八束はじめ
南泰裕
八束──今回の南さんの論文を読んで、かなりの部分で見解が共有されているな、という気がしました。特に南さんが、湾岸で起きているさまざまな現象を必ずしも全面的には否定していないというところは、非常に重要なポイントだと思います。僕も湾岸に関しては、自分の計画の対象ではないけれど、考えてみる必要があるだろうと思っていたときに、南さんの『建築文化』の連載が始まり、また、今回の「極限都市論」のような文章がでてきたわけですね。もともと湾岸に関心を持っていたというのはあるんですか。
南──原研(原広司研究室)では、フィールドワークについては完全に自分たちでやるわけですね。僕たちは都市をフィールドワークしたいと思ったんですが、全体化した都市を措定しようとするときに渋谷や新宿をやってもあまり面白くないだろう。つまり、何か都市の特異領域みたいなものを取り出すのがほとんど不可能に近いな、という認識があって最終的にセレクトされたのが湾岸だったわけです。そこから都市一般を考えたいと。
八束──七◯年代に都市論がものすごく盛んになったときにいわれた都市というのはほとんど都心ですよね。特に文学系の人たちが話すのは、ある程度記憶の形に引っかかった都市の原像みたいな、都市の心象風景みたいな話だったでしょ。そういった中心が二◯年近くたって移行して、ひっくり返ったということが言えると思う。文中にでセルトーが出てきましたよね。セルトーはルフェーブルの系統を引いていると思うんだけれど、計画に対するアンチテーゼというか、つまり一般市民のイニシアチブをどう考えるかということで歩くということを考えたわけですね。あれは間違いなくシチュアシオニストの話に引っかかっていると思うんだけども、そういう意味での、都市体験の原点を、歩くとか彷徨するとかということに置こうというのは、湾岸に行くとやっぱりほとんど無効化しますね。あそこを歩いたってしょうがない(笑)。歩いて何を取り返すの、というところがあるじゃないですか。むしろあそこには何もない、あれは都市ではない、という話になるだけで。だからそういう話を含めて、湾岸には定規がない。
南──確かに定規がないという感じがしますね。
八束──もちろん定規がないことに対する不安は一方ではすごくあるけれど、ひょっとすると面白いかもしれないぞこれは、というへんな意味でのセンス・オブ・ワンダーはあるけれども、ベンヤミンではないですね。やはりベンヤミンは、『パッサージュ論』ではないけど、ものすごく濃厚に出来上がった舞台の話をさらに濃厚に読み解いていくという感じだから、湾岸なんかに連れて行かれたら、とりつく島がないんじゃないですかね(笑)。
南──そうなんです。ずっとフィールドワークをしていて、例えばベンヤミンの『パッサージュ論』みたいなものをイメージしていても、ほとんど引き寄せられないというか、それをパロディ化する方向でしか空間が展開されていかない、という怖さと滑稽さが湾岸にはあるんです。
八束──僕の仕事でいうと、ペリフェリーとジェントリフィケーション、千年王国というのは全部そこに引っかかるわけで、湾岸はそのひとつのケーススタディです。それで南さんのこのテクストに対して共有しているな、と思われる点などについて話をしてみようと思います。
僕は、《10+1》誌ではNo.1号で、多摩ニュータウンについての特集を組み、長い文章を僕も書きました。湾岸も多摩も都市の周辺=ペリフェリーですから、まず、テーマとしての共通性があるように思います。僕が多摩ニュータウンに関心を持ったのは、すぐ上の世代の建築家たちが、そのまたすぐ上の世代のメタボリズムの建築家達に対して、全面的に否定的で、ラージスケールの建築に対しては評価しないだけではなくて関心すら持たない、という現象があったからです。その評価自体には理由がないわけではないし、共感するところもあるけれども、そんなに後ろ向きでいいのかという事はずっと昔から僕の課題としてあったんです。それに、現実の多摩なり湾岸なりを見てみると僕にとっては面白かった。ペリフェリーについては、建築誌の『アーキテクチュラル・デザイン』(一九九四年N0.108号)がペリフェリー特集をやっていますね。ヨーロッパの都市がみな海に面しているとは限らないにしても、東京湾岸と似たような現象は起こっているわけで、ヨーロッパの建築家もいわゆる新開地で起こっていることに関してはさまざまなことを考えているようです。むしろ日本のほうが、いわゆるアトリエ派の建築家が湾岸や多摩ニュータウンのようなプロジェクトに関与する余地がなかったために、依然としてメタボリスト世代がそのへんを独占している。こうしたことに対して下の世代があまり面白くないと反撥する現象があったわけです。
南さんのテクストでもうひとつ僕が関心を持ったのは、後半に書かれている「計画と自由」ということです。多少格好良すぎるような(笑)気もしますが、計画については、僕も回避できない問題として捉えているんです。南さんは政策についてまでは書かれていたわけではないけれど、それはやはり同時に考えていかなければならない問題ではないかという気がします。「計画と自由」といったことに対して、あなたの個人的な問題、というかあなたの世代にはそういうことへの関心が高まっているということなんですか。
写真=大高隆
写真=大高隆
写真=大高隆
南──その前に、僕も八束さんがこの号に書かれた論文「千年王国論(四)──メトロポリスのニヒリズム」を読ませていただきました。僕が面白いと思ったのは、八束さんは、否定形でしか都市あるいはメガロポリスを定義できない(していない)と書かれているのですが、それは僕たちの関心にシンクロするのではないかと思ったわけです。つまり、現在の都市は、六◯年代のように定義域がはっきりした形で読解したり計画したりすることができないということですね。僕が湾岸をフィールドワークの対象に選んだのは、まず、都市が全体化してしまったために、都市のどの部分を選んでも特化した状態を考察することは非常に難しいという認識があったからなんです。ただ、湾岸は、自然と人為的なものの境界を示す領域であるので、例えばランドサットの航空写真を見てみると、都市の内陸の地域と湾岸との間に非常にはっきり区別がなされている。湾岸は写真で見たときには形態として違いがはっきり出ているんです。都市というのは色で自然に浸食していく、つまり自然と都市の対立がはっきりしない形で浸食していっているということがあって、湾岸と他の都市域との違いは、「形」と「色」というフェイズの差異であるとも言える。そこで、都市の新しい極限的な形を考察しようとするなら、湾岸に目を向けざるを得ないんじゃないかな、というのが最初の動機としてあったわけです。それで計画論ということを考えた場合には、否定するだけではいけないし、また批判するだけでは新しい計画論を展開することはできないわけですから、前提としてその極限的な都市の局地的な形態をまず見たうえで、都市と建築の新しいあり方を考えてみたいということがありました。それで、具体的に港湾区域をずっとフィールドワークしまして、ひとことで印象を語るとすると、空間がほどけているような感じがしたわけです。ほどけてぼやけてしまっている。都市化が徹底してどんどん高い密度で施設が構成されて、隣接して関係していく、その極限値で空間がバッとほどけているような感じがして、関係の総体が投げ出されているという感じなんです。。何かそれがすごく面白いというか、都市というものがどんどん徹底化していく最後の位相で、突然空間がバーストしているようなイメージをもちました。
八束──南さんは原研ですけれど、原さんは何十年も前からいわゆる均質空間論(笑)をやっているわけですね。湾岸エリアというのは、メトロポリス東京の均質な部分の一部なんだろうか、あるいは特殊な例外的な部分なのか、そのへんは原さんの理論とあわせてどのように理解しているわけですか。
南──僕は原研究室のほうでは集落調査に参加したんです。僕が考えて面白いというかパラドキシカルだと思ったのは、人が集まって住むというところから、仮に集落なり都市というものがはじまるとすると──ひとつの集住の形式だと思うんですけども──湾岸においては基本的に居住というものが廃棄されているということですね。つまり、都市化が進めば進むほど居住が廃棄されていってしまうということなんです。大川端リバーシティやお台場のあたりに、部分的に居住というものが移植されてはいるけれども、しかし、初源的には集住の形式としてあった集落なり都市というものから居住が廃棄されてしまうという印象は強い。それはいってみれば都市化が進むことで都市が廃棄されるという逆説的な事態で、湾岸は都市のネガのような様相を生み出しているんじゃないかな、という印象がありました。
八束──居住に関していえば僕は逆の印象も持っているんです。都市計画のサイドでもその問題には気が付いていて、オフィス専用の地域には必ず意図的に住宅を導入する、つまり夜間人口をある程度つくり出していくことをここ一五年くらい熱心にやってきたわけです。大川端は典型的な例だし、今の東京都の新副都心、あそこでもレインボーブリッジのたもとあたりに結構住宅が建っています。幕張もそうですね。もっとその前でいえば、大井埠頭はものすごく住宅が多い。海外でも例えばパリの場合、ヨーロッパ版ペリフェリーは昔の市壁の周辺ですが、そこには一九世紀ぐらいから鉄道の駅や工場が立地したわけですね。フランスには「ZAC」という市の都市計画事業制度があって、パリでもかつての工場の跡や、食肉処理場跡のラ・ヴィレットのような、都市のペリフェリーにかなり意図的に住宅を建てるわけです。その場合、例えばかつての東京の下町に見られるような低層で高密な居住形態、例えば、月島や佃島と大川端の落差みたいなものなんですが、居住形態が今までとまったく異質な文脈の中に移植されるということが起こる。そういう急激なスケールを含めた文脈の転換が行なわれているのが、ニュータウンも含めたペリフェリーの現象であって、とりわけ生産基地がかなり大きな割合を占めていた湾岸では、その問題がかなり拡大されて露呈化している、ということではないかと思うんです。僕が書いた多摩ニュータウン論でも触れたんですが、ピーター・ウィルソンが東京のことを「無限に続くカーペット」だと言ったんです。ただ、カーペットは無限には続かないわけで、特に海のあたりでは自然と人工の接点というよりはそこで人工的な定住地が断ち切られている。その断ち切られていた所が埋め立てられることで海のほうに拡大していくわけですね。この埋め立てで実際に担当しているのが、港湾局という非常に大きな力を持っているエージェントなんです。彼らは土地を自前で生産できるディベロッパーです。そのディベロッパーがつくるカーペットの折り目というのか網目というのか、それらが今までの何十倍も大きいといういびつな現象として現われたのが湾岸だと思うんです。
それに対して、ビッグサイトから丹下(健三)さんの建てたTFCに至る地域はコマーシャル・エリアを随分設けて、いわゆるデートスポットを演出し、週末にはずいぶん人がいたりする。これは、計画側が従来のようなかたちじゃなくて、彼らの用語でいえば「潤いのある街づくり」をしているわけです。それはたぶんアメリカの、これは僕の最近の考察のテーマの一つでもあるわけだけれど、ジェントリフィケーション(gentrification)の典型的な形です。例えばニューヨークのバッテリ・パークには、木を使った遊歩道みたいなものがある。それは、デザイン的には興味のもてる現象ではないにしても、シミュラクルとしてではあるけれど新しい現実なんだと思いますね。何が肯定的な種子なのかは僕もはっきりとは言えないけれども、それを常に探す視点は大事だと思うんです。さらにつけ加えると、居住の形態そのものは例えば下町における居住形態と新副都心における居住形態では、家族形態のあり方も含めてだいぶ違ってくるでしょうし、当然単身赴任の連中が多いということもあると思うから、そういう意味で、居住という言葉が生活の、非常にノーマルな意味であり続ける保証はまったくないですね。実際東京の世帯数のうちのかなりの割合、正確には忘れたけど四割ぐらいが単身者でしょう。これは僕じゃなくて伊藤滋さんが言っていたけど、核家族というものを居住単位としてイメージして色々な計画とか構想とかが立てられているのが現実に合っていないのは間違いないし、湾岸みたいな特殊な場所ではその度合いがさらに加速されるのも間違いないですね。
写真=大高隆
写真=大高隆
写真=大高隆
南──『10+1』N0.1で多摩ニュータウンの特集号を読んで、集住の極端な形式としての多摩ニュータウンと湾岸というものの差異はなんだろうかと考えていたんです。そのときにははっきりとわからなかったんですが、居住が廃棄するものによって、湾岸が成立しているといった見方もできるんです。フィジカルな意味においては、埋め立て造成は、都市を構成している諸々の残滓によって構成されている。そこでは場所という「起源」があらかじめ抹消されており、廃棄物だとか残土だとかを要素にして埋め立てがなされているわけです。なにか居住が廃棄されていると同時に、居住が廃棄するものによって湾岸が構成されているというパラドックスがある。居住という形式の、ねじれた痕跡として湾岸が成立しているわけですが、八束さんから見て多摩ニュータウンと湾岸の差異は、どういったところが考えられますか。
八束──スペクタクルなものがない、ということはあると思うんです。例えばゴジラは湾岸には現われても多摩ニュータウンには行かない、というのは、壊すに足るスペクタクルなモノがないから。だけどそのことを除けば、実際にはさっき言ったように、湾岸部に居住が持ち込まれつつあるし、逆にニュータウンに労働の場を導入する、つまり単なるベッドタウンではなくする動きもあるわけです。多摩には結構そういうものがあり、典型的な例ではベネッセの本社が立地したり、研究所を立地させたりしていますし、パリのニュータウンのマルヌ・ラ・ヴィレなんかは一番典型的で、先端分野の研究所を、国の施設を置いて意図的に引っ張ってくる。面白いのは、マルヌ・ラ・ヴィレに住んでいる連中は、どちらかと言えばブルーカラーの、北アフリカから来ている人たちであり、この人達は、都心に、例えば地下鉄の清掃のような3K産業に就いて通っている。逆に都心のアパートに住む文化的なエリートがニュータウンに出勤するという、面白い現象がフランスには起きている。東京の場合には、いまのところそれほど階層が明確でないから、周辺と湾岸の住み分けは、はっきりとした形では出ていませんが。何らかのカラーはそのうちに出てくるでしょうけれど。
南──東京都の港湾区域の湾岸における計画の指針は、「交通」、「再開発」、「緑地」、そして「物流」の四つです。そして、CIAMの例の四つの原則は、「交通」、「勤労」、「居住」、「余暇」、これをそのまま港湾計画の指針にパラフレーズすることはできないのですが、部分的にそれを翻訳し、移植しつつ受け継いで現実化しているところがあると言えます。それで、八束さんに伺いたいのですが、CIAM以降の六◯年代にさまざまな建築家が湾岸を対象にしてつくった計画案を、八束さんたちの世代は、どのように感じたんでしょう。
八束──正確にいうと僕は少し世代がずれているんです。大阪万博が大学に入った翌年、大学はストライキの最中で、僕は別にノンポリではなかったけれど万博は見に行った(笑)。六◯年代に実際に計画が推進されていたときに、どの程度のリアリティをもっていたかについては、必ずしもはっきりはわからないんです。その意味ではあなたと同じで、余熱は残っていたけれども歴史的なこととしてしかわからない。だけどかなり手応えとしてはもっていて、現実に東京計画一九六◯「自由」は、二十何年か後に丹下さんがリビジョンを出したわけだし、いまの副都心計画の中にも丹下さんの建物は結構ある。その中間に、場所を大阪に移してではあるけど、大阪万博という一種の実験があったわけですね。その時の事務局長が、後の鈴木都知事で、鈴木-丹下コンビというのはその時からの継続なんです。だから明らかにそういう行政を含んでのストーリーというのはあの時から続いていると思いますね。つまり、大阪万博は丹下チームにとっては非常にシリアスな都市計画の実験だったわけです。ところが実際には万博はコマーシャルなマスイベントとして大成功してしまった。以来博覧会は儲かることになって、計画の主体が建築家やプランナーから広告代理店に移った。だから一◯◯年前のロンドン万博以来続いていた建築家のリードによる博覧会、それによって建築や都市の将来像を提起するという試みはあそこで終わってしまって、それ以降、筑波のようにテーマが「テクノロジー」であろうが、大阪の花博のように「花と緑」であろうが、やることは全部いっしょで、全部マスエンターテイメントです。われわれ建築家にとってそれがあまりよい方向に作用しなかったのは、そのパラダイムが現実の都市開発の中で、先ほど言ったジェントリフィケーションという形で進行していることなんです。ディズニーランドのようなテーマパークと博覧会、そして、湾岸のようなまとまった広い場所の開発とが三対、トリアドとなってシンクロしているのが現在の現象なんだと思います。
湾岸との個人的な関わりで言えば、僕が磯崎アトリエでやった最後の仕事が湾岸です。これはどこにも出ていないプロジェクトなんだけれども、都港湾局の注文で、都市博会場だったエリアにオリンピックができる一大スポーツ施設コンプレックス(複合体)を作るという話があって、それを仕掛けて実際の計画をリードしていたのが、構造家の渡辺邦夫さんです。渡辺さんは、その時大屋根をやりたかったわけ。しかもそのうえに人を住まわせたい、つまりメガストラクチャーをやりたかったんです。それは確か一九八四年ぐらいだと思うんですが、ああ、またメガストラクチャーが出てきたか(笑)。でも彼は十年後の東京フォーラムでそれを片鱗なりともやったんですね。
写真=大高隆
写真=大高隆
写真=大高隆
もうひとつ、湾岸関連で関わったのは、関西電力に頼まれた火力発電所のリニューアルのイメージ出しです。火力発電所の主なエネルギーは石油だった。それを天然ガスに置き換わらせたいということですね。公害の問題もあるだろうし、天然ガスは豊富にあるから、そっちのほうが輸入に頼らなくていいということもあるし、原発は問題が多すぎるから、切り換えたいと。それで堺市と大阪市の湾岸にある発電所を全部見て回ったんですが、それはかなり想像を絶した風景でした。一番大きいのは堺の発電所なんですが、二◯◯メートルの煙突が六本くらいダアッと並んでいる。二◯◯メートルといえば都庁より少し低いくらいで、そういうのが林立しているスケール感覚、その元にあるタービンが入っている部分は全長四◯◯メートル、そんな建物は僕らのような建築家が普通に事務所でやっているスケールとはまったく違う。相当不条理な、われわれが職能的にトレーニングされたスケール感では何ともしょうがないような話がいっぱい出てきました。僕らから見るとリニューアルしなければならない発電所というのは、ピラネージ的な光景、つまり、いろいろな管がのたくっていて、まあ工業的サブライムというようなものなんです(笑)。それを電力会社の人に言うととても嫌がられた。彼らはあれが周りの人にすごい迷惑をかけていると思っているんですよ。だから近隣の人に対してお返しをしなければならないというわけで、景観整備費にものすごくお金をかける。これは湾岸をつくってる人たちにもいえて、あれがヒューマンな空間ではないと言われることをものすごく恐れている。それに対して補償すべくさまざまな、例えば橋の欄干のデザインとかベンチとか緑地とかに異常な金をかけるわけです。多摩ニュータウンもそうですが、僕らにはそれが妙に嘘っぽい土地に見えてしまうことになるんです。それはどこかで収束していくのか、アンバランスなまま重心が変わってしまって、誰も考えもしなかったような現実にいくのか、なんともいえないけど、僕は後者だったら面白いと思っています(笑)。
海外のケースをひとつ紹介すると、ドイツのIBAエムシャー・パークというプロジェクトを、僕がディレクターを務めている「くまもとアートポリス'96」の展覧会に招待しているんです。これは、すごく汚染されたルール地方の、かつて炭坑や製鉄業の中心地だったところの環境をエコロジカルに戻していくリハビリテーションのプロジェクトなんですが、そのなかに廃棄された製鉄所がインダストリアル・モニュメントとして保存されていまして、そこで毎週ディスコやコンサートをやったりしている。あるいは、デザインセンターみたいにしているのもあるし、昔は石炭を入れていたらしいドルイミンの巨大な仕切りをロック・クライミングに使っていたりする。昔の建物が、もちろん危険な場所は手当したんだろうけど、一見そのままの状態で保存されていて、かなり上まで上がっていけるのですが、それこそピラネージ的体験が可能なんですね。つまり、工業時代のものが、それ以前のものと同じく文化的モニュメントになっている。それに比べて日本は北九州の八幡製鉄所をスペースワールドに変えちゃったわけですよ。やっぱりあれも博覧会、テーマパークのヴァリエーションなわけで、どうしてそうなったか考えると、やっぱり感性が依然としてディズニーランドの美学というかジェントリフィケーションのオーダーから一歩も出ていないからなんだと思います。
南──今のお話で、プラント施設とか倉庫とかメガスケールの、アウトスケール化した、インダストリアルスケープみたいなものに対して非常に逆説的な美しさとか、開放的な感覚を感じてしまうということには、分かるところがあって、僕らの世代の人にとっては、そういう感覚のほうがある種の居心地のよさとか、慣れてしまっているような新しい認識があるような気がします。と同時に、それを善悪のレヴェルで問えない、という困難さがある。加藤典洋さんが『日本風景論』の中で、新井満さんの小説やエッセイを取り上げて、昔の作家と今の作家の違いというものを、今の時代の空気というのはサイズの合わないTシャツを着ているような感覚だ、と言っています。つまり、サイズが合わないにもかかわらず、その違和感が心地よいと。中途半端なヒューマンスケールよりも、それを飛び越えたアウトスケールのほうが、現在的な居心地の良さとか、感覚というものを自分たちにもたらすといったところが認識として共有されていると思いますね。
八束──そうですね。ある種の歪みが妙に心地良い、という感性は当然出てくるだろうと思います。だからそういう話にはもう建築的な美学というのは全然追いつかない。どんなものを持ってきてもやはり合わない。例えば機能主義の論理というのは、合うことを目指してきた論理だと思うけれども、それが頓挫したところから始めないとしょうがないのかもわからない。
(やつか はじめ/建築家・みなみ やすひろ/建築)
写真=大高隆
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