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腐敗する湿原都市──〈昭和〉の死と東京 | 田中純
Decomposing "Swamp City": The Death of "Showa" and Tokyo | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.12 (東京新論, 1998年02月10日発行) pp.133-143

1
路上という〈驚異の部屋ヴンダカンマー

松山巖は著書『群衆  機械のなかの難民』の最終章で、丹下健三が一九八三年に篠原一男との対談で情報化社会における建築のイメージとして語った、〈ノリのような建築〉という言葉に注目している。丹下はそこで、情報化社会を意識し始めた一九六〇年ごろから、それまでさらっとしていた空間が非常にねばっこくて、ノリのような感じに見えてきたと述べている。空間は物を引き裂くものだと考えていたのに、この時期からノリのように粘着させるものだという実感が強くなってきた、と丹下はいう。空間はもはや空虚な場ではなく、ねばねばした実体であり、物がそれにくっついているかのような感覚が生じたというのである。
松山は丹下のいう〈ノリのような建築〉は、小さな住居、商店、雑居ビルを破壊した更地に建てられた巨大なビルという姿で、一九八〇年代に入って実際に出現し始めており、バブル景気とともにそれはとめどなく増殖していったと見る。

これらの巨大なビルは単に巨大であるという以外に価値がないような均一な表情をしている。それらは独立した一つの建物であるというよりも、あたかも〈ノリのように〉街のなかを侵食しながら互いにくっつきあっているかに見える。この状況はバブル景気によって加速された★一。


地価の上昇と恒常的なオフィス需要により、それまで同じビルに入ることのなかった、機能の異なる職場も合体され、異質な機能が巨大なビルの内部でノリのように接合しはじめる。テクノロジーによる環境管理や情報ネットワークがもたらしたこのあらたな空間感覚とは、例えば妹島和世について磯崎新がある対談で述べたような、「仕切りがなくて、ずるずるっと行っちゃってて、どこまでどうなっているのかわからない」★二という建築空間に通じるものであるのかもしれない。磯崎はアンドレア・ブランジの「ノーストップ・シティ」にこれと同様の、区切りなく床と天井が延々とつながり、無限に広がっていく空間の表象を見出し、それこそ、コンピュータ・ネットワークのテクノロジカルな合理性が突き詰められた果てに出現する空間ではないか、と指摘している。しかし、バブル経済と共に一気に進行した東京改造は、磯崎のいう〈制約なき合理主義〉をすでに徹底化させて実現していたことになりはしないか。
ノリのように粘着的に、ずるずると無限に拡大していくこの空間は、まさに〈仕切り〉という分節を欠いて、記号としての読みとりを拒絶する。一九八〇年代の東京論ブームとは、東京を覆いつつあったこの粘着空間の支配に対する反動の一つであり、だからこそ、そこでは記号論が方法として称揚された。前田愛の『都市空間のなかの文学』、陣内秀信の『東京の空間人類学』といった書名が表わしているように、そこではあくまで都市の〈空間〉が分節化され、再秩序化されてとらえられた。その過程で再発見されたものとは、江戸に遡る東京の都市構造である。このような都市空間の読解は結果として、近世からの連続性をたどる歴史記述に帰着していく。
これに対し、赤瀬川原平や藤森照信らの超芸術トマソンや路上観察といった活動は、〈空間〉ではなく〈物件〉に注目した。物件とは空間と呼ばれる全体秩序からいつの間にかこぼれ落ちてしまった、ほとんど意味を欠いたオブジェであり、個別の成立過程は有するにしても、それらを総合する歴史はもたない。それは計画的に作り出された人工物ではなく、人間の意図の欠如したところに自然に生成してきた何かとして、事後的に発見されるしかない対象である。従ってその記録は、人間的な営みの蓄積としての歴史ではなく、むしろ、自然物を発見し記述する博物誌=自然史(Natural History)にほかならないものとなる。一九八七年に出版された『東京路上博物誌』において荒俣宏は次のように述べていた。「私たちは今や、路上を埋め尽くした人造物を〈第二の自然物〉とみなさなければならない。そして博物学がかつて地上すべてに住みついた生物を記述しようと試みたように、路上博物学は雑然と共生する都市のオブジェを観察していく」★三。
都市の局部的な崩壊を自然現象としてひたすら観察し収集・記録する路上観察のこうしたまなざしが、終末期に固有なデカダンスとニヒリズムの産物であることは別の場所で指摘した★四。都市という歴史的な産物が自然物として観照されるとき、歴史はあたかも自然な腐朽過程のように受け取られる。そして、それはヴァルター・ベンヤミンが『ドイツ哀悼劇の根源』で論じたバロック悲劇の時代感覚に通じている★五。ベンヤミンがそこで展開している〈自然史〉の概念においては、自然は腐敗することによって歴史の顔貌を帯び、歴史は腐朽する事物として自然へと変貌する。

自然は、彼らにとって、蕾や花の中に姿を現すのでなく、自然の被造物の爛熟、腐朽の中に現れる。自然は、彼らに永遠の衰微として思い浮かべられ、当時の人々の土星人的な目だけが、その中に歴史を看破することができたのである。歴史の記念碑である廃墟が、アグリッパ・フォン・ネッテスハイムによると、土星動物の栖である。腐朽したときに、そしてそのときにだけ、歴史上の出来事は収縮して舞台上に登場することができる。(…中略…)歴史の経過のイメージが刻み込まれる自然は、腐朽せる自然である★六。


バロックの土星人的な、すなわちメランコリー的なまなざしにとって、歴史はとめどない没落にほかならない。その没落は自然の腐朽過程として表象される。ここにおいて、自然史とは単に自然物の生成・消滅という時間的変容の物語ではなく、自然と歴史という異なるカテゴリーが交錯する過程そのものと見なされている。つまり、そこでは歴史は同時に自然であり、自然はただちに歴史でもある。この交錯は具体的には廃墟の形象によって表わされた。「自然の顔には、衰微の象形文字で〈歴史〉と書かれてある。近代悲劇によって舞台にのせられる自然=歴史の寓意的相貌は、廃墟として実際に目の前に現れるのである」★七。
自然史、つまり自然=歴史の寓意としての廃墟は、自然と歴史の二面性を合わせ持つ両義的な形象である。この廃墟としての世界とは、破砕されて瓦礫と化した断片の集積にほかならず、バロックの世界はこうして、がらくためいた収集品が無秩序に堆積した、文字どおり博物誌的な〈驚異の部屋ヴンダカンマー〉として立ち現われてくることになる。荒俣は「都市の路上は、いま、新旧分布の大きな変動期にある」として、「路上博物学が絶滅に向かいつつある稀少種に目を向け、これを記述することは、十分に意義ある作業といわねばならない」と書く★八。カメラによって記録され記述された収集〈物件〉の数々は、系統的な分類を欠いたまま蓄積されて、〈驚異の部屋〉ヴンダカンマーとしてのバロック的世界を作り出す。路上観察などと時を同じくしたバロック再評価もまた、路上博物学に認められるこの〈廃墟としての世界〉という時代感覚と無縁ではないだろう。一九八八年に刊行された松山巖の『都市という廃墟』は三島由紀夫論として書かれ、三島の作品を通して戦後日本の変貌をたどろうとした評論であったが、それがほかでもない都市論として、しかも都市が廃墟化する過程として論述されたところにも同様に、世界崩壊の感覚を認めることができる。その崩壊は都市=廃墟という寓意を通して、腐朽する自然=歴史の相貌のうちに示されたのであった。
「都市の路上は、いま、新旧分布の大きな変動期にある」という荒俣の言葉が表わしているのは、この時代が一種の終末、衰退期であるという意識にほかならない。ベンヤミンはバロックとともに一九世紀を一つの衰退期としてとらえ、パリのパサージュをその弁証法的なイメージと見なしたが、『パサージュ論』にはそのパサージュを博物誌=自然史的な空間として描き出した次のような一節がある。

中新世や始新世の岩石のところどころに、それらの地質年代に生きていた怪獣たちの痕跡が残されているように、今日のパサージュは大都市のなかで、すでに見当たらなくなった怪獣たちの化石が発見される洞窟のような具合に存在している。その怪獣とは、ヨーロッパ最後のディノザウルスである資本主義の、しかも帝政以前に生息していた消費者たちのことである。この洞窟の壁面には商品が太古の植物相のようにはびこり、潰瘍のできた組織のように、あちこちできわめて無秩序に絡み合っている★九。


パサージュとはすでに絶滅した生物種の化石が残された自然=歴史の空間である。そしてそこは、古ぼけた種々雑多な商品たちが互いに絡み合って形成する、夢幻的でバロック的な〈驚異の部屋ヴンダカンマー〉にほかならない。ベンヤミンはこれに続けて「夢見る集団そのものにとっては、ある経済期の没落が世界の没落として現れてくる」と書いている。一九世紀のパリ、そのパサージュがブルジョアジーの廃墟であったとすれば、一九七〇─八〇年代の東京の路上もまたそんなパサージュに似て、太古の化石としての〈物件〉を潰瘍のように付着させた洞窟だったのではないだろうか。そこで予感されていたものもまた、「新旧分布の大きな変動期」という荒俣の言葉が暗示するように、一つの経済期の終焉にほかならなかったのではないか。路上観察をめぐる当時のマニフェストの高揚した語調や、熱に浮かされたような面白がり方は、この時代においてしかありえなかった〈夢見る集団〉の世界没落感覚の反映ではなかっただろうか。
しかし、超芸術的な物件ばかりがそんな化石であったわけではない。あらゆる新しいものを、それが生まれると同時に陳腐化し屑にする資本主義経済の運動において、事物は生まれたその瞬間に死んで化石化してしまう。都市の風景は絶え間なく刷新されていると同時に、その瞬間にすでに古びて死相を見せる。森山大道の一九八二年の写真集『光と影』について鈴木了二は、森山の写真の独特なテクスチュア(アレ・ブレ・ボケ)は、現代都市がもちうる唯一のテクスチュアとしての〈「風化」によって生ずる表面欠損〉を先取り的に写し出していると論じた★一〇。鈴木によれば、都市の風景を支配するパターン化された〈既製品〉としてのツルツルピカピカの新品建築には一方向的に進行する劣化の過程しかありえず、この風化ないし劣化以外にそこにテクスチュアが発生する余地はほとんど残されていない。森山大道が写し取っているものは、都市という自然=歴史が、最新流行の装いのただなかで見せている死相、風化・劣化としての腐朽過程にほかならないのである。
路上観察や森山の写真はいわば、〈歴史の屑〉としての死んだ自然を東京という都市において収集しようとした、メランコリックな寓意家の営みであったといえるかもしれない。この森山大道論を含む一九八八年に刊行された鈴木の『非建築的考察』には、「標本建築としての『バラック』」と題された文章が収められており、これは夢見る路上観察学の空虚な熱狂とは無縁な地点から、バラックという建築風化の極限を、現代都市の標本=寓意として鋭利に分析している。一九八〇年代に刊行された松山巖の『乱歩と東京  一九二〇  都市の貌』(一九八四)、『まぼろしのインテリア』(一九八五、のちに『百年の棲家』と改題)、そして『都市という廃墟』(一九八八)といった著作もまた、自然=歴史をその死相においてとらえるまなざしを日本の都市、特に東京に向けていた。

1──アンドレア・ブランジ「ノーストップ・シティ」

1──アンドレア・ブランジ「ノーストップ・シティ」

2──トマソン物件「無用門・ズサンタイプ」 (ちくま文庫版『超芸術トマソン』)p.44

2──トマソン物件「無用門・ズサンタイプ」
(ちくま文庫版『超芸術トマソン』)p.44

3──大阪ビル動物図鑑(『東京路上博物誌』)p.39

3──大阪ビル動物図鑑(『東京路上博物誌』)p.39

4──オーレ・ウォルム「珍奇展示室」1655(同)p.281

4──オーレ・ウォルム「珍奇展示室」1655(同)p.281

5──パリのパサージュ、1905年頃

5──パリのパサージュ、1905年頃

6──森山大道『光と影』(冬樹社、1982)

6──森山大道『光と影』(冬樹社、1982)

2
まぼろしの子供たち

『まぼろしのインテリア』の冒頭に置かれた「路地」という章で松山は同時代を、記憶不可能な、のっぺらぼうな町が生まれつつある時代、都市の記憶のみならず、都市を記憶する能力すらもが失われていく〈過渡期〉と位置づけている。このような過渡期とはベンヤミンがいう衰退期にほかならない。そして松山は、明治以来のそれぞれの過渡期において失われたもの、さらには失われたことさえ忘れられたものとしての〈まぼろしのインテリア〉の所在をたどり、その輪郭を浮かび上がらせようとする。

過渡期に生じた生活のズレは現在まで何らかの痕跡を少なからず残しているのではないだろうか。ズレが分からないのは現在では当たり前として気づかぬからではあるまいか。私は各時代に起きた生活のズレを探す。そして、そこに暮らしの断面を見て、それをインテリアと呼ぶことにしたい。私が探すのは、華やかに飾りたてられたインテリアではなく、失われ忘れさられたもう一つのインテリアなのである★一一。


住まいとそこにおける生活を主題とするため、松山のまなざしは荒俣たちのように、路上の物件として誰の目にも明らかな事物へと向かうことはない。それは逆に、可視的なインテリアのさらに内奥にあって、もはや不可視化されてしまった〈ズレ〉の空間こそを囲い込もうとする。ただしそのズレとは、かつては存在したがもはや今はない生活の質などといったものではないだろう。むしろそれは、かつても今も存在しない〈まぼろし〉としての剰余である。失われ忘れ去られたように見えながら、つまり不可視化されながら、インテリアの、すなわちわれわれの内面の中心に残された、意識されない秘密の場所がそのまぼろしの剰余空間であり、言い換えればそれは、いわば無意識へと抑圧された欲望の記憶にほかならない。江戸川乱歩の推理小説を一九二〇年代東京の寓意として解読した松山はここで、探偵の身ぶりによって、現在に残された痕跡から〈生活のズレ〉という事件の現場を再構成しようとする。〈室内〉の 幻      像 ファンタスマゴリーがそこで追跡される。
この著書では例えば、どんなに工費をかけて建てられた住宅も現在では、2DKとか3LDKと同様に、LとDKと数によって図式化されるものでしかなくなっている状況が指摘されている。われわれが自明なことと見なしているこの記号による住居表示は、一九五五年に日本住宅公団(現在の住宅・都市整備公団)が発足し、2DKをその標準的な住戸として以来のものであるという。食寝分離を実現するために台所と食堂を兼ねた空間としてDKが生まれ、夫婦とその他の家族との寝室分離の原則がこれ以外に最低二部屋を必要とした。2DKは、夫婦と子供や他の同居人を含めた四人家族の生活を、食べることと寝ることというもっとも基本的な行為にまで還元した結果の産物であった。当時の平均的な家庭が満たすべき最低条件を表わしていたのがこの2DKという記号だったのである。
2DKや3DKは、2あるいは3という数字によって、そこに住むことのできる家族構成員の最大数をあらかじめ規定している。子供や親などの同居人が増えれば、より数字の大きな住戸に移るしかない。住宅公団は元来、住宅を分譲する機関ではなく、住宅を建設して賃貸する機関であった。その方針は従って持ち家主義ではなく、住人の〈住み替え〉を前提とした。子供の数が増え、成長した場合、住人は2から3、4、5と寝室の多い住戸に住み替え続けなければならなかった。

つまり2DKはその規定からしても決して〈ついすみか〉には計画されていない、住み移らねばならぬ仮りの住まいなのである。ということは、子供は社会に繋がる契機と存在としてではなく、社会と離反する契機と捉えられた住まいであった。子供の数に応じて私たちは、記号化された住居を漂わねばならない★一二。


そこが仮りの住まいであるからこそ、食う、寝るという最低限の条件だけを満たす程度のものであっても、諦めがつくことになる。記号化した住まいの普及は、戦後に生きた人々のこの諦念を代償としていたと松山はいう。しかし、この諦念の対象である仮りの住まいが終の栖にならざるをえない状況がそこにはあった。松山は芹沢俊介による戦後の家族像の分析をそこで引いている。芹沢によれば、夫婦が本当にほしい〈理想の子供数〉と現実に育てることのできる〈現存の子供数〉との間にあった差は、一九六〇年代から八〇年代にいたる過程で次第に一致していき、理想の子供数は二人に近づいていくという。一九七一年の調査では、すでに子供を二人もっている夫婦について、理想の子供数を三人以上とする回答が六〇パーセントを占めていた。つまり、実際には二人しか育てられないが、本当は三人ほしいと考えていた夫婦の現実と願望との間に、産みたくとも産めない〈一人の子供〉という落差があった。これに対して、一九七九年には理想の子供数を二人とする比率が三人とする比率を上回る。〈一人の子供〉に対する禁欲意識は失われ、三人目の子供がもてないという窮乏状態は内面化され、抑圧される。松山はこの三人目の〈まぼろしの子供〉が消え、理想の子供数が二人になったとき、2DKは終の栖に変わったと見ている。そして、ちょうどこの時期に住宅公団の賃貸住宅と分譲住宅の建設比率は逆転し、住み替えを前提とした住宅政策そのものが放棄されている。松山によれば、そこでは仮りの住まいそのものを終の栖とする転倒が、国の政策として実行されたのである。まぼろしの子供が消されるとともに、理想の、まぼろしの住まいもまた消されていく。
産みたくとも産めない〈一人の子供〉は明らかに中絶や避妊の問題と関わっている。だが、無意識的な欲望の経済においては、現実に中絶や避妊がおこなわれたか否かとは別に、このまぼろしの子供の消失という現象そのものが、存在しない生命の殺害という事件にほかならなかったのではないだろうか。理想の子供数と現実の子供数が一致したとき、この殺害の痕跡は跡形もなく消え失せて、過不足ない融和が実現されたように見えたとしても、松山がいうように、そこでは本質的な窮乏状態が不可視化されたうえで内面化されているにすぎず、殺害の記憶は外傷的なものとして残り続けているのではないのか。まぼろしが消えたから2DKが終の栖になったのではなく、終の栖が二人以上の子供を許さないからこそ、まぼろしの子供は気づかれることもなく殺されてしまったのである。
まぼろしの子供たちとは、現実の窮乏と願望との間のズレを表わすものにほかならず、われわれはこの子供たちを失うことではじめて、貧しさを貧しさとして自覚することの少ないままに、逃れがたい窮乏状態へと適応していく。しかし、このズレは痕跡をかき消されてしまったかのようではあっても、いや、それが無意識に追いやられているからこそ、現実生活における何らかの障害として姿を現わさずにはおかない。松山のこの著書では、住宅公団を代表する業績だった都内最大規模の高島平団地で、一九七一年の入居開始以来、自殺者が異常に頻繁に発生していた現象が言及されている。松山は一九七八年に実際にこの団地を訪れているが、その時点ですでに三三人の飛び降り自殺者があったという。
この訪問時に耳にした、遠い過去に戦いなどで殺された者たちの亡霊が自殺者を招くという話をきっかけに、松山は幕末以来の江戸・東京の打ち壊しや騒乱の歴史をたどり、高島秋帆によって始められた大砲試射場拡張のため、現在の高島平付近の村々が慶応年間に幕府に召し上げられた出来事にたどりつく。当時の農民はこれに抵抗し、竹槍を手にしてこの土地に結集したという。

徳丸ヶ原の大砲試射場拡張に反対するため二万人が集った場所に、百年を経て三万人が居住する高層団地が出現した。そして亡霊が出現した。亡霊は土地を追われた者だったのか。区史によればその土地は使いものにならぬ場所であったはずだったが、あの忌地でさえ生活の場にしている者もいたのである。土地を生活の糧にしていた者たちが追われて、世のなかに生きる場所をもたぬ者たちを百年を経て呼んでいる★一三。
江戸の都市構造を東京の現在につながるものとして再発見するまなざしが、過去と現在の間の距離を自明の前提としているのに対して、ここでは過去は、現在の悲惨を照らし出す形象として、それ自体が未完のまま、〈いまここ〉と直結しているように見える。〈亡霊〉とは過去のこの未完了性、延期された死の形象以外の何であろうか。白っぽい高層住宅のなかに亡霊たちが彷徨う光景を思い浮かべる想像力は、あのまぼろしの子供たち、生まれる前に死んでいき、痕跡すら残していない願望の屍体たちを負債のように無意識のうちに抱えて、その喪失感を亡霊という形で幻視するのではないだろうか。奇妙なことにここでは、2DKや3DKといった数字と記号に還元された生活空間が、土地との必然的な結びつきを徹底して欠いているからこそ、あたかも地霊にも似た存在として亡霊たちを招き寄せるかのようでもある。言うまでもなく、亡霊は自殺という悲劇を引き起こす原因ではありえない。まったく逆に、現在のこの悲劇の原因が特定できず、外傷的な記憶のように意識化しえないからこそ、生きる世界の秩序を保つために亡霊というフィクションが必要とされるのである。

7──高島平団地

7──高島平団地

3
帝都の廃墟

松山は高島平一帯がもともと低湿の地であったことから、日本古来の〈葦原の中国なかつくに〉という国土観のもとにある湿原聖地信仰との関係を推測している。高島平の付近は一九五〇年代まで〈赤塚たんぼ〉(ないし〈徳丸たんぼ〉)と呼ばれる、東京随一の水田地帯であった。金井典美によれば、日本の国土ははじめは浮かび漂う浮島であり、葦が茂ることによってそれが固定されたと信じられてきたという★一四。しばしば浮島を生じる湿原は日本国土の雛形と見なされ、豊穣な作物をもたらす土地として神聖視される一方、同時に不吉な死気(陰の生気)の漂う忌地とされることも多かった。このような民俗を背景として、近代的な巨大高層住宅と古代の湿原が二重写しになる。松山はこの着想をさほど展開していないし、そもそもここで土地の来歴それ自体が重要なのでもない。むしろ問題なのは、高島平団地という近代の空間が、神話の太古的な世界と照応関係の戯れを始めるにいたる、この歴史的な回想のなされ方であり、そこで立ち現われてくる近代と古代が浸透しあう両義的な形象である。このような回想は現実の都市をただちに廃墟と見るまなざしに通底している。
金井が述べているところでは、日本の天皇は稲の穀霊としての性格が強かったため、葦原の国の水辺の地に都しなければならないという思想が古代にはあったという。とすれば、古代湿原としての近代都市という両義的な形象は、高島平のみならず、帝都東京全体のものといえるかもしれない。この都市が江戸ではなく東京都と呼ばれるのは、そこが天皇という、古代的な魂を現代にいたるまで継承しているとされる、〈依り代〉としての肉体が位置する都であることに関係している。このような神話のもとでは、天皇の身体こそ、古代の現前であり、東京という都市の寓意ではないだろうか。いや逆に、東京が天皇の寓意であるというべきだろうか。
路上博物誌の活動と平行して荒俣宏は一九八〇年代に『帝都物語』を発表していた。この小説は明治四〇年から、現代、近未来にいたる東京を舞台として、この都市を壊滅しようとする力とそれを守ろうとする者たちとの闘いを描いている★一五。平将門の怨霊をめぐる物語がそこで示していたのは、天皇制という日本の権力機構とそれに敵対する者たちとの古代に遡る闘争の系譜だったのだが、それが東京という〈帝都〉を題材としたところに、この時代の都市東京をめぐる想像力の一つの典型を認めることができる。『帝都物語』第一巻の巻頭には、「東京を愛し、東京を憎む、すべての人々に」という言葉が掲げられている。そこにおいて東京は天皇の都市、天皇制の表象としてこそ、愛憎入り交じった、アンビヴァレントな感情の向かう対象だったのではなかっただろうか。この両価感情もまた、路上観察を覆っていた終末の予感と無縁ではなかった。この都市が表象していた古代的な身体はすでにそこで間近な死へと向けて衰弱し続けていたのだから。
しかし、この文字通り自然(肉体)にして歴史(万世一系)であるかのような天皇の存在における〈古代の現前〉という感覚こそ、天皇制のトリックであり、近代日本の悪夢であったことを急いで確認しておかなければならない★一六。天皇制はそれが近代の産物であるからこそ、古代的な象徴の装いをまとって立ち現われる。絶えざる崩壊過程にある近代世界は、技術的な発展につねに伴って、アルカイックな神話を呼び覚ますことをベンヤミンは指摘している。

昔ながらの先史時代的な戦慄は、すでにわれわれの両親たちのまわりの世界をも取り巻いている。なぜならば、われわれはもう伝統を通じて両親の世界と結びついてはいないからである。象徴化された慣例的世界はいっそう崩壊の速度を速め、そのなかにある神話的なものは、急速に、ますますはっきりと姿を現す★一七。


近代が伝統との断絶をもたらすからこそ、古代的な象徴の世界が復活する。歴史的な連続性は断ち切られ、アナクロニックに過去と現在の〈非同時的なものの同時性〉(エルンスト・ブロッホ)が生じる。それはベンヤミンが〈根源史的契機〉と呼ぶユートピア的な願望像であるとともに、近代の矛盾を隠蔽するイメージでもあるという両義性を避けられない。湿原都市という両義的形象もまた、天皇に与えられた浄化された自然=歴史の聖性という虚構を支えるかに見えて、それを根底から脅かす二面的なものである。
天皇の肉体が植えられた斎田としての都、東京。この聖地湿原には都市を支える大地は実は存在していない。都そのものが水上を流れ漂う浮島なのだから。この都市はそして同時に、死臭の充満した忌地である。天皇の肉体が死んで腐るように、この湿原都市もまた腐敗していく。東京は西欧の廃墟のように崩壊していくのではなく、沼地のただなかで腐っていく。だからこそ逆に、そこでは腐敗すること、穢れ、死にゆくことへの度し難いまでの恐怖が支配する。腐敗を避けるためには、腐るよりも早く自らを破壊し、再生し続けるしかない。腐敗によって自然=歴史の相貌を見せること、つまり廃墟化することへの恐怖によって突き動かされ、焦燥に駆られたかのように、東京は絶え間なく作り変えられていく★一八。
しかし、まさに廃墟を回避しようとするこの身振りによって、東京は最新流行のただなかの死相をあらわにせざるをえない。松山は『都市という廃墟』の末尾で、三島由紀夫は「わざわざ人々に憎悪と侮辱を一身に集める『もつとも汚穢な、もつとも醜い』死を選んだ」と書く。しかし今や、三島のこの反語的な死すら通じなくなるほど、死はひとしなみに穢わしく忌むべきものと誰もが考えるようになってしまった。「だからこそ、予め人は自分の墓を碑のように建てる、『愛』や『憩』の言葉で。何という孤独だろう。そしてこの孤独が大量に生産され消費されて行く。孤独ですら孤独たり得ない世界。名付けようもない廃墟が拡がろうとしている」★一九。
昭和という、ある意味で濃密な時間の終焉の時を記録した東京論は、腐敗の過程が隠蔽されていく日本的な天皇制という制度のなかで、この都市を廃墟として幻視することを通じて、自然=歴史の腐敗を見届けようとしていたのだといえるかもしれない。日本にあってはそれは、消滅と生成の反復的構造のうちに〈自然〉なものとして回収されることのない、絶えざる腐朽過程としての〈歴史〉を都市に確認する営みである。それを〈昭和〉と呼ぶことを受け入れるにせよ、拒むにせよ、一つの時代の死を間近にした予感が、そのような記述を可能にしていたのだろうか。いずれにしても、昭和の死という時代の裂け目は確かに一つの危機的な瞬間にはちがいなかった。しかし、そんな危機の予感はまさしく〈過渡期〉における〈ズレ〉として痕跡を消されてしまう。〈ノリのような〉建築に囲繞されて、われわれはそんな昨日の記憶さえ、もはや思い出すこともできない。
ねばねばと粘着的に東京をはじめとする日本の都市を閉塞させているのは、情報化社会のテクノロジカルな合理性であるどころか、再び〈自然〉なものとしてこの国の〈歴史〉を体現しはじめたシステムであるのかもしれない。しかし、聖なるものという虚構のもとに、自然=歴史そのものと見せかけられた特権的な肉体の生死によって計られる時間の擬制に逆らって、どんな時代もつねにまた〈過渡期〉であり、まぼろしの子供たちの殺害という悲惨を抱えた破局的状況に置かれているのだ。だからこそ、自然=歴史の死相としての廃墟・東京が、繰り返し発見されなければならない。

8──浮島稲荷神社の神池(金井典美『湿原祭祀』より)

8──浮島稲荷神社の神池(金井典美『湿原祭祀』より)

9──大友克洋『童夢』

9──大友克洋『童夢』

10──鷹司家旧蔵  大嘗宮の図 (平野孝國『大嘗祭の構造』より)年代未詳

10──鷹司家旧蔵  大嘗宮の図
(平野孝國『大嘗祭の構造』より)年代未詳


★一──松山巖『群衆  機械のなかの難民』(読売新聞社、一九九六)、三九六頁。
★二──磯崎新ほか「情報・空間・建築」、磯崎新+浅田彰監修『Anyplace』(NTT出版、一九九六)所収、三〇八頁。
★三──荒俣宏ほか『東京路上博物誌』(鹿島出版会、一九八七)、一九頁。
★四──拙論「路上の系譜  バラックあるいは都市の〈忘我状態〉」、『10+1』No.7(INAX出版、一九九六)所収、二〇─二四頁。
★五────本論で示すように、一九八〇年代の東京論はベンヤミンの思想と直接、間接の照応関係に置かれている。その背後にあるのは、この時代と一九二〇─三〇年代の社会状況との構造的な対応・類似にほかならない。
★六──ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』(川村二郎・三城満禧訳、法政大学出版局、一九七五)、二一六─二一七頁。
★七──同、二一四頁。
★八──荒俣『東京路上博物誌』、一八頁。
★九──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論V』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九五)、一八八頁、断片番号R2、3。
★一〇──鈴木了二『非建築的考察』(筑摩書房、一九八八)、四三─五二頁。
★一一──松山巖『百年の棲家』(ちくま学芸文庫、一九九五)、一五頁。
★一二──同、二二二─二二三頁。
★一三──同、二五七─二五八頁。
★一四──次を参照。金井典美『湿原祭祀』(法政大学出版局、一九七七)。
★一五──『帝都物語』は一九九八年一一月に東京を襲う大地震によって結末を迎える。都市の破壊をめぐる終末幻想は、高島平団地を舞台にしたといわれる大友克洋の『童夢』(一九八三)にも通底している。
★一六──例えば飯島洋一の『王の身体都市  昭和天皇の時代と建築』(青土社、一九九六)は、確かに昭和という時代における天皇制と建築との関係を主題とした意欲的な試みにはちがいない。しかし、すべてが天皇との母子密着という精神構造に帰着するその議論は、分析を通じて分析対象に呪縛されるという陥穽にはまってしまっているように思われる。飯島の言説そのものが、天皇、天皇制という対象へのリビドー備給を促進しているといっては言い過ぎだろうか。
★一七──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九三)、一六頁、断片番号N2a、2。
★一八──平野孝國の『大嘗祭の構造』(ぺりかん社、一九八六)によれば、元来は新しい天皇の即位とともに、その都度、遷都がなされ、新宮が建設されるのが慣わしであったという。つまり、天皇の代替わりとは、都の廃絶、都の死を意味した。これは一種の田植えのように、新天皇を新しい斎田としての新宮殿に移し代え、新たな代の誕生を寿ぐものであった。宮殿とは苗代であり、都とは天皇のこのミ(御)ヤ(屋)が立つコ(場所を表す処・居)にほかならない。「天皇の御代は有限であるが、これを次々と植え代えることにより、無窮の君の世とし、同時に民の世として予祝しうる論理である。御一代限りの宮居は、それ故豪華である必要はないが、新築し、ここを都としてお遷しすることが伝統であった。」(『大嘗祭の構造』一八一頁)都が天皇を迎え入れる斎田であるのと類推的に、折口信夫の説を信じるとすれば、天皇の身体は天皇霊の容器、いわば魂の苗代である。天皇制を継続させているのは、天皇霊のこのいわば〈住み替え〉の思想である。
大和平野を中心とする呪術的司祭政治型権力である〈倭王〉の統治機構から、〈天皇〉を中心とする律令国家体制へと向けて新しい政治構造が形成され、その統治圏が拡大するとともに、天皇の歴代遷宮は七世紀末、持統天皇の時代に終焉する。そして、同じ持統天皇のもとで伊勢神宮が創建されることになる。現在は二〇年毎となっている式年に、伊勢神宮の社殿をことごとく造り変えて遷宮するという〈式年遷宮〉の制度のなかに、住み替え、建て替えの思想が置換されて残されていく。あえて掘立柱や萱葺きといった腐りやすく耐久性のない形式をとることによって、いかにも原形を保持しているかのような反復が〈無窮の君の世〉をフィクションとして成立させる。腐敗は未然に回避されてしまうから、耐久性は問題にならない。伊勢は腐朽することがない。それは廃墟と化すことを原理的に拒否している。
★一九──松山巖『都市という廃墟  二つの戦後と三島由紀夫』(ちくま学芸文庫、一九九三)、二九四頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年 -
建築家。早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。

>飯島洋一(イイジマ・ヨウイチ)

1959年 -
建築評論。多摩美術大学美術学部環境デザイン学科教授。