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東京、その解体と建設 | 北小路隆志
The Deconstruction and Construction of Tokyo | Kitakoji Takashi
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?, 2007年06月発行) pp.102-110

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デヴィッド・ハーヴェイは、第二帝政期からパリ・コミューンに至る時期を中心としたパリについての著書『パリ──モダニティの首都』の序章で、「過去との根本的断絶を構成するもの」としてモダニティを捉える「神話」について改めて僕らの注意を喚起している。「この断絶はおそらく、過去に準拠せず、あるいはもし過去が障碍となるならそれを抹消することで、新たなものを刻印できるタブラ・ラサ(白紙状態)として世界を見ることを可能にするある秩序に由来する」。ここでの記述は、第二帝政下にオスマンによって実行に移されたパリの大がかりな──輝かしい「モダニティの首都」に向けての──改造を主に念頭に置いており、ハーヴェイはそうした「根本的断絶」などありえもしない「観念」であるとしたうえで、オスマンのパリ改造もまた少なくともある程度まではそれ以前から潜在していた発想や変化の継承であり、むしろオスマン自身、あたかもそこに「根本的断絶」があったかのように事実を粉飾し、自ら「神話」を演出する傾向にあったと指摘している。

彼は、過去の出来事とは無関係であること、つまり自分もルイ・ナポレオンも直接の過去の思考や実践の恩恵を受けていないことを示すために、自分と皇帝の周囲に根本的断絶という神話──今日まで残存している神話──をうち立てる必要があった。この否定は二重の務めを果たした。それは(いかなる体制にも不可欠な)創造神話を創出し、帝政という慈悲に富む独裁主義に取って代わるべき体制は存在しないという考えを揺るぎないものにした。一八三〇年から一八四〇年の共和主義者、民主主義者、社会主義者の提案や計画は実行されず、考察に値しないものにした。オスマンは唯一の実現可能な解決を工夫した。


モダニティとは「創造的破壊」である、あるいは少なくともそうしたものとして信じられている……。もちろん、こうしたハーヴェイによる指摘自体は目新しいものではなく、だからこそそれは「神話」足り得るのだが、映画に映し出された東京をめぐる以下のささやかな記述を開始するにあたって、僕らは改めてこの「神話」に立ち帰り、再吟味する必要性に駆られる。第二帝政期やパリ・コミューンの時代にはまだ存在しなかったメディアである映画は、まさにモダニティを体現するものとして登場し、東京をあたかも「モダニティの首都」であるかのように映し出すことを己の使命としたかのようだからだ。そしてそのためにはまず「創造的破壊」が、東京をタブラ・ラサへと暴力的に還元してしまう事態が要請される。

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パリのモダニティ都市への移行を促す「創造的破壊」の役割を一八四八年革命が果たしたとすれば、東京でのそれは一九二三年九月一日に起こった関東大震災であった。困難な状況にもかかわらず何人もの映画人がこの未曾有の災害に見舞われた東京(及び横浜)での撮影を敢行し、多くの場合断片的に僕らのもとに残されるばかりとはいえ、それら一連の関東大震災をめぐる映像は、それまで「出来ごと写真」や「実写もの」と呼ばれていたドキュメンタリー映画への人々の関心や需要を飛躍的に高めるに十分であったこと、あるいは権力側がその宣伝的、啓蒙的価値を強く認識するきっかけにもなったことを即座に納得させるだけの強度を備えている。それ以前に東京を捉えた動く映像が皆無だったわけではない。しかし僕らは、圧倒的な破壊に直面した東京の断片的な映像群に接しながら、このとき東京が初めてその裸形の相貌を映画カメラの前で顕わにしたと感じる。映画はまさに関東大震災を介して生の東京と出会い、東京はその灰燼と帰した姿をもって映画と向かい合うことになるのだ。
かつての威風堂々とした佇まいから見る影もなく崩壊し、焼け落ちた西洋風の建築群やその周囲に広がる荒れ地と化した街並み。多くの場合、意外に落ちついた表情で家財道具を積み上げた大八車を引いたり、自転車や徒歩で通りを避難して回る罹災者の群れ。彼らの背後ではなおも容赦なく煙が高々と吹き上がり、ところどころ炎が燃え盛っている。広い道路全体を停止した市電も交えて埋め尽くす人ごみ。現状をとどめぬほど黒焦げになったまま放置された死体の山や隅田川を行く船上から撮影された沿岸の廃墟や川に浮かぶいくつもの死体。上野公園や皇居前広場などに作られたテントやバラックで当座の雨露を凌ぐ人々は、それでもやがて日常性のリズムを取り戻し、物の売買さえ始めようとするだろう……。こうした尋常ならざる光景を刻み込んだフィルム群は、東京近辺以外の観客にその惨状を伝えるべく撮影されたこともあって皮肉にも観光名所案内めいた構成をとっており、皇居、丸の内のビル街、日本橋や銀座界隈、上野、焼け落ちた「十二階」の根元だけが残り、観音堂前に罹災民が集まる浅草、両国川沿いに立つ国技館……といった“名所”の現状を見て回り、それらを点描することで東京が直面する危機を浮かび上がらせようとする。しかし、それらのフィルムはいかなる“観光”として観客らの瞳に受けとめられることになったのか?
東京・横浜を中心に多大な被害をもたらした関東大震災が、ヨーロッパにおける第一次世界大戦に匹敵するものであったとする指摘はこれまで繰り返しなされてきているし、その影響は単に物理的な破壊にとどまらず、既成の秩序や文化をも深刻に揺るがし、いわば過去からの「根本的断絶」を引き起こすものであったともされる。要は、戦争や革命ではなく未曾有の天災としてあったこの「根本的断絶」をいかにして「創造的破壊」へと転化するか……であって、それはとりもなおさず震災後の東京でただちに“復興”に着手した為政者たちにとっての課題であった。周知のように、その指揮に当たったのは、帝都復興院の総裁に就任した後藤新平であり、帝都を震災以前に戻す“復旧”ではなく、これを機会にあくまでも未来を見据えた“復興”を実現させねばならない……とするのが後藤とその腹心らの基本的なモチーフであった。

東京は帝国の首都にして、国家政治の中心、国民文化の淵源たり。したがって、この復興はいたずらに一都市の形状回復の問題に非ずして、実に帝国の発展、国民生活の根基を形勢するにあり。されば、今次の震災は帝都を化して焦土となし、その被害言うに忍びざるものありといえども、理想的帝都建設の為の絶好の機会なり。この機会に際し、よろしく一大英断をもって帝都建設の大策を確立し、これが実現を期せざるべからず。躊躇逡巡、この機会を逸せんか、国家永遠の悔を胎するにいたるべし。よってここに臨時帝都復興調査会を設け、帝都復興の最高政策を審議決定せんとす。


後藤が早くも六日午前の閣議に提案した「帝都復興の儀」からの引用である。壊滅的な被害を東京にもたらした震災を、前近代的な要素を追い払っての「理想的帝都建設の為の絶好の機会」へと転じるべきだとの主張が直截に表明されている。都市計画を志向する人々にとって震災とは、「創造的破壊」であり、また「新たなものを刻印できるタブラ・ラサとして世界を見ることを可能にする」ための機会であるべきなのだ。
映画に戻ろう。震災直後の東京及び横浜を捉える一連のフィルム群を挟んでその前後に二本の注目すべき映画が存在する。一本は『飛行船による震災前の京浜』(一九二三)、もう一本は帝都復興計画が一応の完結を見た一九三〇年に製作された『帝都復興』である。前者はタイトルから窺えるように、むろんその後に壊滅が待ち受けていることなど予想だにせず飛行船上のカメラで眼下に広がる京浜地方の光景を撮影した作品である。この一〇分ほどのフィルムでは本編開始以前に仰々しいまでの皇室に関わる字幕が流れ、「賜  御天覧  天皇陛下  皇后陛下」の文字に始まり「賜  御台覧  摂政宮殿下」さらに「賜  山階宮殿下御買上之光栄」まで羅列される。ここでの「天皇陛下」とは大正天皇であり、「摂政宮殿下」は昭和天皇を指す。震災に関わるフィルムに映し出されるのはつねに「摂政宮殿下」であり、関東大震災こそがすでに国民の前から姿を消していた大正天皇から昭和天皇ヘの代変わりを確かに印象づけるかのようだ。巨大な格納庫から飛行船が大人数の水兵らしき若者の手で引きずり出される光景から本編は始まる。飛行船は地上の若者らが持つロープを離れ、若者らの顔を見下ろしながら次第に高度を上げ、撮影旅行に出発する。テロップの説明によるとその旅は、追浜を出発して江ノ島、さらに横浜を経由して東京、そこで各地を点描した後、追浜に戻るコースを取る。はるか地上に黒々とした巨大な影を落としながら、飛行船は後に震災で壊滅する横浜や東京の下町の光景を空中撮影している。むろん、映し出される光景を細部まで確認することなどできないが、ここで現前するのは文字通り都市を鳥瞰する視線である。都市を鳥瞰する視線は、都市をその全体として見渡す視角の実現であり、こうした映像によって震災直前の東京や横浜が捉えられていたことが象徴的に思えてくる。このとき都市はその全体として把握されるべき「都市計画」の対象となるが、そればかりでなく無防備にその全貌を曝け出すことで、やがて空からの爆撃の対象となることを予感させるからだ。それにしても、震災直後に撮られた映像群が、たとえやや高台からのパン撮影を基調とするものも目立つとはいえ、基本的に壊滅状態と化し、混乱の最中にあった都市の只中を移動し、撮影するものであるほかなかったことを思い起こすなら、本作との対照性の大きさに驚かされる。そして、震災を「創造的破壊」に転化すべく、傷だらけの都市をタブラ・ラサと見なす都市計画者らの試みの完成を記念する『帝都復興』もまた、都市を全体として俯瞰する視線を継承するものであらねばならなかった。
この長篇映画は「震火災篇」で幕を開ける。地球儀上の日本列島を映し、翻る日章旗、皇居二重橋、富士山のシルエット、桜から靖国神社へと連なる冒頭部分から、帝都一帯が受けた試練を日本全体のそれへと移し変える意図を感じる。やがて運命の時、一九二三年九月一日午前一一時五八分が訪れる。この時刻で動きを止めた時計の映像は震災直後に撮られたフィルム群にも象徴性を帯びて頻繁に取り入れられるのだが、松竹が撮影に当たった『帝都復興』では、俳優を使ってのフィクション(特撮?)らしき再現場面もところどころ挿入され、その最たるものとして地震が起こった瞬間の光景を挙げることができる。震災直後に危険を省みず東京や横浜の街に飛び出したカメラマンにしても、地震が起こったその瞬間を撮ることはできなかった。彼らが映像として残すのは、当然のことながら地震の後の光景であり、たとえ激しい火事がそこで巻き起こり、被害を広げつつあるとしても、あくまでも地震によってもたされた破壊の爪跡のみを僕らは目撃できる。地震が起こった瞬間は画面に定着不可能な映像なのだ。しかしその不可能な映像が、再現劇として『帝都復興』において可視化され、地震直後の記録映像とともに「震火災編」を構成するとき、局所的に分断された体験としてある震災がひとつの全体性として物語化されようとするだろう。ただし、幸か不幸かここでの消防隊の出動光景なども交えた再現劇は、そうした全体化が十全に達成されるとは俄かに信じがたいほど陳腐なものにすぎないのだが……。
続く「計画篇」では、まず地震にともなう大火による被害がいかに甚大なものであったかが、鳥瞰の視線によって可能となる東京の簡略化された地図を用いて世界各地の大火と比較しつつ説明される。「かくの如く有史以来世界にその類を見ない大火であった」とのテロップの後に、二重橋の映像を背景に長々と画面に映し出される「帝都復興の大詔」。およそ前述の後藤新平の考えを反映させた内容のその「大詔」は、震災後の人心の混乱や遷都論の加熱化を抑えるべく九月一二日に出されたものだが、帝都復興を支えたものとして事後的に尊ばれる。『帝都復興』に後で付け足されたとも思われる「御巡幸篇」「完成式典篇」をも見るにつけ、なるほど「帝政という慈悲に富む独裁主義に取って代わるべき体制は存在しない」かのようだ……。この篇では以後も地図を使って「防災地区の設定」や「地域制」(「住居地域」、「商業地域」、「工業地域」の区分)といった超越的な鳥瞰の視線による東京の線引き作業が説明され、「かくて帝都は甦る」とのテロップと共に続く「事業篇」へと移行する。この篇では、区画整理とそれに伴う家屋移転などの具体的な復興事業のプロセスが、やはり再現劇も交えて紹介されるのだが、実際には紆余曲折を伴い、厳しい反対にもあったこの事業が、関係者の積極的な協力に恵まれつつがなく進んだかのように演出されている。震災から復興への道筋は、その過程で築かれた真新しい昭和通りのように整然と一直線に進むものとして振り返られるのだ。
この篇の後半から映画全体のトーンは次第に変調を遂げていく。破壊から建設へ、あるいは非常事態から日常的な営みの回復へ……。しかもようやく人々の手に取り戻された日常性は、もはや以前の手垢に塗れた前近代性を引きずる空間においてではなく、きらびやかでダイナミックなモダン都市空間を舞台に営まれることになるだろう。「復興される市民の一日」と「日曜日」の二本立てで構成された「完成篇」にかけて、映画のテンポは早まり、会社に出かけるサラリーマンと家事や買い物にいそしむ妻、そして学校に向かう息子という三人の登場人物による活動を目まぐるしく切り換わる画像を介して同時進行的に追い、都市を再建する機械のダイナミックなリズムや鼓動がその全体を支えている。映画としての評価は措くとしても、革命後のロシアで作られた『カメラを持った男』などの一連の映画や第一次大戦後のドイツの荒廃から生まれたルットマンの『伯林  大都会交響楽』に似た、あるいはそれらを模倣した機械の肯定的なリズムへの讃歌がこの映画の後半で響き渡り、「完成篇」の最後ではやはり家族や友人に見守られながら飛び立つ飛行機から鳥瞰される都市の光景が映し出されるだろう……。
『帝都復興』がある種の技術的達成を背景にした野心的な映画であることは認められていい。ここでは、断片的なショットの巧みなモンタージュを介して、災害から立ち直り、真新しいモダン都市として再生した東京を舞台としたモダンなライフ・スタイルの有り様が再現されている。しかし問題として残るのは、こうした〈モンタージュ都市〉の立ち上げが前半部分で描かれた都市計画的な鳥瞰の視線に基づく都市の復興といかなる関係を取り結ぶかであろう。『帝都復興』は二つの要素に引き裂かれた二重人格的な映画なのか?  次のことだけは指摘しておこう。この映画で採用されるショットの断片化は、たとえば震災直後の東京や横浜を彷徨うカメラマンらによって撮影された映像群がそうであるほかなかった断片性とまったく異質のものである。壊滅した都市を歩くカメラマンたちにとって、目前に広がる光景はいわば遠近法の崩壊としてあったはずだ。そこに厳然とあったはずの建物や街が解体し、燃え広がる炎に焼き尽くされる光景は、それまで見慣れてきた既知の光景の壊滅であり、彼らは不断の遠近法の崩れにカメラを向けるほかない。そうした遠近法の崩れを体現するがゆえに彼らの持ち帰ったフィルムは、広く知られた名所を点描して回ってみたところで都市の全体像を築き上げることができないのだ。他方、『帝都復興』後半における断片化したショットは、あらかじめ全体像へと収斂されることを念頭に砕かれ、配置されたレンガのようなもので、それらはモンタージュを通してひとつの建造物=全体性へと再結集されるべきものとしてある。おそらくここでさまざまな技巧を凝らすことで過去からの「根本的断絶」を謳いあげ、その復興を高らかに祝福される「帝都」とは、そうした「創造的破壊」によってのみスクリーンに再現可能な〈モンタージュ都市〉でしかなかったのだろう。実際、後半部分で描かれる「現代」は、「創造的破壊」の試練を経て初めて実現可能であるかのようだ。そしてその「帝都」は、爆撃機のそれへも容易に転化可能な鳥瞰の視線にさらされつつ、次なる壊滅的な崩壊に向けて確実に歩みを進めることになる。

1──『帝都復興』より ©東京国立近代美術館フィルムセンター

1──『帝都復興』より
©東京国立近代美術館フィルムセンター

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土本典昭監督によるドキュメンタリー作品『ドキュメント  路上』(一九六四)は「この映画は日々続けられている交通戦争の一断面を描いたものである。──一九六四年東京──」とのテロップを冒頭に置く。『帝都復興』から三四年ほどが経過し、第二次世界大戦での破壊を経た東京は、今また新たな戦争に直面しているようだ。簡単に経緯を振り返っておこう。東京は一九四五年三月の大空襲によって再び灰燼に帰し、戦後の戦災復興計画も諸々の事情から期待された成果をあげられずに宙吊りとになる。その一方で、一九五〇年代以降の人口増加や都市の膨張が東京のインフラ整備の遅れを決定的なものにし、とりわけやはり五〇年代に入って自動車保有台数が急増したことから旧来の東京の都市構造では対処不可能となり、“自動車社会”への移行に則した道路中心のインフラ整備が急務となる。このまま放置すると一九六五(昭和四〇)年には東京の交通がマヒ状態に陥るとの“交通危機説”も五〇年代半ばに持ち上がるなか、一九六四年の開催が決定した東京オリンピックが、放置されままだった東京の戦災復興計画をいわば力ずくで推し進め、やや歪なかたちであれ完成させることになる。オリンピック前年の一九六三年末に撮影された『ドキュメント  路上』は、溢れかえる自動車の群れで飽和状態に陥った東京の街路を走るタクシー運転手を主人公に急ピッチで解体=建設が進む当時の東京の「一断面」を鈴木達夫のアクロバティックなカメラワークを介して浮かび上がらせる映画である。
疾走する自動車からの視線が、まだ夜も明けやらぬ早朝の丸の内オフィス街などを通過する光景から映画は始まる。人気もなく、静寂に包まれた東京。やがて原宿、青山周辺に位置するらしい会社にタクシーは帰還、事務所内ではその夜に獲得された金銭の勘定が行なわれ、その音を拾うことからそれまで沈黙を守っていた映画に音声が導入される。その場でも話題に上るのだが、この映画で繰り返し扱われるのは、職業柄どうしてもスピードを出しがちになるタクシー運転手が直面するスピード違反とそれに伴う罰金や免許停止といった警察の取り締りへの怒りや不安である。映画の多くが自動車に乗る運転手の目線から眺められる。建設ラッシュに沸く当時の東京の道路を走る大型トラックの群れ。建設中の首都高速道路高架下の道路を埋める自動車、工事の過程で仮に道路に敷かれた鉄板や木の板を、あるいはひどいでこぼこ状態を呈する道路を車が走り抜ける。さらに街の至るところで散見される建築現場……。東京は破壊と建設が同時進行的に展開される不安定な場所としてある。行き交う夥しい数の車を心細げに見やり、その波を掻い潜るように道路を横断する歩行者の姿が何度かインサートされ、もはや人間ではなく自動車こそが東京の主役に取って代わったかのようだ。むろん歩行者は単に脇役へと押しやられただけではない。そうした都市の現状が「交通戦争」と呼ばれる以上、そこには死の影がつきまとう。たとえば、夜の街のネオンに流れるタクシーにはねられた少女の死と母親の重体を伝えるニュース。あるいは、交通安全運動の一環として街角では悲惨な交通事故現場の写真と死亡事故発生地点に鋲を差した東京の地図が展示されている。地図を全体として映すことに興味などなく、鋲そのものの物質性に触れようとするかのように近寄るカメラ。溢れんばかりに密生した鋲によって地図は毒々しい黒さで覆われ、なるほど東京は無数の鋲に突き刺された傷だらけの街としてある。

出発するということは失うということでもある。出発するとき、われわれはホームや港を放棄するばかりではなく、平穏さも放棄して、速度の暴力に我が身をゆだねる。速度とは乗り物がうみだすおもいもかけぬ暴力であり、それは通過するすべての場所からわれわれを乱暴にひきはなす。……速度は暴力をともなうから、目的地であると同時に運命ともなる。われわれがどこにも行かない。われわれはただ出発し、速度の空虚を獲得して、いきた現実からひきはなされることに満足しているだけなのである。


僕らは、こうしたポール・ヴィリリオの指摘を『ドキュメント  路上』で描かれる世界の素描として、あるいはその分析の「出発」として読むことができる。速度とは暴力である……これは本作の基調となる主題なのだ。至るところで垣間見える事故の予兆や脅えた表情を見せる歩行者、そしてトラック運転手とのあいだで持ち上がる喧嘩……。タクシー運転手は毎日会社を出発しながら「どこにも行かない」。とりわけ、客を求めて街を流す場合にそれが顕著になるだろうが、彼らの使命はただ走ることであり、そこで獲得されるのは「速度の空虚」である。自動車に象徴される「近代的移動様式」は人々にある誤解を生み落としてやまない。速く移動することがすなわち前進や進歩を意味するかのような誤解である。そしてそれは、速度がもたらす「空虚」や「暴力」を隠蔽するばかりだろう。しかし土本の映画で切り取られた一九六三年の東京における「交通戦争」の「一断片」においてその隠蔽はすでに機能不全に陥っている。第二次世界大戦以後、一九四五年以後の都市の変貌にヴィリリオは注目している。むろん、古来権力は都市の流通や移動をコントロールすることに関心を傾けてきたが、それまであった領土的な思考に基づく城壁や門を介しての流れの支配から転じて、いまや国家装置それ自体が移動装置となる。脱領土化した時代にあって国家は、海外に植民地を求めるのではなく、国内の植民地化を推し進める。かつて国境を越えての大移動や定住に従事した人々が、いまや国内で終わりなき移動を強いられる。『ドキュメント  路上』にあってタクシー運転手ばかりか毎日職場へと出勤する人々も常に移動を強いられ、しかも、その移動は同時にスピード違反や免許停止といったかたちでのコントロールを受けている。非・場所化したポリス(警察──都市)は、人々に流刑めいた「強制移送」を課す一方、その移動への管理の手も緩めようとしないのだ。「運動独裁」(ヴィリリオ)と化した権力は貪欲に道路網を広げ、既存の道路の上にさらに高速道路を架けようとしている。オリンピックを前に急ピッチで実施された東京の「改造」が道路網整備を中心に置くものであったことを想起しつつ、ここでも道路を「静的乗り物」とするヴィリリオの議論を参照すべきだろう。かつてあった大地を馬が繰り返し疾走するにつれて馬車道へと踏み固められ、道路へと整備されていく。そしてその道路によって移動速度は増し、運動の暴力が誘発される。

高速道路は植民地の土地区画や占領と同じようなやりかたで土地への侵入をおこなう……。道はその第一線、時間を征服するための最前線となる。……加速のために強化された道具である道路は「強制移送」収容所にほかならない。近代の収容所の懲罰的性格は監禁によってだけではなく、運動の直線性・連続性によって発生する。車の群れを強制的に縦に整列させる道路は同時に乗客も植民地化しているのである。仕事のためであれ、レジャーのためであれ、人々は強制移送させられている。


要するに、「高速道路はコミュニケーションの道路ではなくなり、速度の強制収容所となる」。こうした文章からはヴィリリオ特有のペシミズムが滲み出ており、これがそのまま『ドキュメント  路上』から僕らが受ける感触を代弁するものではないのだが、しかし、大枠はこうした都市への認識がそこで描かれているといえるだろう。道路とは「空間の空虚化、砂漠化」であり、その空虚化した都市、砂漠化した都市をタクシーが猛スピードで駆け抜ける。彼らは強制移送の囚人であり、「交通手段が実現してしまった脱局所化という現象」から引き起こされた「都市崩壊」が映画において描かれている。しかし繰り返すが、この映画から僕らが受け取る感触は、必ずしもこうした状況を憂えるペシミズムに収斂されるわけではなく、そこに映画作家土本典昭の資質や才能を見出すべきだろう。
後に水俣病患者の運動と生活に深くコミットする連作で世界に名を馳せることになる土本にとって、『ドキュメント  路上』は二作目の長篇ドキュメンタリー監督作品に当たるが、興味深いことに彼のデビュー作『ある機関助士』(一九六三)もまた旧国鉄常磐線を疾走する機関車の機関助士を主人公とする映画であり、初期土本作品の根幹に「速度」や「交通」の主題が介在している。東京オリンピック開催に由来する物資輸送の激増にともなうダイヤの過密化が原因とされる常磐線三河島での六二年の衝突事故への反省に立って国鉄の安全対策をアピールするための映画として撮られた『ある機関助士』だが、しかしそうした当初の目論みはもともと教習所向けの安全教育(!)を目的として企画された『ドキュメント  路上』の場合と同様、心地良く裏切られる。『ある機関助士』のクライマックスとして僕らが目にするのは、安全を期しつつも厳密なダイヤを守るべく上野へと疾走する機関車の運動であり、それを操作する機関士や機関助手の肉体の動きである。それ以前の休憩時間を描く件で、機関助士らが上半身裸になって煤だらけになった身体を水で洗う印象的な場面があるが、これは『ドキュメント  路上』でホースから吹き出す水で車体を丁寧に洗うドライバーたちの姿を捉える場面に対応するものだろう。水という物質が帯びる特性がなせるわざなのか、そこから不意になまなましいエロティシズムが立ち上る。人間と機械のエロティックな結合を捉え、機械対人間の単純な対立軸を克服するがゆえに、初期の土本作品における「速度」と「交通」の主題は特異なアクチュアリティを獲得するだろう。機関車を安全に運行させるために必要なのは、人間による機械の支配や機械性能の向上ではなく、人間と機械の結合である。あるいは、自動車社会の到来とは人間の機械への敗北を意味するのではなく、人間と機械が否応無しに結合される事態を意味し、だからこそ『ドキュメント  路上』は街を流すタクシー運転手の視線、すなわち人間=機械のカップル(結合体)の視線で東京を捉える映画でなければならなかったのだ。人間が自動車と結合することで生じる未知の知覚に、人間と映画カメラの結合としてある映画の視線を重ねあわせる試み……とでもいえばいいだろうか。東京が無数の鋲に釘刺しにされた地図としてあるとの認識を胸に、しかし土本は張り巡らされた道路を走るドライバーの「路上の視角」(磯崎新)による都市空間を呈示する野心と共に、戦災復興計画の暴力的な仕上げが遂行されつつある東京をフィルムに収めた。走らされることと自ら走ることのあいだの見分け難い空隙に賭けること……。原型とは発見されるべきものだ……と六〇年代半ばに磯崎新は書いた。彼にとっての「都市の原型」が戦争中の焼け跡であったとすれば、まさしく『ドキュメント  路上』で描かれた建設と破壊が同時進行的に繰り広げられる東京、特定の名所旧跡的なランドマークを持つことなく流動化と断片化に身を任せる東京こそ僕らを取り巻く現在の東京の「原型」であるはずだ。

2──土本典昭『ドキュメント  路上』より 提供=土本典昭

2──土本典昭『ドキュメント  路上』より
提供=土本典昭

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歩行者や居住者ではなく、自動車を軸に都市を作り変えられる必要性に迫られること……これは一九五〇年代から六〇年代にかけて多くの都市、そして建築家や都市計画家が直面した命題であったし、この時期から旺盛な執筆活動を展開した磯崎新にしても例外ではない。いや、むしろこの問題が彼の特異な建築論、都市論の基盤になったとさえいえるだろう。たとえば、彼が書いた最初期の文章には「自動車の現代都市への侵入は、ゲルマンのローマ帝国への移住にたとえることができる」(「現代都市における建築概念」、一九六〇)といった記述を見出せる。そうした問題意識の蓄積を背景に書かれた彼の有名なエッセイ「見えない都市」(一九六七)を再読してみよう。周知のようにそこで彼は航空写真に基づく精密な地図によって現在の都市を把握することの不可能性を指摘しており、たとえば、複雑な様相を呈する東京からもたらされる印象は「正確に測量され、すべての距離が一定の比例をもって縮尺された無機的な地図のなかには捜しえない」とされ、さらに文字通り自動車を中心に形成され、ただただ茫漠とした広がるばかりで外貌を欠いたロサンゼルスを飛行機から眺めた体験から「見えない都市」という概念を導き出す。こうして『帝都復興』に関わり指摘した鳥瞰=超越的視線に基づく「都市計画」からの離脱と、現代都市を捉える新たな測量法の模索が宣言される。たとえば、地上に降り立ち、猛スピードで通過する自動車運転手の視点に立つこと。そのとき、都市における距離はルネッサンスの画家たちが採用した透視画法による測定では把握できなくなるだろう。「(自動車の運転手の視線では)絶対的な尺度をもった距離ではなく、対象物相互の関係としてのみ認知可能になっていく。関係だけが意味をもつ空間、または継時的にその断片だけを感じとりうるような不連続な空間としてのみ現象している」。鳥瞰=超越性の視線から徹底して遠ざかった路上の運転手の視点に立つ『ドキュメント  路上』でのモンタージュは、『帝都復興』でのそれのように全体性を目指すことなく、こうした「不連続な空間」を捉えるものとしてあり、現代都市を把握するための新たな測量法が実践されている。ただし運転手によって知覚される都市の外貌を、磯崎の見立てによる「風景」つまりは「物質の存在感」を失った「継時的に派生しながら出現する映像」へと収斂させてしまうことを拒絶するがゆえにこの映画は偉大である。土本の映画ではいわば別種の「物質の存在感」が刻みつけられ、それが「関係だけが意味をもつ空間、または継時的にその断片だけを感じとりうるような不連続な空間」と共存している。たとえば、半ば朽ちながら道端に立ち尽くす木、警察署の壁に刻まれた落書き……。このおそらくは優れた映画によってのみ可視化される「物質の存在感」とは何か。黒沢清監督の傑作『叫(さけび)』を目撃したばかりの僕らはそれを「幽霊的存在感」とでも呼んで見る誘惑に駆られてしまう。
時代から取り残された廃墟めいた東京の湾岸地帯を主な舞台とするこのホラー映画は、頻発する地震によって土地の液状化が進み、緩やかに崩壊しつつあるなかで起こる謎の連続殺人事件を発端とする。事件を追う刑事の前に赤い服を着た女性の幽霊が出没するようになり、刑事はその幽霊を通して自身の忘却された過去に直面することになる。遠い昔に船上から見かけた湾岸の古びた建物の窓際に立つ赤い服の女性、たった一度だけ視線を交わしたことのあるその女性が幽霊の正体であり、ある施設に監禁されていた彼女は彼の救いを待ち望みながら死んだのだという。私は死んだ、だから皆にも死んでもらう……。こうした恐ろしい幽霊の叫びが響き渡るなか、東京はかつての大地震を反復するかのように崩壊へと至る……。以上が『叫(さけび)』の大まかなストーリーである。ここでの幽霊は、過去の止むことなき回帰であり、さらにあり得たかもしれない未来をも壊滅させてしまう。あるいは、人が忘却の淵に追いやることによってかろうじて現在を生き、未来への展望を開こうとするトラウマ的外傷のとり憑きである。確かな場所に住みつく地霊(?)ではなく、むしろ場所が場所であることをやめて液状化に苛まれつつある「非・場所」の形象である。再び「非・場所」についての思想家であるヴィリリオを引用するなら、かつての交通網整備以前の世界にあって人は繰り返し出会う他人と隣人関係を結び、近所という統一体を形成した。しかし「移動革命により隣人は偶然にしか出会うことのない『亡霊』になる。われわれのすぐそばに見知らぬひとびとがひそんでいるのである……われわれは今日、都市のメタ安定性になれきってしまい、たえず亡霊とすれちがっているのにだれもそれに不安をかんじているようにはみえない。これは悲劇的なことだ。道ばたで出会ったあの女性に、おそらく二度とあうことはないだろう。われわれをとりまく大半のひとびとについても同様だ」。このいくらか素朴とも思える記述を真面目に受け取ることから、ほかならぬ現代の東京を舞台として選ぶ黒沢のホラー映画が撮られることになる。いつの日だったかに偶然すれ違っただけでおそらく二度と会うこともないであろうあの女性が、「関係だけが意味をもつ空間、または継時的にその断片だけを感じとりうるような不連続な空間」を介して不意に僕らの隣人として甦る。幽霊的存在はとり憑く相手を必要とし、すなわち「関係」においてのみ存在し、さらにその全貌をあらわにできない断片としてある。しかもそれは固有の「物質的な存在感」を備える。「全部をなしにしたかった」。これは『叫(さけび)』での殺人者が口にする言葉である。相変わらずのタブラ・ラサへの欲望、過去を振り切っての進歩(未来)への渇望というべきだろうか。そして幽霊はそうした「神話」へのあくなき抵抗として存在する。「創造的破壊」が彼女の手で引き起こされるわけではない。映画のラストで東京を襲うのは、ただの即物的な「破壊」である。地震の(トラウマ)はあらゆる“復旧”や“復興”の企てを無関心にやりすごし、反復(甦り)の機会を今もうかがっている。

3──黒沢清『叫』より ©2007『叫』製作委員会

3──黒沢清『叫』より
©2007『叫』製作委員会

参考文献
●デヴィッド・ハーヴェイ『パリ──モダニティの首都』(大城直樹+遠城明雄訳、青土社、二〇〇六)。
●『シンポジウム報告論集  関東大震災と記録映画──都市の死と再生』(東京大学大学院人文社会系研究科、二〇〇四)。
●田中純一郎『日本教育映画発達史』(蝸牛社、一九七九)。
●越澤明『復興計画』(中央公論新社、二〇〇五)。
●越澤明『東京都市計画物語』(筑摩書房、二〇〇一)。
●ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』(丸岡高弘訳、産業図書、二〇〇三)。
●磯崎新『空間へ』(鹿島出版会、一九九七)。

>北小路隆志(キタコウジ・タカシ)

1962年生
京都造形芸術大学映画学科准教授、東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員。映画評論家。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>大城直樹(オオシロナオキ)

1963年 -
地理学。神戸大学大学院人文学研究科准教授。