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建築唯我論 | 柿本昭人
Musings on Architecture | Kakimoto Akihito
掲載『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール, 1998年12月10日発行) pp.42-43

小生は仕事の都合で、京都と名古屋の間を、毎週車で往復している。名古屋の街は車無しでは不便きわまりないので、新幹線を使うことはまずない。そのため、新しい京都駅が出来てすでに一年以上たつが、まだ実物を一度も見たことがない。恥ずかしながら、新聞の写真と、早朝川端通りを南向しながら、点滅する赤い警告灯でその輪郭を五条あたりでうかがったのみである。
京都ではこの何年間か、京都ホテルに始まって、つい最近のポン・デ・ザールとつづく、いわゆる景観論争が繰り返されてきた。かつては、京都駅前の「巨大なロウソク」(京都タワー)について、ひと悶着あったと聞く。件の京都駅は、「パチンコ屋」とか「銀屏風」とか「軍艦」とかと、陰口をたたかれているようだ。それにひきかえ、名古屋駅は現在建て替え中なのだが、出来上がると、東京都庁のコピーのようなツイン・タワーになるそうだ。ところが、「名古屋らしくない」という話は、ついぞ聞いたことがない。かたや戦災もほとんど受けなかった一二〇〇年の古都。かたやオースマンも顔色無しの、道路整備、ゾーニング、墓地の郊外移転の行なわれたモダン都市。好対照の理由はそれだけではないだろうが。

景観論争において、保全を訴える側は、歴史的な都市のコンテクストを無視した、孤立した建物が登場することになり、その全体性が崩れていくと言う。つまり、「古都の風情が台無しだ」ということ。一方の、新しい建築物を着工しようとする側は、同じものの反復ではエントロピーの増大によって「熱死的死」が待ち受けているので、何か新しいものを、いままでのコンテクストを無視するものであっても、とにかくアクセントを加えることで、死にゆく全体を活性化することだと言う。新しい建築物が、たとえコンテクストを無視しようとも、その建築物が自立的に意義を有すがゆえに正当なのだと。つまり建築物の「芸術的価値」である。この対立は、ちょうど、校則をめぐる学校側と生徒側との対立と似ている。

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>柿本昭人(カキモト・アキヒト)

1961年生
同志社大学政策学部教授。社会思想史。

>『10+1』 No.15

特集=交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール