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カンガルーハウスのポケット | 西川祐子
The Kangaroo House's Pocket | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.38-39

同潤会大塚女子アパート訪問のつづきのようにして、石川県和倉温泉にあるカンガルーハウスをたずねる機会があった。温泉旅館で客室係として働きながら子育てをする女性たちのために旅館経営者が保育園併設の母子寮を建設しているときいて、ぜひ自分の目でたしかめてみたかった。建物の見学を許され、幸運にも設計者水野一郎氏、経営陣、旅館で働く方たちから話をきくことができた。
先回ふれた同潤会大塚女子アパートに取材したテレビ番組には、いずれも個室の独り暮らしを意志的に選んだ四人の女性が登場していた。そのなかのひとりがインタヴューに答えながらふと、遠い昔、婚家に残した三人の子どもがアパートまでたずねてきた話をした。裸足でたたずんでいる、まだ幼い末の息子だけはどうにも帰すことができず、ひきとってその子が成人するまで四畳半の部屋で母子二人で暮らしたという。男子禁制の女子アパートで育った男の子がいたという挿話が印象的であった。
おなじ番組の案内役をした戸川昌子は、敗戦直後、焼け跡の東京で母親と家さがしをしていたとき、「空き部屋あり」の張り紙をみつけて大塚女子アパートに入居、母親は管理人となった。アパートの四畳半の部屋に母と娘がたがいちがいになって寝る毎日であったという。戸川昌子はその部屋で書いた、大塚アパートを舞台にした推理小説『大いなる幻影』により江戸川乱歩賞を受賞。女子アパートの地下浴場の湯舟に、セメント詰めになって発見される子どもの死体、という設定は妙になまなましい。女子アパートにおける子どもは、黙認されるが禁忌さるべき存在であったことを架空の物語に表現したからかもしれない。
だが、カンガルーハウスでは子連れは黙認されるのではなく、むしろ入居の積極的な条件である。一九八一年に加賀屋が新館をオープンし、温泉旅館から巨大なリゾートホテルに変身した際に、お接待さんと呼ばれる客室係を一〇〇名大量募集、それが集まらなくて困ったのがカンガルーハウス建設の動機であった。建築雑誌のインタヴューに答えた社長の談話には「労働条件が厳しいので独身の方は定着してくれない。おのずと母子家庭の方に頼らざるをえない状況」であったとある。加賀屋ではもともと古い木造の旅館を転用した母子寮兼企業内保育所をもっていた。創業八〇周年の記念事業として一九八六年にカンガルーハウスを建設し、優秀な人材確保をうたったのだそうである。
京都の古い花街では、仲居さんと呼ばれる人たちが膳をはこび、客を接待し、お座敷をとりもっていた。頭脳の回転と気配り、姿形と立ち居振る舞いがよく、また持続的な体力が必要な職業である。ある時代までは固定給なし、客からのチップを同僚のあいだで分配する仕組みであったので、ライバル意識と結束が併存し、自分の甲斐性で生きてきたという矜持が感じられる女の職業集団であった。加賀屋の場合は、接待さんという呼び方と客室係という呼称とのあいだで近代化があり、給与労働者としての労働条件がととのえられたと考えられる。しかし、泊まり客を迎え、送り出すまでの仕事だから、勤務時間は朝食と夕食の時間帯を中心にして午前七時から一〇時と午後三時から一一時が標準である。
行ってみてまず、七尾湾に面してそびえ立つ巨大な高層リゾートホテルの外見をした温泉旅館に驚いた。従業員寮であるカンガルーハウスもまた、コンクリート打ち放しの上にフッ素系シルバーメタリックの塗布がほどこされ、田園風景のなかに銀色に輝いてそびえたつ地上八階の建造物であった。一階に保育室と学習室がある。保育室には「のびのびルーム」という名前がかかげられていて、広い畳敷きの部屋に幼児たちが大きなちゃぶ台のような座り机をかこんでいた。「おたんじょうびおめでとう」の張り紙や細工物が見えた。学習室には机と椅子が並び、学童保育の雰囲気である。遊戯室の子どもたちは飛び回って遊んでいる。間仕切りは開放的で一階の全体が大きなワンルームである。幼い子どもたちは来客にまといついてくるし、大きな子どもたちは話しかけてくる。開かれた共同生活が日常になっているからであろう。保育園は母親の勤務時間にあわせて午前六時から午後一二時までだというから、子どもたちにとっては、ここが生活の中心となる空間である。すでに使いこまれた建具や家具がなつかしい雰囲気をつくっている。
建物の中心に八層分の巨大な吹き抜けがあった。吹き抜けと階段、エレベーターを囲み、さらにもうひとつの階段に通じる廊下があり、二階から七階までは、その廊下にそって母子室と呼ばれる部屋が並んでいる。空いている部屋に案内された。六畳と四畳半の畳敷きの続き間、キッチン、トイレ、洗面所が備えられている。子どもたちの浴室は一階にあったし、温泉旅館の従業員は職場で入浴するのであろう。浴室がない。そのかわりガラス張りの小さいサンルームがついていた。北国の部屋のために物干しと日溜まりがつくられている。続き間はまだ母子が一体的に生活している期間のための設計であろう。もっとも、ここのカンガルーの子どもたちは母親のポケットから出てもう少し大きな共同保育のポケットで生活する時間が長そうである。ドアの前に子供用自転車が置かれている部屋もあった。
経済の高度成長期にこういう設備投資をした企業もあったのだ。経営陣の説明では、ちょうどそのとき五二世帯が入居、子ども数は五六人、保母さんが一三名働いていた。規模の大きな職場である。人員確保のためには週刊誌『女性自身』に月二回広告を出すので、全国から応募があるという。そして、働く人の定着期間は平均三年から六年、業界では雇用が安定しているケースだという。入居者のほとんどは、子どもが小学校六年生になるまでに寮から出る、中学生は自分の家から通学したがる、母親は自分で家をもつという目的意識があるから、貯蓄にはげむ、家を建てることは不可能ではない、という説明であった。やがて子どもたちがポケットから独立してゆくとき、カンガルーである母親には財産としての自分の家がのこるというのがひとつのライフコース・モデルとして描かれているようであった。
その夜、巨大なホテル旅館に一泊した。客室係の女性は和服を裾短めにきちっと着付けたきびきびと立ち働く人であった。帯につけた名札の名前が優雅である。「源氏名」のような仮の名ですと説明、もちろんカンガルーハウスにおける母親の顔はみせない。カンガルーハウスの最上階の集会室は何に使うのかという問いにだけは、この職業には生け花、茶の湯などの知識もいるから学習室です、と答えた。働きながら次の飛躍をも考えている。飛躍から飛躍へと自分の人生を築いていく人ばかりではないだろうが、生長する子を連れているという要素が部屋を閉じたものでなく開かせている。停滞もゆるされない。
カンガルーハウスの部屋はワンルーム・マンションの部屋とほぼ似た平面図となるのだが、個室としての装備は軽い。一時滞在の居場所であることを強調する設計であるようにさえ見える。職住近接どころか、ほとんど職住一致であって、接待さんには時間的あるいは空間的な私的所有分はほとんどない。母子室のひとつひとつがカンガルーなのではなく、建物全体が大きな有袋動物なのだ。もうひとつの職員寮は「あすなろ」という名前であった。通過点としての居心地の良さが準備されているが、同時に出発をうながす装置は子どもであるというところがうまい企業戦略である。企業と従業員双方のせっぱつまった事情を設計がくみあげて空間を組み立てた飛躍のための部屋である。

1──カンガルーハウス全景 筆者撮影

1──カンガルーハウス全景
筆者撮影

2──同、1階 筆者撮影

2──同、1階
筆者撮影

3──同、1階平面図 出典=『日経アーキテクチュア』 1987年11月16日号

3──同、1階平面図
出典=『日経アーキテクチュア』
1987年11月16日号

4──同、3─7階平面図 出典=『日経アーキテクチュア』 1987年11月16日号

4──同、3─7階平面図
出典=『日経アーキテクチュア』
1987年11月16日号

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築