どんな思想も文学も、目玉が死んだらおしまいだ★一。
正直に言おう。ファンである。
私は藤森照信の良き読者とはいいがたいが、愛読者であることは間違いない。『タンポポの綿毛』は新聞連載時から毎週心待ちにしていたし、「建築探偵」シリーズのページを繰って近代建築めぐりの旅心を誘われたことも一度や二度ではない。そんな私が藤森を論じるなど、おこがましいにもほどがある。おまけに、私の本業はいちおう民俗学。建築史は門外漢なので、彼のアカデミックな評価に関しては当然ながら不適格だ。
というわけで、ここで筆を擱いても私としては一向に差し支えないのだが、さすがにそれでは諸方面に申し訳が立たない。単なる〝信仰告白〟に堕することを恐れつつ、もう少し駄弁を重ねてみよう。
では、藤森の何が私を惹きつけるのかといえば、彼の〈民俗学的想像力〉にほかならない。いきなり核心に至ってしまったが、そういうことである。建築史家藤森の感受性と行動力には、幾重にも〈民俗学〉が折り込まれているのだ。
このことは、〈民俗学〉に親しみつつ藤森を愛読する私のような読者にとってはほぼ自明のことなのだが、そうではない大多数の読者にとってはやや分かりにくいことかもしれない。そこで、藤森照信という〈思考する身体〉を〈民俗学〉から解剖してみることが本稿の目的である。
「民家」というもんだい
その前に確認しておいたほうがよいだろう。
民俗学と建築史学の交点にあるのは、何はともあれ「民家」である。ところが、その「民家」について今日の民俗学がどれほどの成果を誇るかといえば、じつははなはだ心許ない。
成果がないわけはない。日本民俗学の創始者・柳田國男は建築学者・佐藤功一らとともに「白茅会」を結成、民家の実地調査に着手するなど、その学問的経歴の最初期から民家への関心を示してきたし、佐藤・柳田の助手的役割から民家研究をスタートさせた今和次郎は、各地の採訪を続け、やがて名著『日本の民家』(一九二二)を世に問うことになる。
ところが、である。柳田・今に続く民家研究として民俗学は何を共有してきたかと問われると、途端に雲行きが怪しくなる。後が続かない。もちろん、柳田・今以後、現在に至るまで、真摯な調査を続け堅実な分析を重ねてきた民俗学者は少なくない。にもかかわらず、そこから何かが学界全体のアジェンダとして共有されたわけではなかったのである。
理由はいくつも考えられる。高度成長以降のいわゆる「伝統的」な民家の消失はおそらく最大の原因だろう。建築史学における民家研究法の確立が「民家」という入会地的なフィールドを建築史学にひきつけていったこともその要因のひとつだろうし、文化財保護行政における「民家」の保存と活用が建築史学を中心にすすめられたこともそれに拍車をかけただろう。さらには、柳田國男が民俗学の対象たる民俗資料を「有形文化」「言語芸術」「心意現象」の三部分類に定式化した際、外国人が目で見てわかる「有形文化」よりも郷土人が心で感じることによってしかわからない「心意現象」のほうを究極的課題として措定したことも、「民家」を含む物質文化研究の軽視を招いた遠因として指摘できるかもしれない。
そんなわけで、真っ当に「民家」について考え直そうとすると、今和次郎あたりまで溯って考えることが必要になる。幸いなことに『日本の民家』は岩波文庫に収録され、今でも簡単に手に入る。そしてここでわれわれは、文庫版解説の執筆者・藤森照信に出会うことになる★二。
さて、藤森が今に見出すのは、〈人と物との初原の関係の面白さとせつなさ〉への感受性である。
白樺派の一つとして誕生した民芸運動は、農民の制作物の中にあくまで“美”を見ていたが(民芸派に肥溜は鑑賞できただろうか)、彼はちがって、農民の工作物の中に工作そのものというか、美の発生以前のもっとプリミティブな〈人と物との初原の関係の面白さとせつなさ〉のようなものを感受していた★三。
この〈
1──藤森の故郷・長野県諏訪郡宮川村高部
引用出典=藤森照信『タンポポの綿毛』(朝日新聞社、2000)
〈常民〉であるということ
では藤森はいかにして〈初原〉への感性を獲得したのだろうか。それは、彼が根っからの〈常民〉だからだと思われる。もちろん藤森が自らを〈常民〉として言挙げしたわけではないが、彼の身についた生活感覚と生活技術はきわめてオーソドックスな意味において〈常民的〉だ。
藤森の生まれは山国信州。そんじょそこらの田舎ではない。〈初原〉の土俗的パワーみなぎる「御柱」の祭礼で知られる諏訪神社、その筆頭宮司であるジンチョウサマ、神長官守矢家の在所となる諏訪郡宮川村(現茅野市宮川)こそが藤森の生地である[図1]。藤森が故郷を語った文章としては『タンポポの綿毛』(二〇〇〇)が最もまとまっているが、ここでテルボこと幼少期の藤森の視線から活写された宮川村の光景は、小品ながら躍動的な
藤森の幼少期はあらゆる面にわたって〈常民的〉だ。茅葺き屋根の家に生まれたというだけでも十分に〈常民的〉なのだが、それよりなにより食べ物がスゴい。山羊乳に病みつきになって、つながれている山羊の乳から直に飲もうと試みるのはまだカワイイほう。ハチノコは甘くて栄養もある御馳走。ヘビを食べ、チョウを食べ、トンボを食べ、はてはサンショウウオ(しかも生)まで食べている。
食べ物だけではない。農作業や川での漁撈、山での採集は
そして何より印象的なのは、災害時に露呈する隣村との生死をめぐる苛烈なまでの緊張関係である。諏訪地方は山国ゆえの大水が頻発する地域であり、今年夏の集中豪雨でも鉄砲水による被害の記憶が生々しい。防災にあたる大人たちの姿が、少年テルボによって次のように描かれている。
西沢は、高部とジュグジ(神宮寺)の境の川で、こっち側にはこっちの、あっち側にはあっちの人たちが並び、ときどき、足元の水際に引っ掛かる流木なんかを棒でつついて流し去る。子供たちとはちがい、日ごろは声を交わす高部とジュグジの大人たちなのにけわしい表情で向かい合い、口もきかない。どうしてなんだろう。大人になってから教えられたのは、子供には思いもよらない事情だった。目的はもちろん土手の崩壊を防ぐためだが、血相を変え手に手に長い棒を握っていたのは、流木が引っ掛かるのを防ぐ以上に、棒が村を護る最後の手段だったからだ。濁流の水位がジリジリと上がり、ついに土手を越え、洪水を引き起こすことになるが、そのまさに越えようとするとき、対岸を棒で一突きする。土手は水を吸ってゆるくなっているから、一突きで小さなヒビでも入ると、そこから漏水がはじまり、土手は崩れる。相手の突きを防ぎ、最後の瞬間には相手のゆるんだ土手を突くための棒だった★四。
これを〝前近代的共同体意識〟と言わずして何であろうか。
かように藤森の幼少期には、高度成長以降に生まれた私のような世代には体験しえない濃厚な民俗的世界が息づいている。藤森が〈常民的〉な感受性を育んだのも当然といえよう。柳田國男により構想された〈民俗学〉が、〈常民の、常民による、常民のための学問〉、すなわち、意識化されることのない常民の日常生活に対する常民自身の再帰的・批判的認識力を起ち上げることにあったとするなら、藤森の学問はきわめて〈民俗学的〉である。
歩く/見る/聞く
藤森照信という〈思考する身体〉の起動力が彼の内に育まれた〈常民性〉にあることを確認したうえで、その技法を具体的に解剖していこう。
まずは〈足〉。探求のための歩く力である。藤森は〈日本近代建築史研究のための三大プロジェクト〉として、〈日本中の近代建築を見ること〉、〈すべての近代建築書を読むこと〉、〈すべての建築家の遺族をたずねること〉の三つのプロジェクトを立ち上げたという★五。気宇壮大、勇壮無比というほかはないが、モノを見るにしろ、ホンを手に取るにしろ、ヒトに会うにしろ、積極果敢なフットワークは必要不可欠の探求ツールだ。じっさい、山国信州を駆けめぐって鍛え上げられた藤森の足はおそろしく強靱である。全国各地津々浦々の近代建築行脚を敢行し、お雇い外国人建築家の足跡を追って世界を巡り、はては、無許可で入り込んだ宅地で家人や番犬に見つかった際には〝脱出装置〟としてフル回転する。藤森学の〝下部構造〟は、間違いなくその柔軟にして鍛え抜かれた〈足〉にある。
次に〈目〉。観察のための見る力である。建築史学が建物というモノを対象とする学である以上、モノを見る目の力はアルファにしてオメガである。ここでもやはり、縄文パワーみなぎる諏訪の地で鍛え上げられた藤森の目は驚異的だ[図2]。どのくらい驚異的かというと、目の達人たちの集まりである「路上観察学会」のメンバーをして「神様」といわしめる林丈二をして「僕のあこがれている猫の視点と動きを会得されている」と言わしめるほど驚異的だ★六。ここで「猫」とは、対象に対する視点の高低、遠近を敏捷に変化させながら対象に肉迫する、しなやかな視線のあり方を示しているのだが、マクロな都市景観からミクロな建築装飾まで、森羅万象を徹底的に眺め倒す藤森の視線は、確かに「猫」的といえよう。
藤森は見ることのありようをしばしば「相撲」のメタファーで語っている。
プロの見る人は、相撲を取るように見る。建物を相手に目玉で相撲を取る。相撲だから白星と黒星がある。相手の建物の作りや美しさや社会的背景などなどについて新しい発見をしたり、相手に触発されてデザインの原理やあり方について思いを巡らした時は白星。ただただ漫然と楽しんだり、建物に圧倒されて言葉を喪った時は黒星。その建物の設計者が書いたり語ったりしていることを実物から読みとっただけでは黒星。設計者さえ自覚していないことを読みとると白星★ 七。
目の力は、語られたこと、書かれたことを越えるなにものかを見出せなければならない。藤森はまた、現実世界と対峙していたはずの学問が、いつのまにか紙の上の文字列を対象と勘違いしてしまうことの倒錯性、紙の上に書かれたことを確認するためだけに現実世界が参照されることの不毛性も指摘している★八。これらの指摘はきわめて重い。というのも、これが建築史学のみならず学問一般への問題提起となっているからだ。
じつは民俗学においても、かつてこれと同様の批判が試みられた経緯がある。歴史学が依拠する〈文字資料〉が、
そこまではよい。しかし、である。先にも述べた通り、民俗資料を目で見る「有形文化」、耳で聞く「言語芸術」、心で感じる「心意現象」の三部に分類した際、
〈民俗学的想像力〉の本願に立ち返って、目玉の力、その技法と論理を再確認すべき必要は確実にある。建築と民俗。いっけん対象こそ違え、藤森の〝目力〟に学ぶべき点は多分にありそうだ★九。
そして〈耳〉。聞き取りのための聴く力である。藤森は〈すべての建築家の遺族をたずねる〉プロジェクトを敢行しただけあって、聞き取りの作法も堂に入ったものである。設計者や施工者や使用者の語る逸話の面白さは「建築探偵」シリーズに遺憾なく発揮されているし、大著『丹下健三』(二〇〇二)でもその成果が縦横に駆使されている。発表された作品からみる限り、人との出会いの量と質、話題の広がりと奥行き、聞き手の心構えなど、藤森が一級の「聞き手」であることは確実だ。
とはいうものの、正直なところ、作品としてアウトプットされた文章のみから、一定の時間と場所と社会的制約の下に遂行された「聞き取り」というプロセスを再構成することは至って困難である。テクストに取り上げられなかった発言や、発言の〝間〟や、発言の際の仕草、あるいは聞き手の応対といった、「聞き取り」というパフォーマティヴな場を構成している多くの重要な契機が、完成された作品においては消し去られているからである。こうした「部分性」は聞き書きという技法の本質であり、不可避的な限界である。この点は十二分に踏まえられなければならない。
そのうえで、そのことを理由に聞き書きを拒絶するか、限界を認識したうえで創造的な活用を模索するかは、個々人により対応の分かれるところだが、藤森はいうまでもなく後者である。たとえば、建築史家・鈴木博之とともに聞き手として臨んだ『建築縦走一九一〇─一九六〇──うねりの時代を共有した建築人の歩み 田中一対談集』(田中一ほか著、建築知識、一九八五)は、下元連、村野藤吾、竹内芳太郎、藤島亥治郎、吉川清一、西山卯三といった日本近代建築史の生き字引的存在である建築家、建築学者たちのきわめて貴重なインタヴュー集だが、その「聞き手あとがき」において、次のように述べられている。
しかし、建築史研究の立場、いや、より正確には、建築史記述の立場から申すと、歴史記述が現在の読者に対してリアリティを持つのは、一にかかって、過程の具体性、にある。この一連の聞き取りにおいて、我々が意図したのは、当事者のみが知るこうした具体的過程を記録しておこうということであった。よって、因の分析にも、果の評価にもほとんど関心を示していない。むろん、いずれ因果は論じられなければならないが、しかし、どんな論考も、過程のリアリティなしには説得力を持ちえないことは忘れてはならない★一〇。
聞き取りの魅力とは、語り手の〈声〉がもつリアルな当事者性、具体性にある。この見解はまったく正しい。そしてそれこそが、聞き書きという技法に内在するさまざまな困難を乗り越えてなお、聞き書きという技法に賭けるべき動機の根拠である。
およそ何事かを考え、そのデータを求めるとき、その回路は、つまるところ、見ること、聞くこと、読むことの三つである。そしてそれには、それぞれの限界と効用がつきまとう。どの回路をいかなる配分で用いるかということは、研究者の関心と研究対象の属性が自ずから決めるところだ。いずれかの回路を原理的に排除する必要は全くない。〝方法論的折衷主義〟は健全なる態度である。その意味で、モノを対象とする建築史というディシプリンに携わりながら、モノをめぐるコトバにも研ぎ澄まされた感性を見せる藤森は、いたって健康的といえよう★一一。
2──藤森の“目力”
引用出典=林丈二「路上の正しい歩き方」『路上観察学入門』(ちくま文庫、1993)
構想力と表現力
ここまでまとめると、藤森学の基礎にあるのは〈強靱な足腰に支えられた粘り腰の目と耳〉である。それは間違ってはいない。少なくとも私にとって魅力の半ばはそこにある。だが、それだけでもない。もう半分残っている。それは、藤森の〈頭〉と〈舌〉、すなわち構想力と表現力である。
日本のアカデミーというのは、実証力に偏っているんですよね。もちろん実証力というのは学者として基本的なことだし、科学的というか客観的なことですよね。ただ事実というのは無限にあって、どの事実を取り上げるかという選択は客観的じゃないわけ。そこでは大きな構想がないとだめです(…中略…)。実証力の成果というのは、専門家が認めてくれる。構想力まで付けば、建築界で認めてくれる。だけど世の中の人たちに分かってもらいたい時にはどうしても表現力が必要だよ★一二。
いかに鍛え上げられた〈足〉と〈目〉と〈耳〉があったとしても、それを定位させる「構想力」がなければ事実の発見は不可能であるし、それを記述する「表現力」がなければ発見の価値を伝えることはできない。きわめて真っ当な指摘である。そして藤森は自らそれを実践する。藤森の軽快にしてユーモラスな文体の魅力に取り憑かれた読者は少なくないだろう。そのユニークな〈舌〉は、アカデミックな文体が取りこぼすさまざまな事象を掬い上げ、その意味するところを余すところなく伝えている。藤森的文体の魅力については、最早多言を要すまい★一三。
むしろ、ここで考えたいのは、藤森の〈頭〉すなわち構想力のほうである。きわめて独断的に述べるなら、彼の構想力が最も濃縮された作品は『人類と建築の歴史』をおいてほかにない。
何がスゴいといえば、ジュニア向け新書、原稿用紙でたかだか二〇〇枚に満たない紙面で「人類と建築の歴史」という大テーマに取り組もうという心意気がまずスゴい。古今東西、地球上に現われては消えた建築のすべてをまがりなりにも俎上に載せようという発想の大胆さはきわめて魅力的だ。もっとも、グローバルな共通性をもつ〈初原〉の竪穴式住居と二〇世紀のモダニズム建築との間、四大文明から大航海時代を経て産業革命に到る多様なローカル建築の全盛期を一気にスキップするというアクロバティックな抜け道を駆使してのことではあるのだが、それでも、始点と終点に統一性があり、その中間に多様性が存在するという「紙に包んで捻ったアメ玉」モデルによって人類建築史を把握する見晴らしのよさは十分に説得的だ★一四。藤森の構想力の魅力は、第一に、この〈人類史に
とはいえ、人類史というマクロな見通しと引き替えに、個々の建築、その立地環境、あるいは細部の意匠といったミクロな個別性を放棄するわけではけっしてない。事象の具体性を捨象すれば抽象的な一般化はいくらでも可能だが、そんな「早上がり志向」の一般化にさしたる意味はない。大切なのは、〈個別〉に責任を持ちうる〈一般〉、ミクロとマクロを往還する柔軟な構想力だ。そんなわけで、目の人・藤森はモノが織りなす世界の豊饒さを決して捨て去ることはない。一方、マクロな見通しを断念することもない。
そこで鍵となるのが〈
しかし、だからといって、すべてが唯物論的に説明されるわけでもない。建築が人間の所産である以上、精神の介在は当然組み込まれなければならない。そして藤森はそのことを忘れていない。たとえば、神殿建築の発生については、人類の狩猟採集段階の地母信仰と農耕段階の太陽信仰とが、内部での安らぎとともに外部への威厳を志向する契機となっていることをきわめて大胆に論じている。ある建築がその固有の環境においてなぜそのような姿をとるに至ったのか、つきつめて考えていくと、マテリアルな説明の有効性はある段階で消失し、人間の意志の力もどこかで破綻し、最後には、非合理で不可解なヒトの感性が頭をもたげてくる。それは無意識的な慣習かもしれないし、アナーキーな思いつきかもしれないが、いずれにしろ、ヒトが住まうこと・建築することの根源には、理性や法則では割り切れない始源的・発生的な感覚がつきまとう。そんな〈プリミティヴな感性への配慮〉が第三の魅力である。
人類史へのまなざしを保持しつつ、それでいて、〈人間〉や〈自然〉や〈社会〉といった大文字の概念に単純に回収・解消されることを拒絶し、モノの微細な形状とヒトの繊細な感情が織りなす世界の豊かさにどこまでも肉迫していこうとするしなやかなスタンス。藤森の構想力の核心にあるのは、そんなしたたかさだ。
〈民俗学者〉としての藤森照信
以上、藤森照信の魅力を手前勝手に〈民俗学〉にひきつけつつ解剖してみた。〈常民性〉に裏打ちされた〈足〉と〈目〉と〈耳〉、そして構想力と表現力というのが、そのさし当たりの答えである。
そして思う。これは、〈民俗学〉そのものではないのか、と。普通の人々の日々の暮らしのなかから立ち現われる生活をまるごと捕まえようとする大胆な問題意識。己の持つ五感を総動員して対象にアプローチしようとする身体レヴェルの方法論。既存の学問分野の分節からはこぼれ落ちる、〈生きることの原形質〉のようなものを掬い取ろうとする柔らかな構想力。〈常民の、常民による、常民のための学問〉としての〈民俗学〉の本願がそのようなものであったとするなら、建築をめぐるモノとヒトの幾重にも入り組んだ関係性を解きほぐす藤森の作法は、まさしく〈民俗学〉である。
誤解のないように言い添えておくと、これは、かつてどこかに存在した歴史的実在としての民俗学について述べているのではない。ここで述べた〈民俗学〉の本願とは、構想されては消えていった泡沫の夢のようなものであり、現存する民俗学がそれを担い得た例はこれまでのところ一度もない。一介のディシプリンに成り下がってわずかばかりの既得権益の維持に汲々とする民俗学に、そもそも期待はしていない。
〈民俗学〉とはそんなものではない。リアルな世界のもつゴツゴツとした質感にこだわり続けること。既存の学問による世界の分節化に不断に抵抗する矜持。それは、〈アンチ・ディシプリン〉なのかもしれないし、〈プロト・ディシプリン〉なのかもしれない。そんな地平にこそ〈民俗学〉の本願は胎動する。
それゆえ、私が藤森を〈民俗学者〉と称するのは、彼が民俗学者のように惰性で学問をやっていると批判しているからではない。来るべき〈民俗学〉を予感させる藤森の思考と方法を、きわめてポジティヴに受けとめたいからにほかならない。
人類史的なパースペクティヴ。モノへの意志。感性への配慮。それらの微妙なバランスを綱渡りする〈民俗学者〉藤森照信に学ぶべき点はきわめて大きい。それは、けっして藤森のエピゴーネンになることではなく、それぞれの読み手がそれぞれの文脈でそれぞれの対象と向き合うなか、それぞれの〈民俗学的想像力〉を飛翔させるためのきっかけとして、藤森を創造的に流用することから始められるのだろう。
そんなわけで、藤森のコトバに耳を傾けることで、この稿を閉じることとしよう。
どうせ自分のやることはたかが知れているのだから、やりたいことを心おきなくやればいい。起きて半畳、寝て一畳★一五。
註
★一──藤森照信「路上観察の旗の下に」(赤瀬川原平ほか編『路上観察学入門』ちくま文庫、一九九三、二六頁)。
★二──文庫版解説については川添登により問題点が指摘されている(「今和次郎『日本の民家』再考──藤森照信氏の「解説」批判」[『生活学』一五号、一九八九])。私自身もいくつかの民俗学史に関わる事実誤認を確認したが、本稿の関心は藤森の方法的可能性を検討することにあるので、ここでは問わない。
★三──藤森照信「解説」(今和次郎『日本の民家』岩波文庫、一九八九、三五〇頁)。
★四──藤森照信『タンポポの綿毛』(朝日新聞社、二〇〇〇)一五六頁。
★五──藤森照信『建築探偵の冒険 東京篇』(筑摩書房、一九八六)三一四頁。
★六──林丈二「路上の正しい歩き方」(『路上観察学入門』一七七頁)。
★七──藤森照信「序──自作の背景」(ギャラリー・間編『藤森照信野蛮ギャルド建築』TOTO出版、一九九八、七頁)。
★八──赤瀬川源平+藤森照信+南伸坊「街が呼んでいる」(『路上観察学入門』)。
★九──付言すれば、「目の力」をサポートする「機械の目」すなわちカメラはいうまでもなく重要である。藤森の作業のベースに膨大な撮影カットがあることは、「建築探偵」シリーズをはじめとしたさまざまな著作からも推測される。藤森じしん、建築探偵術を指南する文章で「良い写真とは腕に見合ったカメラで撮った写真のことらしい」と語っている(『建築探偵の冒険 東京篇』七頁)。写真はプラグマティズムに徹すべし、という妥当な見識である。ただ、残念ながらこれ以上の検討は難しい。というのも、われわれは論文著書に掲載された写真を通じてのみ藤森の写真術に接するわけだが、それらは氷山の一角に過ぎず、舞台裏の調査、データ整理、分析と考察において写真がいかなる機能を果たしているのかは、最も興味深い点ではあるが不可視の領域であるからだ。なお、建築写真術に関しては藤森の建築探偵の同伴者である増田彰久『写真な建築』(白揚社、二〇〇三)が示唆に富む。
★一〇──藤森照信+鈴木博之「聞き手あとがき」(田中一ほか『建築縦走一九一〇─一九六〇──うねりの時代を共有した建築人の歩み 田中一対談集』(建築知識、一九八五、三〇三頁)。
★一一──そして、「民俗資料」という全感覚的な対象を措定しておきながら、いつのまにか「聞き書き」という技法を特権化させてしまい、ほかの回路をどこかで忘れ去ってしまった民俗学者は、この点においても藤森から学ぶべきことがありそうである。
★一二──藤森照信+古山正雄「近代建築、その左右と東西」(京都造形芸術大学編『対論・空間表現の現在』角川書店、二〇〇三、三八八─三八九頁)。
★一三──とはいえ、アカデミックな文体が可能とする正確性や客観性とどのように折り合いをつけるのかという問題は依然として残る。
★一四──藤森照信『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、二〇〇五)一七二頁。
★一五──藤森照信「序──自作の背景」(『藤森照信野蛮ギャルド建築』七頁)。