突出するものについて語ることはある意味で容易である。それは「外側」から語りうるからだ。しかし、あらかじめ対象の「外側」に立っているかのように語るとき、それがどんなにネガティヴなポーズでどんなに洗練された手続きを踏んでいたとしても、やはりどこかで滑稽さやいやらしさを免れない。それに対して、外部を持たない茫漠とした拡がりの「内側」で、ありふれたものごとに言葉を与えることは容易ではない。
前者の場合、語りうることの先はすぐに見えてしまうが、後者は体力を消耗した蓄積の可能性に賭けるほかない。現代建築の批評は、後者のような蓄積の持久力を鍛えてこなかった感がある。もっとも蓄積が質的な生産につながる保証もまたないが、しかしそれを欠いた「外側」からのクールな視線は、今ますます力を失いつつある。
ところで、日本の建築の「今」を伊東豊雄以後と捉えることには説得力を感じる。それは、八〇年代後半以降の伊東が、彼をとりまくとりとめのない普通の世界に自らを限りなく近づけようとするところから出発したからである。
「衣服」としての建築、現代的身体をやわらかく覆う布片のような建築を伊東は目指した。
物理的には内部空間にいても、私達はメッセージを送り込む記号の集積としての建築とは常に対峙し合っている、というより否応なく外側に身を置かされている。
「半透明の皮膜に覆われた空間」一九八六
建築は身体を「外部」に置いてしまう。伊東はこれを何とも不自然で不快な事態と捉えた。「建築総体が、或いは建築各部がさまざまなメッセージ、意味を私達に投げかけてくる以前から、すでにその内側に居ることができるだろうか……そのような状態がもし可能ならば、私達はその時初めて、真に心地よく安らぐことができるのではないか、と思われるのである」。こうして、「身体の延長として内側から膨らませていった」ような、「外部」をつくらない建築のあり方が彼のめざすべき課題となった。いわば「内側しかない建築」である。それは、「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(一九八九)という伊東の主張を念頭に置けば、彼自身が、時代や社会に対して「内側しかない立場」をとろうとしたことにほかならない。それ以外にアクチュアリティを保つ方法はないと彼は考える。しかしそうした考えは、「外側」に立とうとすることを習性としてきた建築家や批評家に対する反措定のスローガンというのでは必ずしもない。むしろ、彼は一種の与件を発見したのだというほうが近い。つまり、築き上げるべき立場や立ちあげるべき建築を見つけたのではなく、すでに建築と建築家を取り巻いていて否定すべくもない〈環境〉に気づいたのである。
ここで〈環境〉と「風景」という二つの言葉を次のように定義してみよう。〈環境〉は僕たちのまわりにつねに=すでにあって構築したり否定したりすべくもないすべてのものであり、これに対して「風景」とはある形式において発見されるものだと。そうすると、伊東豊雄は建築家をとりまく〈環境〉に気づくことから出発し、建築を〈環境〉化しようとしてきたのだと単純化することができる。しかし、〈環境〉とは「発見」されるものでも、課題として目指されるべきものでもない。この両義性はちょうど、「消費の海に浸らずして新しい建築はない」というテーゼが一方では諦念と現状肯定に見える側面を持ちながら他方で挑戦的な色彩を強く帯びていたことにも対応している。「消費の海」という〈環境〉に「浸る」ためには何も考える必要はないし、何も目指さなくてもよい。にもかかわらず、伊東はそれを目指すのであり、しかし目指そうとするとき目の前にたち現われるのは「風景」である。彼は「消費の海」の「向こう岸に何かを発見するしか方法はない」と書いたが、見えたと思った「向こう岸」がまた別の「風景」でない保証は少しもない。彼は飽くなき〈環境〉化を反復していくほかない。きっと、磯崎新にとって六〇年代の都市は一度は伊東にとっての八〇年代の都市のように現われたのではないかと僕は思うが、磯崎のように苦悩しながらも都市から自らを引き剥がし《建築》の構築へと至るような方向は、伊東が一〇年余り前にはっきりと拒んだものである(拙稿「透明な〈環境〉」、『建築思潮05』、学芸出版社、一九九七)。僕たちは、とりとめもなく拡がった〈環境〉に閉じこめられてしまっている。
日本の建築の「今」を伊東豊雄以後と捉えることに説得力を感じると冒頭に書いたのは、以上の意味での〈環境〉の「発見」を彼が最も先鋭なかたちで示してみせたと思うからであり、多かれ少なかれ、同様のことが多くの建築家たちによって考えられていると思うからだ。
ところで、伊東には、極端に言えば「身体」に現代社会のすべてがそっくり内蔵されているというような一種コスモロジカルな飛躍のようなものがあったと思われ、それは今もなくなっているわけではない。ただ、この飛躍を埋めるかのように二つの道筋が生まれていく。ひとつはプログラムの問題であり、他のひとつはランドスケープの問題である。「身体」を軸にして「内側しかない建築」を目指すうえで、外皮の「皮膜」化といったディテールの微細な調整を中心に置くことには自ずと限界があったし、他方でどうしても消えることのない文字どおりの外部空間に目をつむることにも無理があった。大規模な公共建築を相手にする過程で、こうした問題が解決されずに不透明なまま沈殿してきていたのであろう。おそらく、前者は不特定多数の身体群を扱う方法として、後者は「内側」=〈環境〉をやわらかく推し広げていく方法として、比喩的に言えばより伸縮性のあるもうひとつの「皮膜」として登場してきたと思われる。より大きなサイズにおける〈環境〉化は、これら二つの道具を同時に使うことで目指され続けている。もっとも、それは、ランドスケープで包まれたコスモスとしての「内側」=〈環境〉において、プログラム論的に捉え直された〈身体〉の快適性を追求するというような、いわば拡張という名の横滑りである危険性を十分に持っている。
ここで確認しておきたいのだが、プログラム論にしても、ランドスケープへの注目にしても、それらが浮き上がってくる道筋のひとつに、伊東的な「外側」の否定というある意味で泥臭い執着の道のりがあることは、あまり論じられないが重要なことだ。建築の「今」について語るコトバには、こうした伊東的な認識と試行の蓄積に対する何らかの応答が含まれていなければならないと思う。
もちろん、以上の把握そのものが伊東を「外側」から観察することで得られた「風景」にすぎないのであって、伊東的な反復的試行の積み上げに対して、それに応答する別のかたちの蓄積が必要であることを確認する以上のものではない。蓄積を残せないことは、現代においては致命的に深刻なことではないだろうか。
たぶん建築批評の数少ない可能性のひとつは、伊東豊雄のような「内側」=〈環境〉をめぐる反復的試行を横滑りさせずに、質的に展開させる方向を模索する契機を示唆することである。例えば、この試行の飽くなき継続は、家具や室、建物からランドスケープ、地域、都市……といったあらゆるレベルへ遍在的、流動的に動くことのできるニュートラルな視点のあり方をほとんどネガティヴなかたちで示唆する。これに対して批評の側では、例えば、ランドスケープについて語る言葉は、それが建築の残余、都市の残余と考えられてきたことが示すように、建築論や都市論に比べればまだ未開拓な部分を残している。しかし、こうした中間的な位置にとどまってきた領域を建築的な論理の拡張によって埋めてしまうのでは、拡張こそあっても質的な展開の可能性は閉ざされる。そうではなく、一方で建築との、他方では都市との、繊細な相互検証を交互に繰り返しうるような、そうした両義性をランドスケープの記述の蓄積のなかでつむぎ出すこと。言い換えれば、茫漠としてつかみどころのない〈環境〉の内側で、それに若干の地形を与えたり痕跡を刻んだりするような、そんな記述の蓄積は残されるだろうと思う。