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都市は学校でつくられる──ローカリティがオーバーラップする場所 | 山崎泰寛+藤村龍至
The City Built by the School: A Place of Overlapping Locality | Yamasaki Yasuhiro, Ryuji Fujimura
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために, 2002年09月30日発行) pp.153-167

はじめに 山崎泰寛


ローカリティの生起と学校

塚本由晴は、カナダ製ログキャビンの基礎部分を斜面地に設計したときの経験を、こう語っている。

そこは斜面地なので、おもしろいことにコンクリートで作る基礎がサイトスペシフィックになって、一見リージョナルな表現のログキャビンのほうがユニバーサルになるという転倒がおこる★一。


このエピソードは学校と東京の関係を考えるうえできわめて示唆的である。整備された学校制度の完遂は近代国家の一大事業であるために、結果的にユニバーサルな存在として、均質化した学校が一国の地表を覆う。しかし、個々の学校がそれぞれ個別の敷地的条件を持つ事例である以上、いくら標準化されたとはいえ同じものが建つことはありえない。とくに校舎の建築費用が地方任せだった時代はそうだったはずである。たとえば京都市内のように富裕な社会的階層を背景に、競って豪華な校舎を新築する地域もあったし、学校制度自体になじみの薄い時期には寺社や個人の邸宅を学校に転用した事例も多かった★二。ユニバーサルであることを志向する学校制度が全国レヴェルで普及し、制度の平等性が標榜されればされるほど、かえってそれぞれの地域のキャラクターが明瞭になっていったのではないだろうか。
ただし、 土地柄 に一元的にアイデンティファイされるわけではないだろう。後述するように、明治以降誕生から数十年を経て学校の建築は事実上標準化される。だが、画一的に「画一化」を嘆く前に、多層なる複数のローカリティを生起させるジャンルとして学校に目を向けてみたい。学校は都市を複数のジモトに分節するだけではなく、そこに関わる個々人のローカルな生活世界を見ることも可能にするのである。

東京と学校、都市的生活と学校

まずは学校と都市の関係性を思考するために、大きく二つの視点を設定しておこう。より都市計画的なマクロな視点と、より具体的な実践や個別の空間を考えるミクロな視点である。マクロな視点に立てば、東京は、学校を核にした複数のジモト(複数の地理的ローカル)によって構成されている。そのため、はじめに関東大震災の復興計画と学校の関連を検討し、その後学校のイメージやブランドを消費戦略的に利用した「学園町」の開発をとりあげる。
一方で学校の建築に目を移すと、ひとことで学校と括るにはためらわれるほどの多様な空間が、学校に関わる者たちの生活世界を複数化・多層化している。
なるほど教室は生徒・教師の両者にとって学校生活の中心的空間であり、学校を語るうえで避けて通ることはできない。しかし、管理者のためには職員室、校長室、事務室等が用意されているし、ライフライン的な目的の空間として保健室やトイレなどがあり、さらにそれらをつなぐ廊下、階段がある。
そこでここでは、授業場面を離れた学校の現状を二つ挙げてみたい。ひとつは保健室である。有名建築家による学校を取材してみても、職員室や会議室をガラス張り・壁なしで計画する学校はあっても——単に関心がないのか、それとも手のつけようがないのかは不明だが——保健室はどこも奇妙に似通っている。文部省(当時)においても、短くはない学校制度の歴史上、保健室を対象に本格的な調査を行なったのは一九九一年が初めてだったほどだ(「保健室利用状況調査」)。くわえて、近年までけっして陽の当たる存在とは言えなかった養護教諭の立場も相まって、いまや保健室はある種の特異性を獲得している。
他にも、校舎が羊羹型に標準化されたおかげで屋上や裏庭が生まれ、ときに危険かつ魅力的な解放区となりえている。また、少子化による生徒の減少はかつて考えられなかった数の空き教室を生んだし、学校開放(理想)と安全確保(現実)の葛藤は、地域と学校のあいだにこれまでとは異なる「開かれ方」を用意しようとしているようだ。だからいまひとつ、品川区における地域住民の現在進行形の活動事例をみておきたい。私立学校の存在が大きい東京にあって、品川区は、学校選択制が採用された全国でも先進的な例である。このケースでは、大人は子供の「保護者」として学校に対峙する〈教育する家族〉(広田照幸)というよりも、いわば肩の力の抜けた「利用者」となって学校を活用している。PTA的「正統性」だけを強いるのではない、よりニュートラルな立場をつくりだす事例として注目したい。学校は、多層化した生活世界がオーバーラップする場所なのである。

“ジャンル建築”としての学校

そもそも、私たちが学校をひとつのジャンルとして自覚しているのはなぜだろうか。多木浩二は言う。ふつう「ビルディング・タイプ」とは「構成や形式がある特徴をもつように」なった建築のことであり、「建築のタイプと社会生活のタイプの一定の結合関係」が明瞭である場合の「建築のタイプ」を指す。しかし彼は続けて、「建築の社会性は、実体に内在するのではな」いのだから、「その時代の社会が建築物と社会生活を関係づけるどのようなコードをもつか」、すなわちその結合のタイプを類型として成り立たせる「コード」のことをビルディング・タイプだと考えるべきだという。なぜなら、建築は「その時代の制度化された文化を表現している」のだから★三。この視点を学校に援用するならば、おおかた次のように考えられるだろう。ビルディング・タイプ論の要点は、類型そのものの発見ではなく、類型化する社会的背景を思考することにある。そして類型化と言うからには、誰が見てもそれだとわかるジャンルとして収斂していくまでの、時間的推移に注意を払わなければならない。
なぜなら、江戸時代には現在の学校のスタイルがなかったことは言うまでもなく、仮に一九世紀のイギリス人に二〇〇二年の都立高校の校舎を見せたとしても、それを「高校だ」と即座に判断できるはずもないからである。物件の外観だけでなく、現行の高等学校という制度もまたある時期以降の日本に特有の形式である。私たちが、この時代特有の制約の下に構成されている社会、あるいは「制度化された文化」を生きているからこそ、〈(都立高校という)制度〉と〈あの建築〉がビルディング・タイプとして結びつき、〈学校建築〉というジャンルとして認識されるに至る。
〈学校建築〉ほど、世間の評価が入り組んだジャンルも珍しいだろう。誕生してからしばらくは、地方自治体の限られた予算や地元のカンパを資金源としていたこともあって、一度ならず打ち壊しの対象となったという。一方で近代の学校制度の背景には、近代国家を成立・展開させるための合理的な〈教育的〉理由が存在していた。椅子と机がずらっと並べられた校舎は〈国民〉の培養装置であり、そこは民衆にとってはあまりにも非日常的な空間だった。だがその非日常性ゆえに、学校に対するまなざしは、近代化への羨望と嫉妬のせめぎ合いを表象していた。
ところで、黒沢清という映画作家がいる。一九九九年のカンヌ映画祭を終えて、テレビドラマというジャンルについて彼はこう記した。

こうしてカンヌはばたばたと終わった。私にはまたいつものような東京の日常が待ち構えている。次の仕事はテレビの二時間ドラマだ。いいだろう、それもひとつの映画だ。
「カンヌ映画祭日記」★四


ビルディング・タイプとして類別されうる標準的な〈学校建築〉を批判しても、制度との新たな整合性を志向する形式——オープン・スペース型、教科教室型等——を発明しても、空間形式の反復は、かえってジャンルの枠組みを揺るぎないものにしてしまう。むしろ学校というジャンルの建築であることから逃れられない事実を積極的にあきらめて、〈学校〉をひとつの条件とした空間を構想できないだろうか。


★一——塚本由晴+永江朗「施主と建築家」(『10+1』No.28、INAX出版、二〇〇二、七八頁)。
★二——一八七三—七五年(明治六—八)中に設立された小学校校舎についての文部省の調査によると、新築=一八パーセント、寺院=四〇パーセント、民家=三三パーセント、神社・陣屋・倉庫・旧藩邸・官庁=九パーセントである。青木正夫ほか『学校』(丸善、一九七四、一〇八頁)参照。
★三——多木浩二『生きられた家——経験と象徴』(青土社[新装版]、二〇〇〇、一七〇—一七一頁)。
★四——黒沢清『映画はおそろしい』(青土社、二〇〇一、二四八頁)。

学校をつくることによって、「東京」をつくる 藤村龍至


震災復興計画と小学校

一九二三年、関東地方に大地震が発生した。東京や横浜では地震後に発生した火災によって、市街地の大半が消失し、戦前では世界最大級の都市災害となった。震災直後、後藤新平によって帝都復興院が組織され、紆余曲折を経て、「震災復興事業」が実施された。結果、震災の消失区域の九割に相当する三一一九ヘクタールの区域で区画整理が施工され、一九三〇年にほぼ全体が完成する。その後、一九四五年の東京大空襲においては関東大震災を上回る一六一〇〇ヘクタールにおよぶ市街地を消失したが、その後の「戦災復興事業」において区画整理が実行されたのはわずかに一二七四ヘクタールにとどまったことを考えると、「震災復興事業」は東京の都市計画史上最大の都市改造といっていいだろう[図1]。
この「震災復興事業」の特徴のひとつに、公園と学校の配置計画がある。「震災復興事業」では三つの大公園(国施工)と五二の小公園(市施工)が整備されたのだが、大公園が東京市民全体のための広域公園としてスポット的に配置されたのに対し、地域住民のための近隣・児童公園としてきわめて面的に配置された。「震災復興事業」は東京の都市計画史上、唯一面的な展開が行なわれたプロジェクトだと言える。そこでは密度や配置に対するマクロな戦略が有効に機能しえた。具体的に言えば小学校の密度と小公園の密度を揃え、さらにそれらを併置することによって、西欧の都市における教会や広場にあたるような、ローカルなコミュニティのための精神的なコアがつくられようとしたのである。そこではどのような小学校がつくられようとして、それらはどのように位置づけられうるか。

1──帝都復興事業の区画整理の施行地図

1──帝都復興事業の区画整理の施行地図

モダン・シティのイメージ

震災復興に際して東京市が作成した「整備イメージ」を見てみよう[図2]。鉄筋コンクリートによって不燃化された街の中央には小学校が描かれており、それよりやや小さめの小公園が隣接して配置されている。描かれた影から判断して、南側が小公園、北側が小学校であろう。まず小公園のほうを見ると、三—四割程度が植栽地、六—七割が広場とされており、小公園の広場部分は簡単な門のようなものを介して小学校の校庭部分にそのまま連続している。境界部分に注目してみると、鉄筋コンクリートと鉄製の柵によって、動線的には周辺道路と分断が図られているが、視線は遮らないような配慮が伺える。東屋、砂場といった公園の「お約束」アイテムが茂みの中に配置されているのも見える。
一方で小学校のほうへ目を転じると、南側中央に校庭が、南西側角に体育館が配置されており、さらに校舎が北側に寄せられつつ校庭をぐるりと取り囲むように配置されている。校舎は鉄筋コンクリート三階建てで、周囲の箱形のビル群と比較しても、この校舎がその意匠において、並々ならぬ注意を払って計画されているものであることがわかる。すべての角があたかもヤスリを掛けられたように丸く、特に体育館の東側のエントランスと思われる部分は扉部分および庇部分が大きくカーブし、さらに屋根もボールド状となって、ハイサイドライトが取られ、優雅さを感じさせるものとなっている。東側の部分には二つの尖塔のようなものが見える。二つの尖塔のうち、南側のものには時計が取り付けられており、内部はおそらく階段室であろう。そしてもう片方はおそらく煙突だと思われる。校舎の立面全体はバルコニーのようなものによって水平性が強調されているが、校庭に面した立面の中央に配された演台のようなバルコニーと縦長の開口部によって、シンメトリカルな表現が与えられていたりもする。
元加賀小学校の写真を見ると、「整備イメージ」をほぼ踏襲したかたちで小学校と小公園が建設されたことがわかる[図3]。手前の元加賀公園と元加賀小学校とは植栽によって緩やかに分節され、校門においても、とても簡単な柵が設けられているに過ぎない。公園の後ろにはコンクリート製のベンチや、藤棚のようなものが見える。背後に見える元加賀小学校の校舎は鉄筋コンクリート造であるが、整備イメージに見られたアール・ヌーヴォー調の優雅な曲線は使われておらず、曲線はわずかに窓の上部が半円になっているに過ぎない。

2──整備イメージ(東京市作成) 出典=越沢明『東京の都市計画』

2──整備イメージ(東京市作成)
出典=越沢明『東京の都市計画』

3──元加賀公園と元加賀小学校 出典=越沢明『東京の都市計画』

3──元加賀公園と元加賀小学校
出典=越沢明『東京の都市計画』

新しい「東京」をつくるために

「整備イメージ」に描かれたこれらの「鉄筋コンクリート造」や「公園とのセット」が東京にとってどのような意味を持っていたのか考察してみよう。まず、鉄筋コンクリート造の最初の小学校は神戸市立須佐小学校であった(一九二〇年竣工)。東京市では神戸、大阪、横浜にやや遅れて一九二二年、林町小学校(小石川区)の校舎の一部が鉄筋コンクリート造により竣工したのを皮切りに、猿江小学校と富士小学校が震災直前の一九二三年の五月と六月にそれぞれ竣工している。震災によって罹災した一一七校の市立小学校は、すべて東京市の設計によって鉄筋コンクリート造で建設された。このとき規格化、標準化が進められたのは、短期間に大量の小学校を設計する必要からであった。これは「小学校設備準則」(一八九一)以降、「小学校建築図集」(一八九二)、「学校建築図説明及設計大要」(一八九五)、「小学校建築図案及学校園」(一九〇九)などによって着々と進められた文部当局による学校空間の標準化の流れを建設の合理性と結びつけ、加速させるものであったと言えよう。
他方、東京で鉄筋コンクリート造の小学校と小公園のセットが大量に反復された背後には、当時の衛生思想の高まりとの関連もある。特に日露戦争(一九〇四—五)後の体育教育への社会的関心の高まりは、多様な「遊び」の場としての公園を、「体育のための空間」として秩序化する流れを加速した。ともに「運動場」としての機能を引き受けつつあった校庭と小公園が一体化する準備は、「震災復興事業」以前にすでに整えられていたのである。さらに震災を経て、防災の拠点としての機能がこれに加えられた。
かくして「整備イメージ」に描かれた風景は現実のものとなり、東京の近代化は一気に加速することになった。なかでも小学校は、日中戦争の激化によって一九三八年に中止されるまでの約一六年間で、旧東京市域では八四パーセントが鉄筋コンクリート化され、変貌する東京の風景を代表する存在として、それぞれの地域に挿入された[図4]。それらは画一的なものにみえて、「震災復興事業」によって小公園とセットにされ象徴的に扱われることによって、東京のローカリティを強化する役割を与えられてもいた。それはマクロ的な視点に立てば、当時の新たな衛生思想、安全思想に基づいた、新たなる「東京」を人々のイメージのなかにつくるためのアイテムとして、学校が導入されたと見ることもできる。大いなるローカルとしての「東京」は、小さなローカルの再編を担う小学校をつくることによって、つくられたのである。

4──鉄筋コンクリート造校舎を建設した東京市立小学校の数 出典=藤岡洋保「東京市立小学校鉄筋コンクリート造校舎の設計規格」

4──鉄筋コンクリート造校舎を建設した東京市立小学校の数
出典=藤岡洋保「東京市立小学校鉄筋コンクリート造校舎の設計規格」

参考文献
越沢明『東京の都市計画』(岩波新書、一九九一)。
野嶋政和「明治末期における都市公園の近代化と学校教育」(一九九六)。
藤岡洋保「東京市立小学校鉄筋コンクリート造校舎の設計規格」(一九七九)。

東京の学園町開発と学校 山崎泰寛

中央大学が一九七〇年代後半に八王子に移転して以降、大学の都心離れは顕著になっている。郊外に行けば、大量の学生を収容するだけの広大な敷地が確保できる。また、都立大学が移転した南大沢のように(一九九一)、まちづくりと一体化した学園都市的な開発も、東京の郊外化に拍車をかける出来事だといえよう。東京の開発に、大学が与えた影響はけっして小さくないのである。
しかし、郊外開発と学校の関係は、なにもここ二〇—三〇年のことではない。とりわけ一九二三年の関東大震災によって大きな被害を受けた教育機関は、大正末期から昭和初期にかけて郊外への移転をすすめている。たとえば、小田急沿線の開発と結びついた世田谷区の成城学園(大正一四)、町田市の玉川学園(昭和四)の事例、東急沿線に移転した東京工大(大岡山、大正一三)、慶應義塾大学予科(日吉、昭和四)など、教育機関の移転と宅地開発は切っても切れない関係にあると言っていいだろう。そうでなくても、立教大学のある池袋(移転は明治四〇)や都立大学、東京学芸大学の旧校舎があった東横線沿線など、いまでこそ都心の一部であるが、当時は郊外の住宅地にすぎなかった。これらのことからも、東京の郊外と学校の密接な関係をうかがい知ることができる。
では、ここで二つの事例をとりだそう。まずは、昭和四年に神田一ツ橋から国立に移転した東京商科大学(現・一橋大学)の例である。これは、資本が宅地造成に学校を戦略的に用いた好例だ。箱根土地の堤康二郎は、震災後武蔵野鉄道(現・西武鉄道)沿線の土地を大量に取得していたが、ついに大正一四年、国分寺市と立川の中間に八〇万坪の土地を手に入れる。彼はまず、郊外住宅地として開発されはじめていた甲武線(現・中央線)沿線とはいえ駅さえなかったその土地に、駅舎を建て国立と命名した。その後四谷の東京高等音楽学院(現・国立音大)を大正一五年に移転させた。そして、国立に住むことになる家族が子供を通わせることのできる小学校(私立国立学園小学校)の設立に尽力した。というのも当時付近には公立小学校は一校しかなく、しかも国立から通うには遠すぎたからである。しかし、もともと開発した住宅地に住むのは自社の社員が多かったが(堤も昭和一〇年頃まで国立在住)、駅はあっても昭和四年まで電車が止まらなかった国立は、やはり新規の住民を獲得するには依然不向きな土地だった。箱根土地は商大関係者に土地を安く売り、学園都市の中核を担う大学の誘致に全力を注ぐことになる。誘致後は一方で住民の親睦団体「国立会」をつくり、大学との関係を密なものにしたという。いずれにせよ、国立の開発には東京商大という大学の存在が不可欠だったのである。
次に、ひばりケ丘南澤学園町(東久留米市)をみてみよう。端的に言って、ここは国立の開発とは逆に、教育的理念を実現するために宅地開発を利用している側面が見受けられる。主役は、キリスト教徒である羽仁もと子・吉一夫妻が建学した自由学園である。自由学園は、F・L・ライトが設計した《明日館》によって建築界でも知られているだろう。明治四一年、羽仁夫妻は雑誌『婦人之友』を創刊した。この雑誌は、家庭からの婦人の解放を啓蒙的に訴えるのではなく、主婦による家庭生活の合理化への努力を求め、生活場面での実践に重きが置かれている点が特徴的である。夫妻は子供を対象とした雑誌も創刊し(『子供之友』[大正三]、『新少女』[大正四])、子供と接触する機会を多く得たことが、自由学園創設の足がかりとなったと言われている。大正一〇年、中等科一クラス(女学校相当)で自由学園は開校する。ライト設計の校舎はプレーリースタイルを踏襲した、平屋かつ地面と床に差のない建築だった。校舎の中心に食堂が設計されているのは、生活の実践を第一に考える夫妻の思想を実現したものだろう。しかし当初目白に千坪の敷地で始まったものの手狭になり、農場・運動場を求めて、大正一四年南澤町での敷地確保案が浮上する。南澤学園町の土地分譲については『婦人之友』誌上でも紹介され、大正一四年の分譲分五万坪は、その年のうちにほとんど完売したという。昭和六年頃のデータによると、土地の購入者はいわゆる新中間層を中心として、医師、学者、政治家も含まれている。しかし、土地分譲からほぼ一〇年経った昭和一〇年の時点で、土地所有者が八六名いるのに対して建設された住宅がわずか三七戸である点は見逃せないだろう。
ところでこの分譲にあたって、夫妻は少女たちの農場建設を主な理由としつつ、その農場を中心にいずれ「理想郷」的な住宅地を展開したいと父兄に述べている。住宅地としてではなく、自由学園の農場として郊外の開発を利用する目的だったことがわかるだろう。さらに、南澤学園町には、昭和九年まで自由学園の校舎はなかった。学園は移転していなかったのである。学園移転後、学園は診療所を設けてトラコーマ(伝染性慢性結膜炎)の診察にあたり、地域住民との共存をはかっている。自由学園では、敷地に学園本体が移ってきたことで農場がなくなったため、新たに那須に農場を購入している(昭和一六)。この農場から離れないエピソードからも、生活の実践を旨とする教育理念を垣間見ることができるだろう。
二つの学園都市は、ともに学校という付加価値を土地に与えることで開発を進めた事例である。とくに後者は教育的な理念を掲げつつも、土地の分譲自体には学校は絡んでいない。それでも、「学園町」という学校的な気配の漂うブランドを売り文句にすることはできたのである。このことは、大正—昭和期において、新中間層が教育イメージをいかに消費したか、その戦略パターンのひとつとして考えることも可能だろう。

1──中央大学多摩キャンパスより多摩丘陵を望む 出典=中央大学HP「見えるデータベース」 URL=http://www.chuo- u.ac.jp/chuo-u/index.html

1──中央大学多摩キャンパスより多摩丘陵を望む
出典=中央大学HP「見えるデータベース」
URL=http://www.chuo- u.ac.jp/chuo-u/index.html

2──都立大学南大沢キャンパス、理工教室棟 出典=都立大学HP URL=http://www.m-net.ne.jp/~kunicity/

2──都立大学南大沢キャンパス、理工教室棟
出典=都立大学HP
URL=http://www.m-net.ne.jp/~kunicity/

3──国立駅舎 出典=国立市HP URL=http://www.m-net.ne.jp/~kunicity/

3──国立駅舎 出典=国立市HP
URL=http://www.m-net.ne.jp/~kunicity/

4──現在の自由学園初等部 出典=自由学園HP URL=http://www.jiyu.ac.jp/

4──現在の自由学園初等部
出典=自由学園HP URL=http://www.jiyu.ac.jp/

5──自由学園明日館 (1921[大正10]年建設) 出典=明日館HP URL=http://www.jiyu.jp/

5──自由学園明日館
(1921[大正10]年建設)
出典=明日館HP URL=http://www.jiyu.jp/

6──羽仁もと子・吉一夫妻 出典=自由学園HP URL=http://www.jiyu.ac.jp/

6──羽仁もと子・吉一夫妻
出典=自由学園HP URL=http://www.jiyu.ac.jp/

参考文献
山口廣編『郊外住宅地の系譜——東京の田園ユートピア』(鹿島出版会、一九八七)。
片木篤+藤谷陽悦+角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇)。
自由学園 URL=http://www.jiyu.ac.jp/
自由学園《明日館》 URL=http://www.jiyu.jp/

保健室と学校 山崎泰寛


保健室という場所


そこは特別衛生地区というようなことになっていたらしく、学校の保健室には看護婦さんの派遣が頻繁で、生徒との接触や衛生指導のようなものが活発だった。生徒と看護婦さんのあいだには、生徒と先生とはちがった独特の雰囲気をもった交流があった。(…中略…)そういう看護婦さんとの接触の仕方には、母親とも姉妹ともオンナ先生とも異った、わたしにとって最初の重要な異性体験の匂いがあった。その匂いは、類型がないが、強いていえば現在のじぶんと娘とのあいだに似ているように思われる。
「小学生の看護婦さん」


これは、月島生まれ、新佃島育ちの吉本隆明が、腕白かつ「虚弱児代表」だった子供時代を回想するくだりである。彼は小学六年生の夏休みに、集団の生活保健訓練に参加させられている。吉本によるとこの訓練では、「看護訓練・遊戯・保健食の昼食・昼寝・午後からの集団遊戯といった規則的な生活指導が二週間も続」き、「ガキ大将としては檻の中に入れられたようで辛かった」という。
花で首輪をつくる遊戯のあいだなど、「情けなくて仕方なかった」そうだが、「よく考えてみると、その檻のなかのような辛さと恥ずかしさには、優しい匂いのようなものを感じわけた照れくささが混じっていたかもしれない」と述べている。学校の先生とも家族の誰とも違う、特別な存在としての看護婦をよく示している。当時は保健室ではなく医務室、衛生室などと呼ばれた室がそれに該当し、彼女たちは看護婦として学校にいたのである。このことは、現在の養護教諭の位置づけとともに、保健室が学校にとって異質であったことをよく示している。以下にみていこう。

保健室の系譜

保健室は、「学制」当初から用意されていたわけではない。一説によると、保健室の前身である医務室、衛生室は明治三〇年代には登場している。記録上一九〇五年(明治三八)には、岐阜県下の小学校で二校にトラコーマ対策専用の室が設けられている。一方、東京では一九二三年の関東大震災後、東京市立の小学校一一七校に衛生治療室が設けられている。一般に衛生室と呼ばれたこの室について基準化されたのは一九二七年のことであり、全国学校衛生技師会議が、「1. 衛生室は職員室に接し、全生徒児童の為め成るべく便利なる所に設くること、2. 衛生室の構造は教室に準じ、広さは教室の二分の一以上なるを要す、3. 衛生室には流出手洗装置、執務机、椅子、寝台、身体検査用器具、救急用器具、薬品及棚を設くること」を基準として発表した。一九三六年には、小学校の中に独立した衛生室を設けることが定められている。先ほどの吉本隆明は一九二四年生まれだから、彼のエピソードはおそらくこの時期のものだろう。保健室は衛生室、医務室などと呼ばれていたが、保健室がその呼称で呼ばれるようになったのは、一九五四年のことだとされている。

養護教諭の役割

ところで、養護教諭という立場はひどく特殊である。本来は生徒や教師たちの健康を管理し、ケガや病気の対処をする役割である。養護教諭は一般の教師が教科を教える代わりに、傷の手当てをするのである。つまり生徒たちは、教室では教科を教えられるが、保健室では何も教わらないのである。その点で、教科の成績という学校的な価値観から、養護教諭が比較的自由であることがわかる。だが、現在では「身体的症状」への対応にとどまらない、子供たちの「心の問題」への十分な相談活動を行なうことの可能な、「居場所」としての機能が求められている。このような過度の期待は養護教諭から立場の曖昧さを奪う。養護教諭はかつての〈境界人〉的な性格を失いつつある。
養護教諭がどのような立場であるのかを示す、興味深い調査がある[表1・2]。表1によると、先生は「困ったときに一番相談する相手」ではない。全体でも一・四パーセントにすぎない。これが表2になると、若干様子が違う。単に悩みの相談相手を尋ねているのだが、人間関係についての悩みで、「保健室の先生」は「担任の先生」並みの割合(それにしても三パーセント程度だが)を得ている。ただし、担任の先生は三〇—四〇人にひとりの割合だが、保健室の先生は、全校生徒に対してひとりである(中学校の九四・四パーセントが学校でひとりのみ配置)。保健室の先生は、人間関係の相談相手としてはかなり信頼されているといえる。もっとも、保健室の先生も全体的にみれば必ずしも相談相手として常に選択されているわけではない。つまり、保健室は気安く足を運ぶことのできる空間であるが、そこで深刻な相談が日常的に行なわれているかといえば必ずしもそうではない。悩みを相談できる可能性のひとつではあっても、恒常的に相談し続ける場所というわけではない。保健室の先生の曖昧な立場がよくわかる例である。

表1──困ったときに一番相談しやすい人(数値はすべて%) 「東京都子ども基本調査」(1996)をもとに筆者作成

表1──困ったときに一番相談しやすい人(数値はすべて%) 「東京都子ども基本調査」(1996)をもとに筆者作成

表2──悩みの相談相手(数値はすべて%) 『「居場所」としての保健室』をもとに筆者作成

表2──悩みの相談相手(数値はすべて%) 『「居場所」としての保健室』をもとに筆者作成

保健室登校

保健室登校とは、「常時保健室にいるか、特定の授業には出席できても、学校にいるあいだは主として保健室にいる状態」(文部省の定義)を指す。この定義は一九九〇年の調査時に初めてつくられ、それまでは用語化されていなかった。文部省の調査結果(一九九七)は、年間一人ないし二人の生徒が保健室登校をしている学校数が、全体の半数以上はあることを示している。特に中学校でこの傾向は強い。神奈川県のある養護教諭にインタヴューしたところ、現在の保健室登校のような現象は七〇年代にはすでに見られていたものの、当時はまったく病気扱いだったという。現在学校では、保健室登校は不登校状態の生徒の「教室復帰」への足がかりとして捉えられており、保健室は、家庭から教室への長い道のりの一部に位置づけられている。保健室登校に対処するマニュアル的な文献もある。保健室は、非学校的な価値観から、徐々に学校化されているともいえるだろう。

保健室という空間

保健室の特異性は、教室と比較すればより明瞭だ。教室空間は、授業場面や休憩時間、食事場面の舞台であるばかりか、所属先を直接示す名札的な場所である。日常のあらゆる場面を包括し、そこに生活する者を学校的価値観で染め上げようとする。一方で保健室は、教室の価値観から一旦は解放された場所である。ひとたび腹痛を訴えれば、生徒は学習から解放され、ベッドに横たわり、クッションの効いたソファに座ることもできる。誰も邪魔することはできない。保健室は、個人を漂白する制度化した教室場面に対して、おおっぴらにそれぞれの体調や生理的欲求を根拠とできる、いってみれば〈生理的場面〉を演出することのできるほとんど唯一の空間なのである。空間の根拠が〈生理〉にある点はトイレも同様だが、トイレは可能な限り短時間で教室に戻ることが前提の、期間限定の避難場所にすぎない。個室が設えられているために、むしろ隔離され攻撃される場合さえある。
もちろん、だからといって保健室がどの子供にとっても楽園であるわけではない。ここでは養護教諭のキャラクターがものをいうのである。近年保健室登校の存在が知られるにつれて、保健室は教室への経由地として考えられるようになった。あまりの来室生徒の増加に業を煮やし、ドアに鍵をかけてしまう養護教諭までいるという。このことは、保健室が学校の中での彼岸的性格を失い、教室第一主義的な学校的価値観に染まってしまう可能性を暗示してもいるだろう。

学校空間の複数性

アーヴィング・ゴッフマンは、社会的に隔離され、管理された状態で日常生活を送らなければならない施設を  全 制 的 施 設トータル・インスティテューション と呼んだ。彼は、睡眠・食事に至る生活のすべてがひと続きの施設に包括されているパブリックスクールのような寄宿制学校も兵舎や精神病院と並んで全制的施設に分類している。だが、現代のほとんどの学校は通学制であり、外部の情報も容易に入手できるのだから、全制的施設としては完全ではない。しかし学校は、新参者(新入生)を施設のルールに従わせるし、いまでは家庭でさえも価値規範として学校の外部的な機能を果たしているとはいいにくい。すでにわれわれの生きる社会が、学校的な価値観が浸透した、いわゆる“学校化社会”(イヴァン・イリイチ)だからである。
しかし、このような「総学校化空間」とでもいうべき現状であっても、隙間はまだまだある。第一に校舎内の空間すべてが教育的な意志に塗り潰されているわけではない。教室で通用する規範から逸脱してしまった空間——保健室、体育館倉庫、給食室裏、部室等——は校内に点在している。とくに保健室は、学校保健法第一九条で規定された、制度的に保障された空間である点で極めて特異である。保健室の特徴は、完全に学校化されているわけでもない、かといって学校から独立しているわけでもない、その曖昧さにある。〈生理〉が〈制度〉で保証されているのである。「心の問題」の時代のなかで、両者のあいだでますます危うい立場を迫られている。学校空間が成績などの教室的な価値観だけを根拠として成立しているわけではないことを示す、好例だといえよう。

1──横浜市本町小学校(内井昭蔵建築設計事務所、1984)保健室

1──横浜市本町小学校(内井昭蔵建築設計事務所、1984)保健室

2、3──千葉市立打瀬小学校(シーラカンス、1995)保健室 いずれも筆者撮影

2、3──千葉市立打瀬小学校(シーラカンス、1995)保健室
いずれも筆者撮影

参考文献
吉本隆明『背景の記憶』(平凡社、一九九九)。
本田和子編著『ものと子どもの文化史』(勁草書房、一九九八)。
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか——「教育する家族」のゆくえ』(講談社、一九九九)。
広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、二〇〇一)。
竹内洋『学校システム論——子ども・学校・社会』(放送大学教育振興会、二〇〇二)。
アーヴィング・ゴッフマン『アサイラム——施設被収容者の日常世界』(石黒毅訳、誠信書房、一九八四)。
イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(東洋+小沢周三訳、東京創元社、一九七七)。
上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社、二〇〇二)。
藤井誠二『学校の先生には視えないこと』(ジャパンマシニスト社、一九九八)。
「保健室利用状況に関する調査報告書」(文部省、一九九七)。
「東京都子ども基本調査」(東京都生活文化局、一九九六)。
ベネッセ教育研究所編『「居場所」としての保健室』(モノグラフ・中学生の世界 Vol.55、ベネッセコーポレーション、一九九七)。
國分康隆+門田美恵子『保健室からの登校——不登校児への支援モデル』(誠信書房、一九九六)。
宮台真司『まぼろしの郊外——成熟社会を生きる若者たちの行方』(朝日新聞社、一九九七)。

複数のローカリティが重なり合う場所へ 藤村龍至


二者択一の選択問題

二〇〇一年六月、国立大阪教育大附属池田小学校において発生した児童殺傷事件は、小学校の管理のあり方を問う機会となった。事件後、直ちに授業参観や学校行事を中止する自治体が相次ぎ、多くの学校で校門の閉鎖、PTAによる校区内のパトロールの強化などが実施された。
小学校を巡って、私たちの社会は大きなひとつの二者択一の選択問題を突きつけられているとも言える。ひとつめの選択肢は児童の人命が第一、管理を徹底し、他者を完全に排除することによって、小学校を児童と教師のためだけの場所とする方法。もうひとつはそれでは地域や社会とともにある教育や教育の多様性を実現できないから、地域の人々を信頼し、自分たちの安全を委ねることによって、小学校を複数のコミュニティのための場所として維持しようとするやり方である。多くの小学校の事件後の対応を見る限り★一、池田小事件は、私たちの社会に前者の選択肢を選ばせたかのようにみえる。それは「学校を開く」ことの機運が盛り上がりかけた矢先の出来事であった★二。

品川区立八潮北小学校の場合

ここで品川区立八潮北小学校の事例を紹介したい。
品川区立八潮北小学校は、品川区の東部の埋め立て地に広がる八潮団地の北部に位置し、児童数一三二名の小規模校である★三。八潮地区には三つの小学校が設置されているが、それらのなかではもっとも児童数が少ない。児童数が減少の一途をたどっているのは、現代の少子化の流れに加え、団地の入居者の高齢化に伴い、子どもの数が急激に減少しているというこの地域特有の事情もある。
多くの小学校が管理の強化を理由に校門を固く閉ざし、取材さえ断る小学校が出現するなかで同校は、筆者の取材を快く引き受けてくれた。

私は基本的に、「人災は害を加えるときは人が守らなくてはいけない」、「天災のときはモノが守らなければいけない」という考え方です。だから、人が守ってくれない限りは、機械が守ってくれるとかカギをかけるとかでは……。もっと具体的にいうと、うちの学校は地域の人が自由に出入りしていて、いつも学校に注目しているということを地域の人にも、何かやろうと企んでいる奴にもわからせようとしています。
八潮北小学校圖師田校長へのインタヴュー★四


品川区では二〇〇〇年度より、全国に先駆けて公立小中学校の選択制を導入するなど、「プラン21」という名の大胆な教育改革を実施している★五。学校選択制は小中学校の新入学児童・生徒を対象に、品川区を四つのブロックに分け、ブロック内で通学する学校を選択(中学校は全区域から選択)することができる制度で、日野市や豊島区が品川区の導入の翌年度から導入に踏み切るなど、追従する自治体が多数現われている。学校選択制の導入は、教職員には教育方法や地区の特徴などを取り入れた他校との差別化を、児童や保護者には学区内のいくつかの学校の特色を読み込んだうえでの主体的な選択を、それぞれ迫るものであるが、それはまた空間的にみれば、地域社会に包含された小学校像を相対化するものでもある。
八潮北小学校の「ウリ」は小規模校ならではの面倒見の良い教育と、地域の人々との活発な交流だ★六。それらは前述の圖師田校長の方針に基づいて学校が運営されてこそ、初めて実現される。
ある冬の晴れた土曜日、八潮北小学校で恒例の「餅つき大会」が開かれるというので出かけてみると、いくつかのユニークな組織に出会った。「おやじの会」と呼ばれる父親たちのグループと、「八潮さわやかネット」と呼ばれる地域の若者たちによるグループである。

1──八潮北小学校 出典=http://www1.cts.ne.jp/~ya-kita/

1──八潮北小学校
出典=http://www1.cts.ne.jp/~ya-kita/

2、3──恒例の「餅つき大会」 ともに筆者撮影

2、3──恒例の「餅つき大会」
ともに筆者撮影

「おやじの会」と「さわやかネット」

「八潮北小学校おやじの会」は、二〇〇〇年六月に発足した、主に八潮北小学校に通う児童の父親たちによって構成されているグループである。二〇名程度のお父さんたちが一カ月に一回くらいの頻度で小学校に集まり、「教室のペンキ塗り」、「プール掃除とペンキ塗り」、「鯉つかみ大会」、「パソコン教室」、「ツリーハウス(校庭にある遊び場)作り」などの自主的な活動を行なっている。そもそも「おやじの会」が立ち上げられた動機は何か。

「PTA」っていうと引いちゃうんだよね。お母さん方も長い間活動を続けてきて、お父さんはサポートするのに精一杯で……。お父さんたちはなかなかそういう公の場に出れない。でも何かある時にはお父さんてさ、「力を貸そう」って意志持ってるでしょ。できたら、そういう機会を増やして行きたいね、っていう話をしてて。
八潮北小学校PTA会長五十嵐薫さんへのインタヴュー


同校のPTA会長である五十嵐薫さんたちは、これまでPTA活動が地域交流を促進させる役割を担ってきた一方、組織としては「お母さんたちの集まり」として半ば定着している現状があり、地域の問題として小学校の動向に関心を持つお父さんたちが増えているものの、その意志を受け止める受け皿がないことを敏感に感じ取ったようだ。当初側溝の掃除から始まった活動は徐々に賛同者を増やしながら発展を続け、地域の人々にも知られるようになった。
この「おやじの会」のような、地域のお父さんたちが特技を活かしながらボランティア活動を行なう動きは八潮北小学校だけにとどまらず、全国的な規模で拡大しつつある★七。なかには全国の「おやじの会」同士の情報交換を呼びかけるポータルサイトまである★八。それをみると、PTAの下部組織として活動しているものもあれば、まったく独自の予算や会則を持ち、独立して活動を行なっているところもあり、各会とも試行錯誤が続いているようだが、次第に小学校におけるひとつの活動体として定着しつつある。
他方、「八潮さわやかネット」は、二〇〇一年五月に発足した、主に大学生や高校生の若者たちによって構成されているグループである。品川区立八潮児童館を拠点として、地元の子どもたちのために遊びを企画することを中心に、児童館や小学校で行なわれる行事の手伝いなどの活動を行なう★九。
「さわやかネット」の活動に参加する理由をメンバーに話を聞いてみると、「児童福祉の仕事に就きたいから」、「もともと児童館に遊びに来ていて、年齢が上がるにつれて子どもたちの面倒を見るようになった」など、動機や目的はさまざまだ。あるメンバーは「ボランティアとか、そういうふうに思ったことはない。楽しいからやっているだけ」と言う。圖師田校長は「八潮さわやかネット」の活動に対して以下のように述べる。

うん、今特に私も育てようとしています(笑)。もうほら、「おやじの会」的な組織は全国的にももうかなりできあがってきていて、声かければやってくれるけれども、今一番問題なのはあなたたちぐらいの、高校生ぐらいからの世代。地域とか自分の母校にそんなに愛着がないわけだ。例えばたばこの吸殻とかごみとかをびゃんびゃん捨ててしまう。それじゃやっぱり地域はよくならない。若者にしっかりしてもらわないと。
というわけで今彼らを育てようとしている。事あるごとに呼び出して(笑)。あの子たちはほんと自主的にやってくれるので助かる。
だから「おまえたちも手伝え」じゃなくて、「自分たちで企画してなんかやれえな」ていうて、「金と場所は何とかするから」って。今ちょうど発展途上かな、「さわやかネット」はね。
八潮北小学校圖師田校長へのインタヴュー


彼らにとって、このように地元の小学校の経営者である校長先生に期待され、信頼されて、舞台を提供されたうえでの活動はやりがいがあるだろう。また五十嵐PTA会長はPTAや「さわやかネット」との関係についてこう話す。

こだわってるのは、未就学児童や卒業生のお父さん方にやってもらうことなんです。子供が卒業しても、地域のために残ってもらう。地域のためにもっとたくさん、手を組みたいな、っていうか。「おやじの会」はPTAの下請け組織(笑)。それでいいんです。
「さわやかネット」みたいに若者が地域のために役立ちたい、っていうのはとても素晴らしいことなんで、それはもう最大限サポートしたい。それにやっぱりね、彼らが望むことを実現したい。僕らが「ああしてくれ」、「こうしてくれ」っていうのは愚の骨頂で、彼らが何をしたいか、何を目指したいか、ということに対して、力を貸していきたい。
八潮北小学校PTA会長五十嵐薫さんへのインタヴュー

4──「餅つき大会」後の話し合い

4──「餅つき大会」後の話し合い

5──「おやじの会」が作成した遊び場 ともに筆者撮影

5──「おやじの会」が作成した遊び場
ともに筆者撮影

6──ネットジャングルで遊ぶ子どもたち

6──ネットジャングルで遊ぶ子どもたち

7──「さわやかネット」のメンバー ともに筆者撮影

7──「さわやかネット」のメンバー
ともに筆者撮影

複数のローカリティが複数のまま

取材を通じて感じられたのは、「おやじの会」にせよ、「さわやかネット」にせよ、自分たちの活動を「地域のための奉仕」というよりは、特技を活かしたり、将来につなげたりといった意味での「自己表現」として捉えているのではないかということだ。「子どものために活動する」ことをテーマにして、同世代の同じ活動をしている仲間に出会ったり、地域の人々に出会ったりということが楽しいのであろう。
このように、この小学校ではさまざまな立場にあって、さまざまな目的をみる人々が集まり、それぞれの役割を果たしている。子どもにとっての小学校、教師にとっての小学校、保護者にとっての小学校、PTAにとっての小学校、「おやじの会」にとっての小学校、「さわやかネット」にとっての小学校……これらは空間的にも時間的にも必ずしも一致せず、ひとつに統合されないままそこに存在しているかのようである。八潮の人々にとって小学校は、複数のコミュニティがそれぞれのローカリティを重ね合わせる場所となりつつあるのである。
八潮の事例はあくまで局所的なものであり、しかもその試みは始まったばかりに過ぎない。しかしこの事例が教えてくれることは、都市が単一のローカリティのうえに成立しなくなりつつある現在、学校は都市のなかで、複数のローカリティが複数のまま共存し、交差し、重なり合う場所として機能する可能性を秘めている、ということだ。この可能性を前に学校がその門を堅く閉ざすのだとしたら、都市にとってこれほど残念なことはない。安全とは何か。地域社会とは何か。そして、都市のなかで学校はどのように機能するべきか。さまざまな事例について学ぶとともに、学校空間のあり方について、もう一度冷静に考察する必要があるのではないか。

6──児童館のスタッフとの話し合い 筆者撮影

6──児童館のスタッフとの話し合い 筆者撮影


★一——筆者は事件後に全国の学校建築の取材を開始したが、多くの小学校で見学の許可が事件前と比べて複雑化しており、「こういうご時世ですから」の一言で許可が下りないこともしばしばであった。
★二——例えば事件直前の『新建築』二〇〇一年五月号では、「開かれる教育空間」と題した特集が組まれていた。
★三——二〇〇二年度。
★四——品川区教育委員会HP。
URL=http://www2.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/
★五——八潮北小学校ホームページでは「きめ細やかな教育」「地域住民との交流」など、小規模校の特長を生かした特色が紹介されている。
URL=http://www1.cts.ne.jp/~ya-kita/
★六——本文中のインタヴューはすべて二〇〇一年一二月一五日に行なったもの。役職等は当時のもの。
★七——試しにgoogleで検索してみると四〇一〇件のヒット数があった。
★八——インターネットおやじの会HP。
URL=http://www.kurikoma.or.jp/~oyaji/
★九——八潮さわやかネットHP。
URL=http://www.geocities.co.jp/Outdoors-Mountain/
2877/
★一〇——筆者(山崎+藤村)は共同で、「都市にインタヴューする」ことをテーマに、インタヴュー形式を主とした取材活動を行っている。本稿に引用したインタヴューを含むテキストは以下のサイトで公開中。URL=http://www.round-about.org

>山崎泰寛(ヤマサキ・ヤスヒロ)

1975年生
横浜国立大学教育学部卒業、京都大学大学院教育学研究科修了。SferaArchive企画・運営を経て、建築ジャーナル編集部勤務、roundabout journal共同主宰。編集者。

>藤村龍至(フジムラ・リュウジ)

1976年生
藤村龍至建築設計事務所。建築家、東洋大学講師。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>永江朗(ナガエ・アキラ)

1958年 -
フリーライター。

>片木篤(カタギ アツシ)

1954年 -
建築家。名古屋大学大学院工学研究科建築学専攻教授。

>上野千鶴子(ウエノ・チズコ)

1948年 -
社会学。東京大学大学院人文社会系研究科教授。