連続と切断の言語風景──
1990年代の都市と建築をめぐって
南泰裕
たったいま終わりを告げたばかりの、1990年代の都市と建築を切り出して、「何かが確実に変わったのだ」、とわれわれは言うことができるだろうか。ミシェル・フーコーにならってエピステーメーの変容を、あるいはトーマス・クーンを想起してパラダイム・シフトの痕跡を、それ以前の都市と建築に比してそこに読み取ることは可能だろうか。その対象があまりに生々しく現在に隣接していて、細部への眼差しが行き届かないことを差し引いてみても、確かに、1990年代の都市と建築には、それ以前とは異なった「志向」と呼ぶべきものが発現・浸透していたように思える。その「志向」をここで要約的に語るとすれば、さしあたり〈非在化〉と〈自己言及性〉という言葉によって表記することができる。その内実をまとめるならば、次のようになるだろう。
〈非在化〉:第一に、1980年代後半の日本を覆った、全国的な経済的高揚の反作用として、建築を建ち上げることの原罪性=現在性が問いただされ、建築の「消去」や「消滅」や「終焉」がさかんに議論されることになった。生態系への配慮というイデオロギーが、そうした流れを大小にわたって補完した。建築の自律性に幾度も嫌疑がかけられ、建築に傷つけられたサイトを癒す作業としての、ランドスケープが注目されるようになった。サイバースペースという概念の敷衍と拡張が、そうした都市・建築の非在化への欲求を改めて後押しした。建築においては、自己自身を主張しない禁欲的でミニマルなデザインが主要な潮流を作り、ライトネスが好まれ、透明性というよりは半透明によって「非在の現前」を表現することに多くの思考が注がれた。
〈自己言及性〉:第二に、都市と建築をめぐって、もはやあらゆることが遂行されたという共同認識が、自らを自己言及的に読解する作業を多様に促進させた。20世紀の都市・建築の流れを総覧的に解釈し批評することが、出版や展覧会、あるいは都市計画や建築作品などによって、さまざまなレヴェルで幾度も繰り返された。また、都市の再開発は、都市を自己言及的になぞり直しつつそれを批評的に再解釈することの典型であったし、都市機能の全てを包含するほどの巨大施設の出現は、都市の中に改めて都市を生み出そうとする、「都市内都市」という自己言及的モデルの試行だった。さらに、微分化されたメディア・テクノロジーの急速な広がりは、互いを鏡として自己言及的に情報を乱反射させ、その密度を無限循環的に高めたが、サイバースペースと名指される不可知の空間自体が、いわば現実の都市・建築空間の自己言及的な隠喩でもあったのである。
こうした二つの大きな「志向」から、われわれはここで、1990年代における都市・建築をめぐる総体の現われを、次のような四つのカテゴリーにおいて読み取ってみることができる。
1、空間/環境:閉じた空間から開かれた環境へ、自律的な建築から場所としての広がりへ、あるいは垂直とシンボルへの欲望から水平とネットワークへ。
2、理論/言説:構築的な理論が創出されるのではなく、既存の理論をリファーし、ブリコラージュ的にそれらを組み換えた、無限循環的な言説の産出。
3、技術/媒介:技術そのものの刷新や考案というよりも、これまでの技術を洗練、複合することによる、より媒介的な役割の強化と高度化。
4、文化/現象:ある安定した文化の破壊や保護を目指すのではなく、それらが分裂、転位した様態を「いま・ここ」の個別的な現象として受容する認識と構え。
これらの総体の現われが、ある根本的な変質を示しているとするならば、われわれは都市と建築をめぐる1990年代を、ひとつの遷移の時空間として了解することができるかもしれない。すなわち、空間から環境へ、理論から言説へ、技術から媒介へ、文化から現象へという移行と変質を個々に読み取り、その切断層を明らかにすることである。しかし、そのような「切断」において1990年代を受け止めることは、果たしてどこまで妥当性をもっているだろうか。われわれは「切断」による時代了解の一方で、それを連続的な眼差しにおいて捉えるよりほかない様々な事象にぶつかる。1980年代を引き込み、継承している諸々の空間や、21世紀へと投射されている未完のプロジェクト群。その「切断」と「連続」は、いわば光を粒子としてみるか、波動として見るかの違いに似ており、そのいずれでもあり得る、と言うべきだろう。おそらく1990年代は、その両義的認識をより強くわれわれに要請してきていたのだ。
そのように考えるとき、われわれは先の「切断」による都市と建築の時代了解を、次のように言い換える必要に迫られる。つまり、あるひとつの位相から別の位相への変化を読み取るということよりも、むしろその間こそを問題化すべきなのである、と。空間から環境へ、という変化を読み解くのではなく、空間/環境と表記される両義的様態のはざまで、その両位相が地すべりを起こして浮かび上がらせている名指しえない中間項こそを照射すべきである、と。そしてそのような了解を強いるものこそが、1990年代の都市・建築の持つ固有さであると。1990年代の都市と建築をめぐる言葉の風景は、その固有さを大小にわたって素描するだろう。
この、両位相における中間項としての1990年代の都市と建築は、時代のまさに中間項=中間点である1995年に、集約的に地すべり(アクシデント)を起こしている。阪神大震災。地下鉄サリン事件。東京湾臨海副都心における世界都市博覧会の中止決定。伊東豊雄による、せんだいメディアテークのコンペ案。ザエラ=ポロ+ファッシド・ムサヴィによる、横浜国際客船ターミナルのコンペ案。ドミニク・ペローによる、フランス新国立図書館の完成。そしてこれらのアクシデントに、テレンス・ライリーによる、MoMAにおける「ライト・コンストラクション」展をつけ加えてもいい。
さらにこれらのアクシデントが、メディアの急激な変容と軌を一にして起こったことを見逃してはならないだろう。服部桂によれば、メディアとしてのインターネットがある新聞の記事に挙げられた数は、1993年が1件、94年が101件、95年が738件で、それ以降は毎年4000件近くになると言っている。その後、このメディアは驚くべき勢いで急速に普及し、米国ではわずか5年で利用者数が5000万人を超え、20世紀末の現在においては他のメディアと並ぶマス・メディアとなっていることを指摘している。フリードリッヒ・キットラーがその事態を、ネオ・プラトニズムに即して「流出」と表現しているように、それは生まれたとたん、情報の乱反射を爆発的に無限発散させたのである。そうした事態が例えば、サイバーアーキテクチャーという概念の創出を引き起こしたことは言うまでもないだろう。
1995年に、都市と建築は何かが確実に変わったのだ。いや、ちがう。1995年に都市と建築は、多様に連続的なもののアクシデンタルな折り重なりによって、たまたま特異点を浮かび上がらせてしまっていたのである。それ以前の都市と建築を引き込みつつ、それ以後の都市と建築を予告するような形で。例えばフランス新国立図書館は、コンペ自体が1980年代の終わりに行なわれたものであったし、せんだいメディアテークや横浜国際客船ターミナルは21世紀のはじめに完成するはずのものである。世界都市博覧会の中止は、1980年代の港湾開発に対する再考の結果であり、「ライト・コンストラクション」展には「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展の影が映りこんでもいたのだった。1995年はその意味で、1990年代の外部を読み込んで、正確に両義的なものの中間点であったのだ。
これらの、都市と建築をめぐる連続と切断の言語風景を、可能な限り描きだしてみること。
それを、20世紀と21世紀のはざまにおいて、われわれはまず試みておいていいだろう。
ANY会議
1991年にスタートした建築の国際的なコンファレンス。2000年までの10年間年1回開催するという当初の計画通り、回ごとに開催地を変えて毎年行なわれてきた。発案者は、磯崎新とピーター・アイゼンマン。もはや建築がその言説の根拠を得るべく他ジャンルを参照するのではなしに、逆に建築あるいは構築という概念が多様な思考の領域で問題化してきたとの時代認識が、その背景にはあった。ラ・ヴィレット公園をめぐるアイゼンマンとジャック・デリダの共同プロジェクトは、この会議の創設を触発した主な動因のひとつである★1。建築と建築に関わる哲学的思考をクロスさせる討議を行ないつつ、建築の理論をアクチュアルに問うてゆくこと。そのためにも、既存のイデオロギーや方法論あるいはディシプリンの境界に縛られない議論の場を設けるという基本方針のもと、Anyという言葉が「決定不能性」を表わすタームとして会議の名称に選ばれた。
主な参加者は、建築サイドからは磯崎、アイゼンマン、イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー、ベルナール・チュミ、レム・コールハース、ダニエル・リベスキンド、グレッグ・リン、ジェフリー・キプニス等。また、建築プロパー外からは、デリダ、浅田彰、柄谷行人、ジェイムソン、ハーヴェイ、ライクマン、クラウスらが出席している(磯崎と浅田は、しばしば「磯崎+浅田」として発表を行なっている)。会議のテーマは、Anyを接頭辞に持つ10の語(Anyone、Anywhere、Anyway……)から各回ひとつのタームが選ばれ、その討議の様子はAnyoneコーポレーションから記録として出版されている(そのほぼ半分はNTT出版より邦訳刊行されている)。また、この組織は、会議のレポートとは別に雑誌『Any』を出版するほか、「ヴァーチュアル・ハウス」というコンペとフォーラムを催したり、MIT出版の「Writing Architecture」シリーズ(柄谷『隠喩としての建築』の英訳が出ている)を企画するなど、広範な活動を展開している。
今年で最終回を迎えるこの会議は、10年の間に僅かならぬ屈折を見せつつも、90年代というディケイドを通して、建築思潮にとって最も刺激的な場のひとつを開いてきたと言えよう。フォルム=フォルマリズムの有効性、冷戦構造崩壊後の地政学やコンピュータの進歩あるいはネット社会の拡張といった現況下での建築という実践の今日的意義、ジル・ドゥルーズの哲学のデザインへの適用の成否、さらには大文字の建築の再考やプログラム★2の功罪、そして建築における決定と決定不能性(any)といった諸問題が、そこでは常にエッジの利いた形で俎上に載せられていった。もっとも、Any会議は、anyと呼ぶに相応しい異種異様なものが並立する実験的場として真に機能しえたのかどうか。また、そこで垣間見えたヒント群が以後建築にいかなる効果をもたらすかは、まさに次世紀に向けて問われることになる。(T)

Anyone, Rizzoli, New York, 1991.
CAD
Computer Aided Design。コンピュータを利用した設計技術。またそのためのパソコン用ソフトウェアを指すこともある。CADは常に進化しているが、図形の複製、拡大、縮小、回転、移動、変形、寸法記入をはじめ様々な機能が使えるほか、図面の修正、変更が容易、敏速であり、また個人でも購入できる価格となったことから、建築設計を行なう各企業、事務所、大学において、もはや製図室、製図台は程度の違いがあるにしろ、ほとんどその姿を消そうとしている。日本で主流なCADソフトはAutoCAD、JW-CAD、MiniCAD(VectorWorks)などであり、Windows、MacというOSの差こそあれ、多くの建築学生がCADソフトを使いこなしている。FormZなどのモデリングソフトへもDXF(米オートデスク社)などのファイル形式を介して変換が容易であり(三次元CADもすでに出回っているが)、もはやイメージスケッチから、モデリング、レンダリングに至るまで、設計のほとんどのプロセスが全てコンピュータ上で可能となっている。学生のプレゼンテーションには特に顕著で、90年代中頃を境に手書きの図面は急速に減り、CAD、FormZ、Photoshopがあれば、まったくペンを持たずに設計ができるという環境が整いつつある。では手書きの図面がCADの図面に変わることによって、実際の建築においては何が変わるのか。ベン・ファン・ベルケルやグレッグ・リンの建築に見られるような流動的な空間が可能となるという肯定的変化、あるいは手書きの図面やドローイングがもつような空間の温かさや詩的な側面が失われる恐れがあるという否定的変化が考えられるかもしれない。けれどもそういったことは実は直接CAD/手書きといった図面の違いによって生みだされるものではない。問題はわれわれの思考の内側にある。例えばわれわれは空間を把握するために図面だけでなく模型をつくる。あるいは模型写真を撮り、CGをつくり、コンセプトを文章化する。だが、たとえ実際にできた建築を歩いたところでそこで建築の全てがわかるわけではない。断面図を見て初めてわかる事実もある。《建築》はどのようなメディアにも完全な形で立ち現われることはないのだ。それはCAD/手書きというメディアにもあてはまろう。それらは別種の《建築》の断片を垣間見せるのだ。田中純は「建築はメディア間の差異の中にしか存在しない」と指摘するが、だとすればCADが生まれたことは建築にとって喜ばしきことであろう。建築を捉える新しいメディアであるから。だが同様に手書き図面が消えていくとすれば、それは残念なことである。われわれは《建築》を目指して様々なツールを使っているのだから。(MA)

MVRDV, FARMAX, 101Publishers, 1998.
アーキペラゴ
広義では、諸要素の空間的なネットワークのあるあり方、あるいはシステムの作動の空間的な一傾向を表わす。日本語にすると群島あるいは多島海。アーキペラゴ「的なる」空間配備は、社会・文化・経済・政治の諸領域において、現況認識あるいは批判的実践のモデルとして有効性が認められている。大きくストーリー化すれば、それはかつてフランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件』で論じた状況と通じている★3。諸システムを線形的に統一するメタレヴェルのストーリーの失調と、それに伴う多様な組織への分裂、そして相互に分断され独立した諸システムの稼動。それが、インターネットの普及やポスト冷戦下の国家のフレームの組み替えといった要因でいっそう具体化したことが、群島のプロブレマティックを先鋭化させたと考えられる。
だが、大きな物語が失墜しただけに、具体的な議論や実践は、各々そうした広義の意味づけには還元されえないベクトルを発し、互いに争異の下にある。例えば、(逐語的な指摘になりかねないが)宮台真司は、いち早くJ・G・バラードにちなんだ「島宇宙化」という言葉を使用して、互いの連絡が断たれた小グループへと分解し自足する「団塊ジュニア」のコミュニケーションを説明した。それに対し、東浩紀は、そうした状態の現況での一層の加速と拡大化を認めつつも、メタレヴェルの象徴的な機能が不全に陥ったことへと特に視線を向ける。そして、宮台流に「まったり」とその状況をニヒルに生きるのではなく、棲み分けされ分断化した諸領域への「郵便的」な介入を志すのだが、その戦略はソルジェニーツィンの「収容所群島」と関係することを自ら指摘している。
言説の棲み分けに与っているとして東が批判的にその活動を評する浅田彰は、磯崎の「海市」のプロジェクトにコミットしている。マカオに近い海上に浮かぶこの人工島の計画を、磯崎+浅田は、群島モデルの実験場として(とりわけ展覧会の様々な試みで)展開した。国民国家から脱─場所化する運動の先端でありながらも大陸に再び場所化されてしまう岬と、内在性の領野でありつつも孤立を囲う海洋の島国。その双方を接続しながら共々群島化し、多様性に満ちた新たなる交通空間を開くことが、確信犯的にユートピアを求める身振りで「海市」へと期待された。
浅田は、アーキペラゴに連なる思考として、カール・シュミットの『陸と海と』やブルース・スターリングの『ネットの中の島々』に言及している(磯崎新監修『海市』[NTT出版、1998])。同じくそれらに触れながらも、上野俊哉は、アクティヴィストとしての実践を語るべく、違った角度からアーキペラゴの可能性を説いている。浅田そして東の実践力の乏しさを難ずる上野は、海賊というトライブに触れながら、ハキム・ベイの「一時的自律領域」に繋がる方向で多島海を捉えている(「リデンプション・ソング」[『10+1』No.8])。また、今福龍太も、ポストコロニアルあるいはインターコロニアルな見地★4からアーキペラゴをめぐる文章を記している(「クリケット群島」[『10+1』No.8])。(T)

『海市──もうひとつのユートピア』(ICC展覧会カタログ、1997)
アフォーダンス
アメリカの知覚心理学者ジェームス・J・ギブソン★5により創始された認知の理論。日本では、90年代に入ってから一般にその「認知」が拡がった。従来の心身二元論的な知覚モデルでは、外界からの要素刺激を中枢でデータ処理して得られる心的なものを知覚と考えてきた。それに対しギブソンは、環境の中に知覚情報が存在すると考える実在論の立場を採り、環境内で有用な情報を探索する能動的行為として知覚を捉え直した。生体の情報探索の身構えに応じて、環境がアフォード=提供してくれる情報パターン。その現われの地平が知覚野であり、知覚とは知覚野として環境情報が顕現するその現われ方にほかならない。アフォーダンスは、アフォードという動詞を名詞化したギブソンの造語である。知覚=知覚野は、環境が生体にアフォードする行為の可能性を反映した地平=プランと見なされる。
ギブソンは、こうした地平では、もはや生体と環境のいずれかが他方を制御するとは言えない点に注意を促している。両者の間では、距離が介在しない触覚的なインタラクションが行なわれる。例えば、海上を進む船。船と海の接触の仕方により、海面に起こる波のパターンが決まってくるが、それが船が海について知覚する情報であり、船の知覚は波がパターンを描く海面という情報プランとなって顕現する。知覚=知覚野は、生体と環境の関係が変わればそれに従い、万華鏡のごとく変転する動的プランである。個物の知覚は、そうした変様するプラン内から不変項として切り出されてくる。建築について言えば、それゆえ舟としての建築なるものを、アフォーダンスの概念から着想できよう。また、例えば建築的プロムナードと建築のプランについても、再考の余地をアフォーダンスは提供してくれる。いずれにせよ、知覚でまず重要なのは、ギブソンによれば、知覚野全体の強度のグラデーションであり、プランの肌理の「勾配」である。「勾配」に言及した建築家のひとりに塚本由晴がいるが、地面の「勾配」はとりわけ建築にとって重要であるに違いない。
環境とのインタラクションによるローカルなプランの形成。アフォーダンスは、それゆえケネス・フランプトンの「批判的地域主義」★6ともおそらく接続する。フランプトンが好むアルヴァ・アアルトの、あの波紋の層のような建築。アフォーダンスは、ハイデガー的というよりメルロ=ポンティ的な批判的地域主義の可能性さえ示している。ギブソンは、初期の研究をゲシュタルト心理学の影響下で始めたが、同じくこの心理学に触発されたポンティの現象学は、アフォーダンスとの親近性を指摘されることが多い(なお、ベルクソンが『物質と記憶』で論じているイマージュ論★7は、ポンティに劣らずアフォーダンスと大きく重なる)。しかし、これは逆に言えば、アフォーダンス的な批判的地域主義の思考は、ポンティと同じ危険を孕むということだ。全ての生体やプランに共通する母なる世界を求めること。共同主観的な「生きられた世界」をノスタルジックに求める傾向がそこには存在する。ラカンの「鏡像段階」は、ゲシュタルトについて触れながら生物と環界(Umwelt)の関係を論じているが、これはアフォーダンスが象徴界に至る以前のレヴェルにあることを明示している。自他の距離なきナルシスティックな段階。それゆえ、そこでは主体(アフォーダンスを建築に適用するなら、建築の主体)の機能が問われざるをえない。
荒川修作の近年の仕事は、そのような自己愛的なアフォーダンスの批判として働いている。とりわけ《養老天命反転地》は、われわれの知覚=行為を撹乱する環境によって、環境とのインタラクションの際に作用する共同化・身体化されたコードを問い直す。荒川は、そうしたコードを身体から場処の側へと反転させ、コード=身体性を含み反復させる境位として場処を捉え返す。なお、日常空間とは異なるアフォーダンスを持つ空間装置を実験的に作成した例としては、下條信輔とアーティストのタナカノリユキとのコラボレーションがある。
アフォーダンスは、知覚野としてのプランという発想を含むが、これはファサードや窓といった建築の皮膚的機能の再考に繋がる可能性も持つ。もっとも、ギブソンによれば、知覚とはシステムとして働き、異なるコードを持つ複数のプランが複合され協働するものだ。では、建築においては諸プランがシステムへと有機的に統合される条件はいかなるものか? その設定や構築の仕方を問う必要があろう(複数のプランに共有される一なる海ではなく、ひとつの多様体としての海。多島海)。アフォーダンスは、認知科学や人工知能にも影響を与えてきたが、その理由のひとつに、この理論によりフレーム問題がうまくクリアできるという事実がある。したがって、建築とフレームの関係をめぐる新たなる視座も、アフォーダンスは与えてくれるかもしれない。(T)

荒川修作+マドリン・ギンズ《養老天命反転地》
(http://www.pref.gifu.jp/yourou/park06.htm)
インテリア化
インテリアinteriorとはそもそも内部、内側、室内の意。室内装飾という意味はinterior designから転じた。当然のことながら建築は外部である都市や自然に対して内部(インテリア)を切り分ける。建築において内部と外部の境界をなくすことは重要なテーマとして取り扱われてきたと考えられるが、ここでは都市における内部と外部の問題を考えてみたい。いまや都市は、そのあらゆる場所が内部そのものになりつつあるということが言えるのではないだろうか。それを示唆するいくつかの事例を挙げてみよう。
アリゾナの砂漠につくられた、太陽エネルギー以外は完全に外界と遮断された閉鎖系の環境「バイオスフィア2」は、地球環境を縮減モデル化し、地球全体をひとつの内部に押し込めたものと捉えられよう。G・K・オニールによる「スペースコロニー計画」★8や原広司の「地球外建築」★9は、どちらも月と地球との重力均衡点(ラグランジュ・ポイント)に新たな居住環境を作り出そうというものだが、それは地球の外部を内部化する計画であると言える。理論物理学者フリーマン・ダイソンによって提示された「ダイソン・スフィア」というアイディアは、技術文明が進化の末にたどりつく究極の姿を示している。それは惑星を粉砕して引き延ばすことによって、太陽を取り囲む半径1天文単位の巨大な膜状の球核をつくり、それが全太陽エネルギーを完全に吸収して生産活動に利用し、廃熱を赤外線として球核の外側に放出するというものである。これは全太陽系の内部化と捉えられよう。これらは特殊な例であるとしても、例えば磯崎新は、東京では駅や地下街そして超高層ビルといった建造物は全てインテリアにしか過ぎないと指摘している。東京のような都市において、外部に表出すべき輪郭をもった建物はすでになく、ただのっぺりとした仮面としてのファサードだけしかないのだ。インテリア化する都市、それは絶えずシステムの内側へと繰り込まれるわれわれのまなざしによって浮かび上がる外部を欠いた都市である。それはまた、巨大な地下街に放り出され、そこが地下街であることは分かっていても自分がどこにいるか分からない、というありふれた経験が示唆する都市の姿でもある。都市のインテリア化は今後ますます進行することだろう。(MA)
![フリーマン・ダイソン「ダイソン・スフィア」 (金子隆一『スペース・ツアー』[講談社、1987])](/imagemanager/show/id/602/size/210/)
フリーマン・ダイソン「ダイソン・スフィア」
(金子隆一『スペース・ツアー』[講談社、1987])
ヴァーチュアル・アーキテクチャー
1990年代にはコンピュータの普及により、情報空間(サイバースペース)と呼ばれる不在の空間が、奇妙なねじれを持ちながらも一般的なリアリティを獲得するようになり、ヴァーチュアル・アーキテクチャーについての議論や展覧会、あるいは建築プロジェクトの試作がさかんに行なわれるようになった。ただし、一般的にはサイバースペース上の建築を指す、ヴァーチュアル・アーキテクチャーという概念の了解は非常に曖昧で、現在も明確な定義が確立されているとは言えない。例えば東京大学総合研究博物館において行なわれた「バーチャルアーキテクチャー展」(1997)では、ヴァーチュアルという用語が二つの意味に分類され、「幻の建築」として青木淳や入江経一などが、「コンピュータに関わりのある建築」としてザエラ・ポロや伊東豊雄などがプロジェクトの出展を行なった。また、Anyone Corporationによる「ヴァーチュアル・ハウス」をめぐるフォーラム(1997)においては、ジョン・ライクマンによる課題設定のもとでドゥルーズの「潜在的なもの」と「可能的なもの」という区別★10が出発点として提示され、ジャン・ヌーヴェルやダニエル・リベスキンドをはじめとする6組の建築家がその課題に挑むことになった。これらの試行に交叉するのが、マーコス・ノヴァックの語る「トランス・アーキテクチャー」という概念で、それはヴァーチュアルな世界と現実の世界が融合する、次世代への移行期における新しい流動的な建築を指している。こうした試みが行なわれる一方で、ヴァーチュアルという概念自体が何を示しているのかは明示されず、その解釈も多種多様で、重力その他の物理的な制約から解放された自由な三次元空間という表象としてのイメージと、社会的な制度に拘束されないユートピアとしての空間という隠喩とが、ないまぜになって不明瞭に投影され、曖昧に流通しているのが現実である。内実をともなわないスローガンに終わりがちな、こうした動きには批判的な識者も多いが、それが従来の建築とは決定的に異なった感触をもたらしていることも確かであり、今後はそうした概念の詳細な検証が必要となってくるだろう。(MI)

ザエラ=ポロ&ファッシド・ムサヴィ「横浜国際客船ターミナル」
(「バーチャルアーキテクチャー」展カタログ)
ウェアラブル
携帯可能から着用可能へ。あらゆる電子機器がそのような方向へと小型化を進めている。もはや持っていることを如何に意識させないかということが、携帯電話、ラップトップ・コンピュータ、カメラなどにとって重要なデザイン要素のひとつである。にもかかわらず、それらが情報端末である限り、人間と機械とを媒介させるインターフェイスは固有の物理的な最小接触空間を要求している。ウィリアム・J・ミッチェルが『シティ・オブ・ビット』(掛井秀一他訳、彰国社、1996)において描くような理想的なモバイル環境★11は、その閾値を越えることがなければ実現されないであろう。しかし、ここしばらくの間にPDA(Personal Digital Assistant)、HMD(Head Mounted Display)をはじめ、眼鏡タイプのディスプレイと音声認識システムを用いたコンピュータが現われるなど、ウェアラブル・コンピュータは徐々に実現されつつある。また1998年には幕張メッセで「WEARABLE TOKYO」なるイヴェントが開催されている(関連情報「Wearable Computer Patent Information」URL=http://wearable.msa.co.jp)。プライヴァシーの侵害など多くの問題はあろうとも、楽観的にはウェアラブルな情報空間はそれほど夢のような話ではない。ただし、ここで問われなければならないのは、「それによって物理的な空間は如何に変容していくのか」ということであろう。多くの議論はリアルな空間とヴァーチュアルな空間の境界がなくなっていくだろうという単純な結論に収束している。だがむしろ、リアルな空間とヴァーチュアルな空間は、複素数平面の実軸と虚軸のような関係であって、われわれが生きているのはその両者が組み合わされた複素数平面そのものである。同時に複数の空間を着用することによって、空間は幾重にも掛け合わされていくのである。(MA)

オリンパス〈Eye-Trek FMD-100/SP〉(http://www.olympus.co.jp/)
ウン/ハイムリッヒ
1919年の論文「Das Unheimlich」でフロイトは、「無気味な感じ(無気味なもの)」について考察した。その無気味な「感じ」を唯一よく示すとフロイトが見なした言葉、それがunheimlichである。この「感じ」をフロイトは美学的に問うと同時にその語源を検討し、精神分析的な問題に接続している。すなわち、いかなる歴史(語の由来/個人の生活史)を経て、un/heimlich(〜という言葉/〜な「感じ」)が出現してくるのか? フロイトの再構成によれば、我が家のごとく慣れ親しみ心地よいもの(heimlich)が、秘め隠された不穏なもの(heimlich)の意義を帯びて両義化する。そして、ついにはheimlichの反対の無気味なものunheimlichとも一致するに至るというのが、そのプロセスである。つまりは、かつて慣れ親しんだものが抑圧を受け隠蔽された後に再出現すると、「無気味な感じ」が喚起される。heimlichは抑圧を受けた印であるunを伴って、un/heimlich=unheimlichとなり回帰を果たすのである。
建築史家のアンソニー・ヴィドラーは、『無気味な建築』(邦訳=大島哲蔵+道家洋訳、鹿島出版会、1998)において都市や建築がもたらす「無気味な感じ」を検証している。90年代の建築論の傾向のひとつに、建築と精神分析を接続させた議論の活性化が挙げられるが、なかでも本書は最も注目を浴びた1冊となった。ヴィドラーは、18世紀後期以来近代の空間がしばしば引き起こしてきた「無気味な感じ」という感覚が、単なる美的評価では解釈しえない都市や建築の徴候を示していると指摘する。この著書ではunheimlichが、ホームレス、ノスタルジア、生き埋めといったテーマ系に繋げられるとともに、コープ・ヒンメルブラウ、チュミ、アイゼンマン、コールハース等の現代建築が「無気味なもの」の変奏として扱われている。フロイトは、当時の美学にいわば抑圧されてきたunheimlichという要素=境位を分析しながら、それを美学の領域に出現させる裂け目を開いたと言える。また、unheimlichは家heimの内部と外部をめぐる情動だから、それを境界の機能が衰弱しつつある現代の都市や建築の分析に精神分析的=美学的カテゴリーとして利用するのは有効である。しかし、ヴィドラーの議論は、精神分析に関わるあまりにも多くの問題を「無気味なもの」の下に一括して語っている感が否めない。フロイトは、「無気味なもの」の翌年に『快感原則の彼岸』を書いている。死の本能やラカンの対象aと繋がるunheimlichのラインを他の諸問題から明瞭に分節して、建築の無気味さの分析に活かす議論も望まれるところである。
なお、精神分析と建築論がクロスするテーマとしてunheimlichとともに注目されている問題のひとつに、同性愛と空間の関係性がある。特に主題系を形成するまでに至った考察としては、クローゼット(私的な小部屋/衣裳部屋)をめぐるそれが挙げられよう。例えば、イヴコゾフスキー・セジウィックの著書『クローゼットの認識論』や、ヘンリー・アーバックの論文「クローゼット、衣服、暴露」(篠儀直子訳、『10+1』No.14所収)等。もちろん、これらに限らず、建築と性を交差させた研究には、精神分析の思考が大きく関係してくるだろう。(T)

コープ・ヒンメルブラウ《ベクトル住居》
アンソニー・ヴィドラー『<a href="/publish/bibliography/v/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AA%E5%BB%BA%E7%AF%89" id="tagPos_102_36">不気味な建築</a>』(鹿島出版会、1998)
カオス
運動方程式に従うシンプルな動きをとりながらも、未来には予測できないランダムな変動を見せる運動のこと。ニュートン力学以来の機械論的な因果性に転換を迫る、新たなパラダイムとしての意義も持つ。単純な法則に支配されている運動が、長時間にわたれば予想できない振舞いを示すという二重構造。それは、科学的決定論の否定ではなくその脱構築であり、必然と偶然をめぐる逆説的な視座、そして流転する自然という新しい世界観を科学にもたらした。
カオス研究が本格化したのは、60年代初頭の気象学者ローレンツによるコンピュータ上のシミュレーションを端緒とする。以来、カオス理論にとってコンピュータは欠かせないツールとして用いられている。カオスは、フラクタルと呼ばれる入れ子状の自己相似構造を持つが、CG化されその映像が流通するに至って、自然界の斬新な形象としても注目を集めた。カオスのバイオモルフィックで揺らぎを見せる流動的な形態と非決定論的な世界観。それは、大いなる決定権を揮う設計の思考が失墜した都市・建築のシーンに、オルタナティヴな可能性を開いてみせた。
日本では、篠原一男、渡辺誠、古屋誠章らがカオスにインスパイアされた作品を制作している。海外では、ドゥルーズの哲学とCGの技法を組み合わせる建築家・論者たちによって、カオスの持つ建築への意義が探られている。サンフォード・クウィンター、グレッグ・リン、ザエラ=ポロ等。確かに、引き伸ばし、折り曲げ、カオスモス等といった概念やパイコネ変換への着目が見られるなど、カオスとドゥルーズの思考は交わる部分が多い★12(なお、丸山圭三郎も、カオスとコスモスの同時的生成という論点からカオスモスを唱えていた)。
カオスは、80年代末から非平衡系科学の自己組織化論★13と合流して、いわゆる「複雑系」の科学の形成も促した。90年代半ばを過ぎた頃から、日本でも「複雑系」が脚光を浴び始めたのは記憶に新しい。「複雑系」の研究は、物理現象に限らず生命や社会現象にまで至る広い領域の横断的な理解に努める。それは、カオス的な現象をひとつの生命活動として捉える方向を示し、都市のランダムネスを生物学的に理解する方法を切り開きつつある。また、「創発」という概念は、質的多様体が内在的に非線形的な自己組織化を果たす動静を表わしている。その動態がコンピュータ上でシミュレートされることから、「創発」は空間を人工生命的に設計する方向のヒントを与えている。
もっとも、カオス的な建築や都市の設計はジレンマを孕んでいる。カオスは予測不能な形態を流動させるが、建築家は形態の決定を迫られるからである。そのため、しばしばカオスを標榜する建築は、カオス的イメージのリテラルな表象に陥るという結果に至っている。では、単なる非決定や無形、あるいは疑念を持ちながらのニヒリズム的な決定に堕することなく、いかに形態を決定をするべきなのか? ザエラ=ポロの横浜国際客船ターミナルや磯崎(+浅田)の唱えるデミウルゴモルフィズムは、形態決定の新たな考えを探査している。カオスの構造の二重性にこそ介入すること。カオスへの臨界=批評的な実践が、カオス的建築を作動させるだろう。(T)

渡辺誠「誘導都市プロジェクト」(『10+1』No.7)
過密・高密度
レム・コールハースはかつて、ニューヨークの出自とその歴史的考察を通して、都市機能の過剰な集約によるマンハッタニズムという自らの都市理論を構築したが、世界人口がついに60億人を突破した20世紀末においては、都市の持続可能性という観点も含めて、過密や高密度に対する実効性を持つ思考が改めて要請されるようになった。
そうした考察が、人口密度の極めて高い日本やオランダ、あるいは香港といった場所から発信されているのは偶然ではないだろう。例えば原広司は「500m×500m×500mプロジェクト」(1992)において、既存の都市から独立した500m3の巨大なスペースフレームを想定し、その中に10万人が居住する独立した空間システムを検討している。ここでは居住空間や都市機能を高度に立体化することで、人口問題や交通問題を解決する方法が様々に模索された。一方、コールハースは「ハイパービルディング・プロジェクト」(1999)においてバンコクのような発展中のメガロポリスを対象に、高さ100m、居住人口12万人の巨大立体都市を創案し、高密度居住空間についての検討を行なっている。そのコールハースの流れを汲むMVRDVは、オランダという国土への検討を通じて「データタウン」(1999)という超高密度都市を創案した。彼らは地球上の居住可能な面積から1人当たりの床面積や都市の密度をデータを通して分析し、対応人口2.4億人、面積1600万haの壮大な仮想都市を描き出したのである。これらの試行はかつて1960年代に多く見られたような楽天的な都市ヴィジョン★14の提出とは異なって、居住に関する世界レヴェルでの危機意識に根ざしたものとなっており、その可能性は今後も引き続き検証されてゆくべき課題として、21世紀に受け渡されることとなるだろう。(MI)

原広司「プラトン・ボックス:500m×500m×500m」
(『SD』1994年1月号、鹿島出版会)
空間隔離/切断
単独の閉じた空間から開かれた環境全体へという総体的な流れの一方で、1990年代にはそうした志向と鋭く逆行する動きが、あちこちで転位しつつ生まれていたことを見逃してはならないだろう。それは一言で言えば空間隔離/切断と形容される事態の進行であり、裏返された監獄、と呼ぶべき施設の出現である。多様な他者へと開かれた都市空間が、その極限的な進展の果てで、逆に空間を囲い込み、他者を排除するシステムを要請しているのである。マイク・デイヴィスは、1990年代における都市開発の時代精神が、セキュリティに対する強迫観念によって特徴づけられると語っているが、そうした志向を典型的に表現しているのがゲーティッド・コミュニティやエッジ・シティと呼ばれる閉鎖的な空間である。ロサンゼルスやラテンアメリカの都市に多く見られるこの種の施設集合は、安全性を過剰に確保するため、一定規模の居住施設を含む空間をアパルトヘイト化し、周囲に高い塀や監視システムを設置してコミュニティ以外の他者を徹底的に排除している。こうした物理的なバリアによって人工的に構成されたコミュニティ内には、異常に均質な社会環境が生み出され、住人以外の人間が侵入不可能な閉鎖的空間となっている。差別と排除のシステムがあからさまに組み立てられ、公共性という概念がここでは無惨に瓦解している。自由主義を旨とする都市という概念が、その極北でこうした空間を生み出していることは、後期資本主義における都市空間の複雑さを物語るものでもあるだろう。また、これらの多くが、様々にリファインされた監視システムなどのネットワーク・テクノロジーに支えられていることも見逃してはならないだろう。情報ネットワークによるオープン・システムの追求は、はからずもその内側に、徹底的なクローズド・システムを生み出してもいたのである★15。(MI)

都市の危険地域ダイアグラム(Mike Davis, Ecology of Fear,1998)
サイバースペース
ウィリアム・ギブソンによるSF小説『ニューロマンサー』(1984)のなかで、脳と電子ネットワークが直接に接続=没入されることによって開かれる電子的仮想空間として初めて用いられた。一般的には、コンピュータ内のデータを可視化することによって創り出される擬似的な空間だと捉えられ、ヴァーチュアル・リアリティによる仮想空間のほか、インターネットや様々なゲームによって認識される空間も一種のサイバースペースだと考えられる。われわれは現実的な空間以外にコンピュータが創り出す、ある空間的な拡がりの感じられる場をサイバースペースと名づけていると言えよう。一方、実際にサイバースペースとは何かという問いに対しては、例えばマイケル・ベネディクトは非物質的な多次元情報空間を三次元的に視覚化したものであるが、そのようなサイバースペースはまだ実現されていないと答えている。おそらくサイバースペースはコンピュータの情報処理能力の進歩とともに、無限後退的に実現されえないユートピアとして語られているのではないだろうか。だが、いずれにしてもそれが電子的情報を可視化した空間であるという点には変わりはない。この点を東浩紀は批判する。東はサイバースペースが「空間」という隠喩によって表象される合理的根拠がないことを指摘し、現実空間/サイバースペースという二分法を批判する。ヴァーチュアル/サイバーアーキテクチャーに可能性を目指そうとする建築家は、実はサイバースペースという空間イメージにとらわれることによって、スペースの中に新たな空間を見出そうという同語反復を犯していると言う。(MA)

GONG SZETO, 1990(『InterCommunication』No.3、NTT出版、1993)
サスティナビリティ
持続可能性Sustainability。1987年に「環境と開発に関する世界委員会」(WCED:ブルントラント委員会)が提唱した「持続可能な開発Sustainable Development」という概念による。サステイナブル・ディベロップメントとは、将来の世代が環境資源から得る利益を損なうことなく、現在生きるわれわれが社会的、経済的利益を満たすような節度ある開発を指し、環境と開発の相互依存性を視野に入れつつ、現在と未来の利益のバランスを保つ永続的なシステムの構築を目指すものである。ただし開発援助の分野で用いられるときには、援助を受け入れる国がその成果を維持する費用や技術を持たないために援助終了後に開発が無意味に終わったり、先進国側に半恒久的に依存したりすることのない開発を意味する。
サステイナビリティは、エコロジー、リサイクル、地球環境問題★16などを論じる際の重要な概念であり、環境への負担を低減させて経済的あるいは社会的な発展を恒久的に推進させようとするものでる。その具体的な方法論として、国連大学学長顧問のグンター・パウリが1994年に提唱した「ゼロ・エミッション(Zero Emission)」構想がある。
ゼロ・エミッションとは廃棄物ゼロの意味であり、社会システムを自然生態系に見立てることによって、一産業内で必然的に発生する廃棄物を他の産業が原材料として用いることで、全体としての新しい産業集団が廃棄物を限りなくゼロに近づけようとする資源循環型のシステム構想である。日本では屋久島で、生ゴミの堆肥化、電気自動車の導入をはじめとする先進的な試みの例があるが、観光客の出すゴミを処理しきれないなど、エコ・ツーリズムとの矛盾も露呈している。
建築におけるいわゆる環境共生住宅やエコロジー的計画を見た場合、狭い閉鎖系システム内での擬似的な問題解決に終始しているという感は否めない。都市が常に超越的な視点を内部に引きずり込みインテリア化していくように、構築行為においてもそれまで潜在的他者とみなされてきた資源や廃棄プロセスをシステム内部に組み込もうとすれば、そこに要請されるのは時間概念によってそのシステムに常に風穴をあける持続可能性という概念である。(MA)
新構法
90年代にはドームをはじめとした大規模建築が新しい工法技術によって建てられ、また95年の阪神淡路大震災以降、様々な免震/制振技術に注目が集まった。その新たな動向を簡単に概観していく★17。
1988年の東京ドームを皮切りに、90年代には日本国内で30以上のドームが堰を切ったように各地でつくられた。その背景には、地方都市が美術館、ホールなどの公共建築をほぼつくり終えてしまったという事情があるのかもしれないが、同時に大空間加構を可能とさせた新工法の導入にも注目すべきである。大加構の代表的な技術は、リフトアップ工法、プッシュアップ工法、トラベリング工法の三つである。リフトアップ工法は仮設の柱を利用してあらかじめ組み立てられた大加構を持ち上げるもので、原広司の梅田スカイビル(1993)の空中庭園、ナゴヤドーム(1997)、大阪ドーム(1997)などで用いられた。プッシュアップ工法は逆に大加構を下から押し上げるものである。そのうちのひとつパンタドーム工法は、部分加構を押し上げた後、連結させ安定させるものであり、磯崎新のサンジョルディ・パレス(1990)、なみはやドーム(1994)、サンドーム(1995)などに用いられた。トラベリング工法は加構を分割し、クレーンを移動させながら一部分ずつ組み立てていくもので、周辺の敷地に作業スペースがとれない時などに利用される。そのほか、ドーム空間の容積を変化/分割させるスーパーリング/ウォールカーテン(大阪ドーム)、高い剛性と軽量化を同時に実現した単層ラチス構造(ナゴヤドーム)、札幌ドーム(2002年竣工予定)で実現される大開口部をもつクロープンシェル構造など、ドームに関わる新工法は数多い。
また大震災以降、免震/制振技術が従来の破壊を防ぐだけの耐震技術に代わって注目されており、超高層建築だけではなく集合住宅などへの適用が始まっている。免震は構造物と地盤との間に積層ゴムとダンパーを入れることにより地震力を軽減させるものであり、また制振は、強風や地震による揺れを、屋上に設置した振り子やセンサーによって稼働する重りなどで吸収するものである。いずれも既存建築を改修するレトロフィット技術の研究が進み、その適用範囲が拡大しつつある。(MA)

原広司《梅田スカイビル》(http://www.o-wave.or.jp/1genki/1_3_1.htm)
ソフト・アーバニズム
ソフト・アーバニズムとは、都市を単一の視点から統制的に組み立てていくマスタープランによる手法とは異なり、全体への配慮を含みつつ部分からの計画を旨とする緩やかな都市計画の手法である。1990年代に入って、日本の各地でこうした方法による都市の再編成がさかんに行なわれるようになった。その先駆けとなったのは、熊本県を母体とする「くまもとアートポリス」と呼ばれるデザイン事業で、1988年に当時の細川護煕知事がベルリンでIBA(国際建築博覧会)を視察し、そこから着想を得て同年に始まったものである。ここでは磯崎新が事業コミッショナーとなり、公共性の高い県内の建築に関して従来の公共建築における発注方式を改め、コミッショナーの責任のもとで設計者の推薦をはじめとする都市空間構築についての事業を進める、という方式が採られている。こうした方針のもと、庁舎や博物館だけでなく、集合住宅や橋、公共トイレやトンネルの換気施設に至るまで、質の高いデザインによる建築が各所にノードとして生み出されることになった。こうした試みは他の自治体にも影響を与え、岡田新一をコミッショナーとする岡山県の「クリエイティブタウン岡山」や長崎県の「長崎アーバン・ルネッサンス」、白石市における「白石デザイン会議」などが同様の方法によって都市の再編成を模索している。従来のアーバニズム★18に対する批判的再考から導き出されたこうした試みは、海外においても異なった文脈で様々に展開されており、前述のIBAは都心居住という明確なテーマを掲げて都市の改変を試みている。また、北フランスのリール市では1988年よりOMAのレム・コールハースがマスタープランナーとなり、様々な建築家による多様な都市景観の形成が試みられている。こうした手法はいわば、計画主義と自由主義の両方に目を向けながら両義的な都市構築のあり方を目指すものであり、その斬新さゆえに個別的な問題点はあるものの、システムの改変をも含めて具体的な成果を挙げている点で注目に値するだろう。(MI)

くまもとアートポリス、伊東豊雄《八代広域行政事務組合消防本部》1995
(『ソフト・アーバニズム』INAX出版、1996)
ダーティ・リアリズム
リアンヌ・ルフェーヴルが、フランク・O・ゲーリーやレム・コールハースの建築あるいは映画『ブレードランナー』に現われる猥雑な都市空間を評するのに使った言葉。フレドリック・ジェイムソンは、これをポストモダンの空間の性格を表わすタームとして敷衍し再定義した。同じくポストモダンの傾向を表わすものとして脱構築や批判的地域主義を挙げながらも、ジェイムソンはダーティ・リアリズムをそれらと峻別する。それは、ポストモダンの下で変質を遂げた全体性なるものの意味を問う言葉である。ジェイムソンは、後期資本主義の社会空間では、空間内の諸要素を共約し統合する有機的な全体性が失われたと分析している。全体とはいまや、不均質な断片が浮遊する輪郭を欠いたブリコラージュ的空間でしかない。サイバーパンク・シティに顕著に見られるそうした雑多な乱脈さは、例えばル・コルビュジエのクリーンな輝くモダニズムの都市との対比により、ダーティと形容される。また、ジェイムソンは全体性が失効した状況で全体性を構成しようと試みるコールハースの「ビッグネス」★19に言及するが、それは従来の感覚からは美的と言い難いことからも、ダーティ・リアリズムの典型と見なされている(例えば、「フランス国立図書館案」や《ゼールブルッゲ海上交易センター》)。
リアリズム(=自然主義の文学)は、都市の暗部や深層を(ブルジョワ)市民にとっての他者の空間として描き出した。しかし、ダーティ・リアリズムの都市空間では他者性というカテゴリーが散逸し、公と私/内部と外部/ハイ・カルチャーとロー・カルチャーの対立がメルトダウンする。ジェイムソンは、市民社会それ自体の終焉を告げている。都市のダーティな暗部は、後期資本主義の発展から漏れ落ちた外部として疎外論的に捉えうるものではなく、外なき内部となった都市の強度に参画する境位なのだ。ダーティさは、都市の内部で循環する可能性を常に含みつつ、時に都市の強度を過密の方向へ高める傾向さえ備えている(エントロピー=乱雑さの増大としてのダーティ、あるいはマイノリティの蠢動としてのダーティ)。そこには、コールハースの『錯乱のニューヨーク』(鈴木圭介訳、ちくま学芸文庫、1999)を、「ビッグネス」以前にすでにダーティであったと見る視点が提供されている。もっとも、そうしたポストモダンの全体性は、本来ボトムアップ的にしか形成されえない。その設計を志すなら、自身の効果を疑いながら諸要素のメタレヴェルに立つニヒリズム的介入にしかならず、その点からコールハースへの批判も生まれてくる。(T)

O.M.A./レム・コールハース「フランス国立図書館案」(O.M.A./Rem Koolhaas and Bruce Mau,
<a href="/publish/bibliography/v/S%2CM%2CL%2CXl" id="tagPos_102_39">S,M,L,XL</a>, 010Publishers, 1995)
デコンストラクション
デコンストラクション(脱構築)はもともと、1970年頃にポール・ド・マンやジャック・デリダを中心とする「イェール学派」の活動から広がった戦略的思想である。そこでは形而上学に内在する西欧中心主義やロゴス中心主義★20を解体し、自己/他者、内部/外部といった階層的な二項対立から抹消されてしまうものを明るみに出すことが目指されていた。こうした方法的思考に対して、1980年代後半に一部の建築家が強い関心を示し、1988年にはフィリップ・ジョンソンによるディレクションのもと、MoMA(ニューヨーク近代美術館)において「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー展」が開かれた。この展覧会に出展していたのはフランク・O・ゲーリー、ダニエル・リベスキンド、レム・コールハース、ピーター・アイゼンマン、ザハ・ハディド、コープ・ヒンメルブラウ、ベルナール・チュミという7組の建築家で、彼らの作品はデリダの建築への関与とも連動しながら、90年代前半の「デコン・スタイル」という一潮流を生み出すことになった。
「デコン・スタイル」の建築を特徴づけているのは、斜めに傾いた壁や床、複雑に屈曲する屋根などであり、従来の建築をずらし、解体するデザインである。その後、こうした潮流は思想のリテラルな空間への翻訳に過ぎないとして、多くの批判や疑問が投げかけられるようになったが、そうした批判の多くも、リテラルな空間表現以外にどのようなあり方が可能なのかを提案できていたわけではなかった。また、1995年に起きた阪神大震災は、「デコン・スタイル」をはるかに超える強度でもって建築の解体を一挙に示したが、建築と思想とがいかなる地平で交叉しうるのか、その可能性と不可能性について思考する契機をもたらしたのが、デコンストラクションの建築であった、と言えるだろう。(MI)

スティーヴン・ホール《ヘルシンキ現代美術館》1998(El Croquis 78, 1996)
パブリック・アート
いわゆるハイ・アートを美術館内に展示し、それを反復することで芸術を取り囲む制度を保存する、という行為が芸術をめぐる従来の形式であったとするならば、パブリック・アートはそうした制度に抗する試みとして生み出されてきたものである。パブリック・アートは、美術館やギャラリーといった場所で個々の文脈から切り離された作品を鑑賞する、という形ではなく、ストリートや広場といった外部環境に作品としてのアートを投げ込み、環境としての芸術のあり方を試みるものである。アメリカやフランスなどでは1960年代頃よりすでに試行されていたこうした試みは、日本でも1990年代に入って幾つかの場所で本格的に展開されるようになった。その代表例としては立川駅前の再開発に伴う「ファーレ立川」プロジェクト★21や、都心部の広場を野外美術館に見立てた「新宿アイランド」★22などが挙げられる。こうした事例から、パブリック・アートという試みには「都市と美術」という問題構制が織り込まれていることを様々に読み取ることができるだろう。しかし、それに加えて指摘しておくべきなのは、パブリック・アートというものが、現代社会におけるパブリシティという概念の形骸化と、アートという制度の諸矛盾に対し、これらを付き合わせることで各々の問題を相互照射的に再考する契機をもたらしている点である。こうした流れと動きは、1990年代を通して次第に広がってきた構築的なものへの疑義を背景に、インスティテューションとしての美術館批判に交叉することで生まれてきたものでもある。その意味で、パブリック・アートは空間から環境へという時代の変質によって生み出されたものとも言える。しかし、例えばパブリック・スペースと呼ばれる公共広場の多くが、その内実を伴わない空虚な空間となっているのと同じように、パブリック・アートも制度批判の免罪符としてのみ機能してしまう危うさをかかえており、それがどのような実効力を持つかということが常に問われる必要がある。(MI)

ファーレ立川(http://www.city-naruto.co.jp/public/ogawa/a06.html)
ビオトープ
ドイツ語のBio(生物)とTop(場所)をあわせた合成語。特定の生物群集が生息する生態学的空間単位のこと。人為的であるかどうかに関わらず、多様な野生生物が持続して生存し続けられる空間を意味し、ワシやフクロウなど生態系の高次消費者まで含めた場合には森林や湿原など広範囲の、チョウやバッタなど小動物の生息空間と考えるときには池や湿地など比較的狭い空間単位と捉えられる。人が快適に暮らせる緑の空間と捉えるのは誤りであり、あくまで自然生態系が成り立つことが目的であるために人的な有益性は問われず、したがって景観、ランドスケープなどとは異なる概念である。90年代に入って庭や公園のビオトープ化が日本でも盛んだが(ビオガーデン、ガーデニング)、定義に従えば、より重要なのは生態的回廊(ビオコリドー)などでそのような個々のビオトープをネットワーク化し、より高次で複雑な食物連鎖の系を成立させることであろう。
ドイツではすでに1984年にバイエルン州でビオトープの保全が明文化されており、ビオトープを保護、保全、復元、創造していく先進的な事例が増えている。また建築的な例としては、ミツバチ、シラカバ、シロツメクサが相補的に生息していくWEST8の「スキポール空港計画」などが挙げられる。「環境」、「エコロジー」が近年建築にとっても重要なテーマであるのは言うまでもないことだが(エコテック、エコアーバニズム、環境デザインなど★23)、どちらも概念が広いと同時に曖昧なままにされており、様々な分野と無批判に結びついてしまうきらいがある。ただ、「エコ」や「環境」という語が「地球に優しい」というイメージを喚起することと裏腹に、それは裏返った人間中心主義でもある。エコロジーや環境問題についての議論は、隠蔽された「人間」の存在を明るみに出さなければならないだろう。ビオトープがそれらと異なっているのは、明確に人間中心主義を否定しているからである。(MA)

WEST8《スキポール空港》1996(Adriaan Geuze WEST8, Landschapsarchitectuur/
Landscape Architecture, 010Publishers, 1995)
襞
90年代に入り、デコン・スタイルの建築が次第に低調化。この頃から、いわゆる襞建築が登場し始める。柔らかにうねるプリーツ状の曲面、折り連なる諸部位の複雑な絡み合い、プランからプランへの折り紙状の変形。そうした特徴を持つ建築群が、ピーター・アイゼンマン、ジェフリー・キプニス、グレッグ・リンらによって設計された。93年には、『アーキテクチュラル・デザイン』誌が「建築における襞=折り」という特集を組む。襞建築は、こうして新しいデザインの可能性を提示して見せた。リンの言葉を使えば、デコン建築の「衝突と矛盾の論理」から「より流体的な接続のロジック」への移行。襞=折りは、滑らかに差異を形成しながら異質なもの同士を連ねてゆく変形の操作と見なされた。そこでは、都市や建築が潜勢力に満ちたひとつの生命体と捉えられている。内在的で強度に満ちたフィールドを動態化し、襞=折りによって多様な形態化の契機=折りを創出すること。そのバイオモルフィックなデザインには、トポロジカルなCADの進歩が与っている。襞建築は、コンピュータ・アーキテクトの台頭ともリンクしている。
襞建築を触発した思考としては、ベルクソン、ダーシー・トムソン、ワディントン、ルネ・トム、イリヤ・プリゴジンらのそれが挙げられる。だが、とりわけ刺激的なヒントを発したと言えるのは、やはりジル・ドゥルーズの哲学である。MoMAで「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展が開催された88年、ドゥルーズは『襞──ライプニッツとバロック』を出版している。この著書で示された襞=折りという概念は、それ以前のリゾーム、平滑空間、潜在性=ヴァーチュアリティ等の概念とも相俟って、デコン建築の衰退とともにドゥルーズへの注目をより高めていった。ドゥルーズによれば、ライプニッツの哲学で個体や主体を表わすモナドは、バロック建築と同じ状態にある。それらは、無数の襞からなる外の潜勢力を内へと折り曲げた、外なき絶対の内部すなわち窓を欠いた暗い部屋であるからだ。この暗室=カメラ・オブスキュラの内部では、世界の影像が光の微細な襞の蠢きとして揺曳する。ドゥルーズは、こうしたバロック的発想に立つ建物として、ル・コルビュジエの《ラ・トゥーレット》の修道院を挙げている。
確かに、現実の襞建築には、襞という形象をそのままデザインしただけのものも少なくない。また、ドゥルーズの襞=折りは、あくまで哲学の概念でしかないという見方もある。だが、「襞=折り」では、ドゥルーズに学んだ建築家・家具デザイナーであるベルナール・カッシュの論文と繋がる方向も見逃せない★24。カッシュの文章は、建築のイメージの分類を試みており、フレームや対象態というオリジナルな概念を提示している。ドゥルーズがバロックの襞=折りに注目したのは、それが衣服→絵画→彫刻→建物→都市へとフレームをはみ出しながら無限に連なってゆく横断性による。そして、襞=折りは、ついには精神的なレヴェルにまで上昇するのだ。芸術と哲学が接続して、両者が識別不能のゾーンを形成しながら互いを活性化すること。それこそが、ドゥルーズが襞=折りという全てを連ねてゆく操作に見た可能性だろう。襞建築の好例としては、アイゼンマンの「マックス・ラインハルト・ハウス」やファシッド・ムサヴィとザエラ=ポロの「横浜国際客船ターミナル」がある。なお、カッシュの本は、Anyoneコーポレーション企画の「Writing Architecture」シリーズで英訳された(原語では未刊)。(T)

ピーター・アイゼンマン「マックス・ラインハルト・ハウス」
1992(El Croquis 83, 1996)
ポリティカル・コレクトネス
政治的な基準で見たときの正しさ。PC(ピー・シー)と略されることも多い。審美的な価値ではなく、イメージや言説の社会的効果がそこでは道徳的に問われる。また、権力や資本そして欲望の流れと配備がいかに対象を攻囲し貫いているかが、批判的に検証される。PCによる価値評価が90年代に高まったのは、端的に言えばマイノリティをめぐる小文字の政治がより危急の重要性を帯びたからと思われる。冷戦構造の崩壊と都市内部での南北問題の激化、環境問題の切迫、民族や性や自己概念の揺らぎ等々。それらは、国民国家や近代的主体の枠組みでは処理しえない政治のレヴェルを火急の問題として顕在化した。あるいは、差別や抑圧や不平等なシステムの下での閉塞感の増大。さらには、堅固な自己同一性を求める保守的な渇望もそこには関与している。芸術の領域では、こうした状況下で表現主義的な立場や芸術のモダンな自律性の探求は、閉鎖的かつ制度的な孤高のイデオロギーの観を呈し始める。フォルマリズムはアクチュアリティを喪失したかに見え、一方(様式としての)ポストモダンもまた無効と決算されるなか、芸術でも PC的言説が活況を帯びてきた。
建築におけるPCとして注目を集めたものには、ベアトリス・コロミーナによる近代空間とセクシュアリティをめぐる論考がある(特にアドルフ・ロースやル・コルビュジエ)★25。また、クローゼットや男子トイレなどが同性愛をめぐっていかなる空間を組織しているか、ゲイ・スタディーズの方向も活性化した。英米圏で盛んなカルチュラル・スタディーズも、PC的意識を持つものが少なくない。磯崎新は昨今「日本的なるもの」をめぐる議論を展開しているが、それはPCにナイーヴに与するというより、PCに斜めから交叉する思考と言えよう。だが、90年代において、最もPCと建築をクリティカルなレヴェルで出会わせた事件といえば、やはりダニエル・リベスキンドであり、何よりその《ユダヤ博物館》であろう。ユダヤ人の歴史と記憶を問う博物館という建物。それが、ベルリンという独特な文化的星座を描く都市の上に、ユダヤ的なアレゴリーの手法によりヴォイド=空虚をめぐって構築されたからである。
もっとも、ユダヤ博物館をPCへと還元すること自体が、まさにPC的に問題ではないかという見方もある。この博物館はユダヤ的思考とは別のレヴェルでも作動しているはずだし、ユダヤ的思考にせよそれが何らかの形態へと具現化されうるかと言えば疑問符がつくからである。一部のPC論者には、言説化という行為の政治性にあまりに素朴で無批判な傾向も散見される。また、ある種のPCが暴力化した際には、言葉狩りや作品制作への抑圧となるケースも生じかねない。あるいは、善悪の彼岸にある作品の倫理の強度が看過されてしまう怖れもあろう。PCは、批判のための批判や言説を容易に産出するための契機として活用されていないか、そしてルサンチマンや疾しい良心にその根を持たないかを、厳しく自問する必要がある。
レム・コールハースは、『錯乱のニューヨーク』でダリのPCについて語っていた。自身の妄想的思考の証拠を捏造して、それを現実世界のレヴェルに見出す方法。こうしたPC(パラノイド・クリティカルな)の方法は、PCに多く潜むパラノイア性の批判として機能する。それは、確信犯的にPCを実践するもうひとつ別のPCの可能性を示している。(T)
マテリアリティ
素材もしくは物質性、あるいはモノそのものといったものに関心が寄せられている。
それらをとりあえずマテリアリティと呼んでおこう。80年代までは形態が、90年代前半まではプログラムが注目されていたといえるかもしれないが、最近はむしろ素材や物質性といった観点からの「モノそのもののよさ」が見直されてきたように思われる。例えばスイス系建築家の活躍★26が広く知られるようになったのはごく最近のことである。けれどもその背景に、新しい素材が生まれたり、その建築への適用可能性の期待の高まりがあったりしたわけではない。新素材に関していえば、確かに耐火鋼(FR鋼)やガラス繊維強化コンクリート(GRC)の導入、視野選択ガラスや瞬間調光ガラスなどの開発があった。またカーボンナノチューブや傾斜機能材料、インテリジェント材料、様々な新合金といった次世代材料の研究も盛んである。だがそれらが鉄、ガラス、コンクリートといった従来の材料に取って代わったり、それを使うことで建築に変革がもたらされるだろうと考えられているわけではない。むしろ従来の素材の新しい使い方、効果的な使用法などに対してわれわれが敏感になってきたと言うべきなのだろう。例えば《東京フォーラム》のガラスのキャノピー、ヘルツォーク&ド・ムーロンによる《シグナル・ボックス》での銅板、《ドミナス・ワイナリー》での石の使用法など。だがこのような物質性への関心は、実は非物質性への関心でもある。われわれは物質性に興味を抱くとき、むしろその物質性が建ち上げる非物質性について考えている。例えばガラスは透明性を、ポリカーボネイトは軽さを、石は重厚性を、アルミは金属感を建ち上げているだろう。建築は物質によって非物質を建ち上げる。逆にヴァーチュアル・リアリティやサイバースペースが建ち上げようとしてるのは物質性であるといえるかもしれない。顕在化しているものが組み立てる潜在的意味。われわれが関心を寄せているのは、顕在性と潜在性、あるいは物質性と非物質性という二つの概念の捩れた関係性そのものではないのだろうか。その二つの概念が交叉する地点、それを「マテリアリティ」と呼ぶことにしよう。(MA)

《東京国際フォーラム》(http://www.obayashi.co.jp/project/96.430/forum.html#02)
ミニマル・デザイン
建築における余剰をそぎ落としたミニマルな空間構成は、「レス・イズ・モア」★27という規範を物象化したミース・ファン・デル・ローエの建築にその起源を見出すことができるが、1990年代にはそうした規範とは異なった形で、ミニマルなデザイン表現が様々に生み出された。その流れのひとつは、主にスイス系の建築家によるもので、ヘルツォーク&ド・ムーロンやピーター・ズントー等の作品に代表される空間表現である。彼らの作品はおおむね、単純な矩形平面や直方体によるヴォリュームを基準としており、そこでは形態上の特異さが問われることはない。代わりに、内外を分節する表層や構造と表層との関係に高い注意がはらわれており、石、木、コンクリートやガラス、金属といった素材の特質を活かしつつ、それらを巧妙に組み合わせ、単に内外を絶縁するだけではない操作論的・重層的な界面を生み出している。その一例として、ヘルツォーク&ド・ムーロンによる《バーゼル駅信号所》(1995)を挙げることができるだろう。そこでは20cm幅の銅板が層状に積み上げられ、電磁波としての外部環境を遮蔽する表層が生み出されている。こうした表現潮流のほかに、日本においては岸和郎や小川晋一といった建築家がミニマルな建築空間への志向を展開し、その禁欲的な構成によって高い抽象性と洗練されたディテール表現を獲得している。ここではさらにこれらの建築家に加えて、空間の要素を徹底的に還元することでミニマルな表現を生み出しているジョン・ポーソンを挙げておいてよいだろう。1980年代を席巻した、形態操作的な建築に対する反動とも思えるこうした建築表現は、ロバート・モリスやドナルド・ジャッドよる、美術におけるミニマリズムの動きとも複雑に共振している★28。特にジャッドに関しては、彼自身が建築に強い関心を寄せていたこともあり、1990年代の後半に「スペシフィック・オブジェクト」という概念による彼の作品を通して★29、美術と建築との交差点においてミニマリズムを浮かび上がらせようとする議論が盛んに行なわれるようになった。(MI)

ヘルツォーク&ド・ムーロン《バーゼル駅信号所》1995
(Herzog&de Meuron 1989-1991, Birkhäuser-Verlag für Architektur, 1996)
メガ・アーキテクチャー
空間のスケールを過剰に肥大化させることで建築に超越的な荘厳さをもたらそうとする営為は、その始源より数多くの事例を見出すことができる。それどころか、そうした営為自体がいわゆる「大文字の建築」を長らく構成してきたのでもあるのだが、20世紀末にはテクノロジーの進歩と社会制度の変容により、特異な背景を帯びたメガ・アーキテクチャーが各地に出現した。その主な背景としては第一に、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴されるような国民国家というフレームの部分的な弱体化と、その反作用としての都市フレームの拡大が挙げられる。こうしたことから、1990年代には例えば都市と都市をダイレクトにつなぐ、空港という最も巨大なビルディング・タイプの再構築がさかんに行なわれ、日本では《関西国際空港》(1994)のような巨大建築を生み出した。また、第二の背景としては、1980年代後半の経済的な高揚のさなかに企画された様々な巨大プロジェクトが、90年代以降に次々と実現したというタイムラグによる要因がある。90年代の幕開けを飾った《東京新都庁舎》(1991)、《東京国際フォーラム》(1996)などがその代表例である。これらの要因と連動するもうひとつの背景としては、都市化が高度に進んだ現在において、いわゆる空間のディズニーランダイゼーションが次第にスケールを上げ★30、ひとつのテーマパーク的な空間が小規模な都市機能を包含するほどに巨大化することで、独立した別世界の創出を目指し始めたことが挙げられる。その例としては
《キャナルシティ博多》(1996)、《京都駅》(1998)などがある。空間の百貨店化とも言える、こうしたメガ・アーキテクチャーの現われをめぐっては、レム・コールハースが「ビッグネス」というタームによって改めて定義づけており、極端な量的変化が空間の根底的な質的変容をもたらすことを指摘している。ただし、ここで述べられている巨大さは、かつての建築が欲望していた、単独で高さや壮大さを目指すシンボリズムとは異なっている。そこではもはや、建築がオブジェ的に自己自身への認知を求めることはなく、人工的に裏返された場所が都市そのものに溶解していくような、曖昧な巨大さを獲得しているのである。(MI)

レンゾ・ピアノ《関西国際空港》1994(http://www.kah-bonn.de/1/10/0e.htm#1)
ライト・コンストラクション
デコンストラクショニズムによる建築が、遊戯的な形態の差異としてしか現象しないことが明らかになり、そうした差異のゲームを根底から無化するような阪神大震災が起きた1995年に、新しい建築の現われを柔らかく定義づけるような展覧会が企図された。「ライト・コンストラクション」展と題されたこの展覧会は、「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展と同じく、MoMAにおいて1995年9月から1996年1月にかけて開催され、28組の建築家やアーティストによって33のプロジェクトが展示されることになった。この展覧会は、1991年にMoMAのキュレーターとなったテレンス・ライリーによる、初の時代総覧的な建築展であり、その意味で1990年代の建築潮流をもっとも集約的に表わした企画であったと言うことができるだろう。ここで言う「ライト(Light)」には「光」と「軽さ」という二つの意味が込められているが、そこではコーリン・ロウが述べていた「透明性」★31をさらに発展させ、透明というよりはむしろ半透明な物質によって特徴づけられる「弱い構築」としての建築を、新しい時代の表現として措定している。日本からは妹島和世、伊東豊雄、槇文彦の3人の建築家が招待されており、1980年代以降の建築デザインを方向づけてきた「透明性」や「軽さ」の延長線上で、それらをより洗練させた建築空間の再定義が意図されていたことを読み取ることができる。しかし、その一方でベルナール・チュミ、レム・コールハース、フランク・O・ゲーリーという「デコン展」の建築家が再度ここでプロジェクトを出展しており、「デコンストラクション」と「ライト・コンストラクション」の差異も曖昧なものと
なっている。それは「ライト・コンストラクション」という枠組みが、もはやある明確な価値に基づいた表現のスタイルではなく、逆にそうしたスタイルとしての建築が社会的に成立しえなくなったことを表明しているのだ、とも言えるだろう。(MI)

スティーヴン・ホール《D.E. Shaw and Company Office》1991
(「ライト・コンストラクション」展カタログ、1995)
ランドスケープ・アーキテクチャー
築を自律した単体によって構想するのではなく、その周辺環境をも含めたトータルなデザインを目指すものがランドスケープ・アーキテクチャーであり、一般には景観設計と呼ばれているものである。伝統的な造園技術とは異なった、広義のランドスケープ・デザインという手法自体は、1960年代にローレンス・ハルプルリン等によって初めて導入されたが、その背景には都市化の本格的な進展があった。それに対して、1990年代にランドスケープという概念が改めて注目されるようになったのは、都市の全域化や生態系への配慮を前提とする、環境への意識が次第に高まってきたことと無縁ではない。図としての建築を、これ以上建ち上げることへの懐疑が、地としての環境をこれまでになく意識させるようになったのである。その過程で、ランドスケープ・アーキテクトという職能が脚光を浴びるようになり、彼らと建築家との協同によって、環境全体をデザインした施設も多く見られるようになった。日本におけるその典型的な事例としては、磯崎新とピーター・ウォーカーによる《兵庫県先端科学技術センター》(1994)や、槇文彦とササキ・エンバイロメント・デザインによる《風の丘葬祭場》(1997)などがある。しかし、「風景の創出」という問題系に交叉するランドスケープという概念には、その極遠点に「ピクチャレスクな田園風景」といったロマン主義的な志向や、かつての志賀重昂による『日本風景論』★32のように統制的な「国民国家」を構成する契機が透かし込まれてもいるので、多元的な読解が必要となるだろう。一方で、オランダのランドスケープ・アーキテクトによる組織であるWEST8は、オランダという土地の特殊性が生み出す諸問題を逆手に取り、都市と自然という従来の二項分節的な了解から解放された鮮やかな手法によって、ランドスケープ・デザインの可能性を模索している。例えばベルギーとの国境海岸地帯における「イースト・スケールト防波堤環境計画」(1990─92)では、現地で採取される貝殻と埋立てのための砂のみを材料として海岸のランドスケープを計画し、貝殻を野鳥と交感させることで人工的に自然の風景を生み出す試みを行なっている。こうした試みは、都市と自然の境界そのものを無効化させている点で、90年代的な気配を十分に予感させるものであった。(MI)

WEST8 《イースト・スケールト防波堤環境計画》1990-1992
(Adriaan Geuze WEST8, Landschapsarchitectuur/ Landscape Architecture, 010 Publishers, 1995)
註
★1── パリのラ・ヴィレット地区の公園計画を任されたチュミが、アイゼンマンとデリダに公園内の一角を占める建築物を依頼。85年から両者の共同作業が始まった。デリダがプラトンの『ティマイオス』に登場する「コーラ」という概念でアイゼンマンを触発したこともあり、それは「コーラル・ワークス」と呼ばれる。その後曲折を経て計画自体は実現を見なかったが、両者の応答は『コーラ・ル・ワークス』という書籍にまとめられている。
★2──1990年代には、空間の配列を通して社会制度や家族の関係性を読み直そうとする試みが一部の建築家によってなされたが、そうした試みを指し示す言葉としてプログラムという概念がさまざまに議論された。こうした試みの代表的な事例としては、山本理顕による《熊本県営保田窪第一団地》(1990)などが挙げられる。
★3── 「モダン」な歴史観や文化を正当化してきた、人間の解放・精神の発展・自由や革命といった理念的価値。それら「大きな物語」への信頼が失墜した状況を、リオタールは「ポストモダン」と呼んだ。ここでは、かつての哲学のようなメタ言説が、他の言説の正当性を裁定することはもはやない。さまざまな言説が互いに異なるルールの下で展開され、言語ゲームの「争異」が生じること。それは、言説の差異の政治が問われる状況である。
★4──植民地支配の状態を脱した現実とはいかなるものか。それが、ポストコロニアルという「問題」である。旧宗主国との政治・経済的力学、西欧化による伝統文化の変質や解体、移民や混血、民族の世界各地への離散(ディアスポラ)、等々。なお、植民地(的地域)間でのインターコロニアルな交通は、時に国家や植民地の枠組みを脱臼させる働きとして注目しうる。
★5──James J. Gibson, 1904-79。プリンストン大学哲学科で心理学を専攻。第二次大戦中は、空軍の視覚心理研究プロジェクトに参加した。49年から没年までコーネル大学で教鞭をとる。邦訳は、環境を包囲する光の中に情報が実在すること(生態光学)を論じた『生態学的視覚論』(サイエンス社、1985)がある。
★6──1983 年のH・フォスター編『反美学』所収の論文と84年の自著『近代建築』の改訂版で、フランプトンはアレキサンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルによるこの語を援用。普遍的な文明を慎重に利用しつつも地方的特色を持つ文化を反動に陥ることなく展開する、近代建築の後衛主義を表明した。実例にはアアルトの建築、ヒントとなる思考にハイデガーが挙げられている。フレドリック・ジェイムソンは、『時間の種子』でこれをポストモダンの傾向のひとつとして取り上げた。
★7──物質と知覚・身体と精神などの二元論の難点を解消するために、ベルクソンは1896年のこの著書でイマージュという概念を創造した。彼によれば物質が知覚映像へと変容しうるのは、物質は知覚されずとももとよりイマージュだからである。われわれは個物の再認に先立ち、まずイマージュの総体にほかならない物質界を前にする。そして、この内在野は身体の構えの変化により様相を変え、行動の可能性をその都度鏡のように描き出す。
★8──70 年代にプリンストン大教授オニール博士らが既存の技術に裏付けられたスペースコロニー構想を論文で発表。その代表的モデルは直径6.5km、長さ32km の円筒形コロニーで、114秒で一回転し、その遠心力でほぼ1Gの重力をえるもの。昼夜や季節をもち、約1000万人が居住可能。ガンダムはかなり正確にこの構想を利用したアニメ。
★9──原広司が未来工学研究所の委託により研究、計画したプロジェクト。詳細は『STUDIO VOICE』1999年12月号を参照。ラグランジュ・ポイントとは地球の重力、月の重力、回転の遠心力の三力の力学的平衡点。月と地球を結ぶ軸線状の3 点(L1からL3)と、月と地球の位置とで正三角形をなす2点(L4 、L5)からなる。後者がより安定な解として知られる。
★10──『襞』においてドゥルーズは、潜在性をめぐって、まず「潜在的なもの」と「可能的なもの」を峻別し、「潜在的なもののプロセス」が現動化であり、「可能的なもののプロセス」が実在化であるとして互いに関連する4項概念を通して潜在性を定義している。
★11──MIT建築・計画学部長であるミッチェルは、『シティ・オブ・ビット』で、21世紀のビットスフィアを予想する。テレプレゼンス、遠隔医療、ネットと接続されたサイボーグの身体といった楽観的な未来。彼の言う「電子のアゴラ」には、おそらく古代ギリシアの直接民主主義的理想社会が投影されている。
★12──臨界点(クリティカル・ポイント)を越えてカオスが発生するとき、それ以前の紐状の軌道は帯状の軌道となって反復し回帰する。それは、(ドゥルーズの考える)ニーチェの永劫回帰という批判的=クリティカルな出来事と同じ契機をなすものと考えられる。カオスに言及している著書には、『千のプラトー』や『哲学とは何か』がある。
★13── システムの構造や機能をその系自らが生み出すことを、自己組織化という。要素がランダムな運動を示す熱平衡状態に至らない系では、要素間の相互作用により系全体の大域的な秩序が生じるが、これが非平衡系の自己組織化である。そこでは、系全体の構造が要素どうしの関係へと逆に影響を及ぼし、統計力学の確率論では処理しえない複雑な様相の変化を示す。散逸構造やゆらぎ等、プリゴジンらの研究により主に70年代から注目された。
★14──日本における、 1960年前後に提出された都市ヴィジョンの典型としては、東京湾岸を対象地とした、丹下建三による「東京計画1960」を挙げることができるが、巨大な構築物と明快な構造によるこうした計画案は、菊竹清訓らメタボリズムの建築家たちによっても同様に数多く考案されている。
★15──参考文献として、M. Davis, City of Quarts, Vintage Books, 1992. M. Davis, Ecology of Fear, Metoropolitan Books, 1998. ジーン・フランコ「公空間から要塞化されたエンクレーブへ」(篠木直子訳、『Anybody』、NTT出版、1999)。五十嵐太郎「アポカリプスの都市」(『10+1』No.17、INAX出版、1999)。エドワード・J・ブレークリー+メアリー・ゲイル・スナイダー「分断せよ、さらば滅びん」(佐藤美紀訳、『10+1』No.18、同)などが挙げられる。
★16──そもそもこういった問題は、大量生産、大量消費が有限の地球環境の生態的、物資的資源を破壊し尽くすという真摯な危機への問題意識から発生した。にもかかわらず、その議論は企業のコマーシャリズム、国家のポリティクスに大きく左右されてしまう。われわれはエコロジー/エコノミーの両面から問題を捉えるべきである。
★17──ほかに90年代の特筆すべき出来事として、ゼネコン各社が次々に発表した超々高層建築の構想が挙げられよう。例えば竹中工務店は《スカイシティ1000》(1989)を実現可能レヴェルの《ホロニックタワー》として具体化し、2010年の実現を目指す。地上600m、耐用年数500年の立体複合都市。ほかに大成建設の《X-SEED4000》、清水建設の《Try2004》なども挙げられる。
★18──ここで言う従来のアーバニズムとは、いわゆるモダニズムの教義にのっとったものであり、ル・コルビュジエの都市計画案やルシオ・コスタによるブラジリア等が挙げられる。そこでは全体を統制する巨視的な視点から都市空間が構築されており、明快なゾーニングや効率的な交通計画などが特徴となっている。
★19──コールハースは1995年に『S, M, L, XL』という本を出版。過去の自分のプロジェクトを4つのサイズに分けて編集した。この過程で浮上したのが、サイズというカテゴリーにより建築や都市を思考する試みである。「ビッグネス」は「L」にまつわるマニフェストとして書かれ、全体のコントロールが不能な状況下で全体性を新たに創り出すための概念として提示された。
★20──西欧の諸文化を絶対的な基準として形而上学を構築しようとする西欧中心主義を、デリダは厳しく批判し続けている。彼は西欧中心主義をなす思考としてロゴス中心主義を挙げているが、これは音声中心主義とも呼ばれるものであり、「いま、ここ」の現前性を特権化しようとするものである。
★21──米軍基地跡地の再開発に伴って、北川フラムのアートディレクションにより、都市のあちこちにアート作品が設置されたもの。各々の作品が換気口やベンチ、散水栓といった機能を持つユニークな仕掛けとなっている。出展作家は岡崎乾二郎、牛島達治、ジョセフ・コスース、ロバート・ラウシェンバーグなど。
★22──新宿副都心の一部を占める、44階建ての高層複合建築に関する大規模再開発に際して、その一部を都市における野外美術館のように計画し、アート作品をビルの内外に配置したもの。出展作家は西川勝人、ロイ・リキテンシュタイン、ダニエル・ビュレンヌ、ロバート・インディアナなど。
★23──キャサリン・スレッサー『エコテック──21世紀の建築』(難波和彦監訳、鹿島出版会、1999)、Miguel Ruano, EcoUrbanism, Sustainable Human Settlemants, Gustravo Gill, Barcelona, 1998. などでは、既存の建築がエコロジー的視点から新たに捉え直される。また、大学の「環境デザイン」「環境情報」など多くの新学科は、実際には既存の専門領域の寄せ集めから出発せざるをえない。
★24──Earth Moves, MIT Press, 1995. 原題はTerre Meubre (lユAmeublement du Territoire)で83年の執筆。ドゥルーズのイマージュの概念を用いて建築を分析したこの論文は、逆にドゥルーズを触発し『襞』や『哲学とは何か』ではカッシュを援用しつつ建築に言及がされることとなった。独特な地勢分析・家具設計に特異な可能性が窺われる。
★25──1990年に編著者として『Sexuality&Space』(Princeton Architectural Press)を刊行。また、1994年の『Privacy and Publicity: Modern Architecture as Mass media』(邦訳=『マスメディアとしての近代建築』[松畑強訳、鹿島出版会、1996])では、ロースの建築の室内における舞台装置的な場所や視線と女性の疎外の問題、ル・コルビュジエにおける見ることと住むことと女性との関係を検討した。また、アイリーン・グレイ設計の家に対するル・コルビュジエの振舞いを論じた「戦線──E1027」(『10+1』No.10所収)も参照のこと。
★26──ヘルツォーク&ド・ムーロンやピーター・ズントー、ギゴン・アンド・ゴヤ、ディーナー&ディーナー、ペーター・メルクリらの仕事が日本において注目されたのは比較的最近だ。一括してスイス・ミニマリズムと捉えられたりもするが、そのような形態的特徴による大ざっぱな括り方自体、まだ日本におけるスイス建築の受容が浅い段階であることを示しているだろう。
★27──ミース・ファン・デル・ローエは装飾をそぎ落とし、機能を純化させた建築のあり方を「レス・イズ・モア(より少ないことはより多いことである)」という逆説的な言葉によって表現した。一方、ポストモダニズムの建築家たちはそれを批判的に読み替え、「レス・イズ・ボア」というスローガンを生み出した。
★28──主に1960年代半ばのアメリカを中心に台頭してきたミニマリズムという美術潮流は、作品の余剰的な表現を極限まで排除し、作品それ自体を提示しようとするもので、ドナルド・ジャッドやロバート・モリス、ソル・ルウィット、リチャード・セラ等の言説や作品によって展開されてきたものである。
★29──「明確な物体」とも訳されるこの概念は、「ジェネリック」に対置される「スペシフィック」という言葉をもとに、 1965年にドナルド・ジャッドによって提出されたものであり、カントの「もの自体」さながらに、一切のイリュージョンを排したものの現われを指し示そうとしたものである。
★30──空間が固有の場所性から切り離されて人為的な企図のもとに移植・捏造されるあり方は、東京ディズニーランド(1983)にその始まりを見出すことができるが、そうしたテーマパークとしての空間は、1990年代に恵比寿ガーデンプレイスやハウステンボス・長崎オランダ村などによって追認されることになった。
★31──コーリン・ロウはピカソをはじめとするキュビスムの絵画やグロピウス、ル・コルビュジエの建築作品を分析し、ガラスのような、物質そのものによる「実の透明性」と、空間構造の知覚によって構成される「虚の透明性」という二種類の透明性があることを指摘している。
★32──1894年に出版された『日本風景論』は、日清戦争当時に地理学者でジャーナリストでもあった志賀重昂によって書かれたものである。志賀はここで、風景によって日本という国民国家を統制/構成する思考を組み立てており、その風景の象徴として富士山を挙げている。
ダニエル・リベスキンド
ユダヤの苦難の歴史の傷痕を自らに背負い、帰着する故郷を喪失したまま世界を彷徨い、いまだ生まれざるものの痕跡を追い求めて建築を創り続ける建築家がいる。ダニエル・リベスキンド。彼は1946年にポーランドでユダヤ人として生まれ、イスラエルで音楽を学んだ。その後アメリカに渡って建築に転向し、クーパーユニオンでジョン・ヘイダックに師事し、エセックス大学で建築史と建築論を学んだ。1989年に《ベルリン博物館付属ユダヤ博物館》のコンペティションを勝ち取り、1990年に事務所を開いている。欧米各国の大学で教鞭を執り、ロンドン、ミラノ、ボストン、ナポリ、フィンランド、カナダなどまさに世界中を転々と遍歴した後、現在はベルリンに住む。
リベスキンドは、すでに《ユダヤ博物館》が完成したとはいうものの、あまりにも有名な《マイクロメガス》(1979)をはじめ、線が乱舞する《チェンバーワークス》(1983)なるドローイング、ヴェネツィアス・ビエンナーレに出展された《建築の三つの教え》(1985)と題された三つの複雑な機械の模型など、むしろアンビルドの建築によって名が知られてきた建築家という印象が強いだろう。また磯崎新、浅田彰らのANY会議への参加など、その多彩な言説活動によって、理論家としての評価がより高い建築家だとも言えよう。
だが、1987年にベルリン国際建築展(IBA)の企画として行なわれたコンペティションにおける《シティ・エッジ計画》の最優秀賞受賞、 89年に《ユダヤ博物館》の国際コンペにおける一等受賞をはじめ、90年代の実施コンペにおける彼の活躍は、輝かしい軌跡を残している。順に挙げていこう。93年「アレクサンダー広場計画」が一票差で二等、「ウィースバーデン・オフィス・コンプレックス」が一等、オラニエンブルク市の元強制収容所施設跡に隣接する地域の都市計画「ザクセンハウゼン」は名誉賞を受賞した後、紆余曲折を経て再びリベスキンドの手に戻って現在プロジェクトが進行中、94年「ランツベルガーアレー/リンシュトラッセ計画」が一等、95年「ヴィジブル・シティズ群島」が二等、「フェリックス・ヌスバウム美術館」は一等を取りすでに竣工(1998)、「ブレーメン・フィルハーモニック・ホール」が一等、96年「ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館」が一等、「デュースブルク・コミュニティセンター・アンド・シナゴーグ」が二等、「アイルランド国立ギャラリー増築計画」が二等、97年「インペリアル・ウォー・ミュージアム」が一等を、それぞれ受賞している。複数のプロジェクトが実現に向けて現在進行中であり、またこの他にも多くの作品が発表されており、今や彼を「建てない建築家」として捉えることはできないだろう。
とはいえこの90年代を代表する建築家としてダニエル・リベスキンドを、妹島和世とともに取り上げることには、多くの方が疑問が持たれるかも知れない。《ユダヤ博物館》以外にもこの10年間を代表する革新的な建築は多くあったし、めざましい活躍をした建築家は他にも多くいるからだ。では何ゆえ彼にこの世紀末のディケイドを代表させるのか。そのことに触れる前に、まずリベスキンドの作品を特徴づける彼の独特の設計手法について簡単に述べておこう。
都市を切り裂くような、あるいはそこに亀裂と衝撃を与えるような彼の建築は、錯綜し疾走する線が不整合に形態化されたようにも見え、時にデコンと括られたり、あるいは「線の建築家」と評されたりもする。形態がある種異様であるだけに、そこに浴びせられる評価は様々だ。コンテクストを重視したコンセプトの割には、あまりにも都市と断絶しているように見えるという指摘もあろう。
《ユダヤ博物館》のあの到達不可能な空虚のように、不在の中心を指向する建築家と見られることも、否定性そのものに取り憑かれた建築家と見られることもあろう。
だが結果としてどういう形が現われるにしろ、リベスキンドの建築において最も重視され、コンセプトとして〈建築〉そのものの生成に深く関わっているのが、敷地の場所と歴史である。これは彼のどのプロジェクトにおいても変わらない。リベスキンドはサイトが持つ歴史と場所性を入念に調べ上げ、敷地とそれを取り巻く様々なコンテクストとを、できあがる建築とともに、新しい全体的調和(彼はよくアンサンブルensembleという語を用いる)のもとに再編成しようとする。彼の建築は、都市的歴史的な複数のコンテクストの編み目の中に投げ込まれ、それとの相互依存関係のもとに初めて成立するような建築だといえよう。それはコンテクスチュアリズムとして単純な調和を目指すものではなく、異化作用をおこすものとして衝突をもたらすものでもなく、そしてその矛盾する両者を折衷するのでもなく、インテンシヴな空間の構築によって調和と衝突を同時に起こすという困難な営為によってのみ実現される。
例えば「シティ・エッジ計画」ではベルリンの伝統的な街区構造の上に、巨大な直線状の構築物が敷地の境界線を遙かに越えて、やや傾斜しながら宙に浮かされていたが、それは都市計画的な制約を乗り超えると同時に、シュペーアによる《ベルリン計画》(1936)という堕胎した都市の記憶をも甦らせるものであった。またオスナブリュック市の《フェリックス・ヌスバウム美術館》は、既存の歴史博物館と民族芸術展示館のある敷地に、オスナブリュックで生まれアウシュヴィッツで死亡したフェリックス・ヌスバウムというユダヤ人の画家を記念して建てられた美術館であったが、そこで焦点とされたのは、既存のコンプレックスの中に新たな建物を付け加えることでいかに新たなコンプレックス全体の調和がえられるか、そしてそれと同時にいかに都市全体の記憶を呼び覚ますことができるのか、というものであった。実際この美術館の建設に先んじた調査において、敷地の一部から17世紀の古い橋の遺構が発見されたのであるが、それは偶然とはいえリベスキンドの手法を語る象徴的な事件であった。リベスキンドは抹消された歴史の記憶、忘却された都市の記憶の中に深く分け入り、それを切開し、露にされた時間の傷口を未来と縫合する建築家なのである。
もう一度先の問いに戻ろう。なぜ今リベスキンドが取り上げられるべきなのか。
ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月であり、翌1990年10月にドイツは統一を迎える。20世紀の傷口は、第三帝国の首都であり、統一ドイツの首都であるこのベルリンにある。歴史の記憶と痛みを抱え込んだこの都市では、21世紀にむけて国家的な大規模なプロジェクトが完成しつつある。リベスキンドの《ユダヤ博物館》をはじめ、フランク・ゲーリーの《DG銀行》、ノーマン・フォスターの《新連邦議会議事堂》、ピーター・ズントーの《トポグラフィ・オヴ・テラー》などのほか、特にポツダム広場の改造計画は、レンゾ・ピアノ、ヘルムート・ヤーン、リチャード・ロジャース、磯崎新、ラファエル・モネオらのプロジェクトが進行中であり、非常に注目されている。と同時に、レム・コールハースがそれらを厳しく批判していることも銘記しておかなければならないだろう。
ポツダム広場改造計画の設計競技審査員でありながら、自らの少数意見を記録から抹消されたレム・コールハースは、このコンペを批判しながら、ベルリンのアイデンティティ回復と同質化の動きに、ベルリンを再びメトロポリスとして再生させようとする衝動があることを指摘し、だがすでにメトロポリス的であるこの都市にはそのような再生モデルが通用しないことを述べ、悲劇の刻印された空虚の美しさを認めるべきであり、開発によってそれを排除してはならないという。過去の栄光への回帰、それは円環的に現在を繰り返すことでしかない。ヴォイドである廃墟を強迫観念的に埋めようとする欲望、それは記憶の断片までもことごとく消し去ることに他ならない。ベルリンは、19世紀の首都パリ、20世紀の首都ニューヨークに対する21世紀の首都として再生しようとしているのかも知れない。だがここに〈首都〉は必要であるのか。90年代の後期資本主義の世界において、首都=資本とはもはや解体され、飛散した断片からなる、復元不可能な架空の夢でしかないのではないだろうか。
リベスキンドの「アレクサンダー広場計画」や「ポツダム広場計画」(1991)は、まさにこのような状況を裏返して写し取る計画であった。ユートピア的な計画や白紙状態からの出発は、いずれも「未来のある一瞬」における完成像を想定するような計画である。リベスキンドはそのようなマスタープラン的な計画を厳しく批判し、「アレクサンダー広場計画」では、現状の都市組織と計画との相互作用による「緩やかな改善」を提唱した。また「ポツダム広場計画」では空中に超巨大構築物を浮遊させ、そこに世界中の友人から歴史上重要と思われる日付と署名を集め、刻み込もうとした。ゴールのない計画、断片からなる計画。リベスキンドはそうして終末を起源そのものに変えてやろうとするのだ。
散逸する複数の時間の流れによってしか記述しえない現在を自覚的に建築に取り込み、なおかつ過去と未来を建築によって縫い合わせ、自らは国家の永遠の他者として漂流するユダヤ人の建築家。リベスキンドの存在はこの時代が奏でる波長と共振しつつ、20世紀と21世紀の永遠の裂け目に橋を架けるだろう。(MA)

《ベルリン博物館付属ユダヤ博物館》Daniel Libneskind, Jewish Museum BerlinBernhard Schneider/ Prestel

《チェンバーワークス》『現代建築家集 ダニエル・リベスキンド』
(オーク社、1994)

「シティ・エッジ計画」<a href="/publish/identity/v/%E9%A3%AF%E5%B3%B6%E6%B4%8B%E4%B8%80" id="tagPos_275_17">飯島洋一</a>『<a href="/publish/bibliography/v/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE50%E4%BA%BA" id="tagPos_275_23">現代建築の50人</a>』(INAX出版、1993)

《マイクロメガス》『a+u』1988年8月号(エー・アンド・ユー)

《建築の三つの教え》Lines Of Fire, Electa Spa, 1988

「アレクサンダー広場計画」『世界の建築家581人』(ギャラリー間、1995)

「ウィースバーデン・オフィス・コンプレックス」Daniel Libneskind,
radix-matrix, Prestel,1997

「ランツベルガーアレー/リンシュトラッセ」El Croquis, Daniel Libeskind

「ブレーメン・フィルハーモニック・ホール」Daniel Libneskind, radix-matrix

「デュースブルク・コミュニティセンター・アンド・シナゴーグ」
Daniel Libneskind, radix-matrix

「ザクセンハウゼン」El Croquis, Daniel Libeskind

《フェリックス・ヌスバウム美術館》El Croquis, Daniel Libeskind

「ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館」
UNFOLDING,NAi publishers, 1997

「ポツダム広場計画」Anywhere, Rrizzoli, 1992
妹島和世
建築に純度という概念があるならば、妹島和世の建築は、まさに絶対的な純度の極み、極限まで不純物を取り除いた、そのさらに先にあるもの、いってみれば「純点」ともいうべき地点を目指しているのではないだろうか。もちろん建築には、あらゆる水準における不純物が不可避的に混入せざるを得ない。だが、だからこそ妹島和世は、あらゆる水準において純度の極北とも言うべき到達しえぬ地平にむかって、連綿と建築を展開させているように思えるのである。
昨年の秋、ある酒の席で僕は直接、妹島和世と話す機会を得た。そこで彼女の事務所内での「意志決定プロセス」に関するひとつの質問をした。彼女の事務所でたくさんのスタディ模型がつくられることはよく知られている。だが最終的な決定はどのようにして行なわれているのだろうか。僕は、その多くのアイディアのなかから、何らかの一貫した説明がついてしまうようなものを全て取り除き、とにかく消去法によって、最後の最後まで、どうしても完全な説明が与えられないようなものを選んでいるのではないかと思っていた。それを聞いてみたところ、「そういうところはありますね」という返事をもらった覚えがある。酒の席であり、僕の記憶も曖昧である。もちろん実際にはそれと異なるプロセスによる意志決定はもちろんあるのだろう。僕は彼女の事務所に行ったこともないし、所員の方からそういう話を聞いたこともない。だが多かれ少なかれ、これに似たような意志決定システムがあるだろうということに、僕はある種の確信を持っている。
先に彼女の足取りをたどっておこう。妹島和世は1956年茨城県に生まれる。高校までは父が勤める日立製作所の社宅で暮らし、日本女子大学の住居学科に入学して東京に出る。81年に修了し、同年伊東豊雄の事務所に入社。87年に退社して、妹島和世建築設計事務所を設立。後に共同設計者となる西沢立衛(1966年神奈川県生まれ)は88年秋からアルバイトに来ている。西沢は90年に横浜国立大学大学院を卒業し、同年正式に入社する。95年から妹島は正式に西沢と共同し、97年に西沢も事務所を設立する。現在は妹島、西沢の各事務所のほか、2人の共同の事務所SANAAが設立されている。以下、竣工作品のみ挙げていこう。88年デビュー作《PLATFORM》、90年《PLATFORM II》、91年《カステルバジャック・スポーツ》(3年後に取り壊された)、《再春館製薬女子寮》、92年《N-HOUSE》、93年《パチンコパーラー》、《パチンコパーラーII》、94年《Y-HOUSE》、《森の別荘》、《調布駅北口交番》、96年《パチンコパーラーIII》、《国際情報科学芸術アカデミー マルチメディア工房》、《S-HOUSE》、97年《熊野小道なかへち美術館》、《M-HOUSE》、《K本社屋》、98年《岐阜県営住宅ハイタウン北方南ブロック第一期妹島棟》、《古河総合公園 飲食施設》、《ひたち野リフレ》、99年《飯田市小笠原資料館》、《六ツ川地域ケアプラザ》。また今後としては、97年に「シドニー現代美術館新館」(2003年竣工予定)、99年に「サレルノ市旧市街再生計画」、「スタッドシアター」(2003年竣工予定)、「金沢市広坂芸術街」がそれぞれコンペティションで最優秀賞を受賞し(いずれもSANAAによる)、現在プロジェクトが進行中である。ほか、コンペ、展覧会など多数参加、出展している。さて、これらの作品の間に彼女/彼らにおける何らかの作風の変化、もしくは断絶を読み取ることは可能だろうし、あるいはいくつかのカテゴリーに分類、整理して理解することもできるだろう。例えば形態的には、「PLATFORM」シリーズに見られる初期の複雑な加構から、《カステルバジャック》以降の矩形への変化、「世界都市博覧会 警消センター棟プロジェクト」(1995)や《飯田市小笠原資料館》に見られる、うねるような緩い曲線、《Y-HOUSE》や《調布駅北口交番》、《マルチメディア工房》に見られる台形のバルコニー、《N-HOUSE》や「せんだいメディアテーク公開設計競技案」(1995)に現われる敷地をえぐり取るような曲線。空間的には、一方向に空間を分割する《Y-HOUSE》や《M-HOUSE》、内部と外部の境界をダブルスキンとして扱う《S-HOUSE》や《マルチメディア工房》、《なかへち美術館》、単純なプランを持つ《K本社屋》や《ひたち野リフレ》、微妙な差異を伴って空間が平面的に反復する《岐阜県営住宅》や「スタッドシアター」。あるいは機能や構造、動線やプログラム、素材と透明性、光とディテール、といった視点から分析を試みることはいくらでも可能だろう。また西沢との共同による変化を挙げることもできるだろう。
土居義岳は、妹島のプランや構成に幾度も現われる、三分割もしくは三部構成に注目し(特に91年の《アパートメントのプロトタイプI》では完全な三等分プランが現われる)、そこに彼女が二分法や二元論を拒絶し、乗り超えようとしている契機を見出している。また青木淳は、妹島が無限の可能性からある「新鮮な」組み合わせを選び取ることで、建築家の恣意性を消しながら空間を「つくる」という矛盾に満ちた方法論に取り組み続けているという一貫性を指摘し、その上で《マルチメディア工房》から《なかへち美術館》に至る間の転換点を挙げている。それは、プログラムのなかに存在する「人の行為」を、「使う人の側の行為」として想定するか「不定形なもの」のまま想定するかという違いであり、それによって、以後「空間構成の特異さが一挙に消滅」したという。また「スタッドシアター」における、固定された壁を持ちながらも得られる通常とは異なるフレキシビリティは、その延長線上で得られていることが分析されている。
さらに妹島自身の説明によれば、これまでの計画ではその可能性を追求するため、多くの場合、様々な分割について考えられてきたことが述べられ、初期の機能の連続性というテーマから、ヴォリュームのあり方、敷地との関係、動線空間とそれ以外の空間との一体性、内部と外部のずれ、身体的スケールの反復、回廊等による内部と外部の距離、構造と間仕切りの関係性、フレキシビリティと、計画のテーマが、関連しつつも様々に移り変わってきたことが明らかにされる。
しかし個々のテーマは、これまで誰もまったく考えたことのない問題というわけでもないし、そのテーマ自体によって、妹島和世という建築家を説明し尽くせるというわけでもない。いずれも建築家にとって意義深い主題であるし、過去に同様の主題のもとにつくられた建築を挙げていくこともできるだろう。たとえ彼女が誰もがなしえなかった比類なき解決をそこに与えていたとしても、である。ではこの妹島和世という建築家の何がいま問題とされ、そして何故90年代を代表する建築家としてここに取り上げられているのか。妹島は91 年から始まった磯崎新らのANY会議の第9回目、パリで99年に開催された〈Anymoreコンファレンス〉に若手建築家として参加している。この会議は第6回と第7回にグレッグ・リンやベン・ファン・ベルケル、アレハンドロ・ザエラ=ポロが、第8回からはMVRDVのウィニー・マースが若手として参加しており、建築界の一種の流れを示してもいるが、そこでも妹島の過激なミニマリズムは突出していたという。いったい彼女の何がそれほどまでに注目を集めているのだろうか。
西沢立衛は、妹島に《再春館製薬女子寮》の仕事が入ったときに驚喜したという。寮のようなビルディングタイプでは、「同じモノが反復する」ことを示しやすいからだったらしい。この話がどこまで事実なのかは分からない。だが確かに彼女/彼らの作品における「同じモノの反復」が目立つのは《再春館》以降である(《PLATFORM III》の地下には五つの同じ部屋の反復があったが)。「世界都市博覧会プロジェクト」や《岐阜県営住宅》においては明らかに「同じモノの反復」が現われている。また西沢の「30代建築家100人会議」の会場デザインにおいてもその指向は見て取れるだろう。ただ当然、そうした特徴自体が重要なわけでもない。しかし、いやそれ故に、これがもうひとつの彼女/彼らの特徴と重なり合い、交叉、交錯するとき、そしてその背後に潜むあるひとつの強固な、思念の空虚、反転した結晶ともいうべき消失点の位置が定まるとき、その消失点こそが妹島の建築における純度の極点そのものであるとも思えるのだ。
「同じモノの反復」とはもちろん「異なるモノの反復」ではない。だが、彼女/彼らは一方において「異なるモノを反復」、いや正確に言えば「異なるモノを並置」させようとしている。「那須野が原ハーモニーホールコンペ案」(1991)ではすでに、建築以外のいろいろなもの、例えば庭を、等価に並べようとしていたことが述べられているし、《ひたち野リフレ》の初期のある案では、ファサードに部分的にミラーガラスを使い、ルーバーの角度を変えることで、立面において空と緑と建物内部の風景をミックスさせようとしていた。後藤武は、98年にGAギャラリーで行なわれた「妹島和世+西沢立衛展」において計画案の模型と複数のスタディ模型が限りなく差異を消去されながら並列され、また計画案以外が基壇の上に接着されていたことに注目し、模型と建築、動くことと動かないこと、重さと軽さ、ひいては現実とフィクション、平面(=建築)と敷地(=与条件)といったものが、ヒエラルキーなく同時に肯定されていることを分析している。また西沢自身も、明るいことと暗いこと、複雑なことと単純なこと、透明と非透明など対立するものを「同在」させようとしていることを随所で述べている。
「同じモノの反復」と「異なるモノの並置」。この二つの手法は、微妙な関係性を保持している。同じものは、反復されることによって、むしろその使われ方の差異こそが浮き彫りになる。異なるものは、並置されることによって等価な、同じものとして反復する。二つの手法は相互に連環するものである。これらはいずれもモノとモノとの関係性ないしはヒエラルキーを徹底的に消滅させたとき、完全にあらゆるモノとモノとが等価に──いや、その時はすでに等価というべきではない──独立して存在しえたとき、初めて、しかも同時に出現する手法である。そしてまさにその瞬間に、モノとモノの関係性およびヒエラルキーには、完全な自由が与えられることになる。なぜなら、それはいかなる関係の組み替えの可能性をも許容し、そしてその潜在的可能性全てを包含する関係になりえるからである。それこそが彼女/彼らが追求しているフレキシビリティではなかっただろうか。「スタッドシアター」のプラン。全てはそれが示している。等価な長方形による平面の分割。同じ60mmの構造パネルと透明パネルと不透明パネルの連続。廊下と部屋の区別はなく、構造と非構造の区別もない。固定されたプランによる無限の可能性。
彼女/彼らはこの二つの手法自体を同時に併存させる。いや、モノとモノとのヒエラルキーを消去しようとするため、不可避的にそれらが同時に現われるのだ。けっして各々の手法が先にあるわけではない。彼女/彼らの建築の設計における「意志決定プロセス」が、消去法によっているのではないかという確信はそこにある。完全な説明が与えられるものは、そのロジックが建築のあらゆる要素間の関係性やヒエラルキーを統御する。一貫したロジックやコンセプトは、彼女/彼らにおいては最終的には注意深く避けられている。もちろん個々の決定に対する説明は様々につくだろう。けれども、論理形式そのものと建築でさえ、そのヒエラルキーが排除されることは可能である。建築のコンセプト、機能、構造、プラン、エレベーション、素材、ディテールといったあらゆる水準において、それは言えることだろう。妹島和世はある時「プログラムを組み替えたからといって建築が新しくなるわけではないだろうという気がする」と言っていた。それはプログラムをヒエラルキーの外にはずすひとつの契機だったのだろう。あるひとつの水準における決定要素が建築を支えるのではなく、全てが独立して並存されること。そこにおいて、ヒエラルキーという不純物は完全に根絶され、あらゆる組み替え、あらゆる解釈の自由度が確保され、建築の純度が極限にまで達する。純度の極北は到達不可能な地点なのかもしれない。だが、今のところ彼女/彼らは、誰よりも、まさにその「純点」という消失点を目指して、その最も近くにおいて、建築をつくり続けているような気がするのだ。(MA)

《Y-HOUSE》

《森の別荘》

《国際情報科学芸術アカデミーマルチメディア工房》

《S-HOUSE》

《熊野小道なかへち美術館》

《熊野小道なかへち美術館》

《岐阜県営住宅ハイタウン北方南ブロック第一期妹島棟》

《飯田市小笠原資料館》

《古河総合公園 飲食施設》

《ひたち野リフレ》

「妹島和世+西沢立衛展」
*刊行時、本論考にて下記の誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
ジーン・フランコ「公空間から要塞化されたエンクレーブへ」(篠木直子訳
↓ 篠木→篠儀
ジーン・フランコ「公空間から要塞化されたエンクレーブへ」(篠儀直子訳