1965年生まれ。建築史家(中間建築史)。89年、早稲田大学理工学部大学院修士課程修了後、清水建設に入社。設計本部に勤務。92年の退社後、95年まで早稲田大学大学院後期博士課程在籍。同大学理工学部助手を経て、現在、大阪市立大学工学部建築学科建築デザイン専任講師。2000年度日本建築学会奨励賞受賞。
著書=『国学・明治・建築家──近代「日本国」建築の系譜をめぐって』(一季出版、1993)、『建築巨人 伊東忠太』(共著、読売新聞社、1993)、『数寄屋の森』(共著、丸善、1995)、『磯崎新の革命遊戯』(共著、TOTO出版、1996)、『建築マップ京都』(共著、TOTO出版、1998)、『日本建築様式史』(共著、美術出版社、1999)など
この夏、大阪市立大学に中谷レーニンをたずねた。彼にとっては幸だったか、それとも不幸だったか、ぼくが抱えていったのは長屋の設計依頼である。中谷をたずねるホンのすこし前、ぼくの事務所に、大阪の見知らぬ独身女性から手紙が舞込んだ。ある事情があって大阪福島区の長屋に住むことになったのだが、建物がヒドイ状況なのだという。歳老いた両親をかかえ、銀行だって相手にしてくれそうもないし、こんな私にも家がもてるでしょうか? インクの滲んだその手紙の文面はなんだかヤケに心に染みた。ウーンとうなって、事務所の窓から空を見上げた瞬間、ぼくの目の前に大阪の空の下を走り回る中谷の顔が浮かんだのだった。そうか、レーニンがいるではないか。
中谷はいま、大正一三年に建てられた大阪西住之江の長屋に住んでいる。すこし前には北区菅原町の旧長屋群解体に遭遇し、そこでの実測体験を「わが解体」と題して発表した。それを読むと、神戸震災から小林古径邸まで、つまり有名無名にかかわらずモノが解体していく現場が、彼にとっていかに重要なフィールドワークの場であるかが理解できる。残骸と化して目の前に堆積しているモノたちは、それまで背負わされていた意味をとりあえず脱ぎ捨てて、彼のことばによれば「事物がその初期的な価値、意味を見失って」そこにある。モノが解体していく現場は、近過去のさまざまな出来事をいわば等価にして、均等に整列させるのだ。見方によってはそれは忽然と出現したグラフ、図表である。中谷はこの、解体されて使用目的から解放されたモノたちがゼロ状態で整列するグラフから、モノの価値を決めているのはモノ自身ではなくて、ある時点での「使われ方」であることを読み取った。モノは、読み換えようとする目に応える、潜在的有用性の塊なのだ。中谷の長屋をめぐるフィールドワークの目的は、この事態の実証的解明にあるようだ。
もっとも、ぼくが中谷に長屋の設計をバトンタッチしようと考えたのは、長屋研究者としての彼への興味からではなかった。彼にはたぶん、もうひとつ別の顔がある。ウスウスと感づいてはいたのだが、「日々の夜長と『東京日記』」という文を読んで、ぼくはそのことを確信した。日々の夜長とは、中谷が東京でゼネコン勤めをしていた頃のやるせなき深夜のことであり、『東京日記』とは内田百による昭和初期の短編小説集を指す。その文によれば、「ひっそりとした深夜、実家の二階にこもって、もちろん誰に頼まれたわけでもなく」彼、レーニンは「昭和一○年前後の独特の雰囲気を持」つ、百の短編集の挿し絵を描いていた。文末に付された編集者の註には、その挿し絵は「単なる百ミーハーの余技などではない、百の魂が乗り移ったような東京という都市の不気味なつややかさがある」と記されている。おそらくは彼独特の細密な線で描かれているであろうその挿し絵に対してはしかし、ぼくらは彼、レーニンの表の顔と裏の顔との使い分けを見てはいけないのだと思う。そうではなくて、解体現場のモノの堆積をグラフとして見る目と、百の都市的怪奇譚を細密画として描き出す手は、きっとどこかでつながっている。ぼくはそう思いたいのだ。だから、中谷レーニンに長屋の設計を引き継いだのは、ぼく自身のかなり個人的な興味から発した出来事だ。
いまのところ中谷の実作は、ゼネコン時代の巨大建造物への部分的な関与をのぞけば、ひとつと半分ということであるらしい。そのひとつとは、灰塚アースワークで学生とともに実施した旧顕徳寺なる廃寺の増改築であり、その半分とは、ぼくの引き継いだ長屋の改築である(こちらはまだ設計中だから半分と言っておくべきだろう)。灰塚での仕事については、図面と写真から想像するしかない。中谷自身から漏れ聞いたところでは、予算二四万円、実測を含めた作業期間二週間だったという。すぐに気がつくことは、低予算かつセルフビルドという事態からただちに連想される、暴力的で装飾的な物の充満が、ここにはないということだ。それは端正とも言えるし、暗く沈んでいるとも言える。目に見えやすい「異物」の挿入を、慎重に避けている。
廃寺というバラックを作業対象としたここでの仕事は、鈴木了二の《標本建築》と《絶対現場一九八七》を思いださせる。よく知られているように、《絶対現場》とは、取り壊されることになった木造住宅を借りて、その「軸組だけを残すまで解体し、最後に一階の床面に強化ガラスを敷いてその上に人がのれるように」した、その作業プロセスである。鈴木了二はこの作業について、床も壁も取り払ってみると、いままで間取りの秩序で位置が決まっていた柱がまったく別の秩序をもって見えた、と回想した。つまり、彼には解体中の建物がグラフとして図表化されて(鈴木了二のことばでは「漂白」され「標本化」されて)、別のルールで読み換えうるものとして見えたのだ。中谷と彼の協同者たちの灰塚での作業は、ぼくにはこの読み換え可能なグラフの、地にあたる部分の作成作業だったように思える。ところで、中谷グループのグラフと
《絶対現場》のグラフは対照的である。モノの意味と歴史を、一方はハギ取ろうとし、もう一方は加算しようとする。《絶対現場》で取り払われたものは床や壁だけではない。建物という意味すらそこではハギ取られていて、いわば歴史温度ゼロの状態にある。モノは純粋事物と化し、多くの場合「作品」はこの純粋度を競いあう。一方、中谷グループのグラフは歴史を加算するための基体たらんとしている。そこでは歴史温度が高く、モノは純粋度ではなくその不純度、混血度を競いあうはずなのだが、実物の現場を見ていないぼくにはその効果を窺い知ることができない。
中谷は「学者」も「作家」も自分に関しては、なんかチガウナアと言う。それよりも、「建て継ぐひと」でいきたいと漏らしたことがある。建て継ぐとはつまり、リレーすることだ。彼はオリジナリティを競う短距離ランナーには興味がない。むしろ、リレーすることで生まれる奇妙な変換物に注目し、自分でもそれをつくりだそうとする。そんな彼に福島区の長屋の改築を引き継ぐにあたって、ぼくはひとつだけ注文をつけた。台形集成材という工業生産された木を使うこと。これは建て主の希望でもあった。その新来の木は、古い長屋のコンテクストに対してはいかにも異物である。中谷が進めている計画では、この木はどんどん使用範囲が縮小されて、いまは既存の梁の上にポツンと置かれた卵みたいな個室になろうとしている。もしもこの卵みたいな個室が、改築された長屋の天井裏の暗がりでひっそりと怪物化するのだとすれば、設計者としての中谷レーニンは彼の意に反して十分に作家的であるのだが。
1──《東京日記》12の2、1990
テクスト=内田見、イラストボードの上鉛筆
2.3──広島県三良坂町旧顕徳時造改築第1期
灰塚アートスティディウム2000におけるワークショップ
協力=灰塚アートスティディウム2000、広島県三良坂町、長田直之(建築家)、幸家太郎(建築家)
3──
4──K邸改築工事、2000
現状実測断面野帳
(大阪市立大学工学部建築学科建築史特論における実測)