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神殿と遊興の時代──幕末維新期の神社と〈言説〉の複層性 | 青井哲人
The Complex Strata of "Discourse" of the Nineteenth Century Shrine | Aoi Akihito
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.107-118

「風景の発見」的問題設定の問題性

柄谷行人は『日本近代文学の起源』(講談社、一九八)のなかで、近代文学を成立させた認識の布置のことを「風景」と呼び、それが日本では明治二〇年代に成立したと言っている。のちに柄谷は、ネーションの観念やそれと相補的に形成されるアジア、東洋といった観念も、実は「風景」に他ならないのだと、B・アンダーソンやE・サイードに依りつつ注釈を加えてもいる★一。また、北澤憲明は『眼の神殿』(一九八九)で、やはり明治二〇年代に「美術」の制度化をみている。美術には遅れをとるものの、「建築」という概念も、それが日本という内部体系の記述に移されることで自覚的に編制されるのはおおむね明治二〇年代であったとみられる。
こうした議論で重要な役割を果たすのが〈言説〉という概念である。〈言説〉とは、個々のコトバ(言表)を指す場合ももちろんあるが、一般には、一定の秩序の下に編制されたコトバ(言表)の集合体として捉えられている。この概念の背後には、すべての事物は〈言説〉の網の目を通してのみあらわれる、という考えがある。
北澤憲明はこういう表現をしている。僕たちにとっての「古代」とは、「明治維新というピンホールを通して近代という暗箱のなかに映し出される倒立像としての古代」にほかならない、だからこそ、この「暗箱」の仕組みを捉えることなしには、僕たち自身の視線を問い直すことはできない、と。これは、柄谷行人の、「『風景』以前の風景について語るとき、すでに『風景』によってみているという背理」、あるいは「転倒した時間性」といった問題を受けついでいる。「風景」とは言うまでもなく、「転倒した時間性」の比喩にほかならない。そしてもちろん、「風景」は〈言説〉として編制される。
柄谷の一連の言説が直接の影響源であるかどうかはともかくとして、このような問題設定は広く一般化していく。とりわけ九〇年代には各分野の研究史再考の機運にも同調して、ほとんど一定の研究分野を形成するとも見えるほどの定着ぶりである。「国民国家形成の文化史的研究」とか「……の誕生」といった枠組みがそうであり、近代建築史でも「日本的なもの」をめぐる〈言説〉の検討をはじめとして、そうした枠組みの建築版とも言えるような研究が盛んになされている。それは明治二〇年代を前後する時期の、いわゆる近代的学知の形成をめぐる研究にとどまらず、昭和初期、あるいは戦後一九五〇年代など、あらゆる時期の建築家・建築史家などの〈言説〉の検討に適用される。すべてがそうだとは言えないが、多くの場合に強調されるのは、はじめからあったように見える何かが、ある〈言説〉の形成にともない事後的に「発見」あるいは「創出」されたものにすぎない、ということである。その〈言説〉が、特定の社会集団の利害に沿って、諸種の制度を伴いながら編制されるとすれば、そこにイデオロギー、権力の問題が問われる。
ところで、『日本近代文学の起源』の特質のひとつは、基本的には「風景の発見」以前の事柄については直接にふれていないことにある。そこへ無媒介に向かうことは、「『風景』の発見という事態」を見ないことであり、「『風景』の眼でみられた」歴史をつくることにしかならない、と主張する同書が、「発見」以前にふれない議論を組み立てているのは当然と言えば当然である。柄谷はたしかに、山水画を例に引いて、山水画では画家は先験的な概念(モデル)を扱うのであり、事物の描写をするのではない、と述べてはいる。しかし、これは説得性を増すための蛇足といってもよい補足であり、本来は「山水画」という概念、あるいはそれを見る僕たちの眼そのものが、「風景画」から折り返されたものであることを分析しさえすればよいのである。
しかし、こうした問題設定が歴史記述の方法とみなされ、しかも常套手段として反復され、定着していく過程は、むしろ歴史の総体のなかから「みやすい近代」をあらかじめ切り取るセクショナリズムとして、そうした方法が機能していく過程であったという理解もできる。つまり、「発見」以前に向かうことの困難の指摘が、あらかじめ「発見」以前を切り捨てることを正当化するように働いているのではないかと思われるのである。
だから、「言説としての日本近代建築」を問題化するとき、本当に問うべきなのは、僕たちの足下を検討するためのこうした〈言説〉批判の方法そのものが、実は僕たちの〈言説〉なのだということである。それが「見やすい近代」を切り取り、その片割れとしての「素朴な前近代」を再生産する一種のセクショナリズムにたとえ結果的にせよ寄与しているのだとしたら、僕たちはどうすればよいのか。そしてこれは、何も近代/前近代にかぎった問題ではない。歴史上に何度もあったはずの、また日常的に体験しさえする「風景の発見」について、それを「発見」以後においてのみ考えることそのものに問題性を見てとるべきであろう。流通している〈言説〉概念は、「発見」以後の秩序を検討するためのものにほかならないのである。
たとえば、筆者は以前に伊東忠太の「法隆寺建築論」(『建築雑誌』八三号、一八九三)の特質を検討したことがあるが、そこではすでにある秩序をもつに至った伊東忠太的、あるいは明治的な〈言説〉の編制のなかで、その始点に「法隆寺建築論」の位置を測るという方法をとった★二。「法隆寺建築論」を、近代という暗箱に空いたピンホールとして見たのである。「建築史学史」的に見て「未熟な段階」にしか位置づけられない「法隆寺建築論」を、「風景の発見」という「転倒した時間性」がもたらす両義性の相で読み直そうと意図したのだが、しかし、これは依然として分析の対象たる「法隆寺建築論」を置いてみるべき時空を、あらかじめ「発見」以後に限定する態度だと言えるだろう。
仮に、法隆寺という事物のまわりに、古代以来さまざまな〈言説〉が繰り返し生産され、ねじられ、折り返されながら、複合的な時制をかたちづくってまとわりついてきたと考えてみよう(伊勢神宮や出雲大社などはまさにその恰好の事例である)★三。そして、〈「法隆寺建築論」は「こちら側」の時制がはじまる折り返し点=ピンホールである〉、という見方から、〈法隆寺のまわりにすでにあった《言説》群のなかへ「法隆寺建築論」が投げ込まれた〉、というように場面設定を変えてみよう。すると、「法隆寺建築論」の見え方は変わってこないだろうか。両方の場面設定を同時に認める立場がありうるならば、「こちら側」のはじまり、つまりピンホールのように見えていた「法隆寺建築論」は、ピン=点ではなく、複数の時制を抱え込んだものとして厚みを持ってくるはずだ。これは、「風景」という折り返し点を無視して無媒介に「ほんとうの過去」にふれるべきだということではなく、物事を見るための時制を複層的に設定しうるのではないかということであり、また比喩的にいえば「法隆寺建築論」が書かれた〈現在〉を、点として細らせるのではなく、体積をもった時間性としてふくらみを持たせようということである。「風景の発見」といった問題設定の一般化がもたらす貧困とは、この意味での〈現在〉の厚みを奪っていくことなのではないか。
こうした問題を考えるとき 、木下直之の『美術という見世物』(平凡社、一九九三)はきわめて示唆に富んでいる。たとえば、柄谷ならばリアリズムとは「風景」=言文一致の結果として事後的に生成するものだと言うだろうが、木下の面目躍如たるところは「リアリズムとは、細工の一種にほかならない」といった場面設定の転換にある。彼は、いわば「見世物」と「美術」という二つの時制が明瞭には区別されえないような時空のあり方に注目する。リアリズムは、「美術」受容の結果だとも、「見世物」の行き着いた先だとも、誰も明確には断言できないのではないか、と木下は「風景の発見」的問題設定に疑問を投げかける。というより、正確に言えば、そうした未分化な時空の設定に、記述という行為を投企したのである。それはひとつの戦略でありうるだろう。また『建築雑誌』一九九七年八月号での「特集=建築改名一〇〇年」は、そうした時空を具体的に描き出し、「建築」制度化の過程に厚みを与えるすぐれた作業として特筆すべきだろう。
本稿では、具体的な事例として神社をとりあげ、以上のような問題系をトレースし、日本近代建築の問題を考えるために僕たちが想定すべき時空、時制を、いくらか複合化するためのスタディを試みてみたい。
 

近代神社建築史──近代・神社・建築史

神社の問題は、日本近代建築史のなかにそれなりに重要な位置を与えられてしかるべきだと思うが、研究の立ち後れには著しいものがある。国家神道体制との関連を考えるだけでも、神社はまさに日本近代において建築が(国家的制度を伴う)〈言説〉において成立させられた端的な事例とも言え、その兆候的な事例の検討をおいて日本近代における「国家と建築」の問題を考えるというのでは大きな欠落をはらまざるをえないだろう(それが決定的な欠落とみなされるかどうかは、近代の神社に関する今後の歴史記述の質にかかわる問題だが)。いち早くこの分野の研究に着手した丸山茂は、「国民様式の中に超国家主義的な理念が現れる経緯を神社建築に考察」するとし★四、建築の様式設定の根拠となるネーション(国民)の観念という問題を提起している。藤原惠洋は、日本近代における「和風意匠」の形成過程という視点から、やはり様式設定における「復古主義」という問題を立てているが★五、近年では、藤岡洋保がこうした問題設定を、国民国家論というかたちで定式化している★六。そこでの前提的な認識は、やはり柄谷の「風景」や北澤の「暗箱」の考えに類似している。藤岡は、神社という、前近代と近代とが連続的に見えやすい建築種別においても、近代の神社建築は「近代的なテーマ」として見なければならないことを強調する。たとえば昭和期の「流造」は、歴史の意識化、機能・材料・工法などの総合的検討といったものを経て生み出されたのであるから、それは何らかの近代的解釈の結果であり、「江戸時代までに存在したものと同じではな」い、と。
官社(官国幣社)を中心とする枢要な神社に限って言えば、近代の神社造営の担い手は、さしあたり、明治後半─大正半までの伊東忠太と、以後昭和戦中期および戦後復興期に絶大な影響力を持った角南隆に代表されると考えてよい。あくまで一例だが、次にあげる二人の神社建築の定義を見れば、それだけでも両者の概念的前提の差異がよくわかる。

私は実は神社と云ふ語の正しい定義を知らない。併し、私の爰に所謂神社とは、我国の祖先及歴代の天皇、皇族、臣下の特に功績あり紀念すべき事蹟ある場所を意味して居ります。神社建築とはこの祭祀に必要なる建物でありまして、この必要と云ふ語は実用上と、尊厳を保つ体裁上との両方に通じて居るのであります。
(伊東忠太「日本神社建築の発達」一九〇〇=明治三三年)★七


換言すれば神社は 御鎮座─祭祀─参拝 此の三つの具体的手段によつて営まれて居る(…中略…)神社が物質的に備へ付けて居なければならない各般の設備や規模も、すべて此所から考へ出されて来る訳である。(…中略…)神社は斯うした関係から其の規模として、地形の高低凹凸や林木池泉苑道芝生地と云た様な天然的な取扱をした部分と、之と交錯する大小の建設物とを以て成り立つて居るものであつて、天然の森林や苑地のみで片付くものでもなければ、亦、建築物のみを以て決せらるべきものでもない。
(角南隆「神社建築に就いて」一九二九=昭和四年)★八


伊東忠太は、神社建築を天皇・皇族および功績ある臣下を祀るための施設といった程度の範囲で捉えている。もっともこれはあまり意識的な発言とも思えないが、当然こうした定義ですべての神社が網羅できるはずはなく、実質的には明治初─中期に実際に新たに創建された一部の官国幣社を指したものにすぎない。すなわち天皇を祀る橿原神宮(神武天皇)、平安神宮(桓武天皇)、皇族を祀る鎌倉宮(護良親王)、井伊谷宮(宗良親王)、あるいは朝廷(南朝)方の忠臣を祀る湊川神社(楠正成)、藤島神社(新田義宗)などである。これは忠太の神社観が国家神道体制をそのまま反映するものであったということだが、それよりもまず、彼が神社を建築家がデザインしうる範囲で捉えていたということを物語るだろう。また、「実用」と「体裁」といった素朴な二元論もみられるが、忠太は祭神の性格を根拠に、それにふさわしい「体裁」(様式)を案出することを建築家たる自分の仕事と考えていた。
一方の角南の場合は、まず、神社の成立条件にまで遡って還元しており、彼の考える神社の範囲は忠太よりはるかに一般化されていることが第一の特徴である。そして、そうした神社の成立条件を「手段」と捉え、それへの応答としてはじめて建築が生成するといった機能主義的な理解が下敷きとなっている。しかも、神社は敷地の環境条件やランドスケープ・デザインと、そこに「交錯」する社殿建築とを同時に見る視点からのみ設計されうるという、きわめて透明な空間概念が、ここには示されている。
伊東と角南の神社観に見られるこうした差異の検討は、大局的にはごく一般的な日本近代建築史が踏まえている明治の一九世紀西欧的折衷主義から昭和期モダニズムへという枠組みのなかにかなりスムースに回収されうるものであろう。ここに国民国家論の枠組みを重ねれば、二人の建築家において、各々の論理=〈言説〉から「日本」が迫り出してくる構造をそれなりに分析することができるし、それはすでに予想すらできそうである。
しかし、「発見」以後の時制を前提とするこうした〈言説〉批判の方法に対して、比喩的に言えば「以前」の時制を重ねていく作業を試みると、見え方はどう変わってくるだろうか。
 

リバイバリズムとカタログブック

伊東忠太は、たとえば宮崎神宮(一九〇七)の造営において、神明造をベースにしたデザインを試みている[図1]。伊勢神宮の社殿形式を手本にとりながら、屋根はわずかに反らせ勾配を緩くし、棟持柱はとり去り、本殿については妻入りとし、他の社殿と複合化している。日本国の創業者としての神武天皇を祀るのだから、皇祖神を祀る伊勢神宮の様式を規範として選び、それに手を加えることで新味のある様式を創出したわけだ。カタログブックからのチョイスとアレンジである。これはそれ自体すぐれて〈言説〉に支えられた方法であって、一九世紀西欧的折衷主義、リバイバリズムといった言葉でまとめられうる。しかしここで、試みに、幕末維新期にあって神明造がどのような〈言説〉の下にあったか、その一端をのぞいてみよう。
幕末維新期の戦争とヴァンダリズムのなかで生まれた土蔵造本殿の例も興味深いが、この時期に急激に広く行なわれた様式と言えば、やはり神明造の系統である。
突飛な例に思われるかもしれないが、朝鮮のソウルに日本人居留地がつくられたとき、居留民は自分たちのコミュニティの氏神を欲し、次のようにしてそれを「勧請」した。

……神社御創立は朝鮮が未だ異邦たりし明治二十五年頃より京城居留民が我が帝国臣民特有の表徴として皇祖天照皇太神奉斎の議を提唱し一時遥拝所を設け之を奉斎したりしが(…中略…)三十一年五月伊勢神宮へ民会代表者を出頭せしめ特別大麻並に御神宝の授与を受け(…中略…)御鎮座祭を行ひ初め南山大神宮と称し……。    (「京城神社御由緒記」)


彼らは伊勢両宮棟梁をやとい、伊勢の内宮正殿を縮小した「模型」としての神殿をつくらせ、それを、居留地背後の南山(ナムサン)北麓につくった彼らの公園のなかで組み立てた[図2]。もちろん、伊勢から拝受した大麻(ふだ)はこの神殿に安置された。一八九八(明治三一)年のことである。
これは特殊な事例ではなく、朝鮮半島の他の居留地でも、例外はあるがおおむね同様の主旨で神明造の小さな祠を建て、それを「神殿」と称し、そうした神社を「大神宮」と呼んだ。「大神宮」とは伊勢皇大神宮のことにほかならないから、彼らはその小祠をもって伊勢神宮の代替、複製、あるいは遥拝所と思って祀ったわけである★九。しかも、こうした動向は満州にも見られ、内地でも東北地方をはじめとする開拓地などに同様の大神宮がたくさん建てられた。普通、同郷集団が移住した場合、郷里の氏神が「勧請」されるが、居留地のような複合社会では、伊勢神宮が「氏神」の機能を担ったのである。逆に伊勢がそうした社会的位置づけを潜在的に持っていたことについては、幕末の狂ったような伊勢信仰の隆盛を少なくとも考慮に入れる必要があろう。ともあれ、新しいコミュニティが伊勢の皇大神宮を「勧請」し、社殿形式についてもそこに規範を求めて神明造の小祠を建てる、という作法そのものがきわめて広範に流通した〈言説〉だったのである。このほか、維新期には横浜・神戸など日本国内の居留地にも対外的な緊張のあらわれとして大神宮がつくられ、また神宮司庁(伊勢神宮)を中心とした人民教化の流れのなかでも全国各地に大神宮が設けられている。そして、「大神宮」は近世全般をみても全国各地に多数つくられている[図3]。

伊勢大神宮  同所四日市町にあり。この地の産土神とす。伊勢内外両皇大神宮を勧請し奉り、遥拝所とす。遷宮、伊勢と同年なり……。
(『江戸名所図会』)★一〇


この大神宮は一六世紀の成立らしいが、伊勢神宮を神明造の神殿に遷し祀り、あるいは遥拝するというこうした〈言説〉は、幕末維新にピークと変質があるらしいことには注意しなければならないとしても、きわめて長いタイムスパンと広い裾野を持つものであったと、まず大づかみに理解するべきことのように思われる。
ところで、伊東の神社建築史は、神明造や流造などのいわゆる本殿形式の分類としては、ほとんど現在の教科書も踏襲しているような一覧表=カタログブックをすでに提出していると言われる。これを、「過去を意識化して学問的な手続きのもとに解釈するという行為自体が、日本においては明治中期にはじまるものであり、優れて『近代的』な行為なのである」(藤岡洋保)という理解でまとめることもできる。ただ、伊東が近世の工匠のあいだに伝わるという「天地根元宮造」をとりあげているように、彼が、少なくとも基礎的知識として現在も流通する程度に妥当性をもった神社本殿の形式分類をはじめから示すことができたのは、すでにその下敷きとなるような流通可能なカタログブック、つまり近世の雛形書があったからだと考えるのもまた合理的であろう。そして、近世においても維新以後においても、神明造の「大神宮」の流通を支えたものこそ、おそらく雛形書、あるいは雛形的思考であったはずであり、どこにでもある流造や春日造の流通も同じであったろう。そもそも一九世紀西欧の折衷主義と、日本近世の雛形的建築理解とが同型であったという指摘もあるし★一一、他方、昭和に入っても『神社建築雛形』といった類の本は出ている。伊東の神社建築史は、西欧的建築概念に照射されてはじめて成立した日本建築像の一部であっただろうが、同時に、こうした太く長い時空のなかで成立したとも考えられるのである。こう考えるとき、具体的には伊東忠太に日本建築を教えた木子清敬(一八四四─一九〇七)の存在と、彼の〈言説〉が重要な意味を持ってくるが、この点については稲葉信子の優れた研究を踏まえて再考したい★一二。

1─宮崎神宮本殿・社殿全景 出典=『近代の神社景観』中央公論美術出版、1998

1─宮崎神宮本殿・社殿全景
出典=『近代の神社景観』中央公論美術出版、1998


2──ソウル南山の大神宮 朝鮮各地の大神宮社殿にも共通する典型的な事例と思われる。ただし写真は1913年改築時の神殿。 出典=『全国有名神社御写真帖』皇国敬神会、1922

2──ソウル南山の大神宮
朝鮮各地の大神宮社殿にも共通する典型的な事例と思われる。ただし写真は1913年改築時の神殿。
出典=『全国有名神社御写真帖』皇国敬神会、1922

3──新川の大神宮 『新訂江戸名所図絵』巻之一、ちくま学芸文庫、1996

3──新川の大神宮
『新訂江戸名所図絵』巻之一、ちくま学芸文庫、1996

神殿の時代

さて、いま見た大神宮を呼ぶのに「神社」という言葉はほとんど使われていない。伊勢皇大神宮の「分霊」を遷し祀る施設として、たいてい「神殿」と呼ばれた。視野をもう少し拡げてみても、一九世紀は「神殿」の時代であり、「神社」はいわば二〇世紀に形成された概念だという見方もありうるのではないかと思っている。
歴史学者の羽賀祥二は、一九世紀を指して「神殿と教化の時代」と言っている★一三。社会体制が崩壊・変動していくこの時代にあって、「皇国固有の神祇を祭祀する中央神殿」の構想と、人民教化の方策ならびに教化専門職(宣教使、教導職……)を育成する学校機関の構想とが、国学者、あるいは儒者、維新政府の首脳、官僚らによって提出され、部分的ながら実現されていくプロセスを、羽賀はおおむね一八〇〇年代の一世紀にわたる一連のものとみている。ここで注目したいのは、彼らの構想が、いかにも観念の水準と施設=制度の水準とを一挙に架橋したような、滑稽とも見えるような壮大さに特徴づけられ、しかもそれが比較的長いタイムスパンにわたって、打ち出されていることである。以下、羽賀にならっていくつかの例をとりあげ、その建築的イメージを見てみよう。
佐藤信淵(一七六九─一八五〇)は、国学者・平田篤胤(一七七六─一八四三)に師事した思想家、経世家、農政学者として知られる。篤胤への入門は四七歳のときで(師の平田は七歳年下の四〇歳)、まもなく五〇代になると信淵の執筆活動は極度に旺盛になる。文政期、すなわちおおむね一八二〇年代のことである。彼の著作には若い頃に修めた蘭学、儒学や、天文・地理・暦数・測量の知識、それ以外にも雑多な書物や人々の影響が混在している。実際、信淵は「剽窃家」とも評される。そのうち『混同秘策』で、信淵は次のような構想を素描している。

凡皇都を建る法は、皇城は中央にして、西に宗廟あり、東に大学校あり、北に教化台あり、南に神事台あり、又其南に太政台あり。(…中略…)凡宗廟は広大美麗を尽すも佳なり。中央には天之御中主神、其前後左右には高皇産霊・神皇産霊の二神、其前左右に伊邪那岐・伊邪那美の二神を安置し、其前面には風・火・土・水の四神及び豊受気毘売神を列し、其右に天照大御神、左には速須佐之男神を安置し、又其前面の中央に大国主命、右に少彦名命、左に事代主神を並べて安置し、神事大師毎日此を祭るべし。天子も時々参礼す。又此宗廟の内に先祖代々の霊神をも祭るべし。


おもむろに都市の配置を記す最初の部分などは、中国都城の制を記した『周礼』考工記の記述を想起させる感もあるが、その皇都の配置は神道的世界と人民教化の理念で埋め尽くされており、皇国の中央神殿たる「宗廟」は、幕末国学の神秩序の中軸にあった天之御中主神を中心に、神々を曼荼羅のごとくに並べた「広大美麗」な施設の構想であった。
神道家・梅辻規清は、「忠孝山」と呼ぶ施設の構想を示している。方一二〇間の平面に、高さ一丈の石垣を九段に積み上げるというもので、全高約二七メートルだからかなり扁平ではあるものの、ピラミッド状の姿である。頂部には八間四方の宮をつくり、西にニニギノミコト、その左右に開国草創の功労ある臣下たち、東に東照大権現、その左右に三河譜代の家臣の神々を祀る、また九段の築山にはそれぞれ天皇、大臣、諸侯、旗本……の霊神を祀るというのである。幕藩体制を神秩序として視覚化しようとしたものと言えようか。
平田派直系の国学者・矢野玄道(一八二三─八七)は、一八六七(慶応三)年一二月の王政復古の大号令を聞き、『献芹語』を著して維新政府への唯一のパイプであった岩倉具視に呈している。ここでも、中央神殿と大学校の構想がセットになっている。この中央神殿は「大宮」と呼ばれ、矢野が遷都反対論者であったこともあって、宮中ならびに京都東山に建設する計画である。大宮は三殿から成り、やはり天之御中主神を中心としてた神々の配置が示されている。この神殿での大祭には天皇が東京から行幸して親祭するとされており、こうした祭祀を一般庶民にも公開し、自ずから「忠孝」の観念を知らしめることが提案されている。
『献芹語』は、祭政一致国家の構想をまとめたもので、実際に維新政府に少なからぬ影響を与えたとされるが、西欧列強の外圧とキリスト教問題を背景とするこうした祭政一致構想の線で、やはりいくつかの神殿計画が描かれる。その例が井上章一の紹介している三島通庸(一八三五─八八)の黄金神殿の構想である★一四。旧薩摩藩士の三島は、酒田、山形、福島、栃木で県令を歴任して「土地県令」、「鬼県令」とあだ名され、のちには警視総監をつとめた人である。山形での、あの擬洋風建築を並べた県庁前の目抜き通りの建設で知られる。その三島は、県令に出る前の教部省時代に、「皇大神宮御遷幸建白」を提出している。一八七三(明治六)年のことだ。東京遷都に対応し、宗教体制の中心たる伊勢神宮の東京移転を建言したもので、文字通り、祭政一致構想の前提条件を確立するものと考えられていた。

……人口一人に付一円つつの寄付金を募り、凡そ三千五百万円の金を以て先つ一大仮山を皇城の側に築き、山上に純然たる黄金造りの神殿を建築し、此中に伊勢の大廟を奉し、以て国教を布くの本山となし、山下に諸宗の本山を集め仏教と耶蘇教とに論なく皆我国教を正則として之を奉するの誓を立てしめ……。


すでに信教の自由をどう処理するかという問題も考慮に入れられつつあることが見て取れるが、黄金神殿はともかく、伊勢神宮の東京遷座、いわゆる「神宮御動座」は維新初期には政府内部の構想でもあったのである。先に見た大神宮にせよ、この「御動座」問題にせよ、幕末維新期には伊勢神宮も神明造という様式も、決して不可侵の領域にあったのではなく、むしろ流通ないし交換可能な価値にほかならなかったのである。
そしてこうした神殿構想が繰り広げられるなかで、古代律令制、あるいは神武創業への復古(リバイバル)の方向性が模索され、一八六九(明治二)年には太政官・神祇官の二官制が成立、神祇官には規模は小さいものの実際に神殿がつくられる。この小さな中央神殿もやがて宮中祭祀のなかに回収されていくのだが[図4]。
以上のような神殿構想のメガロマニアが一九世紀の前半から維新初期にまで流れ込んでいるのはそれ自体興味深いが、そこに共通するピラミッドのような「山」と、同心円状の神秩序といったイメージが何に由来するものであるかについても興味をそそられる。もちろん、天皇親祭の模様を民衆に公開するといった提案からは、教化における「見せる」ことの持つ力への志向がうかがえるのは確かであり、それが高さの思想や神秩序の視覚的表象という発想につながっているとは言える。天皇も神々も隠されることで意味を持つのではなく、人々の目にさらされることで力を発揮すると考えられたのである。そして一方で、そこには平田派国学の展開のなかで、神・仏・儒のみならず、西欧の天文術などの知識が、学習と剽窃を重ねながら吸収され、なだれ込んでくることで形成された、複合的でパッチワーク的な知の体系を感じさせるものがある。また、「山」のイメージからは、仏教の宇宙論で世界の中心にそびえるという「須弥山」(インド宇宙論では「メール山」)を連想してしまうが、そういえば律令時代のメガロマニア・斉明天皇(五九四─六六一)も、その巨大造営趣味がこうじて須弥山の築造を命じたことがあったという。
伊東忠太の神社建築の設計思想をリバイバリズムとすることはできる。しかし、それが以上のような壮大な復古的構想の後に現われたものだということを、どう考えればよいのだろうか。

4──宮中三殿 出典=左:村上重良『国家神道』、右:『神道大事典』平凡社、1937

4──宮中三殿
出典=左:村上重良『国家神道』、右:『神道大事典』平凡社、1937


5──制限図および制限図適用。例左は制限図中の中門を示す。 出典=藤原惠洋「明治期制限図の制定経緯と意匠規制に関する考察」『デザイン学研究』91号、1992

5──制限図および制限図適用。例左は制限図中の中門を示す。
出典=藤原惠洋「明治期制限図の制定経緯と意匠規制に関する考察」『デザイン学研究』91号、1992

神殿から神社へ

一方、幕末には尊皇攘夷思想の高まりと関係して、国事殉難者の忠霊を祀る招魂祭と、南朝方の忠臣である楠正成の霊を祀る「楠公祭」が流行している。これらを基盤として、維新後に成立したのが靖国神社であり、湊川神社であった★一五。靖国神社は、一八七九(明治一二)年に、母体である東京招魂社が全国の招魂場・招魂社を統合するセンターに転化することで成立する。神話上の神でも、天皇や皇族でもない人間が均質に神として祀られる施設である。一八七二(明治五)年竣工の神殿は、当時実現した神社としては巨大なものであり、やはり神明造を下敷きとするいくぶん異様なデザインである。一方、やはり天皇でも皇族でもなく、臣下の者を祀る施設として湊川神社がいち早く一八七二(明治五)年に完成すると、これに続いて全国的に尊皇の忠臣を奉斎する神社の創建建議が相次ぎ、身分制解体後の地方の社会秩序の核としての機能を担いつつ、次々に実現していく。
なお、維新後に定められた社格という制度は、国家による神社の格付けであり、それにより祭祀上、財政上の待遇が差別化され、また管轄も異なったのだが、この社格もやはり律令時代のリバイバルであった。しかし、幕末からの招魂という問題がそのまま明治政府にとっても国家的に取り扱うべきものとして認識されることになったとき、尊皇の志士たちや戦没者、中世の臣下といった者を祀る神社に与えるべき社格はなかったため、リバイバルの枠外に「別格官幣社」という新しい社格が創出される。湊川神社以下の全国の忠臣奉斎神社ならびに靖国神社には、この社格が与えられたのである。これら別格官幣社の成立は一八九〇(明治二三)年までにあらかた済んでしまい、これ以後はほとんど見られなくなる。維新から明治二〇年代にはまた、それまで祭祀が不十分であったとみなされた天皇・皇族の奉斎神社も次々にかたちを整えている。それらは、従来の墓地や御影堂、あるいはたんに没地にすぎなかった場所が、神社として市民に開かれたパブリックな施設へと変貌していくプロセスでもあった。「死の顕彰」という〈言説〉が復古的な社格という〈言説〉により秩序づけられ、国家的にも認定された地域の歴史的・文化的拠点がつくられていったのである。
この維新から明治二〇年代の時期には、靖国神社をのぞく多くの神社で、一八七二(明治五)年頃に政府で定められた標準設計(「制限図」)が採用され
た[図5]。かつて角南隆も指摘したことがあるように、これは各社殿の意匠とその配置も定めたものだが、京都など近畿を中心に多く見られる近世の社殿・境内の一類型に似ている。藤原惠洋によれば、この標準設計は写本のかたちで伝えられたようであり★一六、また社務所、神饌所など個別の社殿の建て替えだけに適用された事例もあるから、やはり雛形的理解のもとで意外に広く流通したらしいことが想像される。
伊東忠太が一九〇〇(明治三三)年の最初の神社建築史で、「所謂神社とは、我国の祖先及歴代の天皇、皇族、臣下の特に功績あり紀念すべき事蹟ある場所」のことであると述べたのは、維新後現実に建てられてきたこれらの神社にほかならない。また、そこでは制限図という標準設計が広く雛形的に流布していたがゆえに、伊東は自らの折衷主義的方法が独自の優位性を打ち出せると考えたに違いない。
幕末維新期から明治二〇年代は、いわば観念的、形而上学的な傾きを持った神々の中央神殿構想がいまだ熱心に議論されているあいだに、それが天皇・皇族─国民という国民国家の社会構成に沿って置き換えられていく過程であり、壮大な復古主義がまだ少なくとも主観的なリアリティを失わないあいだに、現実の近世社殿の一類型をとった形式が雛形として現実の創建神社に実現されていく過程であったと捉えられる。伊東忠太はそうした時空のなかに登場する。忠太は、雛形的思考にも通じる一九世紀西欧的折衷主義によって、後者の方向を修正的に引き継いでいく役割を担ったとも言えるし、一九世紀日本の国学を中心とする半ば剽窃混じりの壮大な復古思想を、かたちを変えて継承していくような位置にいたとも言えるのである★一七。

「清浄」と近代

坪内祐三の『靖国』(新潮社、一九九九)は、維新期の神社境内の遊興の場としてのあり方をうまく描き出している[図6]。そこには、古めかしく、しかも新しいような事物と出来事に満ちた不思議な時空のありようが示されている。同書のなかでとくに注目したいのは、木下直之の『美術という見世物』の案内役でもある高橋由一と、先にふれた東京招魂社(靖国神社)の境内とのかかわりである。招魂社境内は、よく知られた由一の「展画館」構想の敷地であったが、彼はまた別の試案として次のように書き残しているという。

……東京第一の盛り場となしたきもの也 其仕方人を集むるの法より外無し 因て我好める額堂の事を願うも又繁華を祈るのひとつ也 是も最初は案外の大建築なれ共 段々に開らくれは見事なる大額の画三百枚も掲たならは能き見物也迚 遠近の人かあつまる 扨其やうになれは花より団子の譬にて 茶見世もうれる酒屋料理屋も人か絶へす(…中略…)霊場には必ず付属の遊興場あるへし 元より神前へぬかつくには 人々平生の苦情積欝を散し精神を清くすへき筈にして 冀は神社めくりは繁華なるに如くなかるへし


由一は「霊場」と「遊興場」とを親和性のあるものと見ている。近世の社寺境内が賑わいのある遊興の場であったことはよく知られるとおりだ。国学者や政府首脳・官僚らの構想もそうだが、現にある境内という場所の使い方を考える人々の方にも、当然ながら「以前と以後」が未分化な時制のあり方が見て取れるのである。
『近代天皇制の文化史的研究』(校倉書房、一九九七)の著者として知られる歴史家・高木博志は、近代の神社境内について、試論という保留付きながら、思い切って大胆なパースペクティヴを描いて見せている。高木はまず、次のように近世と近代の「神社の空間」を対比する。

……概して、前近代の神社の空間は、仏教や土俗的宗教が混在し、芸能者や賎民もつどう、もっとも活気があり「猥雑」なものであった。
これに対し、樹種が厳選され、玉砂利がしかれ、水で清められ、神経症的に潔癖な神苑の空間は、近代の属性である★一八。


高木が注目する一八八六─八九(明治一九─二二)年の伊勢両宮の神苑整備
は[図7]、皇族・政府高官・財界要人を擁して発足した伊勢神宮の神苑会が、民家や茶店が宮域近くまで接近してきていた状況を「不潔」、「火災」の危険などの点で問題視し、これらを取り除いて「清浄なる園囿」をつくり出そうとしたものであった。高木は、この伊勢両宮の神苑を、右の対比で捉えられるような「清浄」な近代的境内空間のモデルと捉える。そして、この「伊勢神宮にはじまった近代の神苑=天皇制の清浄な空間」がまず第一波として熱田神宮、橿原神宮に影響を与え、さらに大正期の明治神宮造営の内宮造営などを契機として全国の村々の神社にまで広まっていった、と高木は考える。僕たちの神社観のある面が、明治二〇年代に端緒を持つものにすぎないという、「風景の発見」的問題設定にほかならない。
高木が伊勢や橿原の明治期神苑について「清浄」という属性を強調するのは、主に民家や集落の撤去が「穢」の排除にほかならなかったとの理解に基づいている。では、実際につくられた神苑の様相はどうだったか。
高木自身が説明してもいるように、伊勢の神苑整備では桜・楓・躑躅・梅・椿・山吹・南天などの華やかな花樹が区画されながら植えられ、常緑の杉並木に入る手前の空間をいろどることになったほか、内宮・外宮とも神苑のなかにはいくつもの「名勝」がつくられた★一九。すなわち「菅玉ノ井」「勾玉池」「金環逕」「御蓋ノ亭」「床几」などなどである。「御蓋ノ亭」は神宮の神宝である「紫ノ御蓋」の形状を「模擬」したものであり、その他も同様の見立てが行なわれていた。「清浄なる園囿」という言葉の下で描かれたイメージは、見立てによる「名勝」のパッチワークだったのである。
この神苑の「意匠考案」をまかされたのは小澤圭次郎という「園芸家」で、彼は「園治」や「樹芸」を業とする傍ら、「成島柳北ノ門ニ遊ビ詩及書ヲ能ク」したという。成島柳北(一八三七─八四)は『柳橋新誌』の著者で、『朝野新聞』の社長であり明治初期言論界の人物として知られるが、かつては幕臣の儒者であり、英語を学んで外国奉行をつとめるなどの経歴を持つ。おそらく「園芸家」の小澤にも進取の気質がありその作庭もまったくの旧套というわけではなかったろう。彼は実際、自らの作庭について説明する際、「今世風俗ノ風流ヲ踏襲」することの否を主張してもいる。同じ文章から、小澤が西欧の庭園を意識していたであろうことも察せられる。その結果が、右のような「名勝」のパッチワークであった。それは、どこかで高橋由一の見た神社境内のイメージと通じてはいないだろうか。

6──「東京名所  招魂社馬かけ」 出典=坪内祐三『靖国』新潮社、1999

6──「東京名所  招魂社馬かけ」
出典=坪内祐三『靖国』新潮社、1999

7──伊勢神苑会による外宮神苑計画図 出典=『神苑会史料』神苑会清算人事務所、1911

7──伊勢神苑会による外宮神苑計画図
出典=『神苑会史料』神苑会清算人事務所、1911

名勝・神苑・作庭

しかしたしかに、幕末維新期の社寺境内はきわめて大きな改変の波にさらされた。なかでも神仏分離と社寺領上知は、いまだ総合的かつ詳細な検討はなされていないものの、社寺境内の環境に甚大なインパクトを与えており、この時点での境内地の再編成が、近代における社寺の空間の史的前提をつくったと言っても過言ではない。にもかかわらず、由一のいう「霊場」と「遊興場」の結びつきはむしろ強い持続性を見せる。
神仏分離(慶応四=一八六八年─)は、神・仏の習合を解除することとイメージしがちだが、ほとんど社寺の区別が無意味であるような近世社寺の状況を前提とすれば、むしろ神社と寺院の区別を創出することにほかならなかった。しかし、その根は近世にあり、一部の藩では幕末に実行の経験があった。一方、このときの境内の物的環境の再編成と、近世からの神社/寺院を区別する〈言説〉が、直接、間接に伊東忠太以降の建築史学の前提条件になっていることは否定できないであろう。
一方の社寺領上知(明治四=一八七一年─)は、版籍奉還を契機として、封建的な土地支配体制下にあった社寺領を官有地として没収する施策であったが、最終的には祭典・法要のために必要な地所を「境内」として再定義し、それ以外を没収するという「引き裂き」も行なわれた。官有地と私有地(神社有地)の区別を確定するこの施策は、まぎれもなく維新政府の土地政策、租税政策の基盤をつくり出すための必須の事業であったし、この意味で、近代社寺の「境内」概念は、神道家でも国学者でもなく、また造園家でも建築家でもなく、まず何よりも地租改正という土地政策の〈言説〉に規定されて出発しているのである。神仏の分離も、現実には土地所属の区分の問題にもなり、無数の訴訟・紛争を引き起こしている。
面白いのは、この神仏分離や社寺領上知など維新初期の施策が引き起こした混乱や土地の荒廃を抑制し、収拾するための方途として打ち出されたのが、日本の公園のはじまりである一八七三(明治六)年の太政官布達だったという指摘があることだ★二〇。同布告は、「人民輻湊ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群衆遊覧ノ場所」を公園指定の対象としており、例として社寺境内をあげている。つまり、こうした土地に「公園」という外来語の地目をかぶせることにより、従前の名勝、あるいは遊興の空間を新しい土地制度の下で追認しながら保護・整備を促し、またそれに依存する社寺や地方住民の経済活動を維持せしめたというわけである。上野公園(寛永寺境内)や深川公園(富岡八幡宮)、あるいは奈良公園(興福寺=春日大社)、円山公園(八坂神社、安養寺等)などがその例であるが、こうして、「公園」という外来語に、少なくともその初発においては近世の景勝地、賑わいのある遊興の場といった中身が充填されることになり、逆に、社寺境内の方も景勝地、遊興場の性格を持続させることになった。ちなみに、先に見た招魂社や忠臣奉斎神社は、近世城郭を基盤とする公園の中に建てられるケースが少なくない。羽賀祥二も指摘するように、こうした場所に、地域の過去と未来を結ぶ郷土史の〈言説〉がつむがれていくことになる。
また一方で、同様に維新期の混乱で荒廃した境内地の「回復」という目的から、明治二〇年代以降全国の多くの神社で「神苑」が整備される★二一。神社に付属して様々な工夫を凝らした回遊式の庭園がつくられ、梅・桜・楓・萩などの花樹が植えられ、参道や並木の整備がなされる[図8]。こうした公園や神苑の設計・施工を担ったのは、先の小澤のような「園芸家」らであったはずで、「植治」の名で知られる京都の七代目小川治兵衛(一八六〇─一九三五)もこうした場面で活躍している。植治は伊東忠太の設計した平安神宮の神苑の作庭を、昭和初期まで約三〇年の長きにわたって担当した★二二。先述の伊勢の神苑整備が影響を与えたのは、実はこうした神苑という名の「作庭」に対してである。また、それはすでに全国的な影響であったとみられ、しかも、植治がそうであったように、そこにはすでに西欧の庭園意匠や技術も相当採り入れられていたはずである。
以上のように、明治期においては名勝・遊興の場─公園─神苑─作庭といったものがとても近い関係にあって、ある種の〈言説〉の系をなしていたと見られる。ちなみに、大正後期から昭和期にかけて、林学者・造園家・建築家によって境内ランドスケープの設計方法が確立されていく過程は、神社の境内から名勝的、遊興場的、公園的なものを排除していく〈言説〉の形成と平行しており、そこには社会思想やアーバニズムの問題が介在したのではないかと僕は考えている。そこに、先に角南隆の言説に見たような透明な空間概念に基づく社殿建築と境内ランドスケープの設計方法も形を整えていく。それは、少なくとも雛形的思考や名勝のパッチワークといったものをカッコに入れなければ成立しえないような性質のものであった。

8──神苑の例 京都嵐山の松尾大社の神苑=作庭。神苑整備は明治以後くり返されている。右は戦後1971年竣工の神苑で、作庭は重森美玲。左はそれ以前の状態(明治期神苑の様子を伝えるものと見られる)。 出典=『松尾大社造園誌』同社務所、1975

8──神苑の例
京都嵐山の松尾大社の神苑=作庭。神苑整備は明治以後くり返されている。右は戦後1971年竣工の神苑で、作庭は重森美玲。左はそれ以前の状態(明治期神苑の様子を伝えるものと見られる)。
出典=『松尾大社造園誌』同社務所、1975

おわりに

以上、幕末維新期の神社をめぐる広い意味での〈言説〉を、なるべく建築や環境の問題に関係する範囲で紹介し、僕なりの脈絡をつけてみた。まだまだ描き足りない部分、あるいは短絡的にすぎる部分が多いはずだが、現段階のスケッチとしてはいちおうここまでとしたい。しかし、少しずつ異なる太さや長さを持つ様々な〈言説〉が、様々な条件の下で様々な回路をたどり、幕末から明治へと流れ込んでいることは、当たり前の話だがたしかであり、神社をめぐっては以上のような〈言説〉群をさしあたり想定することができると思う。伊東忠太以後の世界も、そこに何らかのかたちで接続している。こうした〈言説〉の複層性をどう記述していくかという主題は、最初にも言ったように、近世/近代に限られた問題ではない。しかも、むしろ僕たちの〈現在〉の厚みにもかかわっている。
「風景の発見」的問題設定からする〈言説〉批判が、いつしか「発見」以後の秩序を言い当てるための方法になってしまっているとしたら、それに照らした人の営みの評価は、その秩序に縛られた不自由さか、あるいはそれを抜け出ようとすることの幻想をあげつらうことにしかならないだろう。「言説としての日本近代建築」は僕たちがつくり出すものであって、過去の虚構ではない。本稿に記したいくつかの主題は、今後記述を蓄積していくべき問題群をなすものと考えている。

註 
★一──『日本近代文学の起源』に所収の「風景の発見」は、『季刊芸術』での初出が一九七八年であった。アンダーソンの『想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(リブロポート、一九八七)、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社、一九八六)の原著は、それぞれ一九八三年、一九七八年である。三著を並べるのは妥当ではないかもしれないが、これらの著作が近年の近代史研究に与えた影響は大きい。
★二──拙稿「伊東忠太再考──二つの「世界建築史」をめぐって」(『建築思潮』03、学芸出版社、一九九五)など。
★三──渡辺保忠『伊勢と出雲』(平凡社、一九六四)、あるいは磯崎新「イセ─始源のもどき」(『始源のもどき』鹿島出版会、一九九六)を参照。念のため付言すれば、柄谷行人も、文学にせよ絵画にせよ、明治二〇年代前後の「「風景」の発見」がすべてではなく、実際には「転倒が累積され」てきた、ということの指摘を忘れていない。
★四──丸山茂「伊東忠太と神社建築──明治以降の神社建築に見る国民様式の興亡」(初出=一九七九、『日本の建築と思想──伊東忠太小論』同文書院、一九九六所収)。
★五──藤原惠洋「創建神社の意匠特性と復古主義的意匠の創出に関する考察」(『デザイン学研究』九一号、日本デザイン学会、一九九二)など。
★六──藤岡洋保「内務省神社局・神祇院時代の神社建築」(『近代の神社景観』、中央公論美術出版、一九九八所収)。
★七──『建築雑誌』(一六九・一七〇・一七四号、日本建築学会、一九〇一)。
★八──神道攷究会編『神道講座』第一巻(一九二九)。
★九──拙稿「朝鮮の居留民奉斎神社と朝鮮総督府の神社政策──〈勝地〉としての神社境内の形成およびその変容と持続」(『朝鮮学報』第一七二輯、朝鮮学会、一九九九年七月)。
★一〇──ここでは『新訂江戸名所図会』巻之一(ちくま学芸文庫、一九九六、一八三頁)による。
★一一──中谷礼仁「ひながた主義との格闘」(『日本建築様式史』の第八章「近代」、美術出版社、一九九九、一三一頁)。
★一二──稲葉信子「木子清敬の帝国大学(東京帝国大学)における日本建築学授業について」(計画系論文報告集第三七四号、日本建築学会、一九八七)。
★一三──羽賀祥二『明治維新と宗教』序章(筑摩書房、一九九四)。以下に記す幕末維新期の神殿構想については、いずれも羽賀が言及しているので典拠は同書を参照。
★一四──井上章一「三島通庸と国家の造形──象徴としての都市と建築」、飛鳥井雅道編『国民文化の形成』(筑摩書房、一九八四)。
★一五──小林健三・照沼好文『招魂社成立史の研究』(錦正社、一九六九)など。
★一六──藤原惠洋「明治期制限図の制定経緯と意匠規制に関する考察」(『デザイン学研究』九一号、日本デザイン学会、一九九二)。
★一七──忠太は建築進化論の立場から制限図の一律の採用を批判したが、一方でその社殿配置形式については無関心で、「進化」のウェイトは本殿を中心とする社殿の意匠にあった。この意味では忠太もやはり雛形的思考の延長上にあった。拙稿「角南隆──技術官僚の神域:機能主義・地域主義と〈国魂神〉」(『建築文化』二〇〇〇年一月号、彰国社)を参照。また、昭和初期に書かれる多くの神社建築論とは異なり、伊東忠太は神社建築の起源を「天地根元宮造」を経由して南方の住居、つまり海外に求めている。「法隆寺建築論」は、法隆寺の「日本建築」としての存立根拠を外部によって充填しているが、そうした思考パターンは神社も例外ではなかった。
★一八──高木博志「近代神苑試論──伊勢神宮から橿原神宮へ」(『歴史評論』一九九八年一月号、校倉書房)。
★一九──伊勢の神苑造成の詳細は『神苑会史料』(神苑会清算人事務所、一九一一)による。
★二〇──丸山宏『近代日本公園史の研究』(思文閣出版、一九九四)など。
★二一──中島節子「近代京都における「神苑」の創出」(日本建築学会計画系論文集第四九三号、一九九七年三月)を参照。
★二二──『平安神宮百年史』(平安神宮、一九九七、三七七頁─)。

>青井哲人(アオイ・アキヒト)

1970年生
明治大学准教授。建築史・都市史。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>藤岡洋保(フジオカ・ヒロヤス)

1949年 -
日本近代建築史研究。東京工業大学大学院教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。