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映画都市 京都 | 加藤幹郎
Cinemacity: Kyoto | Kato Mikiro
掲載『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999, 1999年06月発行) pp.27-28

この小論は、一九五〇年代の京都市をケーススタディとする都市と映画の文化史的スケッチである。この時期、京都市は松竹、大映、東映(東横)など巨大映画撮影所をかかえ、最盛期には六〇館以上もの映画館が活況を呈する映画都市であった。百万をこす都市住人たちがひしめきあうこの狭隘な扇状地で、映画はどのように享受されたのだろうか。

ひとは何のために映画館へゆくのか

ひとは映画館に映画を見にゆく。だが、ただそれだけではない。映画館は徐々にだが、たんに映画を見るためだけの施設ではなくなる。観客は映画館に映画以外の何かを求めるようになるのだ。
たとえば今日、映画館が冷暖房完備を宣伝文句に謳うことはありえないが、劇場にこうした設備が当然のごとく期待されだしたのは、一体いつの頃からなのだろうか。
一九五〇年元旦の京都の地元有力紙『京都新聞』に、それまでついぞ見られなかったまったく新しいタイプの広告が登場する。「お正月は煖かい公楽会館で」。上映中の映画の題名よりもはるかに大きな文字で書かれたこの映画館の惹句は、たんに「暖房完備」と小記する競合館(朝日会館)よりも大きなインパクトをもった。その証拠には、翌五一年の元旦に、さらには五二年の元旦にも、両館は争うようにして同趣旨の正月広告をうつことになる。一九五〇年代初頭、正月映画の作品の魅力を宣伝する他の多くの座館とは違い、この二つの「近代映画館」だけが、他館に比べて遜色のない作品を上映しながら、映画そのものよりも、むしろ映画館の設備を強調するのである。
一九五二年八月の『京都新聞』には、「入場料も避暑と思えば安い」という記事も見える。こうした広告や記事は一体何を物語っているのだろうか。それは映画館へゆくことが、たんに映画を楽しむためだけではなく、上映設備以外の他の付帯設備がもたらす快適さを享受するためでもあることを示している。
ひとは映画館に、銀幕の夢に溺れるためだけではなく、冬には避寒のために、そして夏は避暑のためにゆくようになる。映画館は荒唐無稽な物語とスペクタクルによって、想像力の水準で観客に現実逃避をもたらすと同時に、映画館の外の厳しい自然環境からの逃避をももたらしてくれるようになる。要するに京都市民は、映画館という廉価な公的空間が盆地京都の冬夏の厳しさを和らげることを発見するのである。
むろん冷暖房設備を得意気に広告する映画館は戦前にまで遡るが、それは東京や大阪など大都市のごく一部の大劇場にかぎられていた。それが一般的になるのは、一九五〇年代初頭までまたなければならない。
一九五〇年代初頭から、京都市内の映画館は、観客により快適な鑑賞環境を約束することで、日本映画の黄金時代を準備するのである。

ロケを見にゆく市民たち

すでに何度か『京都新聞』紙上の映画に関する広告や記事に言及してきたが、地場産業としてのこの地元紙と地元撮影所とのあざやかな連携ぶりについても検討しておかねばならない。
一九五〇年代半ばまでは、テレヴィ放送網はいまだ未整備であり、そういう状況下で新聞がはたした社会情報提供者としての役割は深甚なるものがあった。同様に映画産業もまたテレヴィによって蚕食される前の娯楽産業の王たる余裕があった時代である。そうしたテレヴィ産業黎明期、新聞と映画という二大メディアの関係は今日よりはるかに緊密であり、京都新聞社は、実際、一九五三年にエンパイア・ニュース館を開館し、国内外の広範なニュース映画を上映しさえした。そういう状況であればこそ可能な、地元新聞の肌理の細かい情報サーヴィスを、市民たちはどのように利用しえただろうか。地元紙の読者であると同時に地元撮影所が産みだす映画の観客でもあった京都市民は、実際、新聞と映画という当時の二大情報源をどのように活用享受したのであろうか。
そもそも地元紙とは何か。地元日刊紙は、都市の住人に、その街の情報を日々提供する。昨日、読者が住んでいる街で何が起きたのか、そして今日ここで何が起きようとしているのか、地元紙は正確に読者に教えてくれる。自分の住む都市について、地元紙が提供するこうした情報なしには、都市生活者が自分の街のイメージに現実感をあたえることは難しい。社会生活を営むのに必要な情報の大半を暦と慣習と口づてだけで得られる村落共同体とは違い、都市では、その住人の一日の社会的スケジュール管理を引き受けるのは地元紙である。実際、都市住人が映画を見にゆこうとするとき、彼あるいは彼女はまず地元紙を広げるだろう。地元紙は当時、どの劇場でどんな映画が上映され、それが何時からはじまるのかを網羅的に教えてくれるほとんど唯一の媒体であった。重要な行事について教えてくれる伝統的な暦も慣習も、また隣人からの口づての情報も、映画を見にゆきたい都市住人には、ほとんど何の役にもたたない。
そうした都市の文化的サイクルのなかで特筆すべきは、一九五四年の夏から五六年秋までの約二年間、『京都新聞』紙上に週一回ほどの割合で掲載された「きょうのロケ」という小欄の存在である。そこには撮影中の映画の魅力的な題名とともに、その映画のロケの日時と場所が明記され、しかも天気に左右されるロケゆえに、晴天、曇天、雨天と、それぞれの場合に分けてロケの仔細が記載される念の入れようである。『京都新聞』定期購読者は、驚くべきことに、自分の住んでいる街のどこでいつどんな映画が撮影されるのか、さながら撮影スタッフの一員のごとき正確さで知ることができたのである。今日ならロケの撮影日時は部外秘にするのが原則だが、一九五〇年代半ばの京都では、それは地元紙の読者であれば、誰もが知りえた情報だったのである。
たとえば松竹映画『びっくり五十三次』のロケは、一九五四年七月三日、午前九時より晴天なら九条山、曇天なら下鴨神社で撮影。七月六日、午前九時から、同じく晴天なら仁和寺で、雨天なら久世村での撮影という具合に、七月二日にはじまり二一日の撮影終了日まで、ほぼ毎日のようにロケ情報が地元紙に掲載された。
そこで言及される下鴨神社、仁和寺といった京都の神社仏閣は、時代劇のロケ地として、まだ眠たげな映画産業黎明期から利用されてきた。古都京都の代名詞ともいえるこれらの神社仏閣群が、地元紙の組織的情報によって、死者と観光客のための空間ではなく、ふたたび生きた地元市民のための公的にして想像的な空間として蘇り、新たな付加価値をあたえられたのである。
「きょうのロケ」の連載はまた京都という街が一九五四年に、みずからの映画都市性を再発見したということを示している。京都市のこの自己発見は、いくぶんかは諸外国から触発されたものでもある。「きょうのロケ」の掲載が開始された一九五四年という年は、大映京都撮影所がつくった『地獄門』がカンヌ映画祭グランプリを受賞し、同じく『山椒太夫』がヴェネチア映画祭銀獅子賞を受賞した年だからである。
実際のロケ見物は、市民にあくまでも傍観者以上のものを要求しないであろうが、それでも眼前でクレーン車が駆動し、またたくまにトラックが敷設され、髷をゆった侍たちが立ち騒ぐ撮影現場は、それ自体めくるめく非日常的スペクタクルと化し、自分たちの住む街が映画的な異化空間にほかならないことを京都市民に痛感させたにちがいない。
地元紙が、この時期、新作映画の上映日程のみならず撮影日程までをも、その購読者に知らしめたという事実は、地元紙と地元撮影所とが一体となって、映画都市京都を再発見しようとしていた証であり、一九五〇年代の日本映画の隆盛を物語る大きな指標である。地元紙と地元撮影所と地元市民の局地的な蜜月、それが映画都市京都を構成したのである。

>加藤幹郎(カトウ・ミキロウ)

1957年生
ミシガン大学客員教授。京都大学総合人間学部・同大学院人間環境学研究科助教授。映画学。

>『10+1』 No.17

特集=バウハウス 1919-1999