鑑賞対象としての夜景
夜景評論家という肩書で活躍する方がいることをご存知だろうか。丸々もとお氏は雑誌編集者を経て夜景評論家として独立し、レストラン、高層マンションなど夜景が売りのサーヴィスや商品に対するコンサルティング活動などを行なっている。景観のひとつである夜景がこれほどまでに重宝、重視され、夜景の魅力を少しでも高めるコンサルティング業がビジネスとなっていることは非常に興味深い。
以前筆者はイルミネーションについての論考において、都市にイルミネーションが配置されることで、領域性をもった場が形成され、それらがアクティヴィティを誘発する重要な契機になっているのではないかと述べた(拙論「イルミネーション アクティヴィティを誘発するランドスケープ」『ランドスケープ批評宣言[増補改訂版]』[INAX出版、二〇〇六])。夜景はイルミネーションと同様に、二四時間活動を続ける現代的な都市において、夜間のアクティヴィティに重要な影響を与えるものとして注目すべきだが、その役割と位置づけはイルミネーションとは少し異なるものではないかと考えている。
イルミネーションは、場を形成し都市生活者をそこに誘引する機能を持つ。人々は、非日常的な場に誘われることで、プレイヤーとしてそこに参加し、独特の意識と行動規範に縛られる。一方、夜景はあくまで鑑賞の対象であり、場を形成するものではない。一般的に夜景は、ビルの高層階や、都市を見下ろす丘陵や山という場を必要とするが、その場がどのようなものであるかは重要ではなく、そこからどのような眺望が展開しているかが問題なのである。イルミネーションが場所性を楽しむものだとすると、夜景はあたかも絵画を鑑賞するかのように、眼下に広がる鑑賞対象としての風景を楽しむものである。同じ夜の景観でも、イルミネーションは主体性がテーマなのに対して、夜景は客体性がテーマとなり、その性質は大きく異なると言える。
夜景への欲望
さて、冒頭に述べた夜景評論家が活躍するほど夜景が重宝されるのは、どのような背景からなのだろうか。現代において夜景は、夜景が見える場所の価値を向上させるために利用されることが多い。分譲高層マンションの販売の現場では、モデルルームの窓に夜景の写真を貼りつけ、高層階や比較的眺望がよい場所に位置するレストランでは、雑誌に夜景の眺望を含めた写真を提供して夜景をレストランの売りとしていたりする。
夜景の眺望がこれほどまでに場所の価値を向上させる手段となるのは、都市生活者の多くが、これらの夜景の眺望にありがたみを感じ、よりコストをかけてでもこれらのものを選びたいと考えるからだと言えるが、生活者の夜景に対する顕在/潜在的な期待にはどのような背景があるのだろうか。
夜景とよく似た客体性や鑑賞性といった特徴を持ち、かつ夜景と同様に生活者に重宝、重視されているものとして花火があるが、花火との対比で考えると夜景に対する期待の内容が際立ってくる。
人々が花火に期待するのは、一言で言えば超越的なものに対する敬服である。超越的な力で展開するスペクタクルを目の当たりにすると、巨大な宗教建築や大仏の前に佇んだときのような、ひれ伏しの快楽を感じることができる。一般的にこのような感覚は、花火のように下から上を見上げるという視線の構造によって成立する。夜景の効果はこの視線の構造が上下逆転することによるものである。つまり、夜景は高所から眼下に広がる眺望を獲得することで、鑑賞者自らが超越性を獲得し神の視点を得ることができる点が重要なポイントである。もちろん、高所から低所を臨むという構造に関しては、昼間の眺望も同様だが、夜景の場合は、電灯の明かりによって人の存在が強調されるという点において、超越性の獲得が際立つ。
夜景が見える眺望は男女のデートのキラーコンテンツとして用いられることが多い。この背景として、夜景を見下ろすことによる超越性が恋愛の武器として巧みに利用されているということがあるのではないだろうか。食事に誘うほうは、食事という欲望のひとつについてイニシアティヴを獲得し、なおかつそのイニシアティヴを夜景の見下ろしという超越性によって強力なものにする。誘われたほうは、夜景の力を自由に操る相手に対して、例えそれが相手の属性でなくともある種の力を感じてしまうのではないだろうか。
近年建設される都心部の高層オフィスビルの最上階部分には必ずと言っていいほどレストランが設けられる。なかには、汐留の電通本社ビルのように、自社ビルでありながら、最上階部分は外部のレストランに賃貸されたり、六本木ヒルズの森タワーのように上層部分のレストランは会員制とされるなど、夜景という道具が、男女関係だけではなく、ビジネスの現場においても戦略的に用いられるようになってきている。権力増幅装置としての都市における夜景の役割は今後ますます重要になるのではないだろうか。
撮影筆者
撮影筆者
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