新宿計画(ジョイント・コア・システム)」

4──「コンピュータ・エイディッド・シティ」

4──「コンピュータ・エイディッド・シティ」

5──「海市」

5──「海市」

6──「東京都新都庁舎案」

6──「東京都新都庁舎案」

出典=『UNBUILT/反建築史』

7──『S,M,L,XL』(010 Publishers)

7──『S,M,L,XL』(010 Publishers)

8──『Mutations』(ACTAR)

8──『Mutations』(ACTAR)

9──〈 ¥€$〉のロゴ 出典=『a+u』2000年5月号臨時増刊「OMA@work.a+u」

9──〈 ¥€$〉のロゴ
出典=『a+u』2000年5月号臨時増刊「OMA@work.a+u」


10──ラゴス 出典=『Mutations』

10──ラゴス
出典=『Mutations』

11──「Urban Rumors」に寄せられた磯崎新のメッセージ 出典=『Mutations』

11──「Urban Rumors」に寄せられた磯崎新のメッセージ
出典=『Mutations』

12──『反建築史』の冒頭の「流言都市」

12──『反建築史』の冒頭の「流言都市」


★一──東京のギャラリー・間で二〇〇一年一月二〇日から三月二四日まで開催。
★二──私は二〇〇〇年の夏に磯崎新とシチリアを訪れたのだが、その際、彼が空中都市のドローイングを古代神殿の廃墟の図と重ね合わせている、それが実はアグリジェントのヘラ神殿だったことが確認された。デミウルゴモルフィズムを唱える建築家の源泉は、ギリシア本土のアポロン的に整った空間ではなく、マグナ・グレキア、とくにシチリアの、重層する廃墟の空間──デミウルゴスの暴乱の跡にあったのである。
★三──内容に応じて、ここではコールハースは多くの共同著者の間に自分を埋没させる道を選んだ。世界の諸都市に関する調査の多くは、彼の率いるハーヴァード都市プロジェクトの成果である。そのうち中国の珠江デルタに関する調査は一九九七年のドクメンタXで発表されたが、グローバリゼーションの理論的分析に重点を置いたこのドクメンタXを延長する形で、労働経済学のヤン・ムーリエ・ブータン(アルチュセーリアンとしても知られる)や都市経済学のサスキア・サッセンといった批判的な論者たちの論考も収められている──とはいえ、全体の論調から言えば、これらの批判的な論調はちょっとしたスパイスのようなものでしかない。その他、ヨーロッパを担当したステファノ・ボエリとアメリカを担当したサンフォード・クウィンターの名前が表紙にひときわ大きくフィーチャーされている。
★四──他にも機会はあったが、一九九〇年代を通して毎年開かれた〈ANY〉コンファレンスにコールハースも私も参加しており、とくにそこで発表を聞くことが多かった。なお、二〇〇〇年に開かれた最終回の〈ANYTHING〉コンファレンスは、建築の自律性と質に回帰するピーター・アイゼンマンと、それを破壊してゆく都市の量的ダイナミクスにあえて賭けようとするコールハースという、いささか反動的な対立構図で終わった。
★五──保守系の『フィガロ』紙二〇〇一年二月一五日号にはアンリ・ゴーダンが「退行的変異」と題する展評を寄せ、それは世界資本主義の暴走による文化の破壊と人間の動物化を肯定するものだと批判している。
★六──「コールハースの子どもたち」の代表格とも言うべきMVRDVが発表した〈データタウン〉(Metacity/Datatown, 010 Publishers)などはその典型的なあらわれである。この〈データタウン〉を、五十嵐太郎は「究極のスーパーフラット理想都市」(『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』[INAX出版]三九八─四〇〇頁)と呼んでいるが、まさしくそれは、六〇年代末に現われたどこまでもフラットな都市のヴィジョン(たとえば磯崎新が当時いちはやく注目したアーキズームの「ノー・ストップ・シティ」など)のスーパーフラットな再版なのである。
★七──Christine Buci-Glucksman, L’esthétique du temps au Japon (Galilée)という最近の書物(とくに建築に焦点を当てて日本文化を論じ、そこから「ヴァーチュアルなもの」の美学を展開しようとする試み)で、著者が磯崎新や私との討論を踏まえて「海市」を初めとする磯崎新の仕事に「ヴァーチュアルなもの」の深い表現を見ていることを付け加えておく。
★八──磯崎新の中国語読み。

>浅田彰(アサダ・アキラ)

1957年生
京都造形芸術大学大学院長。批評家。

>『10+1』 No.23

特集=建築写真

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>UNBUILT/反建築史

2001年2月1日

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>S,M,L,Xl

1998年

>錯乱のニューヨーク

1995年10月1日

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>スーパーフラット

20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて現代美術家の村上隆が提言した、平板で...