アルゴリズムとは時系列を伴った決定ルールの連なりである。このアルゴリズムによって私たちはまったく新しい空間構成の方法論を手にすることができる。それは建築の構成を巡る認識論の転換を促すとともに、建築を規定している幾何学の方法論の刷新をもたらすだろう。ここで考察されるのはそのためのささやかな準備作業としての論考である。
建築家・原広司は、現代までの空間は二つしか存在していないと語っている。ひとつはアリストテレス型の求心空間、もうひとつはミース・ファン・デル・ローエの提出した均質空間である。前者はアリストテレスの宇宙観と場所論に基づいており、大宇宙の中心としての地球の位置という概念に依拠する求心性の概念と明確な境界を持つ空間概念の類型は中世のトマス・アクィナスらのスコラ哲学に継承されるのみならず、ルネサンス初期の人文主義時代の建築の基本的な構成の論理へと敷衍されてゆく。求心空間の概念は中世のカテドラルの空間構成から盛期ルネッサンスの別荘建築群を経由し、古典主義時代におけるパラディアニズムの空間構成と近世のバロック都市の構成における潜在的軸性へと展開してゆき、中世から近世を経た以後もJ・サマーソンらの対象とした新古典主義時代の建築に至るまで連綿と流れる建築史の巨大な水脈を形成している事実は改めて指摘するまでもないだろう。
一方でこのような求心空間を完膚なきまでに瓦解させたのが、原の語るようにミースの均質空間の概念であると言ってよい。無限に展開するデカルトグリッドを敷衍した、境界なき均質空間の概念は、まさしくアリストテレス型の求心空間を反転させたものとして位置づけられる。おそらくはプラトンとアリストテレスに端を発する西欧形而上学の歴史が二〇世紀の初頭においてハイデガーの『存在と時間』によって完全に解体させられたように、歴史的に綿々と連なる求心空間という巨大な建築的水脈はミースの均質空間の概念で終止符を打たれたのだった。いみじくもハイデガーは“存在(Sein)”という概念で無限に広がる外部性を提示し、その徹頭徹尾広大無辺の領域に対して踏み出してゆくことを“存在投企(Entwurf)”と呼び、求心的な自己である“現存在(Da-Sein)”を徹底的に撹乱することを称揚したが、仮にも求心空間を現存在と捉えるならば、それは境界なき外部、つまりは均質空間へと躊躇せず踏み出すことへの強靭な呼びかけであったとも言えるだろう。現に二〇世紀は事実上ミースの均質空間の勝利を記述するだろう。それがたとえ一時的にポストモダニズムの叛逆を喚起したにせよ、劇的なグローバル化が進む今日、私たちがその社会において経済原理以上の価値計測の論理をまだ有していないことは、均質空間が私たちの空間の論理として全世界を覆っている事実を如実に示すものである。
この二つの空間概念の間に横断線を引くこと、あるいはまったく別の位相を提示すること。原広司はその概念としてディスクリート(離散位相)に基づく空間を提起する。それは記号が距離関係を有さずに抽象的な関係性を動的に保つ空間とでも説明できるだろう。そのような空間のあり方はすでにライプニッツらが位相空間論の原イメージとして提出している世界像である。しかしそれを物質的に空間的に表象するのは困難を伴う。なぜなら現実は位相空間とは異なるからである。原自身そのディスクリートなる空間構成はイメージとして提示するものの、まだ実作として明確な姿を結実させてはいない。
私はここで、ディスクリートとは別の概念としてアルゴリズム的空間構成というものを提示してみたいと思う。アリストテレス的な求心空間でもなく、ミース的な均質空間でもなく、その両者を統合するものとして、あるいはその両者とまったく異なるものとして。
その鍵となるのが情報理論におけるアルゴリズムの概念である。アルゴリズムとは時系列を伴ったルールの連なりであることは先に述べた。この「時系列を伴った決定ルール」という概念を用いて、私たちはそもそもアリストテレスがその空間概念の基礎に据えているだろうと推測される形相(エイドス)の概念に分け入ることになる。広く知られるように、アリストテレスはプラトンのイデア概念を形相として概念構成を発展させ、プラトンにおいては現実界を超えたイデア的な実体を、現実態のなかに潜む抽象的な実体として捉えた。古代ギリシア哲学においてはこの形相こそが万物の実体とされ、それを肉付けするものとして質料(ヒューレー)が存在する。形相と質料は共に一体となり目に見える現実の様態を生み出す。この形相の概念は建築においては何よりもまず幾何学を指し示す。西欧形而上学においてイデアや形相として提示され続けてきたものは、美学の世界においては絶えず幾何学的表象を伴ってきた。プラトンの宇宙論が集成された『ティマイオス』において、理念(イデア)的美の代表として純粋な幾何学的形態(ストイケア)の存在が語られていることはよく知られている。つまり幾何学こそは美(翻って言えばイデア)を象徴するものであり、イデア概念を発展させた形相概念の建築的形態は建築に内在する純粋な幾何学それ自体である。
ここで、この形相それ自体をアルゴリズムとして捉え直すことができないだろうか。さらにはその場合に永遠不滅で固定的なものとされる形相を実際には絶えず変化を遂げる時系列を内包した決定ルールの連なりの一断面として見ることが可能なのではないか。この場合、幾何学とは不断に動き続けるもの、絶えざる生成のプロセスの時間的に切り落とされた断面であり、さらには時系列自体がその断面に内包されていると考えることもできる。いわばあらゆる多様な他の可能性が内包された幾何学。絶えず静止することなく、つねに他の可能性を呼び込みながら喚起しつつ生成してゆくものとしての幾何学。形相をアルゴリズムとして捉える視点はそのような幾何学のあり方の大胆な変更を促すことになるだろう。
絶えず揺らめいては成長を遂げてゆく時系列を内包した幾何学。それは時系列を伴ったプロセスそれ自体を形相とみなし、可視的な姿の本質として位置づける立場でもある。それは同時にひとつの幾何学をそのほかのありえる幾何学の複雑に輻輳した様態の一側面として捉える立場を喚起するし、同時に複数の時間と場所を知覚する幾何学の様態を生み出す立場も導かれるだろう。さらには時間的な成長を伴う幾何学という立場も容易に導かれる。このような認識の転換からまったく新しい建築の構成の論理を生み出すことができるのではないか。
最後に議論を思想史的位相へと転換したい。安らかに静止した形相を元に空間概念を生み出した場合には求心的な空間が生まれ、それを否定するならば均質空間が生み出されていたという歴史的経緯を紐解くならば、時系列を伴った形相という概念のありように私たちはアリストテレス以後の形而上学でもなく、またハイデガーのニヒリズムでもないまったく新しい哲学思想が生み出される契機を見出すことが可能ではないのか。建築の構成の論理の転換とともに、実のところ私たちは大きな時代の認識の転換の地点へとさしかかっているのかもしれない。