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ワンルームは家族のおわり、個人のはじまり | 西川祐子
The One-Room as the End of the Family and the Beginning of the Individual | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在, 1999年09月発行) pp.33-35

昨年末に『借家と持ち家の文学史──「私」のうつわの物語』(三省堂)という本を出した。日本近代一三〇年のあいだに書かれた大量の文学作品を、「私」と家族の容器としての住まいモデルを探すというテーマのテキスト、集団制作による大河小説として連続して読む試みである。日本列島の上での生活はたった一世紀のあいだにほかに例をみないほどのドラスティックな変化をとげ、住まいモデルもまた「いろり端のある家」「茶の間のある家」「リビングのある家」「ワンルーム」とうつりかわった。住まいという容器の中味である住民の数はしだいに減り、一人部屋にたどりつく。わたしたちは今、家族の時代を終えてそれぞれが自分の居場所を探す「部屋の時代」にいる。離合集散する部屋群の動向から未来を占うことができるであろう、これから部屋の冒険物語がはじまる、と書いた。では、その続きを少し書きはじめたら、という注文により、この連載となった。泳ぎを知らないのに海に漕ぎだす気分である。
海と書いてしまったが、なぜ海なのだろう。コンクリートの箱である現在の部屋は地面にくっつかないで、宙に浮いている。窓をあければ毎日同じ風景なのだが、眼下にひろがる郊外あるいは都会風景よりも上空に眼がゆく。雲が走る、空の色が変わる。やはり海だ。箱もまたかすかに揺れている。壁の両側にはおなじく箱があるということを忘れる。両脇の壁の防音効果は相当なものである。天井からの音は響きやすい。しかし高層集合住宅は昼間人口が少ないから、静かな昼下がりは箱船がひとりで漂流する時間である。つきぬけるような青空の下での航海はここちよい。少しあけた窓から潮風のにおいさえする気分である。だが海の天候は変わりやすい。嵐の海の航海はどうする。箱の船は水が漏らないし、沈みもしないが外出はおっくう。パソコンに向かう。メールを送る。返信を待つ。……というように現代の平均的な部屋居住者の姿を想像してみた。
ここまで書いて、展覧会ヘ行った。関根勢之助「記憶のかけらたち」(於京都、マロニエ、ギャラリー3、一九九九年六月)である。箱船の絵が二枚もあった。記憶の底に眠る既視感覚。《箱船》と《ノアの船》という題名のはがき大の絵は、青い屋根と黄色の屋根が美しい。背景の鈍色の暗い海と空に銀色の雨が降る。荒れ模様の海だ。嵐のなかで小さな箱船は木の葉のように揺れながら、二つ、三つと寄り合うであろう。四つ、五つと増えるかもしれない。古代とはちがって現代のノアの箱船は、それぞれ一人用なのだ。箱船から心細い縄ばしごが下がっている。脱出用か、それとも助けを求める発信に応じて登ってくる隣人を待っているのだろうか。
一人部屋をワンルームとカタカナ表記したとき、何か新しいことがはじまったのであった。学生にいま自宅通学なのか、それとも下宿しているのかとたずねたところ、今は「下宿」とは言いません「独り暮らし」、と注意されてしまった。へその緒のような電話線と仕送りで実家とつながっている独り暮しは、まるで子ども部屋が空中を飛んで別の都市へ移ったみたい、とこちらもからかった。そうは言ったものの、なるほど下宿部屋とワンルームでは空間のデザインも、空間のもつ意味もちがっている。
京都のような古い町にあったかつての下宿の多くは、二階部屋や離れを利用したものであった。親戚の子をあずかったその延長のような感覚でいる下宿のおばさんは、下宿人におかずを一品届け、洗濯の世話をやき、朝帰りに説教をたれた。下宿専門の下宿屋になってもまかないつき、あるいは管理人夫婦つきで、下宿人どうしのつきあいにも家族的な雰囲気があった。ワンルームというカタカナ表記は、このような家族的雰囲気の残存を切断するためであったのではなかろうか。
元祖ワンルーム・マンションはつきとめることができる。第一号のメゾン・ド・早稲田はむろん早稲田大学の近くに、一九七六年に建てられた。発明品といえるアイディアは、ワンルームの空間にミニサイズながらキッチン、バスルーム、ベッドをはめこんだ設計だけではない。一つひとつのワンルームを分売して、小家主をつくり、そのうえで家主にかわって家賃を集め建物の管理を請け負うというシステムが新しかった。ワンルーム・リース式マンションはたちまち都内に、さらには地方の大都市、中核都市へ広がって今では若者たちの多くが生涯のある時期に体験する住宅モデルとなった。四人家族用の3LDK設計が公団の分譲住宅だけでなく賃貸住宅にも採用され、さらには民間マンションに広がるのが一九七五年前後であるから、nLDKの「リビングのある家」モデルと「ワンルーム」モデルはセットになって出現したのである。ワンルームを浮遊する子ども部屋と呼ぶいわれである。
メゾン・ド・早稲田のある早稲田界隈は、明治に下宿屋が創出されて以来の若者用住宅の見本展示場のようである。戦前からあったとおもわれる古色蒼然とした木造洋館風の下宿屋、木賃アパート、高層マンションなど迷路のような狭い路地のまわりにひしめいている。その中にあってメゾン・ド・早稲田は風景にとけこみ、四半世紀の年月を感じさせる。五階建て、青い瓦屋根、一部タイル壁の建物は敷地いっぱいに建てられている。郵便受けの数からすると二四、五部屋あって、名前が入っているようであるから、りっぱに住まれている。外からみてコンクリート部分の古びぐあい、すりへった階段など、生活感がただよう。今でも目立つ屋根の色と壁のデザインは、一九七六年当時、もっと輝いてみえたにちがいない。
この建物の前に立ったときには、感動した。歴史的記念建造物として保存してもらいたいものだとおもった。各地に民俗博物館があるが、そこに保存されるのは大きくて立派ないわゆる伝統民家である。一軒の大きな家のまわりに無数にあった小さな家、もっといえば小屋のほうが今生きている私たち大部分の人間の先祖の住みかであったのだが、ひとつ残らず消えてしまう。柳田國男はコヤが大きな家の屋根の下にはいってヘヤになったとする。「部屋」ということばに長いあいだあった蔑称的なコノテーションは、家族の正式メンバーから区別された人員を容れる空間であったことに由来する。その部屋はしかし、子ども部屋や書斎という名称を得るようになると、家の中で存在を主張するようになる。一九二〇年頃のことではあるまいか。以後、部屋は増えて家族のための住まいは個室と共同空間を組み合わせたnLDK設計となった。
そして一九七六年、部屋はルームと名前を変えてふたたび家の外部に出たのである。コヤ→ヘヤ→ルームという名称変化があった。部屋はいったん大屋根の下に入って、そこからまた出ていった。屋根の下に入ってから出るまでが家族と、家族を基礎単位として構成された近代国家の時代の壮大な物語であったとしたら、ここから先は個人の時代の、よりささやかな喜びと苦しみのある物語がはじまる。部屋は快適だが、孤立し、都会の海の中を漂う。部屋と部屋が助け合わなければならないとき、どんな新しい仕掛けが発明され、それがどのようにしてひとつの文化になってゆくだろうか。

関根勢之助《ノアの船》

関根勢之助《ノアの船》

同《箱船》

同《箱船》

メゾン・ド・早稲田

メゾン・ド・早稲田

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.18

特集=住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在