アーロン・H・H・タン Aaron H. H.Tan:1963年シンガポール生まれ。1994年、レム・コールハースとともにOMAアジアを設立し、翌年より同ディレクターを務める。主なコンペ受賞=「広州国際コンヴェンション+エクシビジョン・センター」、「オーチャード・マスタープラン」、「北京国際金融センター」など。主な作品と進行中のプロジェクト=《AIAタワー》《CEFタワー》《Sinoタワー》(以上香港)、《深テーマ・ワールド》(中国)、《SKタワー》(韓国)、《メガ・ホール》(シンガポール)、《シドニー・マンション》(オールトラリア)など。著書=『Contemporary Vernacular』『Vertigo』『Kowloon Walled City』(2000年刊行予定)など。
設立の経緯
OMAアジアはレム・コールハース率いるOMAのアジア版として一九九四年香港に設立された。代表はレム・コールハースとハーヴァード大学でその学生であったアーロン・タンであるが、実質的にはアーロン・タンによって方向性が模索されている。したがって、OMAアジアはロッテルダムの下部組織ではなく、プロジェクトに応じて協同するという独立性をもったものである。一九九四年とは経済の急成長によってさまざまな巨大プロジェクトがアジアでたちあがった頃であり、コールハース自身、「現在のアジアにはなぜか資金が潤沢にあり、それを利用すれば、今までになかったような野心的な建築をつくることができる」と述べている★一。これはビッグネスというキーワードでも盛んに語られた。
OMAアジアはなぜ、香港に設立されたのか。この理由こそがOMAアジアのコンセプトである。ル・コルビュジエを分析し尽くし、『デリリアス・ニューヨーク』を書き下ろしたコールハースとハーヴァードにおいて九龍城研究を行なったアーロン・タンにとって、一九九四年の時点ではアジアでOMAの事務所が置かれる場所は香港しかなかった。数は少ないものの幾つかのプロジェクトが完成し、一九九七年の返還やアジアの経済危機を乗り超えた二〇〇〇年の今日、その意味は少しシフトしているかもしれない。
プロジェクト──資本 という唯一の文脈
OMAアジアが竣工したプロジェクトはさほど多くない。返還後、建築プロジェクトが減少した香港ではインテリアやファサードのリニューアルが多く、建築物としては幾つかの高層オフィスだけである。しかし、そのなかでも香港島の北角に建つOMAアジアの《AIAタワー》[図1・2]とワンチャイにある《CEFタワー》[図3・4]は、コールハースのいう「ビッグネス」が香港の文脈のうえで具体化したものである。香港の文脈とは香港大学の松田直則の言葉を借りれば、「不動産市場の相場を熟知し、都市計画法に精通し、かつたとえ一寸四方の分でも利益が減少することを許さない事業主」である★二。その結果、二つの超高層オフィスは、ヴォリューム模型を都市空間にそのまま投げ込むようなイメージが徹底的に追求されている。それはクリストが建築物に布を覆い被せることでモノの存在を先鋭化したのと同様に、OMAアジアは施主の要求を満たす安価な一枚のスキンのみで建築を覆ったのである。その意味では後に竣工した《CEFタワー》の方が洗練されていると私は思う。香港の施主の要求の絶大さ、すなわち資本主義が唯一の文脈でしかない香港において、一般的にエレベーターコア周りのホール、表層としてのファサード、建物頂部だけが建築家の自由度として残されている。しかしながら、OMAアジアはその残されたわずかな部分すらデザインを放棄した。それは計画それ自体が一枚のスキンによって留保され、
現在、OMAアジアのプロジェクトは香港にはほとんどなく、大半がソウルとシンガポールである。
シンガポールでは、オーチャード・ストリートの三カ所の交差点にそれぞれ独自のプログラムを挿入することで、単調なショッピングストリートにすぎなくなってしまったオーチャードを変えるプロジェクトが進められている。このプロジェクトは、ペデストリアンデッキと商業の組み合わせによって密度が立体的に重層化する香港の都市構造を、平面的であるがゆえに単調すぎるシンガポールに持ち込もうというものだ。また、ジュロン工業地帯の用途変更に伴う都市計画はロッテルダムと協同で行なわれている。
1──スパイラルに照明が点灯する《AIAタワー》
写真提供=OMAアジア
2──《AIAタワー》がつくる風景。ブレード・ランナーを彷彿させる。
写真提供=OMAアジア
3──オールド・ワンチャイにそびえる《CEFタワー》筆者撮影
4──《CEFタワー》のカーテンウォール(=スキン)
写真提供=OMAアジア
コンセプト=香港に事務所を置く
香港には建築がない。評価に値する建築がなく、かつそのようなものが香港上海銀行のような特異な条件下でなければ生まれないことだけでなく、建築をつくるということがほとんど意味をもちえていない。つくってもつくっても、それはタブラ・ラサの延長でしかない。したがって、建築プロジェクトという形態であっても、その実体は大半がインテリアになってしまう。しかし、逆にそれは建築プロジェクトも都市計画としてアプローチできることを示しているのではないだろうか。無論、われわれが考えている未来の青写真としての計画という意味ではない。
鈴木博之は「都市を私有財産として所有しているという点で考えれば、ロンドンの地主たちこそ、ロンドンのオーナーだと言いうるのである。(…中略…)大袈裟でなく一九世紀半ばまでは、ロンドンの開発は、地主たちがそれぞれ自分の考え方でてんでばらばらに行ってきたのである」と述べている★三。これにならえば、香港はこの地主をほんの一握りの巨大な組織をもつディベロッパーたちと言い換えることが可能である。松田直則は「都市環境の創造を担うパトロンは、一般的に都市のネットワークのためのスペースを受け持つ国家と、生産と消費のためのスペースをつくる資本に分割できるとされる。しかし、香港ではこの分割は、植民地設立の時から一度も存在しなかった」と述べている★四。
従来の都市計画は未来を規定しようとして数多くの失敗を繰り返してきた。計画は今日、わずかな時間のみ有効なものでしかない。磯崎新は「場所と記憶の両者を捨て去ったら何が生まれてくるか。この問いだけが、私はもっともラジカルたりうると信じており、(…中略…)メトロポリスとは無根拠な生活の場を虚構として組み立てるために生まれた街である。(…中略…)国家理性がみずからを可視化しようとしたキャピタル・シティとはまったく違う位相にある」と指摘する★五。これはそのまま香港とOMAアジアのことでもある。場所と記憶の両者を意識し始めた香港では、中国本土に対し香港ブランドとしてのデザインを輸出する構図が見えつつある。非歴史都市も結局は時の流れのなかで歴史を求め始める。このスタンスの危険性と誤謬をOMAアジアはこの六年余りで体感している。
OMA=Office for Metropolitan Architectureとは、大都市のための建築事務所という意味である。これにアジアが付加された場合、それはアジアの大都市のための建築事務所だろうか、それとも単にアジアにあるOMAであろうか。吉田信之は「レムはフランチャイズで、建築の量的で、形なき類型を目指す」と言うが★六、OMAアジアはこのフランチャイズ第一号になるわけにはいかない。したがって、OMAアジアは「場所と記憶の両者を捨て去った大都市のための建築事務所」かもしれない。そのコンセプトを書き上げるためにプロジェクトの有無とは無関係にOMAアジアはアジアに位置する香港在住なのである。そして、そのコンセプトこそ計画という概念を再定義する可能性を秘めており、香港というメトロポリスではなく、ソウルやシンガポールのような国家理性がみずからを可視化しようとしたキャピタル・シティでのプロジェクトにおいて大いなる実験が始まっている。
註
★一──『日経アーキテクチュア』一九九六年一二月二日号(日経BP)二八─三一頁。
★二──『SD』一九九七年七月号(鹿島出版会)六九─七〇頁。
★三──鈴木博之『ロンドン──地主と都市デザイン』(ちくま新書、一九九六)一一二─一三頁。
★四──『SD』一九九七年七月号、八三頁。
★五──『TN probe』vol. 2(TNプローブ)一四─一七頁。
★六──『A+U』二〇〇〇年五月臨時増刊号「レム・コールハース」(エー・アンド・ユー)七頁。