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世界建築地図の展開/〈伊東忠太+藤森照信〉のその後 近代アジア調査術 | 林憲吾
The Development of the World Architecture Map / After Chuta Ito + Terunobu Fujimori: Modern Asia Research Techniques | Kengo Hayashi
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。, 2006年09月発行) pp.134-141

一 近代アジア調査術の誕生

一九八五年、『東アジアの近代建築』という一冊の本が刊行された★一。これは、村松貞次郎退官記念として、藤森照信の主催で行なわれた同名の国際シンポジウムにあわせてのことであった。
巻末に付された近代建築のリストを見るならば、この本は、一九八七年以降、藤森を代表として展開していく「近代アジア都市遺産資産悉皆調査」の萌芽的存在といえる★二。しかしながら、そのはるかのち、幸運にも藤森(先生)を指導教官として仰ぎ、インドネシアを研究対象とすることを選択している僕自身の目から見れば、この本は、より意義深く見えてしまう。
というのも、ここで展開する近代アジア調査が、藤森照信という個人的身体には、回収しきれないと考えるからである。なぜなら、八〇年代以降、藤森を代表とするグループのアジアへの展開は、研究室という制度が生んだネットワークによって、少なからず可能になったのではないかと思うからだ。それゆえの、意義深さである。言うまでもなく村松貞次郎は、藤森照信の指導教官である。そして、八八年以降、藤森研究室の助手として近代アジア調査を引っぱってきた村松伸★三もまた、そこに関わっている。そしてその三人が東アジアの名の下にいる。まさに、「記念写真」。
と、ここでいうのも、近代アジア調査へと至る流れは、三人の関係が直接的、間接的に働いて、この時点では、すでに脈々と流れていたからだ。
藤森照信と村松伸とのアジア絡みの出会いには、逸話がある。一九八二年のある日二人は、本郷のカレー屋ルオーで偶然に出くわし、そこで上海の話を交わしたという★四。その日、村松は、ちょうど留学先の中国から一時帰国中であり、藤森は、ちょうど上海で近代建築の調査を行なおうとするところであった★五。この出会いを契機に、村松は上海で調査を手伝い、藤森との関係性を築くことになった。
藤森をはじめとする面々が、上海に足を踏み入れようとしていたその時期は、二年前に『日本近代建築総覧』(以下、総覧)が刊行され、日本における近代建築遺産の調査が一段落したころであった。そして、この上海調査が、日本に引き続いて藤森が近代建築調査として「アジア」に踏み込んだ最初であった。もちろん、『総覧』には、日本国内以外にも、韓国、台湾の近代建築がリスト化されている。しかし、それらは、かつての日本植民地という文脈を指し示す「外地」として括られており、「日本」に回収されている。その点において、日本の外という意味をはらんだ「アジア」へと出ていくものではなかった。
しかしながら、日本近代建築調査の後を受けて行なわれた、この上海での調査のあり方は、『総覧』のそれではなかった。まちをくまなく歩き、近代建築を発見し、記録するということは、未だなされなかったのである。
この「歩き」、「見て」、「記録する」という藤森たちの『総覧』の姿勢は、近代アジア調査においても有効であると考えられており、藤森以後のアジア研究を行なう若手たちを刺激していた。

私のような歴史家の方法では、都市はその形成史を知れば、すでに目の前にとはいえないまでも、それは頭の中に存在する。いや、存在していると錯覚できる。(…中略…)だが、彼らは、まず具体的な建造物を、自分で確認しなければ、都市そのものが存在していないと考えるらしい。そこで確認の旅に出る。『都市探偵団』である★六。


村松伸もまた、この「彼ら」に含まれているし、カレー屋で藤森に出会う以前から、『総覧』の姿勢に魅了され、中国を調査してみたいと思っていたという★七。
一方、藤森たちによる『総覧』の姿勢が生み出されるきっかけとなったのは、さかのぼること一九七四年、村松貞次郎がもらした一言であったという。その当時、日本近代建築研究は、明治初期のものに対しては、文献調査によって一段落したころだった。しかし、実際に残っている建物に関しては、明治のものが一部リスト化されていたものの、それ以後のものはなく、村松貞次郎の「そろそろ明治以降のものも調べた方がいい……」という茶飲み話に反応し、早速藤森は、堀勇良ともに、「建築探偵団」を始めたという★八。
こうした村松貞次郎─藤森照信─村松伸という歴史的な巡り合わせの結果、埋もれたものを発見する喜び、実物を見ることの重要性、それをリスト化し、歴史研究に供する必要性は、近代アジア調査術の核となった。しかし、それだけでは完成とは言えない。それは、『総覧』にはない、カウンターパートとの関係であり、「現地の研究者と対等な立場で調査研究すること」であった★九。この二つを組み合わせた形で、ようやく一九八七年から、一連の近代アジア調査がはじまり、一九九六年、『全調査  東アジア近代の都市と建築』(藤森照信+汪坦監修、筑摩書房)の刊行によって第一の節目を迎えた。

二 アジアを問う

藤森照信を代表としたグループが、アジアへと足を踏み入れていったのは、とりわけ特殊な動きということではなかった。一九八〇年代、九〇年代という時期、建築界にはアジアへと向かう動きがあった★一〇。戦後のアジアに対する研究は、戦時下のイデオロギーへの反省も相まって、アジアというフィールドへと出ていくものではなかった。そこには触れてはならないアジア、いわゆる「ネガティヴ・タブー」としてのアジアがあった★一一。しかし、戦後の「戦争を知らない世代」などと揶揄される次世代の研究者によって、七二年に国交が回復した中国への留学をはじめ、少なからぬ関心が、フィールドとしてのアジアへと、この時期向けられた。
それではこの時期、戦後に「ネガティヴ・タブー」を引き起こした「アジア」に付随する政治性は、果たして払拭されたのだろうか? そんなことはありえない。そもそも「アジア」という区分にまとわりつく諸問題が、侵略への帰結に深く根ざしている。さらにそれは、日本の建築界が「アジア」へと出向いた瞬間からはらんでいる問題でもある。
よく知られるように、日本の建築史研究が、アジアというフィールドへ出向いたのは、伊東忠太が最初である。一般に、伊東は、日本建築史学を創始した人物とされるが★一二、アジアというフィールドへの関心そのものもまた、日本建築史から派生している。法隆寺とギリシア建築との連関を論じた「法隆寺建築論」では、その連関を保証するものが、地理的にその間を埋めているアジア大陸であった。これにより、伊東はギリシアと日本の間に、推測の域をでない「見えない」つながりの糸を思い描いた。しかし、伊東にとって推測の域を脱するには、実際にそれが見えなくては仕方がなく、伊東のアジアへの関心は、それを「見る」という欲望によっていた。つまり、日本建築の源流をたどることが、アジアを「見る」欲望につながっていたのである。さらに言えば、文献史料が乏しいそれらの場所においては、「見る」欲望は、実地踏査をするという「歩く」欲望でもあった。
一九〇一年、伊東は紫禁城調査のために、中国(当時の清国)・北京に、約一カ月、足を踏み入れることができたが、彼のその欲望と最も釣り合いのとれた実地踏査というのは、やはり、翌一九〇二年から〇五年にかけた、中国大陸からインドへ抜けて、エジプト、トルコ、そしてもちろんギリシア、加えてイギリス、アメリカを経た、世界をぐるりと一周した留学旅行であったろう。「歩く」ことがかなったこの旅行の先に、彼が見せたものが、通称「建築進化論」★一三につけられた有名な図[図1]であるが、それには伊東にとっての「アジア」に変化が現われている。
ここに「アジア」という区分にまとわりつく諸問題が隠されている。伊東は、支那系などがまとめられた左の円を東洋(=アジア★一四)と呼び、ヨーロッパと対にして述べている。また、一九〇三年に岡倉天心が「アジアはひとつ」を、対西洋として提示していたように、それが、アイデンティティを喚起するものであろうと、西洋との対概念として扱われている。つまり、「アジア」という区分を使うことで、サイードが暴いた、「『東洋』と(しばしば)『西洋』とされるものとのあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」★一五と語るオリエンタリズムのなかに、彼らもまた縛られている。
一方で、踏査前のギリシアと日本の間の「アジア」は、日本という国民国家の枠組みを、西洋へとつなげることを担保したものであった。しかし、そのアジアは踏査の末、崩れてしまっている。にもかかわらず、ヨーロッパと同じように突出しようとするそのことによって、媒介するアジアを捨て、西洋とつながろうとする姿勢に、ナショナリズムが顔をのぞかせている。
西洋、日本、そしてアジア。これらを名指すことによって立ち現われるイズム。これら諸々は、伊東忠太以来、僕たちにまとわりついて離れない。一九八〇年頃からのアジアへの風、あるいは集落調査などを含めた西洋以外への動きは、西洋の近代主義批判という背景の中にあり、それもまた、二項対立を温存したオリエンタリズムの逆照射であった。そして、アジアへのフィールドワークが拡大した九〇年代は、むしろそのことを真摯に問い始めた時代とも言える。
藤森照信の「歩く」「見る」「記録する」の姿勢に惹かれ、それをアジアへと展開していくことになった村松伸は、自身を伊東忠太の生まれ変わりと言う。そう言う村松の真意は、単に伊東の大旅行に魅了されたということではなく、伊東と重ねることで、彼がアジアを相手にすることで直面したであろう、悩みや苦しみを析出し、抱え込み、それを乗り越える道を見つけだすことを自身に課そうとするからであろう。こうして村松は、ナショナリズム/オリエンタリズム/コロニアリズムの生き霊によって生まれる、「脱亜のバネとしての東洋建築史、体系化の不可能な全体像、植民地的支配の手先としての建築史」という三つを「伊東忠太的ジレンマ」として析出し、それを問い続けながら、アジア建築史の構想を目指すのである★一六。
また一方で、この時代、アジアと名指すこと自体にも疑問が呈された。けれども、何かを構築する際には、ある主体が必要となる。それでは一体、建築史を枠づける主体とは何か。あるいは世界を束ねるものとは一体何か。国家か、生態系か、経済か、民族か、あるいは個人か? こうして、歴史の客観的たりえない事実が噴出してくる。

1──世界建築の歴史的構造図 引用出典=伊東忠太「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」 (『建築雑誌』1909)

1──世界建築の歴史的構造図
引用出典=伊東忠太「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」
(『建築雑誌』1909)

三 伊東忠太と藤森照信★一七

一方、藤森照信は、それほど伊東忠太に関心を示さない。伊東忠太との類似性を示されることもあるが★一八、本人は格別興味がないようである。さらに言えば、「伊東忠太的ジレンマ」も、藤森は振り切っているかのように見える。おそらくそれは、藤森が、日本近代建築史を担ったからではないだろうか。
アジアでの悉皆調査における藤森の関心は、「地球の丸み」であった。具体的には、『全調査』、ならびに『日本の近代建築』でまとめられているように、日本に近代建築が入ってくる前のルート、とりわけヴェランダコロニアルと下見板コロニアルのルートを探ることであった。「近代建築」とは、不可避的に外部(=西洋)を含んでいる。その外部が、地球に沿って順に伝わる、その道程を日本から逆にたどっていくこと、それが目的であった。人の移動や情報の伝達には、さまざまな形がある。大航海時代以降から現代まで、地球を伝わる伝達の距離は圧縮され、つながりは複雑化している[図2]。近代日本の建築界においては、「建築に意識的なもの」、すなわち建築家などが、直接的に流れ込んでくるようになると、大地に沿って外部が順に伝わるという「地球の丸み」は、最早消えてしまうと藤森は言う。しかし、ヴェランダや下見板とは、その手前の「無意識的なもの」であり、地球を順に伝わってくると考えられ、藤森はそこに面白味を見ていた。
「日本から逆をたどって西洋に」という姿勢は、伊東との類似を想起するかもしれない。しかし、伊東が扱った法隆寺では、西洋への糸口が、極めて曖昧であったのに対して、この場合、「近代建築」ということが、少なくとも西洋とのつながりを保証していた。また、伊東にとって、日本建築の枠組みが、未だ自明でないゆえに、当初の「法隆寺建築論」でみせた「『日本建築』を終わり=目的においた物語」から、次第にずれていったとされるのに対して★一九、藤森は、「日本近代建築」へと帰結させる姿勢が、強くあったように思われる。そのことは、設計を行なう以前まで、海外へは、日本近代建築を知るためだけに行っていたと語ることからも伺える。そしてもちろん、こうした姿勢を可能にしたのは、先達によって「日本近代建築」という枠組みが、すでに構築されていたことによろう。
こうした確信犯的とも言える「日本近代建築」への帰結という伊東との差異によって、藤森は、アジアをフィールドとする際の「伊東忠太的ジレンマ」を、ナイーヴに持ちえずに済んだのかもしれない。しかしだからといって、アジアというフィールドで、藤森に「ショック」を与えるものがなかったわけではない。
藤森研究室の調査は、九〇年代初頭までの一連の中国での悉皆調査の後、ヴェトナム・ハノイを皮切りに、東南アジアへと調査を南下させていく。ここで実は、当初、中国を調査していたときに持っていたほどの気合いを、藤森は持てずにいたという。それは、ヴェランダを手繰り寄せることによる「地球の丸み」の獲得を、あるところから諦めたこととも関係している。しかし、そのことの前にまず、藤森の建築へのまなざしについて述べる必要がある。
藤森は、実際の建物を「見る」ことを非常に大事にしている。もちろん、モノを見ることの重要性は、関野貞以来の実証主義のモットーである。しかし藤森は建物を見るとき、モノに惚れ込んでいる以上に、モノの向こうの人を見ているように感じる。
建築を時間的に遡っていくときに大事なもので、写真や絵ではなく、実物でしか見えないのは、「つまらない細部・仕上げ」だと藤森は言う。そして、菱組の組み方や壁の表面の仕上げ方など、これらは、「変わる理由のない、どっちでもいいもの」と指摘する。「細部・仕上げ」に「つまらない」をつける絶妙な表現にすっかりやられてしまうのだが、つまり、ここで問題になる「細部・仕上げ」というのは、全体を構築する作業の中で、つくり手の自由度が極めて高い部分ということになる。しかし、えてしてそれが、つまらなく存在していることで、無意識的につくり手の「常識」として備わってしまい、理由がない限り、なかなか変わらない可能性がある。要するに、「つまらない細部・仕上げ」によって、お里が知れるから欠かせないのである。
「つまらない細部・仕上げ」とは、つくり手と同じ目線に立たないと表現しえない言葉であろう。建築とはつくることである。この至極単純なことを忘れてはならない。僕は、藤森(先生)といると、いつもそのことを喚起させられる。これは、藤森(先生)が、いまやつくり手でもあるからというわけではない。モノの向こうの人、それがたとえ建築家であっても、技術者であっても、素人であっても、彼らの「意識」、そしてここが重要だが、「無意識」に非常に敏感であり、そのモノの向こうを見る目によって、様式、技術、思想を統合した日本近代建築史を目指したのではないかと思えるのである。そのため、「つまらない仕上げ」を逆手に取って、自らつくり手となり、仕上げを自在に操ることもできる。さらに、設計をはじめてから、日本近代建築のためにというこれまでの考えとは異なるかたちで、スタンディングストーン、ピラミッド、最近はアフリカの泥の家等々を見に、それまで以上に世界を飛び回っている。しかし、そのまなざしに断絶はなく、飛び回る身体によって見られてきたモノは、『人類と建築の歴史』★二〇に著されるように、ある意味でつくり手の歴史として束ねられており、そのため、近代建築史も切断されずに取り込まれているのだと思われる。そして興味深いことに、「歴史の終焉」と叫ばれだした二〇世紀後半に対して、その書で描かれているのは、「歴史のまるみ」であり、それは、現代のつくり手たちに創造の可能性としてのはじまりの地平を切り拓いている。
しかし、こうしたモノを「見る」欲望は、アジアの調査のなかで「ショック」を生む。ひとつは、古いものが残っていないという現実である。建築される時点と、それを発見、評価する時点とには、時間的な距離がある。当然ながら発見の対象とする建築物が、より古くなれば、その間の距離はひらくが、動くこちらのほうも、動けば動くほど動いている間に時間の距離はひらく。つまり、発見・評価する「いま」という時点を、発見する者は切り離すことができず、さらに「いま」は刻一刻と揺れ動いている。伊東忠太が、関心を寄せる建築物がつくられた時点と、帝国列強が進出する「いま」とを切り離すことができなかったように、「近代建築」と雖も、建設の時点と経済発展により変貌するアジアの諸都市の「いま」との間の距離を、無視することはできない。さらに、八〇年代の上海と九〇年代のハノイ、あるいは現在の上海では、社会的様相は異なり、ある時点との距離には、けっして一括りにできない多様な変貌がある。いわば、その距離がある限り、建物が残っていないことへの「ショック」は、誰もが必然的に味わいうるものでもあるのだ。
二つ目は、建物に対する価値観の相違である。それは、歴史研究者と一般の人とのずれとしてでもあるが、歴史研究者同士の間にもそれは生じる。最古のものを示す「原型的なもの」に対する、藤森と相手側の研究者との関心の違いを、当時感じていたと言う。
三つ目は、タイまで行ったときに感じた感覚的な違いである。これは、つくり手の「常識」、すなわち造形の原理が、日本からの延長では理解できないということであった。これこそまさに、藤森がモノの向こうの人を見つめているといえる所以である。
しかし、もちろん「ショック」ばかりではない。当初の関心とは別に、面白いこと、調べるべきことがたくさんでてきたと言う。おそらく、それを探求するには、ある意味で「日本近代建築」を切断して、新たにアジアに身を投じる必要があったのではないかと思われる。それは、タイでのショックを乗り越えることにもつながる。
とはいえ、設計という新しい魅惑は、これらを探求することをまだ可能にさせてくれない。そしてアジア近代建築の魅惑は、おそらく今後も設計に勝てないだろう。いや、だけれども、中国、ヴェトナムなどでの発見や興味を、実に魅力的に語ってきかせてくれるその時は、確実に、アジア近代建築に後ろ髪をひかれていると思えるのだ。

2──(上)世界の主要30空港およびそのネットワーク、 (下)世界の主要30通信局およびそのネットワーク 引用出典=Arjen van Susteren, Metropolitan World Atlas, 010 Publishers, 2005

2──(上)世界の主要30空港およびそのネットワーク、
(下)世界の主要30通信局およびそのネットワーク
引用出典=Arjen van Susteren, Metropolitan World Atlas, 010 Publishers, 2005

四 〈伊東忠太+藤森照信〉のその後

だからこそ僕たちは、「ジレンマ」や「ショック」を抱えながら、アジアのフィールドに立つ。ハノイ調査以後も、藤森・村松研究室が調査をするアジアのフィールドは、面的に拡がっている。南へは、タイ・バンコク、インドネシア諸都市、マレーシア・マラッカなどのほか、モンゴル・ウランバートルやウズベキスタン・サマルカンドなど、中央アジアへも展開している[図3]。政治的、経済的変化や、培ってきた人的ネットワークによって、これらの地域で調査が可能となり、各地の近代建築の現状が、知られてきている。それゆえ、近代建築研究の第一歩として、史料となる実際の建築物の在り処を知る悉皆調査は、有効である。しかし、それだけを目的とするべきではないし、ましてや記録することそのものが、自己目的化してはならない。これまでの経験的な「ジレンマ」や「ショック」から、常にその行為と、その先を見据えていく必要がある。
昨年、山形国際ドキュメンタリー映画祭の大賞を受賞した『水没の前に』(監督・編集:リ・イーファン+イェン・ユィ)は、あたかも僕たちに、「何のために記録するのか?」と問いかけてくるようだ。この映像は、二〇〇九年に完成予定の世界最大の三峡ダム建設によって水没してしまう中国・重慶市奉節のまちの人々を映し出したものである。そこには、移住を強いられる人々の不安や葛藤、苛立ちと同時に、解体されゆくまちが現われている。一九九〇年に悉皆調査が行なわれた重慶の東北に位置するその場所は、李白の詩にも登場する歴史ある場所である。しかし、生活の危機が差し迫る場所で見たものに、監督は次のように吐露する。「けれど一体どのような詩ならば、ひとりの老人がやるせなく流す涙を、あるいは十把一絡に扱われた苦力たちの犬のような生活を書きとめることができたのだろう。廃墟のなかで誰もが口喧しく話題にするのは『家』のことだけ。家こそが理想のすべてであり、価値のすべてなのだ」★二一。
しかし、ここにでてくる「家」は、最早建築物としてのそれではない。この映画には、ひとつの教会に関わる人々の模様が、取り上げられている。一九〇五年に建設されたこの教会は、開港後に入ってきた宣教師によって建てられた近代建築であるようだ。もしも、ここで悉皆調査が行なわれていたとしたら、おそらくこの教会はリスト化されていたであろう。こうした建物であるが、実際この現場で建物について議論されるのは、解体費用や、古材の値段などに関してであり、建物は、「材」の価値にまで還元され、経済的利益を巡る諍いを引き起こすもととなる。人々とは切り離されたモノになって解体されていく、それが最後の教会の姿であった。
もちろん、差し迫る危機を前にして、歴史的な価値を言いたいのではない。むしろ逆に、歴史的な価値とは何なのかと自問せざるをえない。そしてそこから、差し迫る危機、あるいは急速な環境の変化が、人々の思考から忘却させてしまうもの、あるいは奪い去ってしまうものとは、一体何であるかを考える必要がある。それは、その建物がなぜこれまで残ってきたのかという問いであり、それへの答えである建物を使ってきた人々、そしてこの場合は、自分たち自身の存在なのである。危機のなかで、その記憶は弔われることのないまま、誰のなかでも一瞬にして消え去ってしまうかのようだ。カメラが記録する「いま」だけが、それを喚起している。
建築はつくることであるが、同時に建築物は使われる(住まわれる)ものである。モノの向こうの人には、まぎれもなく建物を使ってきた人も含まれる。そして、僕たちが発見する近代建築というのは、往々にして使用されている、すなわち、生きている建築である。とするならば、なぜそこに残り続けているのかを看過すべきではないだろう。「いま」の価値は、常に揺れ動く。それゆえ、評価をすることは困難である。しかし、建設時点と「いま」との距離、それを意識しない限り、僕たちがアジアというフィールドで侵略の結果である植民地建築を評価することは、コロニアリズムの裏返しであるとする批判に足を絡めとられてしまう。
さらにこの意識は、「いま」を評価することだけの問題ではない。「つくり手」が持つ意識的、無意識的造形原理の変容を理解することで、近代建築史が拓かれてきたように、「使い手」の意識的、無意識的な生活原理の変容を理解することも求められるだろう。したがって、モノの向こうを見通し、ある地域におけるそれらの原理を歴史的に理解しようとするならば、先程述べたように、その地域に身を投じる必要がでてくる。それは、近代建築の文化人類学的アプローチのようなものだろう。しかし、その時、世界を点々とする足取りの軽さに対して、足取りの「鈍さ」が不可欠である。何度とそこを訪れ、深みにはまる。相手の「常識」をつかむには時間はかかるが、どうやらそれしかないだろう。
いま、世界の地域研究は、ますます拡大している。その時に、相同性を保証するような「アジア」は、もうない。しかし、個々の「鈍さ」に対して、個人的身体を超えたつながりを生むような引力としての「アジア」があるとき、世界建築地図は、個々の成果によって、「地球の丸み」以後のものすら見せるものになるだろう。それをつくりだしていくための時期に、そろそろ入っているのかもしれない。

3──藤森・村松研究室、都市遺産資産悉皆調査実施箇所 村松研究室作成

3──藤森・村松研究室、都市遺産資産悉皆調査実施箇所
村松研究室作成


★一──村松伸+西澤泰彦編『東アジアの近代建築』(村松貞次郎先生退官記念会、一九八五)。
★二──村松伸「あとがきに代えて」(『全調査  東アジア近代の都市と建築』筑摩書房、一九九六)。
★三──現、東京大学生産技術研究所助教授。
★四──村松伸からの話による。
★五──藤森照信インタヴュー、二〇〇六年七月一〇日。
★六──加藤祐三「はじめに」(『アジアの都市と建築』鹿島出版会、一九八六)。
★七──村松伸からの話による。
★八──前掲、藤森照信インタヴューより。
★九──村松「あとがきに代えて」、前掲書。
★一〇──この時期のアジア建築史の動向については、村松伸「アジア建築史をいかに構想するか」(『アジア建築研究』INAX出版、一九九九)を参照。
★一一──布野修司「近代日本の建築とアジア」(『建築思潮03』学芸出版社、一九九五)、あるいは磯崎新も「アジアを妙に言うと必ず火傷する」と述べる(磯崎新+原広司+布野修司「アジア建築と日本の行方」(『建築思潮03』)。
★一二──稲垣栄三「第一章  建築史研究の発端:伊東忠太と関野貞」(『建築学発達史』日本建築学会、一九七二)。しかし、このことはそれほど自明のことではない。
★一三──伊東忠太「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」(『建築雑誌』一九〇九)。
★一四──ほかの論考において伊東は、東洋と亜細亜を混用している。たとえば、伊東忠太「東洋建築史概説」(『伊東忠太著作集四  東洋建築の研究  下』原書房、一九八二)を参照。
★一五──エドワード・W・サイード『オリエンタリズム  上』(平凡社、一九九三)。
★一六──村松伸「アジア建築史をいかに構想するか」(『アジア建築研究』)。
★一七──この節は、前掲の藤森照信インタヴューを元にして構成した。
★一八──五十嵐太郎「天下無双の建築(史)家」(『ユリイカ』二〇〇四年一一月号、特集=藤森照信  建築快楽主義、青土社)。
★一九──青井哲人「伊東忠太再考──二つの『世界建築史』をめぐって」(『建築思潮03』)。
★二〇──藤森照信『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、二〇〇五)。
★二一──『YIDFF2005  公式カタログ』二〇〇五。


藤森照信先生には、本論を書くにあたって貴重なお時間を割いてインタヴューに応じていただきました。その話は、いつもながら魅力的で、実に楽しいものでありました。また、村松伸さんには、多くの細々とした質問や相談にのっていただきました。お二人には、ここに日頃からの感謝の意を表わすとともに、お礼申し上げます。

>林憲吾(ハヤシケンゴ)

1980年生
総合地球環境学研究所研究員。都市・建築史。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。

>村松伸(ムラマツシン)

1954年 -
建築史。東京大学生産技術研究所准教授、modern Asian Architecture Network(mAAN)主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>青井哲人(アオイ・アキヒト)

1970年 -
建築史・都市史。明治大学准教授。