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4:ヘルツォーク&ド・ムーロン《プラダ ブティック青山》──豪奢な意匠の合理性 | 今村創平
Herzog & de Meuron,"Prada Aoyama Tokyo" : Rationality of Luxurious Design | Imamura Sohei
掲載『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険, 2004年06月発行) pp.100-103

ヘルツォーク&ド・ムーロンは変わったのだろうか。
彼らが世界中から注目を浴びるようになった初期の頃、彼らの作品は、スイス・ミニマリズムといったグループとして認識されるような、シンプルで静謐なものだと理解されていた。例えば、初期の作品群のなかからいくつか見てみると、《ストーン・ハウス》(一九八八)、《ゲーツ・コレクション近代美術ギャラリー》(一九九二)、「ギリシャ正教会聖堂」(一九八九)など、どれも極めて単純化された構成を持ち、緊張感を伴う美しさを湛えていた。彼らが信奉するアーティスト、ドナルド・ジャッドとの親密性は明らかであったし、同じスイスの建築家ピーター・ズントーの建築写真の一カットを見ただけでもすぐに惚れ込んでしまうような、そういった了解しやすい質があった。
しかし、昨今のヘルツォーク&ド・ムーロン(以下H&deM)といったら。傍若無人、吃驚びっくり仰天、プロジェクトごとに、新しい表現が百花繚乱といった態。
《クラムリッヒ邸/メディア・コレクション》(一九九七─)では、いくつものガラスの壁面が曲線を描きながら交差し、《ウォーカー・アート・センター》(一九九九─)では、いびつな形態のマスがいくつか並び、それにアトランダムにさまざまな形の開口が開けられている。カナリー諸島のプロジェクトでは、何百メートルも細長い建物がのた打ち回っているかと思えば、バルセロナのフォーラムでは、真っ黒い巨大な三角形が宙に持ち上げられ、それをすべて形が違う無数のシャフトが支えている。ルール無視の、明白な表現過剰。初期のものと比べてみると、あらためてその変化がくっきりと浮かび上がる。
だが、こうした最近の傾向は、実は初期のプロジェクトにもその徴候を認めることができないわけではない。バーゼルの《シグナル・ボックス》(一九九四)における、細巾の銅版を並べることによって素材を主要なモチーフにしたり、同じくバーゼルの《シュッツェンマット通りのアパートメント》(一九九三)での鋳鉄製の可動なファサードによる、新しい見え掛りの試みなどがそれらにあたる。しかし、それらにも幾分の抑制といった力学の作用を感じられるのだが、それでは今まさに作られているプロジェクトは、どのような規範によって進められているのか。

プラダ ブティック青山》は、原宿表参道を延長した通り沿いにある。表参道ほどの華やかさとスケールはないものの、近くにはコム・デ・ギャルソンや、イッセイ・ミヤケ、ヨウジ・ヤマモトといったトップ・ブランドが集密し、一方では一般の住居も混在するような界隈として、かなり親密な雰囲気を持ったエリアだ。計画に先立って現地を訪れた建築家は、以下のようなコメントを残している。

ひとつは、付近は多種多様な建物が共存していたので、周囲の環境に合うような建物を建てる必要性から我々は全く解放されたこと、もうひとつは、建設予定地は平均四階建て程度の低いタイプの建物に囲まれていたことだ。空き地は全くなかった。ありとあらゆる土地が角から角まで利用されていた★一。


確かに、あたりに建つ建物は不揃いであるが、そのことはとりわけヨーロッパから来た建築家には、強い印象を残したことであろう。よって、周囲にあわせる必要がなくなったとも言えるし、デザイン上は何のルールも見つけられなかったとも言える★二。そして、クライアントであるプラダからは、なるべく話題性に富んだ、注目を浴びるビルにして欲しいとの注文があったのではないか。

1──《プラダ ブティック青山》 筆者撮影

1──《プラダ ブティック青山》
筆者撮影

2──《プラダ ブティック青山》 筆者撮影

2──《プラダ ブティック青山》
筆者撮影

ここで、プラダについて簡単におさらいしておこう。日本人のブランド好きもあり、また近年建築家のコラボレーションがトレンドとなっていることもあり、ファッション・ブランドは建築界でも何かと身近な話題である(といっても、それらのブランドとわれわれの日常とはほとんど関係ないが)。そうした幾多あるブランドのなかで、プラダは九〇年代を代表するといってもよい存在であり、大ブレイクした黒のナイロンのバッグに見られるように、カジュアルに使えながらもクオリティとセンスを兼ね備えていることが、同ブランドのイメージとなる。ルイ・ヴィトンと村上隆や、エルメスとレンゾ・ピアノといった、老舗の一流ブランドが現代作家とコラボレートすることは、最近では見慣れた風景となっているが、それでもこれらのブランドは、伝統を強調することをけっして疎かにしない。そうしたなかにあって、プラダは、自らの出自に捉われることなく、ひたすら最新の表現を展開し続けているように見えるのは、他との大きな違いと言えよう。プラダは、九〇年代後半から、デミアン・ハーストや森万里子といった現代美術のアーティストとの共同作業をはじめ、そして建築家レム・コールハースや、H&deMとのコラボレーションを展開するにいたる。
こうした背景から言っても、周辺環境の状況とは関係なく、ここに建てられる新しいショップは、見たこともない意匠をまとった、ひたすら目立つものを期待されたことは容易に推察される。それ以上に、東京の混沌とした風景のなかでは、かなり突飛なことをしなければその存在が無視されるか、少なくとも暫くすれば風景に馴染んでしまうということも議論されたであろう。シーズンごとに新しいコレクションを発表するというファッション界にあっては、斬新なイメージで注目を集めることは必須であり、かつ自然なことであるのだが、それがその後少なくとも数十年もの間変わらずに建ち続ける建築にとっては、これはかなりの難問とも言える課題である。そして、多くの建築家によるブランドビルが、外観(特にファサード)のみがデザインされ、インテリアはそのブランドの保守的なものを踏襲する例が多いなかで、このプラダでは、外から中の隅々まで、H&deMによる意匠を徹底することが許された。
こうした基本な要望を受けて、H&deMの提出したイメージは、水晶体のような輝くオブジェであった。それは、中国人が珍重する奇岩の置物をも連想させ★三、慣例的な建築の形式とはまったく別の次元から発想を始めていることは明らかであった。よく指摘されるように、建築と純粋芸術の違いとは、建築には予算、敷地、構造、法規、クライアントの要望などさまざまな条件が不可避的にまとわり付くことである。建築家には、それらに的確に対応することはもちろん、それらの条件をポジティヴな要因にするくらいの力技が必要とされる。しかし《プラダ ブティック青山》では、そういったあらゆる規制や条件を一旦保留にすることで、自由に発想を膨らませ、またそれによってこれまでの建築のような相貌を持たないことから、新鮮さを導き出そうとしているとも言える。しかし、こうした新奇な試みの実現のためには、通常の技術ではとても対応できず、さまざまな解決案の模索が必須となったのは、当然の流れであった。
建物のヴォリュームは、容積率三〇〇パーセントをいっぱいまで消化しながらも、斜線制限や日影規制をクリアする範囲でなるべく高くされた。かつ手前側に寄せて建てることによってこの界隈には珍しいプラザを生み出すとともに、建物からの引きを確保することで、よりこの建物を眺めやすくすることを可能にした。また、斜線制限で頂部が斜めに切り取られることは、透明な結晶というこの建物のイメージを強化した。
建物の外周は、菱形(高さ二・<span class="__mozilla-findbar-search" style="padding: 0pt; background-color: yellow; color: black; display: inline; font-size: inherit;">〇</span>メートル、幅約三・二メートル)の特注ガラス八四〇枚で覆われ、そのうち二〇五枚が凸形、一六枚が凹型となっており、それらはランダムに配されている。開口部や、開閉可能な箇所がないため(通常の視点では見えにくいが、実際には屋根部分に開口がある)、全体的に均質かつ一体となったオブジェの印象を与える。そして、この菱形のユニットは、斜め格子からなる鳥籠のような仕組みの構造体となっており、内部のシャフト部や、水平に配されたチューブと一体になって建物を支えている。斜め格子はすべて同じ外寸(二五〇ミリ×一五〇ミリ)を持つビルドタイプのH鋼で構成されているが、実際は部位ごとに掛かる応力が違うため、七種類の異なる肉厚の材が使われている(一番厚いものは、六〇ミリもある)★四。
内部から見ても、シャフト以外には柱もなく、果たしてこのメッシュで本当に建物を支えているのか、特に、地震時にはこの細いメンバーが座屈したり、押さえ金物のないガラスが脱落したりしないのだろうか、といった疑問も当然湧くだろう。しかし、実はこの建物は、プラザも合わせて一体となった免震構造を採用しており、敷地ほぼいっぱいを占める地下一階の空間より上はすべて、免震システムの上に載っている。それによって、地震時の層間変異角は三〇〇分の一以下となっており、構造部材のメンバーを小さく抑えるのみならず、ガラスファサードのディテールをコンパクトにするのにも役に立っている。
設備に関しても、一瞥したところ一切開口部がなく、換気や排気はどうしているのか、また全部がガラスで覆われていることによる温室のような環境負荷にどう対処しているのか不思議に思える。簡単に言えば、純粋なオブジェのようであって、通常の建築に見られるガラリやベントキャップといった設備的要素が、建物の外部、内部ともに見当たらない。しかし実際には、先に述べたように建物頂部に開口部があり、そこに空調の室外機が置かれ、各階を縦シャフト内のPSとEPSが繋ぎ、天井のパンチングメタルには空調やスプリンクラーが隠され、また電気室や受水槽は地下に置かれるという、わりとスタンダードなシステムを採用している。ただし、それらを意匠として感じさせないよう、徹底的に配慮されている。殊更特別のこととしては、全館に加圧防排煙、防煙スクリーン、層間塞ぎパネルを使用することで、層間区画をクリアしていることは記すべきかもしれない。
インテリアにおいては、格子の外殻格子は耐火被覆に覆われ、しかしそれらと、壁および壁から突き出したディスプレイ用棚が、同じようなクリーム色の塗装で仕上げられているため、構造体とインテリアの区別を感じさせない、ニュートラルな空間を生み出している。外部同様、内部もきわめてユニークで独創的であり、幾分昔のSF映画に見た未来の空間のようでもある。

3──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む 筆者撮影

3──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む
筆者撮影

4──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む 筆者撮影

4──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む
筆者撮影

5──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む 筆者撮影

5──《プラダ ブティック青山》詳細、内部を望む
筆者撮影

このように、《プラダ ブティック青山》で採用されている素材にしても、工法にしても、今回のために開発された特殊なものばかりであり、よってそれはコスト的にはかなり高額となっている。ファッションであれば、プレタポルテ(既製服)ではなく特別オーダーのオートクチュールであろう。斬新な表現を実現するために、経済力で無理やり解決したという見方もでき、良識を持った建築家であれば、あまりにも非常識と眉をひそめるだろう。また、繰り返し使えるような汎用性のない技術に何の価値があるのかという批判も成り立つし、一方、このような損得を抜きにした実験こそが、新たな技術の発展を生み出すとの反論も可能だ。
バブル以降の反省もあり、新しさを狙ったものは、必ず無残に消費されるか、遅かれ早かれ飽きられるという思いもあるのだが、しかしそれでも残る建築があるとすれば、それはH&deMのいう「力」を伴っている建築なのだろうか★五。完成時に多大な注目を浴びたこの建物の価値を、われわれは長い時間をかけて判断すべきかもしれない。


★一──Prada Aoyama Tokyo Herzog & de Meuron, Fondazione Prada, 2004, p.7.
★二──浜野安宏は、今まで大切に築き上げてきたこの通りの景観を、プラダのビルが無神経にも破壊してしまったとして、強い憤りを表明している(INAX REPORT No.155)。その気持ちは、充分に拝察されるものの、しかし、実際にこの敷地を周りから観察してみると、H&deMの感じ方のほうが正しいと、筆者には思える。
★三──H&deMは、中国の「賢者の岩」と呼ばれる珍しい色や形の石のオブジェを、非常に魅力的だと語っている。Philip Ursprung ed.,Herzog & de Meuron: Natural History, Lars Müller Publishers, 2002, p.84.
★四──補足的に押さえておくと、このような割合細い部材による籠のような構造は、谷口吉生葛西臨海公園展望広場レストハウス》(一九九五)やいくつかの住宅など、最近の建築テーマとして最近たびたび試みられている。
★五──「力(フィルミタス)について」(『a+u』二〇〇二年二月臨時増刊、新建築社、一一九頁)。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.35

特集=建築の技法──19の建築的冒険

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>ピーター・ズントー

1943年 -
建築家。自身のアトリエ主宰。

>シグナル・ボックス

スイス、バーゼル 信号扱所 1995年

>プラダ ブティック青山

東京都港区 商業施設 2003年

>レンゾ・ピアノ

1937年 -
建築家。レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>谷口吉生(タニグチ・ヨシオ)

1937年 -
建築家。谷口建築設計研究所主宰、東京藝術大学美術学部建築学科客員教授。

>葛西臨海公園展望広場レストハウス

東京都江戸川区 展示施設 1995年