建築と都市の遭遇した最大の危機は、大規模な破壊と急ごしらえの建設を繰り返し、イデオロギーの存立基盤さえも崖淵に追いやった今世紀を措いて他に考えられない。表面上の徹底したコンストラクトと内面の空洞化が鮮やかなコントラストを開示している。批評の言説はつとに、この点に関して警告を発して来たが、建築の批評そのものが根底的なクライシスを迎えていたことに自覚的だったとは言い難い。あいも変わらず机上の思索家は、別天地から世界の動向に目を凝らしてきたのである。
批評家の三種の神器とは歴史、イデオロギー、そして
彼は一九三五年にローマで生まれ、一九九四年に惜しまれつつも亡くなってしまったから、今や円熟期を迎えている建築家アルド・ロッシより四歳年下ということになる。彼らはファシズムの時代相のもとに生まれ、物心がついたのが戦後という世代で、奇妙な巡り合わせによって六〇年代に相次いでヴェネツィアの建築大学に拠って活動することになるのだが、いわゆる「赤い糸」で結ばれた盟友と言うことができる。というのも彼らは互いにネオ・マルクシストとして思想的な基盤を分かち合っていたから。
タフーリはローマ大学在学中に決定的な人物と出会っている。それは戦争前後のイタリア美術史を牽引した、ローマ大学教授にして後のローマ市長ジュリオ・カルロ・アルガンである。アルガンはやはり共産党に属していたが、歴史学と審美論のアプリオリな結合から美術史を解き放ち、作家や時代(そして作品そのもの)に課せられた表現上のプロブレマティックを俎上にのせることによって、フランスのA・シャステルと並んで、昨今の世界的な美術史の隆盛を準備した一人と言える。
タフーリは後続する部隊として、アルガンの論法を建築の領野に適用・発展させると共に、師の方法に対して「余りに明晰に過ぎる」と敬意に満ちた批判を加えることも忘れない。つまりタフーリはアルガンの歴史意識が、とくに近代を扱う際には、基本的にブルジョワジーが「計画というイデオロギー」に依拠して自らの運命的な崩壊過程を堰止めようとしたムーブメントの外部的な論評者として、むしろ貴族的な立場に止まらざるを得なかったことを惜しむのである。知的エリートとしての自身に懐疑的な者にとって、歴史にしろ作品にしろ最終的にクリアーになることはない。ここでは「美術史や文化史」での批評のエクリチュールがヨーロッパ社会に本源的な垂直のヒエラルキーを前提とする限り、結局のところおなじみの地点で身動きがとれなくなる事実が正確に意識されている。
しかしイデオロギーの急進性を維持しつつ徹底的な自己検証を加えるがごときタフーリ的方法は、明らかに悲劇的な結末を予感させずにはいない。アルガンの〈否定の弁証法〉というダンディズムは、ヨーロッパの知識層に残された唯一の待避所であり、その最後の一線をこえることは、自動的に〈自己否定〉とならざるを得ない。「マルクス主義」が精神に及ぼす過酷な負荷とは、実はこの地点に見出され、マルクスの脳髄はそれ自身の活動の位置づけを不問に付すことによって、正統的な後継者に決定的なダメージを与え続けた。
しかし実際のところ、タフーリにとってそれ以外のどんな方法が残されていたと言うのか。現象や存在や構造をいかに緻密に語ってみても「言語と認識のユートピア」の域を出ないし、いずれ哲人や詩人の類いに編入される運命にある。タフーリがユニークだったのは自身の方法につきまとうディレンマに直面しながらも、「ブルジョワジーの命運」を破滅的な道行きとして先導しようとしたことで、「階級闘争や生産関係」を下敷きにした歴史記述の限界を、その批判者をはるかに超えた地点から証拠だてたからに他ならない。
タフーリのテクストは、そのほとんどが読むに値するが、特に奨められるのは先ず『SD』誌(7909)の「主体と仮面」という論考で、これはP・アイゼンマンが準備していたG・テラーニ論の序文となるはずだった。そこでは彼のある種の作品──リットリオ宮やカサ・デル・ファッショそしてダンテウム──を、近代イタリアの知的透明性がファシズムの誘惑の前に陥落したオブジェクトと見なすような観点から、自身のうちに臨界点を引き受けた不可能な方法上の闘争の一時的凍結、すなわちテラーニに賦課された不条理な空間の解法が時空を超えて私達に投げ返された瞬間──と読み換える演習が敢行されている。
しかしその論文の末尾では、例によって、こうした超話法──アイゼンマンによって遂行された、テラーニの文体の換喩法的再帰──が体制と制度を超越した知的ゲームという枠内でのみ成立する旨の宣託が、当のアイゼンマンや、その読者として登場するはずだった私達に向けて発せられる。この先取りされた「結論」に気押されたわけでもないだろうが、くだんのアイゼンマンのテラーニ論は、二〇年後の今日も日の目を見るに至っていない。こうした幻のプロジェクトを扱った幻の本に捧げられた幻の序文を書くにつけても、「攻撃的な先取」は徹底しており、逆説的に言えば、既に本文が書かれなくとも、そのエッセンスは予め喝破され書き上げる必要性さえ奪い取るのである。
次に「コルナーロとパラディオとカナル・グランデ」(『a+u』8107)では、本拠地ヴェネツィアと専門分野パラディオをめぐる論考ということで、意外なテーマ構成、史料考証の綿密さなどいずれをとっても独壇場で、この世界でも稀な「水文歴史地質学」に彩られた都市の将来構想をめぐり戦わされた議論の行方、そしてその政治的・社会的な含意、背後に横たわるイデオロギーが活写される。
都市の置かれた外交・内政上の課題、個々の建物やプロジェクトの位置づけ、人文主義者のヴィジョンや権力者の思惑など、読み進むにつれて一瞬一六世紀中頃のこの都市をめぐる論争の渦中に引きずりこまれたような錯覚に陥る。ここで展開された「堤防状の城壁」の建設計画や、サン・ジョルジォ島とサンマルコの中間に人工の丘を築き、その頂上にロッジアをつくる私案──などに触れると、ロッシが立案した八〇年のビエンナーレのためのゲートや「テアトロ・デル・モンド」などは、この論考から容易に派生するアイデアだったことが解る。
また「否定の弁証法」がそのまま止揚段階に突き進んだかに見える「悪しき建築家」、ピラネージ(『球と迷宮』所収、パルコ出版、一九九二年。『SD』(7708)の「G・B・ピラネージ──建築における否定のユートピア──」の改版だろう)を読まないことには、タフーリの真価はとうてい掴めないだろう。ヴェネツィアで生まれ、そこでヴェドゥータ画法を修めた後にローマに転じ、そこで活動して亡くなったピラネージは、丁度タフーリと逆のコースをたどったわけだが、ルネッサンス以来の透視画法(幾何学)にトートロジカルな亀裂を導入し、遂にはその方法自体を空洞化させると共に、近世の建築が内包した矛盾律の最初の体現者という特別の位置を与えられる。
古代ローマの遺構を「科学的な眼差し」のもとに再構成する一方で、想像力の命ずるままに〈空間性の拷問シーン〉(牢獄シリーズ)や〈古代ローマの理念的モデル〉(カンプス・マルティウス)を「創案」した彼は、空間の「引き裂かれた弁証法」を銅版画に封じ込めた。通常こうしたオペレーションは、微細な傷痕だけをよすがにアカデミックな歴史家たちによって埋め戻され均質化されてしまうが、タフーリの方法は「地の考古学」の名のもとにルインの秘蹟を發き、白日のもとに晒し、新しい地平に引き出し、別の文脈に転移させる。このケースではすでにその「予備的演習」がロシアの映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインによって遂行されていた。この重ね合わされたテクストに施された「モンタージュ」操作によって彼のピラネージ論は構築的な歴史批評、言い換えれば未来への評言という地平に到達した。
批評の遂行を単に「歴史というテクストの改訂作業」と見なすのではなく、社会的関係の再構築へ向けた「既成言語(観念)の脱構築」と捉える立場は、特定の時代を扱った場合に至高の成果をもたらしたように思われる。つまりルネッサンス以降啓豪主義の時代までは、知的生産が時代をリードすることが可能だった稀な時代相で、一九世紀の半ばつまり新古典主義が「生産的」と言うよりも「流通的」になった段階で、マルクス的な構図に依拠する絶対的な条件が生まれたと思われるからだ。
『球と迷宮』でも扱われている今世紀初頭のアヴァンギャルド達のケース・スタディになると、「生産関係」の問題を象徴的な問題として捉える──『コルナーロとパラディオ……』で典型的に成功しているような次元では済まなくなり、実態的な分析が不可欠となるのだが、逆に文化的ムーブメントはそうした「下部構造」を機械的に反映しているわけでも何でもない。彼自身が言うように、方法はその都度開発されねばならない。ある意味では建築などまだしも旧式のラインで解読可能な最後のジャンルだったはずで、モダニズムに捧げられた同志的で最も辛辣な批評を最後に、タフーリのテクストはそのまま弁証法的批評の墓碑銘となり、本人ともども干潟の彼方へと水葬に付された。
タフーリは歴史(アカデミズム)、イデオロギー(マルクス主義)、言語(ポスト構造主義)というトロイカを疾駆して批評の極北へと旅立った。そこに近代イタリアの不吉な通奏低昔、つまり未来主義とファシズムのエコーを聞きとることさえ可能である。イタリアの先進的な知性はイタリア的現実を捨象する以外に自身を維持できず、アルド・ロッシのような手なれた「架橋」──あの錬金術的な線と色彩、そして「類推」能力の発動によって──は完全な例外である。しかるにタフーリの言説は、とくに後期において完璧に世界ヘと開かれていたのだが、それが発せられた対象はあくまでイタリアの読者──偏向した知的マーケットが今なお残存している──であったと思われる。これは想像するだにいたましい現実なのだが、彼は流刑にも似た形で配された非現実的な場所──原則的に新しい建築は建てられない──からイタリア全土に散開した不活性な聞き手に向って、望みなき知的決起を説き続けた。
タフーリのテクストに死の影がまとわりついていたのは、栄光のヴェネツィアがその実死せる都市──世界中からやって来る観光客はヴェネツィアのミイラを目撃して喜悦の声をあげる──である事実によるのみではなく、絶望的な方法を彼が意識的に選び取ったことに起因する。恐らく彼は今世紀での「批評の死」を直観していた。それでは批評対象(建築・都市)の死滅と共に批評も心中する以外に道はないのだろうか。しかしその結論もオプティミスティックな弁証法と言うものであり、安易に過ぎる。彼の残した幾つかのテクストを味読してみれば解るのだが、『建築神話の崩壊』(彰国社、一九八一年)のような「苦悩に満ちた自己撞着」、──つまり過剰な弁証法との格闘のさなかから、先に例示した不滅の論考──止揚された弁証法──が残置されたのであり、歴史、イデオロギー、言語の失効に立ち向かい、批評の限界を見定めることのみが私達に残された課題なのだ。
(おおしま てつぞう/建築批評)
1──セルゲイ・エイゼンシュテイン「悪人の拷問のための、足場のある暗い牢獄」の図解スケッチ。『建築と透視画、第一部』(ローマ、1743)より
2──セルゲイ・エイゼンシュテイン「悪人の拷問のための、足場のある暗い牢獄」の分析のためのスケッチ