病室と監房、隔離と監禁。病院と監獄がその初源において同根であることは様々に指摘されている。本稿でも連載の二回目「呼吸する機械 : 病院」で監獄と病院の衛生観をパラレルに論じているが、今回は監獄、特に重罪犯に関わる施設を取り上げ、身体と装置の極限を見る。
植民の世紀を通じて、海外への流刑は身体刑と同様ごく一般的な行刑法であった。特に新大陸に多大な労働需要を抱えたイギリスは、安価に、しかも手を汚さずに危険分子を放出する手段として一六〇七年から一七七六年の独立宣言までにおよそ五万人の有罪犯をアメリカ植民地に送り込んだとされている。流刑囚の強制奴僕は雇主の立場から言えば計算できる労働力であり、アフリカ人奴隷の使用を拒否したペンシルヴェニア植民地のクエーカー教徒でさえ、本国の奴僕についてはこれを受け入れていた。
独立戦争によるアメリカ流刑の廃止後、イギリス本国の監獄に収容される既決囚の数は日毎に増加し、各地の監獄は甚だしい過剰拘禁状態に陥った。以降は海岸に廃船(牢獄船)を繋留し、ここに流刑囚を拘禁することになる[図1]。その不衛生な状況はジョン・ハワードに詳しい。有害虫が充満し、床はひどい湿気を帯び、水が溜まっている。藁や寝具はその上に敷かれる。換気口もない監獄もある。これは窓税の存在によるところも大きい。「汚染され腐敗した空気は、刺激的かつ強烈な性質を有しており、オーク材を芯まで腐らせ、溶解させてしまう。よって建物の壁には、この有害な物質が何年分も蓄積されることになる」。
ハワードの衣服も「最初の視察旅行であまりにひどく汚染されたため、駅馬車に乗っても窓を閉められないほど臭く、もっぱら馬で旅をしなければならなかったほどだった。……覚え書きの帳面もしばしばひどく汚れ、炉火の前に一、二時間広げてからでなければ使うことができなかった。……多くの看守は言い訳を並べて、私と一緒に重罪犯監房に入ろうとはしなかった」。
こうした状況下、アイルランドではジョージ三世の治世下に囚人の健康維持に関する法律が成立し、刑務所では独房や監房など囚人が使う部屋は、少なくとも年に一度は壁と天井の付着物を掻き落とし、石灰で漂白すべきである(近代建築の白はこうした衛生観の末裔ではないのか)とされた。衛生という面から見た監房の仕様は全てこの延長上で整えられ、今日に至っている。しかしこの衛生観が二〇世紀に至るまで落とせなかった砦がある。それは死刑をめぐる身体と精神の問題だ。
例えば絞首刑を例にとろう。この処刑方法は、囚人にロープを巻き付け、高所から落としてそれを締め付け、一〇分にも及ぶ緩やかな窒息死を引き起こすというものだ。無意識状態に到達する前に、首を締められた人間の顔は空気を求めて紫色に変わる。眼球が飛び出し、舌が外に垂れ下がり、括約筋は制御できなくなる。体中の穴から体液が滴り落ち、人体は見るも無残な物体と化する。一八八八年、イギリス政府はこの処刑方法に若干の改良を加える。これは脊椎骨の脱臼によって即死させる絞首方法で、今日行なわれている絞首刑は基本的にこの考え方に基づいている。この方法が確立される過程では体重に対するロープの長さの比率を誤って首が切断された事例もあるという。
死刑執行人の立場からすれば、これほど心身共に消耗する仕事はない。かつて死刑執行人や刑吏が賤民として扱われ、蔑視された存在であったことは、いかにそれがストレスの多い職業であるかということの証左である。一九世紀に賤民の地位は消滅し、刑吏も市民権を獲得してはいるが、今日でもその影は消えていない。エルゼ・アングストマンは自分の苗字が死刑執行人を意味することから(どれだけの子孫が改名を余儀なくされたかは想像に難くない)、言語学者として刑吏に関係する名前を調べ、「アングストマン」は一四五八年にまで溯り、刑吏を意味する苗字はドイツ語圏だけで一〇七種にも及ぶという事実をつきとめた。またパリの死刑執行人の家系サンソン家のモンマルトルの墓では、直系の子孫の墓参が確かめられたのは一九二〇年が最後であり、一九七二年の時点でパリの電話帳にのっている二九世帯のサンソン家は、死刑執行人の家系であることを否定しているという。
一九世紀以降、この分野で近代化が進んだのはアメリカである。ペンシルヴェニアと並ぶ行刑の先進地域ニューヨークでは、一八八六年にデヴィッド・ヒル知事が絞首刑より「人道的な」死刑方法を検討する特別委員会を設置した。委員のひとり、歯科医のアルフレッド・P・サウスウィックは、一八八一年にニューヨーク州バッファローでサミュエル・スミスという男が酒に酔って直流発電機の二つの電極に手を置いて感電死した事件を報告している。スミスは苦しまずに即死したという証言から動物実験が始まり、以降、電気椅子はアメリカで最も一般的な処刑方法となった[図2]。
今世紀前半において処刑方法のもう一つの極にあったのはガス室で、これはアメリカ陸軍医療部隊のD・A・ターナー少佐によって一九二四年に発明された。今日あるガス室のほとんどはソルトレイク・シティのイートン金属工業によって製造された八角形のスチール製で、充分な気密を保つシーラントで密封された覗き窓をもっている。囚人は座面に穴のあいた金属の椅子に紐で縛り付けられる。椅子の下の深い容器の上には一ポンドのシアン化物あるいはシアン化物の錠剤が入ったガーゼの袋が鉤に下げられ、その鉤は執行官がレバーで操作するようになっている。硫酸がチューブを通って容器に流れ込む。容器が酸でいっぱいになるとシアン化物がその中に落とされ、化学反応を起こす。ゆっくりと毒ガスが発生し、囚人の頭はがっくりと胸に垂れる。およそ七分近く胸を波打たせ、唇のあいだから泡を吹きながらぎゅっと拳を握るが、最後に、ふたたびがっくりと頭が垂れて全てが終わる。ターナーは、電気椅子に代わる、より文明化された方法がガス室であると信じた。しかし今日最も好まれている処刑法は、致死薬注射である。アメリカで最初の、しかも独占的な死刑機械製造業者フレッド・ロイヒターは、電気椅子、ガス室、絞首台の全てについて設計・製造・設置・アフターサービスを手掛けているが、何といっても彼を一躍有名にしたのは致死薬注射装置の発明である[図3]。
致死薬注射は医学的な処刑法であるため目に見える損傷がなく、どの立場からも客観的な処刑が可能なため、現在考え得る最も「清潔な」死刑法である[図4]。一九八二年一二月七日、テキサス州ハンツビル刑務所でチャールズ・ブルックスが最初にこの方法で処刑されて以来、五つの州でこの方法が採用されている。必要なものは静脈点滴管、処方薬、台車付き担架、そしてロイヒターの装置である。まず処刑の四五分前に囚人は点滴管につながれ、生理的食塩水の点滴を受ける。致死薬の流動性を保つためである。三〇分前には抗ヒスタミン剤が投与されて気道の詰まりが抑えられ、続いてソディウム・ペンタトールが八CC投与され鎮静を待つ。処刑が始まると致死薬が自動圧送により投与される。まず一〇秒かけてソディウム・ペンタトールを一五CC、一分待ち意識がなくなったところで一五CCの臭化パンクロニウム。また一分待って一五CCの塩化カリウム。そして二分以内に死亡が宣告される。
これだけシステマティックなようでも、執行官には細心の注意が払われている。制御装置の操作盤は完全に二組用意されていて、二人の執行官が同時に同じ操作をする。コンピュータがどちらのスイッチを有効とするかを決定するが、その記録はメモリから抹消される。つまり二重操作により自分が人を殺したという心理的なストレスを無くしているのである。
これは清潔な身体と清潔な精神の妥協なのであろうか。イギリスの絞首人アルバート・ピエールポイントやガスによる死刑を九〇回執り行なったサン・クェンティンの看守クリントン・ダフィは自伝の中で死刑反対を唱えているという。ニューヨークの死刑執行吏ロバート・エリオットも退職後死刑廃止派になった。インスティテューションの学は、時に政治的判断を我々に迫る。 (O)
1──ポーツマス港に繋留された牢獄船
2──ロイヒター社製電気椅子
3──致死薬注射装置(同上)
4──致死薬のセット(同上)
最新の処刑法は、キリスト教的な色彩が濃い映画『デッドマン・ウォーキング』(一九九五)の最後において、その映像を見ることができる。ところでコンピュータにより「その記録はメモリから抹消される」とは、何ともナチスの行為を想起させるワン・フレーズではないか。ナチスはユダヤ人の処刑を都市から隔離するために、機能的な死者の生産工場に次々と送り、後にその死の痕跡すらも徹底して消去しようと努めていたからだ。またそのおぞましさゆえに、「あれを言葉にすることはできません」し、想像も理解も不可能であると、C・ランズマン監督の『ショアー』において、ある証言者は語っていた。が、いつも他者の処刑は社会の隠部で行なわれていたわけではない。中世の公開処刑は、K・フォレット『大聖堂』(一九八九)の冒頭でも描かれていたように、市民が集まる見世物としての絞首刑だったし、フランス革命のギロチンではいわばスペクタクルとしての処刑が実行されていた(現在でもアメリカの死刑賛成論者たちは、それが見えなくとも、刑務所の前で執行のカウントダウンを聞いて騒いでいる)。とすれば、もはや死刑はスペクタクル化されないからこそ、残酷ショー的な装置よりも目的を着実に遂行する清潔な装置の方がふさわしいといえよう。かくして近代化が進むほど、均質な社会を維持するために、他者は不可視な施設に収容されることになろう(未来においても犯罪者たちは、『エスケイプ・フロム・LA』のように、地震で大陸から切り離されたLAへ島流しになったり、『エイリアン3』のように、よその惑星に流刑されてしまうのだろうか)。
ところで、死刑囚という絶対的な他者と精神障害者の社会的な位置づけは、ときに悲劇的な交差をする。あのナチスがユダヤ人よりも先に手をかけたのは、ほかでもない精神障害者だった。一九三九年以降、役に立たないとされた国内ドイツ人の患者に対して、薬物注射や餓死による安楽死を医者が実施し、途中で取り止めになったとはいえ、七万五千人の命が奪われたという。それほどに社会は他者としての精神病理と分け隔てられているのか。その越えられない境界線を逆手にとって映画化したのが、岩井俊二の『Picnic』(一九九四)だろう。ここでは三人の患者が精神病院の塀の上を世界の果てまで歩く(壁の上にいる限り、脱走ではない)。線上の物語。だが、夢野久作の迷宮的な小説『ドグラ・マグラ』(一九三五)では、その詳細を明らかにしてないけれども、「狂人の解放治療」なる不思議な方法が提唱されていた。隔離も拘束もされない患者たち。結局、それは観察のための箱庭でしかなかったかもしれないが、小説内の博士は、誰もが狂気を抱えており「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」がゆえに、「狂人の解放治療」は斬新奇抜なものではないとも主張している。ともあれ、夢野が描くのは、狂人たちのユートピアだ。いや、フーコーにならって、ヘテロトピアというべきか。そこでは次なる大洪水が訪れるとき、ノアの箱船は阿呆船のようになってしまうだろう。 (I)
参考文献
ジョン・ハワード『一八世紀ヨーロツパ監獄事情』(川北稔・森本真美訳、岩波文庫、一九九四年)。
重松一義編『東邦彦の行刑思想』(プレス東京、一九七三年)。United States Bureau of Prisons, Handbook of Correctional Institution Design and Construction, 1949.
阿部謹也『刑吏の社会史』(中公新書、一九七八年)。
スティーブン・トロンブレイ『死刑産業──アメリカ死刑執行マニュアル』(藤田真利子訳、作品社、一九九七年)。
拙稿(大川)「監獄の建築史」(千葉大学卒業論文、一九九〇年)。