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景観の消滅、景観の浮上 | 若林幹夫
The Disappearance of Landscape, the Appearance of Landscape | Wakabayashi Mikio
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.126-135

1  景観の現在

「景観」という言葉が、そしてその言葉によって名指される何かが、今日、私たちの日常生活のなかに、共通の問題のトポスのようなものとして浸透しつつある。
もちろん、景観という言葉はずっと以前から日本語の語彙のなかに存在したし、「美しい景観」とか「美観地区」といった言葉も存在していた。だが近年の景観法や景観条例の制定、景観の破壊や景観権の侵害をめぐる訴訟などを見ると、景観というものが観光地や美観地区のような特殊な機能や意味を割り振られた場所にのみかかわるものでなく、普通の人びとの日常的な社会生活のなかで権利として希求され、享受されるべきもの、あるいはまた形成され、保持・利用されるべき社会的資本や資源として考えられるようになってきていることがわかる(実際、ある種の議論では景観は社会資本であり、不動産の資産価値を高めるものとして語られる)。
都心や大都市周辺で建設が進んでいる高層マンションは、こうした「景観問題」が具体的な形をとって現われる場のひとつである[図 1]。こうしたマンションは、足元の低層・中層の建物から抜け出ることで、眼下の建物の文字通り頭越しに、周囲の眺望を独占的に得ることができる。高層マンションは、その住民の視線から周囲の環境とその景観──近景──を消去して、遠景として広がるパノラマ的な景観だけを所有することを可能にするのであり、そのことがこうした物件の資産価値を高めている。他方、その足元の側から見れば、こうしたマンションは自分たちの生活空間のなかの景観を垂直的に断ち切り、遮る障害物であると同時に、自分たちが暮らす土地や住居の資産価値を下げる阻害要因にほかならない。ここに生まれるのは、景観上の富者と貧者とでも呼びうる「景観階級」であり、景観をめぐる社会的な対立や抗争の関係である。
三浦展の造語で最近しばしば耳にする「ファスト風土」をめぐる議論も、こうした「景観問題」と無関係ではない。三浦のファスト風土論の論点のひとつは、全国チェーンのショッピングセンターや大型量販店、ファストフード店やコンビニエンスストアの郊外や地方への進出によって、「本来固有の歴史と自然を持っていた地方の風土が、まるでファストフードのように、全国一律の均質なものになってしまっているのではないか」★一ということだ[図2]。そこで危惧されているのは社会や文化の均質化、やはり三浦の造語を使えば「下流社会」方向への均質化の指標であり、表出であり、また媒介項でもあるものとしての景観の貧困である。
景観の貧困や解体、権利としての景観の享受や独占といったことをめぐる景観問題の日常化は、「都市再生事業」に代表される現代の都市開発や国土開発のなかで「美しい景観」やそれを享受する権利が失われつつあることに対する異議申し立てであったり、それに先立つ高度経済成長、さらには明治近代以降の都市開発や国土開発のなかで、電柱と電線や〝カミソリ堤防〟に代表される「悪い景観」が無反省に増殖していったことに対する反省であったりするものだと、さしあたりは言うことができる。だがしかし、そこにはまた「景観」という言葉やそれが名指すものに対する意味や感受性、関係の構造をめぐる歴史的・社会的な変化もまた、横たわっていると考えることができる。
そもそも景観の破壊、あるいは破壊を通じての新たな景観の創出ということなら、何も今に始まった話ではない。明治近代は城下町の伝統的な景観を変え、高度成長は都市と農山漁村の、そして自然の景観を大きく変えた。都市部に電信柱が立てられ、電線が張り巡らされたのは今に始まった話ではない。柳田國男の『明治大正史世相篇』等ですでに以前から指摘されていたように、私たちが今目にしている景観の歴史も、かつて私たちがあったと考える景観の歴史も、しばしば案外新しいものだ★二。その一方で、かつて人がとりたてて意識することのなかった風景が、ある時突然守られるべきものと言われ始めたり、その逆に悪いもの、何とかしなくてはならないものと考えられ始めたりすることもある。これらの事態を「破壊されたから修復・保全しよう」というような、単純な図式でのみ理解することはできない。ある種の景観が修復・保全されるべきものとして見出されたり、「悪い景観」や「景観の破壊」として認識されたりすることを支える了解の構図の成り立ちや、そうした構図の歴史性、社会性こそが、ここでは問われるべきだろう。ここで考えてみたいのは、私たちが生きるこの社会における「景観の現在」を規定するそうした関係の歴史的・社会的な構造のあり方、とりわけ「都市景観」をめぐる関係の構造についてである。

1──高層マンション 撮影=増田圭吾

1──高層マンション
撮影=増田圭吾

2──ファスト風土 引用出典=三浦展『ファスト風土化する日本』 (洋泉社、2004)

2──ファスト風土
引用出典=三浦展『ファスト風土化する日本』
(洋泉社、2004)

2  視覚と“かかわり”

現在日本語で使われる「景観」という言葉は、「景」と「観」という二つの文字からなっている。「景」は風景、「観」はその見え方や見ることだ。この言葉には、私たちが「景観」という言葉で呼ぶものが、山や川、道路や建物のような対象物として存在しているのではなく、それらを見るという人間の行為や見方を通じて見出されるものであるというニュアンスがある。景観とは、見られる対象にも無論かかわるけれど、見ることを通じてそうした対象にかかわる人間や社会なしには存在しえないもの、だから正確には「もの」ではなくて「見る/見られる」という関係の相関物として人びとの視界や意識の上に現われてくるものなのである。
ここで、柄谷行人が『日本近代文学の起源』のなかで国木田独歩の『忘れえぬ人々』や『武蔵野』に関して指摘した「風景の発見」のことを想起してもよいだろう★三。独歩の自然主義的散文は、それまで漢文学も国文学も語るべきものとして見出すことがなかった市井の人や武蔵野の自然を、意味深く美しい「風景」として発見するという認識論的な布置の転換のなかで成立する。近代文学とは、そのようにして「語るべきもの」を、それを語る言説や文体と共に作り上げるシステムである。柄谷が指摘したのは、そういうことだった。
このように景観というものは、「見る者(たち)」と「見られるもの(たち)」との関係において成立する。だがこの時、「見る者(たち)」という主体=主観(subject)も、「見られるもの(たち)」という客体=客観(object)も、「見る」という行為に先立って、「見る主体=主観」や「見られる客体=客観」として存在するわけではなく、そうした行為を通じてその主体=主観、客体=客観としての存在を与えられる。いや、「『見る』という行為」という言い方も、いまだ主体=主観による働きかけというニュアンスが強すぎるかもしれない。ここではむしろ、「見る/見られる(あるいは、見る/見える)という〝かかわり〟」といった言葉の方がしっくりくる。この「かかわり」には意識的で主体的な契機もあるが、同時に無意識的で受動的な契機もまた存在している。そもそも「見る」以前に人には何かが「見えてしまう」のであり、「何をどう見るか」ということは、それを見る主体=主観の選択的な判断以前に、主体=主観となる存在が場を占め、位置を与えられている関係の、つまり「かかわり方」の構造のなかで制度的かつ無意識的に決定されている部分があるのである。
ちなみに、ここで「制度的」というのは、立法や行政のような手続きによって制定されたものとして、ということでは無論ない。社会学では人びとが無意識、無自覚のうちに従う関係の形や規範を「制度」と言う。例えば、柄谷が指摘した「風景の発見」は文学や美術という制度のなかで成立するかかわりの構造と共にある。
景観がそこにおいて成立するこの「かかわり」は、「見る/見える」という視覚的な行為や景観に仲立ちされるかかわりだけではない。人間とその社会は、見ること以外のさまざまな行為や関係によって世界にかかわる。人は労働し、交易し、遊び、そうした関係のなかで場を他者たちと共有したり、他者を排除して占有したり、他者たちと争ったりする。狩猟採集で生活し、アニミズム的な信仰をもつ部族社会の人びとと、農耕や牧畜を始め、土地の神を信仰するようになった人びととでは、土地や自然に対するかかわり方がさまざまな点で異なるだろう。都市が成立し、そこで人びとが土地を直接の労働対象としなくなったり、一神教のような超越的な神を崇拝するようになったり、さらに世俗化して信仰をもたなくなったりすれば、そこで暮らす人びとの土地や世界とのかかわり方はまた異なるものになる。例えばレヴィ=ストロースが『野生の思考』で言及している事例によれば、オーストラリアのアランダ族の人びとにとって、彼らの暮らす土地とその景観は彼らの祖先が作り出したものであり、祖先の功業を表象していて、それによって人びとの現在の生をも意味づけ、規定している。だから彼らにとって、植民してきた西洋人による土地の開発と景観の変貌は、彼ら自身の存在を毀損する取り返しのつかない出来事として認識される★四。だが他方、西洋からやってきた移住民にとって、その新しい大陸の大地は彼ら自身の手によって拓かれるべき資源であり、それに手を加え、開発することによって現われる新たな景観こそが、新たな社会的意味を付与されたものであったはずである。
土地や世界とのかかわり方が異なれば、それらに人びとが見出す意味や価値は異なり、見るべきもの、評価すべきものとして人びとがそこから選び取るものも、そこに読み取られ、感受されるものも異なるのだ。現代の社会でも、農業に従事しない都市住民が農村地帯を訪れた時に見出す景観と、その土地で農業をして暮らす農民にとっての景観は同じではない。都会人にとってすべて同じ「畑」や「野原」や「林」に見える景観が、農民たちには異なる作物、異なる利用形態をもつものとして分節化され、その土地にまつわる神話や伝承に彩られ、さまざまな利害関係がそこで錯綜したものとして見出されるかもしれない。逆に、農民たちには同じ灰色のビルに見える建物群を、そこで働くサラリーマンたちは異なる業界や会社によって棲み分けられた生態的な秩序をもつものとして読み解くだろう。
とすれば景観とは、環境に対するさまざまなかかわりの束のなかで見出されるその視覚的様相なのだということになるだろう。ここで「環境」というのは、人間やその集団が自らをそのなかに見出す広がりのことだ。それは自然の事物──自然環境──だけでなくさまざまな人工物からなり、情報やそれが表象する意味やイメージもその構成要素をなしている。注意して欲しいのだが、ここで「環境」と呼ぶものもまた、かつてフォン・ユクスキュルが人間をも含むさまざまな生物に関して指摘したように、客観的なモノとして存在しているのではなく、人間やその集団の世界に対するさまざまなかかわりを通じて現れる、かかわりの相関項である★五。とすれば、現代の都市の景観について考えるということは、現代の都市社会における〝かかわりの構造〟について考えること、そうした構造のなかでの見ること、見えることについて考えるということにほかならない。

3  弱い景観/強い景観

だがしかし、景観が人間やその集団の世界に対するかかわりの視覚的様相だとすると、景観は、人間の視覚と共に遍在するものなのだろうか? 人が何かを見るとき、あるいは何かが見えてしまうとき、そこにはつねに景観があると言ってよいのだろうか?
人間とその集団はさまざまな自然的・風土的条件、さまざまな歴史的・社会的条件の下で、いろいろな仕方で環境とかかわりあう。そして、そのなかで人間やその集団は、山野を利用し、田畑を拓き、建物を建て、道や橋を造り、そうした環境をさまざまな形で見る。見ること、見えることは多くの人びとにとって、日常的に持続し遍在する経験の一部である。景観という言葉を広義にとれば、このような持続・遍在する「見る/見られる」経験のなかに景観はつねにある。このことは、「社会における景観」や「都市景観」について考えようとするとき、その考察の対象たる景観が社会や都市のあらゆる場所に遍在しているものとして見出されうるということだ。だから、ありとあらゆる場所に見出される景観を、ある社会の経済や政治、文化の表出として観相学的に読み解いたり、その様相を規定する構造を分析したりする研究、あるいはまた、さまざまな場所で人びとがどのような景観を見、それをどのように評価しているかに関する研究などを、そうした遍在する景観に関して行なうことが可能である。
だが実際には、私たちは(少なくとも現在の私たちは★六)、そうした視覚的経験のすべてを所謂「景観」として了解しているわけではない。近代の都市景観についての人文地理学的研究の最初の部分で、エドワード・レルフはこのことについて次のように述べている。

景観は日常生活の視覚的なコンテクストであるが、通りを歩いている時に見たり、自動車のフロントガラス越しに見たりするものを述べるのに、「景観(Landscape)」という言葉を実際によく使う人は多くないようだ。けれども私たちは、庭園のなかに景観をしつらえ、夕日に縁取られた景観や雷雨の後の日光に浮き立った景観を見て静かな喜びを感じたり、旅行者として景観を楽しみながら何気なしに写真を撮っている。カメラの焦点を屋外に合わせるだけで(ショッピングモールや吹き抜けのような室内でも。ただし、室内で写真を撮るとガードマンに咎められることもあるが)、景観を簡単に写真に撮ることができる。これらのことは、景観が自明のことがらであることを示唆している。けれども、私たちが景観を分析しようとすると、そうでないことがわかる。最初に気づくことは、景観はあまりに身近でとらえどころがないほど幅広いために、明確な視点で全体を把握することが難しいということである。その次に気づくことは、「景観」全体という感覚を失わずにビルや道路といった構成要素に分解することが容易ではないことである。それゆえ景観とは、自明のことがらであると同時にとらえどころがない★七。


世界の視覚的様相という意味での景観はどこにでもある。だが、私たちはそれを「景観」という言葉で表象されるようなものとして、つねに反省的に捉えたり、考えたりしているわけではない。その一方で、例えば私たちが自分の庭を仕立てたり、特定の天候の下で環境を眺めたり、写真を撮ったりするときには、私たちはそこに「景観」を見出し、写真として所有したりもする。それは、どこにでもあるがゆえに自明で捉えどころがないと同時に、庭に囲い込まれたり、特定の天候下に置かれたり、写真に捉えられたりというように空間的ないし時間的に枠付けられ、異化され、切り取られたときには明確な輪郭をとって現われる。レルフの指摘しているのは、そういうことだ。
ここには、私たちが「景観」という言葉で指し示しうる経験やことがらの二つの様相が述べられている。一方には視覚的経験とともに遍在する景観があり、他方にはそうした遍在する即自的な視覚的経験のなかから特定のものや見方が「見られるべきもの」や「見るべきもの」として対自化され、意識化され、ある集団のなかで標準化されたり、規範化されたり、美学化されたりした景観がある。あまりいい言い方ではないかもしれないが、前者を「即自的景観」や「弱い意味での景観」、後者を「対自的景観」や「強い意味での景観」と呼ぶこともできるだろう。即自的で弱い景観は、見えていてもとりたててそれを景観として主題化しない視覚的経験であり、対自的で強い意味での景観は、世界の特定の見え方として意識化、主題化され、絵画や写真や言説のような表象によって切り取られたり複製されたりして、鑑賞や消費や議論の対象となるような視覚的経験である。後者は名所や絵葉書のように社会的に規格化、定型化、物象化されることもあれば、特異な視点や才能をもった画家や写真家、文筆家によって、多くの人びとにとっては弱い意味での景観としてしか認知されていないもののなかから異化されて取り出されることもある。
例えば松原隆一郎は、歴史的景観や自然環境が景観保全の対象になる一方で、電線の張り巡らされた市街地や、ロードサイドショップやその看板の立ち並ぶ郊外の景観の荒廃については、それらが荒廃した景観であるという共通の認識がそもそも存在していないようだ、と述べている★八。だがそこには「荒廃した景観」という認識が存在しないのではなく、そうした市街地やロードサイドの日常的な風景を「対自的な景観」や「強い意味での景観」として対象化する意識が存在しないのかもしれない。
どのような景観を強い意味での景観として対自化するかは社会により、また個々人の資質や美意識によって異なっている。それは、その個人や社会が世界に対してもつかかわりの形、それにもとづく秩序意識や自然観、審美観、信仰や宗教等に規定され、美術や文学などによって定型化、規格化されるのだと、一般的には言うことができる。とすれば、弱い意味での景観全般を対象とする景観研究とは別に、弱い意味での景観からどのような仕方で強い意味での景観が対自化され、どのように主題化され、それにどのような意味や位置が社会的な諸関係のなかで与えられるのかを問うことも、景観研究のひとつの方向である★九。松原が指摘することに関して言えば、電線の張り巡らされた市街地や郊外ロードサイドの景観それ自体の好悪善悪とは別に、そうした日常的景観をとりたてて問題とならないものとして意識の背景に退け、多くの人びとにとっては非日常である歴史的景観を強い意味での景観として共通の社会問題化するという、即自的景観と対自的景観の布置のあり方もまた、私たちが生きる社会や都市の景観の現在を示しているのだ。

4  日本橋の“景観”

具体的な例をあげて考えてみよう。ここに日本橋の写真がある[図3]。この写真は、写真という技術によって切り取られ、印刷という技術によって大量に複製された景観である。日本橋という土地を訪れることなどあまりなく、ましてやこの橋を渡ることなど滅多にないという場合でも、日本に暮らす成人の多くは日本橋のこうした景観を、なんとなくであれ知っていることだろう。それは私たちが、写真と印刷という技術、それらを利用した出版やジャーナリズムといった制度を通じて、日本橋という場所やそこにある橋にかかわっているということだ。今、写真を目にするとは、そのようなかかわりを、さまざまな言説やテクノロジーの制度のなかでもつ(あるいは、もたされてしまう)ということである。
写真のようなメディア上の表象は、外的環境を直接見るときに経験される景観から切り離された形で、人間の経験のなかに場を占めることができる★一〇。絵画や写真、あるいは映画のような視覚的イメージを表象するメディアは、視覚的経験としての景観に物的な存在様態を与え、それを生産・流通・消費することを可能にする。視覚的表象のメディアだけではない。詩歌や小説、児童の作文や市井の人の手になる俳句や和歌、手紙のような言説も景観の規範や美学にかかわり、それらを生産・流通・消費させる装置として作動する。日本橋に関して言えば、安藤広重の『東海道五十三次』の版画や写真だけでなく、『お江戸日本橋』の歌、かつての街道の起点であり、明治以降も道路元標の地であるという歴史地理学的な知識、麒麟と獅子のブロンズ像で橋柱を装飾された明治期建造の橋の上に、東京オリンピック前に建設された首都高速の高架が重苦しくのしかかる風景が「景観問題」としてしばしば語られているという知識や、そうした景観を問題視する美意識などと共に、私たちはこの写真のなかの日本橋の景観を見る★一一。
その一方で、実際の東京の都市空間のなかで日本橋を景観として見た経験や、橋を含む日本橋界隈を現代の都市景観として自覚的に見た経験は、かならずしも多くの人に共有されてはいないだろう。現代の日本橋は、もはやそこに橋などない銀座数寄屋橋の交差点ほどにもランドマークとしての機能を果たしていないからだ。東京人を自認する人のどれくらいが、地図なしに東京駅や神田駅から日本橋まで歩いてゆけるだろうか? そしてまた、実際に日本橋の橋のたもとや橋上からの景観を、自らの経験に即してどれくらい想起できるだろうか? ここでは対自化された強い意味での景観が像として、言説として、問題として自立して、物理的な都市空間やその内部を身体で移動する経験からある程度切り離された位相を構成している。
ところで、日本橋の上に架かる首都高速道路を自動車で走るとき、この写真のような日本橋の姿は目に映らない。それは、高速道路を川に架かる橋の上にさらに架けるという過去の政策的な決定とそれに基づく工事の施工という、社会の世界に対するかかわりが、あるものを見えなくするという景観という点からするといわば「ネガティヴなかかわり」を生み出し、そのように生み出されたかかわりの関係のなかで、私たちが自動車という技術メディアを仲立ちにして、日本橋という客体=客観に対して「見えない」という関係を取り結んでいるということだ。この「見えない」という関係には、「見えない存在がそこにあることを知っている」という、知識や記憶を媒介にしたかかわりの位相が介在している。例えば東京の地理にあまり詳しくない人、日本橋の景観保存等に関心のない人、日本橋のことをよく知らない外国人や小さな子供といった人びとにとって、首都高速を走るとき日本橋は「見えない」のではなく、そもそもその存在が知られない、つまり「無いも同然」なのだ(このことは「景観問題」を考えるとき、重要な視点である。かつてそこに存在していた景観を知っている人にとっては「失われた景観」であるものが、すでにその景観の不在を所与として生きる人には「失われる以前に存在しない景観」であるからだ)。
首都高速からの日本橋の景観の不在が典型的に示すように、鉄道や自動車のような交通メディアの実用的な利用による視覚経験や身体経験の変容は、景観の見え方やあり方に新たな様相を付加し、そのあり方を変容させるのだ。車窓という枠によって切り取られ、そのなかで流動し、流れ去る景観は、同じ場所にたたずみ、あるいは歩行したときに見出される景観と同じではない。交通メディアは人間と世界とのかかわりを変容させる。鉄道や自動車はそれらに乗って移動する人びとの視界から近景を消去するし、公共交通機関の場合には本を読んだり、眠ったりして途中の景観を完全に見ないで過ごすこともできる。ヴェンチューリが『ラスヴェガスから学ぶこと』で示したように、郊外ロードサイドや都心のビルの屋上・壁面に並ぶ巨大な看板は、そうした視覚的経験の変容と、周囲の環境とのかかわりの変容に対応している★一二。また、もっぱら公共交通機関や高速道路によって移動するようになれば、その路線から見えない場所や離れた場所は、景観の経験のなかから消えてゆく。路面鉄道の撤去後、日本橋が地下鉄以外の鉄道の路線からはずれた場所にあることは、現代の東京における日本橋の景観のあり方を、首都高速と同じくらいに大きく規定しているはずだ。そしてもちろん、こうした近代的な交通メディアが必要とする線路や道路、高架といったインフラ・ストラクチュアが、景観として見られる世界に新たな物的要素を生み出していったことは言うまでもない。
こうして現代都市における景観、そして景観がそこで成立する人間やその集団と都市空間とのかかわりは、複製技術とそのメディア、交通メディア、巨大な人工建造物などに媒介されて、それ以前の都市や社会における景観や、その存立を支えていたかかわりとは異なる構造と様相を呈しているのである。

3──日本橋 撮影=増田圭吾

3──日本橋
撮影=増田圭吾

5  消去される景観/浮上する景観

日本橋を例として、現代都市の景観についてここまで考えてきた。だが、対自化された景観としてはほとんど見えず、ないしは見られないとはいえ、江戸から東京にいたるこの都市の歴史にかかわる記念碑的な建造物であることにより、景観としては依然特権的な位置を占めているという点で、日本橋はかならずしも一般的な例とは言えないだろう。そこで別の一例として、新宿駅を考えてみよう。
新宿駅の景観──対自化された強い意味での景観──とは、どんなものだろうか? 朝夕のラッシュ時のホームや改札、地下通路の風景といったものが、おそらく多くの人が思い描く「新宿駅の景観」である。だがしかし、それは「新宿駅の景観」という特定の場所と固有名詞に結びついた景観というよりも、新宿駅に典型的に見出される「東京の駅の情景」とでも呼ぶべきものだ。というのもそうした景観は、渋谷や品川や上野や東京と区別される新宿の固有性を表象しているというよりも、多くの駅でも見られる日々の風景の代表例のひとつにすぎないからである(それに比べて日本橋は、その姿がたとえ見えなくとも景観としての固有性、景観として語られ、論じられるだけの特権性を依然として誇っている)。
「新宿駅」の景観を、その個別性や固有性において想起することが難しいのはなぜだろう? 新宿駅には確かに駅舎(駅ビル)はある、だが、その建物は周囲の似たようなビルのなかに埋没し、よくよく自覚的に見なければそれ自体が景観としての輪郭を結ぶことはあまりない。かろうじて西口交通広場が、やはり都市空間のなかに半ば埋没しているとはいえ、奇妙な空洞のような場所として見出されるくらいだろう。そもそも、地下街や周囲の建物との連結によって、現在の新宿駅は明確な輪郭を結ぶことなく、周囲の都市空間にいわば「溶けだして」いるのだ★ 一三[図4・5]。
場所としてはわかっても、景観としてはよくわからない。それは新宿だけにあてはまることではない。東京駅や上野駅浅草口のような古典的な駅舎建築をその一部にもつ場合でも、それらによってちょうど看板建築のようにその景観性を担保されはしても、駅全体がある景観の単位をなしているわけではなく、やはり地下街や周囲の建物と連結し、相互浸透してしまっている。また駅の内部空間に関して言うと、ホームや地下通路、改札やキオスクなどの標準化され、定型化された施設が、個々の駅の場としての固有性を消しさって、どの駅も同じ「いくつもの駅のなかのひとつ」にしてしまう。こうした駅の景観の消去は、地下鉄の駅ではより徹底している。そこでは人は、行く先や出口を示す記号サインの指示にしたがって進めば、目的とする場所にゆくことができる。そこで人びとと世界とのかかわりを視覚的に仲立ちしているのは強い意味での景観ではなく、遮音壁で視界が区切られ、行き先表示のみを頼りに走る高架の高速道路においてもそうであるような、弱い意味での景観のなかの記号化された情報なのである。
だがそれは駅について、あるいは高速道路の高架についてのみ言えることなのではない。
レルフによれば、「二十世紀の後半は、ほとんどの人が自分の周囲に関する知識なしに暮らせるようになった初めての時代」かもしれず、多くの人が「借用した情報を使い、ガイドブックを読み、標識に従いながら都市を見て回ること」が十分可能になった時代である★一四。人はそこで、日常的な生活環境を対自的な景観として見ることなしに、ガイドブックやウェブ・サイトに示された情報と、都市空間内に散りばめられた記号を照合することで暮らしてゆくことができる。日常的に鉄道や自動車を使い、壁のように道の両側に並ぶビルの間の街路や地下道、駅やデパートのような巨大な公共建築のなかを移動する私たちの都市空間とのかかわりは、実際のところ仮に地下鉄の駅や高速道路でなかったとしても、限りなくそうしたものに近づいている。そこでは強い意味での景観が対自化される契機は、世界への日常的なかかわりのなかから消去されてゆく。都市における日常的な生活のなかから日本橋の景観を覆い隠しているのも、その上に架かる高速道路それ自体ではなく、そのような道路を使うことで周囲の景観を消去し、あるいは背景化して、そこに配置され、浮遊する記号やイメージを仲立ちとして都市や世界と関係する私たちのかかわりの形なのだ。
かつてケヴィン・リンチは『都市のイメージ』で、塔や橋、広場や宮殿のような極端な高さや広さ、大きさなどの形状の特異性によって周囲の場所から切り離されて見出される場所や、駅や駅前広場や交差点、それらの場所に設置された彫像など、多くの人びとの活動がその場所や建物に集中したり、交差したりすることによって人びとに認知され、記憶される場所を要素エレメントとして「都市のイメージ」を再構成しようとした★一五。「都市のイメージ」のエレメントは、生活する集落や都市の空間像の心的形成において有意味なものとして多くの人びとに選ばれ、空間認知の共通の「目印」として切り取られる。近代以前の多くの都市や、現在でも中小の規模の都市では、こうして形成される都市のイメージと、その都市で人びとが日常的に接する都市の景観とはほぼ対応関係をもつだろう。都市のイメージのエレメントは、そこでは都市景観のエレメントでもある。だがしかし、東京のような大都市では、リンチの言う意味での都市のイメージと都市景観とは必ずしもうまく対応しない。日本橋は依然として東京の都市景観の代表的な要素のひとつではあるが、都市のイメージのなかにうまく場を占めない。他方新宿駅のほうはと言えば、都市のイメージのなかに場を占めることは確実とはいえ、その景観としての様相はきわめてあいまいな像を結ぶにすぎない。そして何より、全体としての都市のイメージや、都市のイメージの内部での位置や方向を示す強い意味での景観などなくとも、私たちは弱い意味での景観とそのなかの記号やイメージのなかで暮らしていくことができる。
現代の都市や社会における「景観」をめぐる意識の高まりや浸透の背景にあるのは、景観と社会との間のこのような関係である。弱い意味での景観とそのなかの記号やイメージが支配的な場のなかで、景観は稀少な資源や資産となり、失われた過去としてのアウラを放ち始める。たとえば八〇年代に「超芸術トマソン」の賞揚によって注目された路上観察学は、このような強い意味での景観が無くなった都市空間のなかに、その土地の過去の生活の営みの痕跡として残るもの、弱い意味での都市空間のなかに走った時間の裂け目を、強い意味での景観として「鑑賞」しようとする試みだったと言えるだろう[図6]。他方、日常の生活環境のなかの環境を保全や奪還を訴え、郊外のロードサイドの景観の荒廃を批判する議論は、松原隆一郎や三浦展の議論がそうであるように、単に景観にかかわるのではなく、ある場所の視覚的経験のなかに景観としての強度を見出すような地域や社会へのかかわりの復活への提言である。景観を保全する、取り戻すとは、そのようなかかわりの保全であり、奪還なのだ。
駅前やオフィス街、さらには住宅地で隆盛を誇るクリスマス・イルミネーションや、再開発地区における人工的な景観のデザインと周囲の街並みへの視線の遮断等も、こうした都市のなかで景観を商品化し、専有しようとするものだ。こうした「景観化」とでも呼ぶべき試みは、ここまで考えてきた現代の社会や都市からの景観の消滅に抗して、新たな景観の復権を目指しているように見える。だがしかし、駅前やオフィス街、住宅地のライトアップは電光という刹那的な彩りにより、景観を純粋な視覚的娯楽のスペクタクルとして、その場所での人びとの日々の営みのかかわりから切り離されたイメージの次元で自足的に存立する 幻  像ファンタスマゴリーにしてしまう。再開発地区の人工的な景観デザインやその空間の内閉化もまた、電光ほどの儚さはもたないとはいえ、やはり他の営みやかかわりから遊離した自足したコンセプトやイメージによって、いわば「かかわりなき景観」をファンタスマゴリーとして演出する試みである。景観をそうしたファンタスマゴリーとして演出し、受け止め、享受することは、現代の都市や社会における私たちの「かかわりの形」を示している。
現在の都市やその郊外で展開する高層マンションの林立も、そうした都市のなかに強い意味での景観を屹立させると共に、その高層の窓からの眺めに新たな景観を見出そうとする、景観の所有と占有と資産化の欲望の表われとして理解することができよう。だがしかし、屹立する塔状の建物とそこから展望される景観とは相互に切り離され、出会うことのない像としてあるしかない。高層の建物のなかで、けっして手に触れることのできない窓外に広がる景観を眺めて室内に引きこもる人の姿は、現代都市の景観をめぐる社会的なかかわりの、ひとつの純化された形を示している[図7]。

4──新宿駅駅舎(駅ビル) 撮影=増田圭吾

4──新宿駅駅舎(駅ビル)
撮影=増田圭吾

5──新宿駅西口交通広場 撮影=増田圭吾

5──新宿駅西口交通広場
撮影=増田圭吾

6──超芸術トマソン 引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987)

6──超芸術トマソン
引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987)

7──高層からの景観 撮影=増田圭吾

7──高層からの景観
撮影=増田圭吾


★一──三浦展「『街育』のすすめ」(『脱ファスト風土宣言──商店街を救え!』洋泉社新書、二〇〇六)一四頁。
★二──柳田國男『明治大正史世相篇』の「風光推移」の章を参照。この点に関しては、佐藤健二『風景の生産・風景の解放──メディアのアルケオロジー』(講談社選書メチエ、一九九四)における議論や解説も参照。
★三──以下、柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社、一九八〇)を参照。
★四──Claude Lévi-Strauss, La Pensée Sauvage, Plon, 1962. (邦訳=『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、一九七六)。
★五──Jacob von Uexküll and G. Kriszat, Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen, 1934, Springer. (邦訳=『生物から見た世界』日高敏隆+野田保之訳、思索社、一九七三)。
★六──「少なくとも現在の私たちは」という留保をここでつけたのは、現代人の視覚経験が、後で述べるように、絵画や写真といったメディアによって抜きがたく規定されているからである。こうしたメディアが存在しない、あるいはさほど大きな位置を占めない社会における景観了解については、実証的なデータに照らした検討が必要である。
★七──Edward Relph, The Modern Urban Landscape, Routledge, 1987. (邦訳=『都市景観の二〇世紀──モダンとポストモダンのトータルウォッチング』高野岳彦+神谷浩夫+岩瀬寛之訳、筑摩書房、一九九九、一〇頁)。
★八──松原隆一郎『失われた景観──戦後日本が築いたもの』(PHP新書、二〇〇二)一〇──一三頁。
★九──こうした研究の先行事例として、前掲の柳田國男や、佐藤健二の仕事を挙げることができる。
★一〇──この時、絵画や写真もまた環境の一部であることを忘れてはならない。とりわけ現代の都市景観について考えるとき、「景観のなかへの景観の挿入」とでも言うべき映像の存在には注意を払う必要がある。
★一一──この問題については、五十嵐太郎「日本橋と首都高」(吉見俊哉+若林幹夫編著『東京スタディーズ』紀伊國屋書店、二〇〇五)一六五頁も参照。
★一二──R. Venturi, D. S. Brown and S. Izenour, Learning from Las Vegas, The MIT Press,1972. 邦訳=(『ラスベガス』石井和紘+伊藤公文訳、鹿島出版会、一九七八)。
★一三──平井太郎「駅が溶けだしている」(前掲『東京スタディーズ』二〇八頁)。
★一四──Edward Relph, 前掲訳書、三頁。
★一五──Kevin Lynch, The Image of the City, The MIT Press, 1960. (邦訳=『都市のイメージ』丹下健三+富田玲子訳、岩波書店、一九六八)。

>若林幹夫(ワカバヤシ・ミキオ)

1962年生
早稲田大学教育・総合科学学術院教授。社会学。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>三浦展(ミウラ・アツシ)

1958年 -
現代文化批評、マーケティング・アナリスト。カルチャースタディーズ研究所主宰。

>野生の思考

1976年3月1日

>都市のイメージ

2007年5月

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>吉見俊哉(ヨシミ・シュンヤ)

1957年 -
都市論、文化社会学。東京大学大学院学際情報学府学際情報学教授。

>平井太郎(ヒライタロウ)

社会学・相関社会科学。日本学術振興会特別研究員。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。