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都市の主体とそれにかかわる職能はどのようになっていくのでしょうか? | 新堀学
How will the Subject of the City, and the Function of the Subject, Progress? | Shinbori Manabu
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32, 2007年12月25日発行) pp.110-111

新しい市民像──ユーザーのイニシアティヴ

ここ数年、いくつかの市民活動の現場に関わりを持ちながら、都市とその運動について考える機会を持つことになった。それらのなかでおそらくこれからの都市の空間に影響を与えていくであろう力のかたちについて予感めいたものを見つけることになった。
例えば、二〇〇三年ぐらいからいくつかの近代建築の解体 vs.保存活動の動きが社会的にも取り上げられるようになってきているが、それらの活動の参加者の裾野が確実に広がっている。専門家だけでなく、地域の住民(それも老若問わず)、またただ単にその建築に愛着を持つという建築ファン(まちあるきファン)などが、「自分が好きだから」というシンプルな動機に基づいて行動している姿はもうめずらしくない。
もうひとつそれに並行するように、まちや地域を遊ぶ、開放されたアートの場として活動する人々が同じくさまざまな活動を始めている。各地の大規模な芸術祭はどれも地域型になってきている。アートが場所との応答へと展開していく運動とも連動して、アートに関わりたい人たちがまちを舞台として活動を広げるケースが多く見受けられる。来年一〇年を迎える「取手アートプロジェクト」、まちあるきによってまちを美術館にする「東京あるきテクト」、都市の広場を使う権利を実践する「東京ピクニッククラブ」などなど。もう美術展が美術館の中からまちに出て行なわれることが珍しい時代ではない。
これらのさまざまな活動が示唆している、現在かたち作られつつある共有のマインドはすなわち「都市は与えられるばかりのものではなく、使う人の手にあってよいのだ」というユーザーの側のイニシアティヴだといえるのではないだろうか。つまり、(誰だか顔の見えない)計画者お仕着せのまちの使い方に押し込められることを是としない、むしろ自ら都市の使い方を作り出す、編集していくユーザーがまちに出てきているということだ。
近い将来これらの「まちの使い手ユーザー」が、自らのフィールドであるまちのかたちに対してある種の発言力を持ち、計画の一端を担う時期が来るのではないかと考えられる。
そのための仕組みとして有効だと思われるもののひとつが、実は「景観法」である。この視点から「景観法」が「使える」かどうかを見てみると、制度的に上位下達のシステムではなく、むしろさまざまなイニシアティヴの発意を保障するというタイプの、新しいシステムであることが興味深い。すなわち誰もがコメントしうる(=感想を持つことができる)「景観」というオープンな土俵において、きちんとした合意が形成できれば、都市の計画のなかでコントロールを分担できるルートが隠されている。景観法は「使える」のである。
成立時に問題になった、「所有権」への越境についてであるが、結局は「所有者」が絶対である完全に非対称な関係ではなく、まちは「利用者」のものでもあるという法律のかたちになっている(少なくとも現在は)。この点も画期的な一歩だと言えるだろう。
ただし、ここでいう「利用者」はすべての「非所有者」のことではなく、「利用」という行為に対して責任と負担を進んで引き受ける人々が想定されている点は重要であろう。そしてその人々のプロトタイプはまさに冒頭に述べた新しい「まちのユーザー」たちであるように思われる。

ユーザー・イニシアティヴの時代の職能について

では、そういった自覚的なユーザーが増えていけば、専門の職能は不要になるのだろうか?
私はイエスでもあり、ノーでもあると考えている。ここでは、一例として建築家の職能のこれからについて考えてみたいと思う。
そもそも建築家は何をする人としてその職能を定義できるのだろうか。
少し古いところから考えてみると、やはり冒頭に来るのは、「職人/施主」モデルである。これは、金銭と引き換えに腕を売る、すなわちある種の道具としての有用性に職能の根拠を置くスタイルだ。そして時代が下って現われた自立的なスタイルが「パトロン/アーティスト」モデルであろう。ある種のスキルを有した技能人が、その活動を支える金主によって社会的な存在を保証され、その製作物は「作品」として世に出て行く。現在も「作品」を作ることに存在の根拠を置いている「作家的建築家」はもちろん多数存在している。彼らに対してのその制作環境を担保していく「パトロン」が居なくならない限り、それらの職能も消滅することはないだろう。
しかしながら、もう少し近年になってくると、パトロネージュのうえでの自由な制作か否かという偏狭な立ち位置ではなく、クライアントと一緒になって問題を解決するタイプの、「クライアント/セラピスト」モデルともいうべき活動が増えてくる。臨床心理士のように、クライアントの持つある種の動機、問題を、協働のなかで昇華していくことが職能の根底になる。ここで注目すべきは、アウトプットが「もの」としての建築からプロジェクトの成果という「こと」にシフトしつつあるということである。
しかし、ここまでのところすべての成果は最終的に「所有主」に帰属する。したがって建築家の職能は結果として「敷地の中」にのみ作用することになる。だが前段で見たように、多くの人々の生活圏は所有する敷地の中で完結することはない。むしろ都市化のなかで、ますます「敷地外」の生活活動が増えていく。これらのユーザー・イニシアティヴに対して、建築家はその場所を自らの職能の外に置くべきなのだろうか。より上位の計画者の領分として、思考の外に追い出すべきなのだろうか。いずれにせよ新たなモデルが要請される。
これは、現時点での仮説なのだが、この領域にアクセスするための構えとして「イニシアティヴ/ファシリテータ」モデルを考えてみたい。
ユーザーがある種のコントロールを公共空間に対して握るためには、先に述べたように「責任と負担」を引き受ける主体として成長しなければならない。そしてそのなかで意思決定という関門を抜けて始めて、発言と行動が社会的に定位される。この主体のヴァージョンアップを手伝うこと、一般にファシリテーションと呼ばれる行動が、新たな時代の職能として要請されているのではないだろうか。複数の人々が開かれたかたちで都市の主体を形成する時代に、それを専門的な視点を持ちつつサポートするアンカー役としての職能が構想できるだろう。それは、建築家に限定されない新たな職能領域として生まれるのかもしれない。
そのためにどのようなスキルが要求されるのか、あるいは複数の職能のコラボレーションが必要となるのか。職能もやはり現場で鍛えられ、確立していくダイナミックな概念であるということを想いつつ多くの人々がまちに出て行くことを期待したい。

1──《孤風院》ワークショップ。筆者が司会を務め、建築保存に関する座談会が行なわれた。 URL=http://forum.inax.co.jp/renovation/interview/001/001.html

1──《孤風院》ワークショップ。筆者が司会を務め、建築保存に関する座談会が行なわれた。
URL=http://forum.inax.co.jp/renovation/interview/001/001.html

2──建築家の職能モデル

2──建築家の職能モデル

>新堀学(シンボリマナブ)

新堀アトリエ一級建築士事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32