想像の余白|加茂紀和子
子どもが毎日、家で音読をする。学校の宿題なのだが、教科書でも新聞記事でもなんでもいいから毎日読むということを続けている。最初は読み方がいいとか、点や丸に気をつけて読んでるか等、技術的なことを親がチェックするためのものなのかと思っていたが、日課になり、一日のリズムになり、やらないと物足らなくなり、知らない間に聞くことが楽しみになっている。六年生の国語の教科書の短編に感動してつい涙し、なるほどと思う知識を得ることもできる。なかでも特に新鮮なのが、詩の音読である。国語の教科書の最初のページは春をつげる明るい詩から始まるものなのである。
先日、二年生の息子が谷川俊太郎作、「あ」という詩を読んでいた。それは、「先生が黒板に あ を書いた」からはじまる。「あ」は気づきの「あ」であり、驚きの「あ」であり、口を開けたかたちであり……とイメージがふくらんで、黒板拭きで「あ」が消されると、喪失感と余韻を残す。息子が読み終えた時、「あ」だけで詩ができるんだという単純な驚きとともに、無意識に「あ」に続く言葉を探していた。とても簡単な短いフレーズでできているのに、「あ」ではじまる言葉のさまざまなイメージを背景に控え持って、巧妙に選び抜かれている言葉の並びである。「あ」をどう発音するかでも印象は変化し、聞き手、読み手のそれぞれの想像力に任せる部分や間が残されている。
お返しにというわけでないが、私も時々絵本の読み聞かせをする。子どもは絵を見て、大人が字を読むが、文字の少ない絵本ほど、どう読もうかと考える。
やはり、谷川氏の詩で元永定正氏の絵の美しい絵本がある。『もこ もこもこ』(文研出版、一九七七)という幼児のために書かれた絵本だが、色鮮やかなグラフィックと極限的にそぎ落とした擬音だけの詩は、卵と鶏のごとく、どちらが優先しているとは言えない、絶妙なコラボレーションの一冊である。水平線にちょっとだけ出現する突起が「もこ」。ページをめくると変化して、最後は……。
想像の余白という空間は実に幸せで楽しい。
1──谷川俊太郎+元永定正『もこ もこもこ』
団地映画|曽我部昌史
団地が舞台になっている映画の収集をしている。郊外団地の屋外空間でのアクティヴィティと、団地のイメージとの関係を探ろうと思ってはじめたことだ。研究の成果もさることながら、こういう検索方法でなければけっして観ないような映画を観ることになるため、今まで知らなかった新しい世界観に触れられるようで、かなり楽しい。
観始めてわかったことは、わりとはっきりとした時代ごとの変遷があるということだ。公団の団地が登場した直後から、団地はたくさんの映画の舞台になってきているのだけれど、およそ一〇年ごとに、その描かれ方は大きく変化している。日本団地映画の黎明期とも言える一九六〇年代の作品では、ほとんどの場合、団地が新しいライフスタイルを象徴する器として描かれている。それにつづく七〇年代は低迷期。実はこの時期は、「団地妻」シリーズがもっとも活発だった時代。団地妻シリーズ以外で団地が舞台になっている映画は、まずない。八〇年代は悲観期。団地のような画一的な空間が、社会問題(事件)を起こすという図式だ。そして九〇年から最近にかけては、わりと牧歌的な、思い出の場所としての団地が描かれる。このような変化がはっきりと表われる。商業映画という表現分野において、団地が、紋切り型的に時代のムードを伝えるために活用されているらしいことがよくわかる。
また同じような団地が、異なった時代に登場する。つまり、異なった時代のムードを醸し出すものとして描かれる。だから、同じような場所が、まったく違った使われ方をするわけだ。いろいろな映画の同じような場所を集めて観たりしていると、その違いはより鮮明になる。どの場所も、だいたいひとつの機能(アプローチとか階段とか)で呼ばれているような場所なのだけれど、その機能のことだけを考えていても、この多様性をフォローすることは不可能だ。団地を舞台とした映画を観ながら、この創発的多様性とでも呼べるような状況の、背後にある構造を探りたいという思いにかられてきた。
2──『駅前団地』(久松静児監督、東宝、1961)
3──『スワロウテイル』(岩井俊二監督、美術=種田陽平、日本ヘラルド、1996)の美術セットは東洋のどこにもないような街をイメージしている。
アニメが都市を変える|竹内昌義
昨日、「アーキラボ」展を見に行き、アーキグラムはアニメーションに影響されていることを再認識した。ただ、それは表現の手法であって、実際にアニメが実空間に影響したわけではない。建築をあくまで、アニメ的に表現したというだけだ。そう思っているうちに、大学で卒論の発表会があって、アニメ論を書いた学生がいた。それはもう一歩踏み込んで、アニメが現実の空間にもっと直接的に影響し始めているのではないかという。
彼女が取り上げたのはスタジオジブリや宮崎駿のアニメーションと、大友克洋『AKIRA』(一九八四—九三)、押井守『攻殻機動隊』(一九九五)、浦沢直樹『20世紀少年』(二〇〇〇—)などの近未来の日本を扱った作品である。
宮崎駿の影響は非常にわかりやすい。ノスタルジックな、現代には存在しない自然への憧れが、三鷹のジブリ博物館や、「愛・地球博」でつくられる《サツキとメイの家》の人気につながるという話である。まさか、本人は意識していないかもしれないが、藤森照信の建築も現代の社会への批評という点で同じ方向性をもっているという。
近未来モノはもうすこし複雑だ。アニメや映画の背景は、例えば『ブレードランナー』(一九八二)や『攻殻機動隊』に見られるように、アジア的な雑多な街のイメージを持っている。それがほかのメディアの『マトリックス』(一九九九)などに影響をしていく。そして、結果としてアニメ的なアジアが、日本における実際の建築にも、すでに見えかくれしている。例えば、森田恭通の世界、あるいはアジア的なデザインの六本木ヒルズである。森川嘉一郎の『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ』(幻冬社、二〇〇三)にあるように、人々の趣味が都市を変えうるのであれば、アニメに影響された人々が支持する空間がいずれ現われると考えてもよい。建築家によってつくりだされている空間は、それらにシンクロしているのではなく、すでにアニメの影響下にあるかも知れないというのである。
はたして、本物の建築でそうなっているかどうかはまだわからない。でも、最近の学生の卒業設計を見るたび、数多くの作品がアニメの影響を受けているのは確定的である。
参考文献
小松尚美(東北芸術工科大学環境デザイン学科竹内ゼミ)二〇〇四年度卒業論文「アニメ・万博・都市・建築」。
しとやかさ|マニュエル・タルディッツ
私は建築家であるが、同業者が書いた本はほとんど読まない。理由は単純で、それらが往々にして内容に乏しいからである(そう言いきるのが怖いなら読むのをやめてごらんなさい)。とはいえ建築の歴史に関する本を手にすることはある。そのなかでも優れたものは、多くの場合フィクションに似る。最近読んだ本でもっともよかったのは、Neil Jackson, The Modern Steel House, John Wiley & Sons Inc., 1996. だ。建築的探求についてコストと構造の観点から、基調をなす著者の考えが精度をもってあざやかに書かれている。
しかし私が本当に好むのは小説である(レア・ビーフステーキとジューシーなポークフィレはどちらも美味だが、前者のほうが好きだというぐらいの意味で)。ビクトル・ユーゴーは「これがあれを殺すだろう」、つまり書物が建築を殺すだろう、と警告しているが、私は自らの末路を知りつつもなお小説を読む喜びを享受しつづける。それどころか、この計画的な殺人行為が現在の電子化の波とあいまって非常に危険であることもわかっている。それでも結局、私はチェーホフの短編小説を推奨しようと思う。理由は単純で、たいへんわかりやすくすらすらと読めるからである。彼の作品は私にとって建築のもうひとつの側面である生活をまさに表わしている。もうひとつの隠れた推奨理由は、「しとやかさ」というようなものだ。彼は作中の人物に「しとやかさ」という性質をまとわせるべく、飾り気がなく冷めた感情表現を多く用いた。私は時折そうしたことを空間的な文脈のなかで実践することを夢みる。表面的には苦心の跡がみえない「しとやかさ」を。
4──The Modern Steel House