RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.20>ARTICLE

>
様式がはがれ落ちる時、あるいは構造合理主義という形而上学 | 八束はじめ
When Style Comes Off, or the Metaphysics of Structural Rationalism | Yatsuka Hajime
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.99-106

明治建築史を語る際に必ず言及されないではおかないほどに良く知られたイヴェントに建築学会でのシンポジウム「我国将来の建築様式を如何にすべきや」、いわゆる「様式論争」があるが、この背後には、日露戦争後のナショナリズムの高揚があることは言うを俟たない。ナショナル・スタイルの希求は、「洋才」を追及したとしても「和魂」を保持しようとした明治期を通して一貫して流れていたはずだが、そこにも時に応じて波がある。この時期はその高波のひとつである。それは直接の契機となったと考えられる議院建築問題という具体的なアジェンダを与えられて盛り上がらないはずはないものだった。そこには「日本趣味」(佐野利器の発言中に出てくることば)を問うというプロブレマティックが最初からあった。この論争で発表されたいくつかの見解のうちで横河民輔の見解は興味深い。つまり横河は「我国将来の建築様式をどうにかしなければならぬと云ふことには強い理由が無ければならぬと私は思ふ。所が様式と云ふやうな種類のものは是非どうなければならぬと云ふ理屈は無いものと私は信じて居る」と言うのだが、これは当然「日本には日本の〈スタイル〉が無ければならぬと云ふことを私は認めないのであります」という発言につながっていく★一。ここには、明治以降の国民国家の形成に平行する国民様式の問題だけでなく、そのもとにある様式自体のレゾン・デートルに関する認識が見られる。国民様式の問題の前面への登場は様式概念の強化に結び付くものでは必ずしもない。むしろその解体へのベクトルすらはらんでいたと見るべきである。一般に様式主義の解体は、いわゆるモダニズムの登場によって果たされると理解されがちである。様式的な思考とは別の、合理主義的な思考によって前者が駆逐されるというのがその見方である。しかし果たしてそうか?
『日本の近代建築』の中で、稲垣栄三は、二〇世紀のごく初期の日本建築界で様式模倣と構造技術の刷新が同時平行的に行なわれたと記述している★二。稲垣の記述をフォローしておくと、一八九一(明治二四)年の濃尾地震以来従来の外国からの構法の直輸入への反省が行なわれ、煉瓦造のもろさを克服すべく、鉄材(鉄筋、鉄骨)による補強に基づいた鉄骨煉瓦造などが工夫されたが、とりわけ効果的と考えられたのが鉄筋コンクリート造だった。欧米ではすでにそのような構造は採用されていたといっても一八九〇年頃から徐々にという具合だから、日本に大きく先行していたわけでもなく、RCの構造基準を定める条例がつくられるのは二〇世紀に入ってからにすぎない。一九〇六(明治三九)年のサンフランシスコ大地震視察でその耐震構造としての優秀さを確認したのが佐野利器である。この視察前後の研究で補強式鉄骨造よりも架構式構造が優るという説が主流となり、その実際の建物への応用は日露戦争後(つまりほぼ前記の視察と同じ時期)に現わわれ始め、明治末には本格化した。それはまた様々な様式が移入された時期でもあり、「これがアーキテクトとエンジニアによる別個の導入過程ではなく、一人の建築家の活動の二つの側面であったという点で、日本独自の建築家のあり方を、ある意味で方向づけたことになる」と稲垣は述べる。意匠と構造、様式と技術が無関係であるからこそ同時に推進されたのであって、これは決してのちに近代建築が獲得するにいたった合目的性ではない、鉄骨造やRCの導入が旧様式の打破にはならない、と稲垣はこの時代の「技術主義」の限界を批判する。稲垣が「アーキテクトとエンジニアによる別個の導入過程ではなく、一人の建築家の活動の二つの側面」と述べている時、具体的に念頭にあったのは、例えば佐野に先駆けて一九〇三(明治三六)年から東京大学で鉄骨造を講義した上記の横河のような建築家だったと想像ができる。
稲垣の指摘は確かに重要な指摘ではあるが、のちの「近代建築が獲得するにいたった合目的性」からの、つまり後世から歴史を俯瞰する歴史家の超越的な視点からの逆読みとなっていることも否定しがたい。それからすれば、合理(ここでは構造的観点から言う)と機能(ここでは計画的な観点から言う)と表現は隙間なく一致しなくてはならない。しかし、「のち」の近代建築が獲得したもの(それをひとまずは問わないとして)をそれ以前の日本の建築が獲得していたはずはもちろんない。一般に日本の建築史家は(本当は建築に限らないけれども)日本の特殊事情ということを強調しがちである。それはある意味では「我国将来の建築様式を如何にすべきや」という設問の中に暗に現前している「日本には日本の〈スタイル〉が無ければならぬと云ふ」前提が形を変えたプロブレマティックなのだが、それでは、同時期のヨーロッパではどうだったのか?
この点で興味深い示唆を与えるのはレイナー・バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』である★三。バンハムは通常二〇世紀モダニズム(稲垣の言う「のちの近代建築」)には、それが反発のターゲットとしたはずのエコール・デ・ボザールの影響が大きかったことを述べているのだが、稲垣でも採用されている意匠と構造、様式と技術というディコトミーに関して、彼はまずジュリアン・ガデを取り上げる。ガデは建築の要素から出発してそれが全体に組み立てられていく「構成」論を行なった人物である(要するに「構成要素の集積としての建築」)。ここで面白いのはガデがそこに採用されるべき様式には関心を示していないということである。そこでは様式は「カタログ化された」もの(イギリスのリサビーの言い方)を身にまとうだけで良く、その選択は構成原理を講義するガデの関心事ではなく、個々の実践における建築家の選択に任されることになる。彼の『建築の要素と理論』は一九〇二年の出版だから、上記の稲垣の記述の対象とされた時期にほぼ一致している。因みにこの当時のフランス留学組というと中村順平であり、中村はガデの本の一章を翻訳しているが(もうひとりの様式論争の参加者であった長野宇平治も別な章を翻訳している)、バンハムに言わせれば「この書物の直接的な影響は、いつもわずかなものであった」というから、いわんや日本において直接その影響があったとも思えない。長野が訳したのは職能に関する部分(村松貞次郎の『日本建築家山脈』に述べられている日本建築士会の設立に関する仕事であろう)だったというから、バンハムの示唆のもとにここで我々が述べようとしている一種革命的な意義とは重なっていないが、これ(これも後知恵的な超越論には違いないが)については、おそらくガデ自身もさして自覚的ではなかったのではないか?
ガデ自身のことばによれば、「われわれのプログラムの形式は散文的であり、それ以外のものではあり得ない。詩を加えるのはあなたがた次第である」★四というわけだが(「形式」は「構成」のことであり、「あなたがた」は個々の建築家を指す)、これはボザール=様式主義という安易な俗論を咎める言説である。このような状況に関しては、一九世紀後半における技術教育と芸術教育の関係についての、例えばヴィオレ=ル=デュク派による技術(あるいは構造)合理主義を中心とする改革とそれに対する反発の挙句、アカデミーが最後の手段としてすべての様式的議論を避けるようになったというベネヴォロの説明がある★五。それは結局アカデミーの蓄積してきた全文化的遺産の崩壊を招いたというのがベネヴォロの総括で、彼はガデをこの最後の場面の代表者としているが、ガデに関しては、単に様式論を避けたというのではなく、それを一義的な議論ではないとする論理構造が出現していたということが重要である。つまり、様式を「カタログ化された」上部構造とし、その下部により基本的な枠組みが設定されているということ、それに対して様式は殆ど透明化されている(でなければ取り替え可能なパラダイムとはならない)ということなのだ。これはかつての様式が建築全体(の構成)を抜き難く決定していたのとは大きな違いである。かくて、『建築の要素と理論』は基本的な「要素」、つまり部屋や玄関や出口や階段など既知の要素(=構造的、機能的な部分的な空間のタイポロジー)とそれに対する膨大なカタログ(建築学大系的なデータ=実例)の集積となる。この様式への無関心はボザールの一般イメージにあるファサーディズムとは正反対の立面への無関心につながり、ガデ派のフェランなどは平面があれば立面は不用であるとまで極論する。
バンハムはこのガデのシステム論がある種の抽象性──これは私のことばでは透明性と言うことと等しい──を帯びていることを指摘しながら、この議論を同じボザールの絵画論であるシャルル・ブランの「デッサン技法の文法」(一八六七)と比較している。バンハムによれば、ブランには主題よりも技法という考えがある。つまり画題(何が描かれているか)よりもどのように描くかのほうに関心の比重があるというのだ。ブランの「構図」重視はガデの「構成」重視とパラレルであり、それは抽象美術への道に通じるというのがバンハムの総括である。ブランの議論も結局、画に主題よりも根底的な地平があるということであり、この両論は確かに目に見えるもの(様式や主題)よりも重要な絵画なり建築なりを成立させるものへのまなざしに誘導されている。冒頭に挙げた「我国将来の建築様式を如何にすべきや」での発言にもあらわれているように、横河民輔もまたファサーディズム、引いては様式そのものには関心のない建築家だった。鉄骨造やRC造を率先して導入したことといい、施工業の体質改善に尽力したことといい、横河は佐野に先駆けているが、自分の設計事務所をもっていたわけではない佐野と違って、横河は横河工務所という実施組織をもっていた。しかし、横河自身の関心がむしろ平面計画や構造形式に向けられていたのに対して、意匠は松井貴太郎や中村伝治のような主任デザイナーに任されていた。稲垣の言う「一人の建築家の活動の二つの側面」は事務所内で分担されていたことになる。ガデ風にいえば「詩を加えるのはあなたがた次第である」とでもいうことだろうか? だから、横河の様式への無関心とは、横河工務所の建てた建物が無様式であったということではない。採用された様式は工務所内のデザイナーたちがそれなりの理由で選んだものだが、所長たる横河にとってそれが主たる関心事ではもはやないと言っているにすぎない(これは構造家としての佐野の場合も同じである)。実際、自身では卒業後は一度も図面を引かなかったという横河は、やがて横河橋梁、横河電気などの事業を起こす実業家となっていく。
ところで、ガデが平面の構成(いわゆる平面計画とは重なるが同じではない)を主軸にしていたのに比べて、横河やその後の佐野における関心の中心は構造形式である。問題のあり所が違うと見えるかもしれない。しかし、この点でもバンハムが参照できる。彼が『第一機械時代の理論とデザイン』で取り上げている一九世紀のもうひとつの重要な貢献は構造合理主義である。彼が引き合いに出すのは技師としての教育も受けた歴史家オーギュスト・ショワジーだが、一般的な合理主義的関心とは別に、我々の文脈で興味を引かれるのは、バンハムが「奇妙な点」と呼ぶ事柄、つまりある材料のフォルムとメソッドを他の材料のそれと比べることへのショワジーの関心である。合理主義的な考え方によれば、例えば木の構造(構築物)と石のそれとでは別のものでなくてはならない。しかし、ショワジーはドリス式の構造をプレドーリックとでも呼ぶべき木造の形式から石への転換とする従来の新古典主義的な仮説を転倒させる。問題はプレドーリックは実際の遺構が発見されているわけではない(ドキュメントも)ということにある。日本で言えばずっと新しい寝殿造もそうであり、古い「原初の家」のモデルであれば「天地根元宮造」などもそうだが、そうしたものに関する理論はある部分から先は解釈学的推論とならざるを得ない。ショワジーはギリシャの木工法は今日のものとは全然違い、単なる積み上げであり、切石ならぬ切木(?)材による石造風建築だったという。つまり日本の木造建築のように複雑な仕口をもつ架構式構造ではなかったというのだ(因みにショワジーが例に出すのは日本でなくインドである。ファーガソンの仕事などの資料があったからだろうか? しかし、校倉造に代表されるように、日本でも木造の「壁」=非架構式構造はある)。ドリスはそれを石材に置き換えたのだということになる。石造ならこのようないき方しか可能ではない。本来の場所に落ち着いたとも言い得る。
ここまでの指摘ならば我々の文脈とは別の歴史的考察なのだが、この、彼の言い方では「置換」の、最たる例としてバンハムが挙げているのが(つまりショワジーの合理主義の奇妙な部分から派生したものということになるが)、オーギュスト・ペレーによる木の骨組み技術のRCへの置換である。このRCの架構式構造(ラーメン構造)をバンハムはやはり奇妙だというのだ。確かに、RCは木とも石とも違って本来の形も大きさももたないし、最も大きな特徴として継ぎ目をもたない一体構造である。そこから木のように架構式にするとか、石(や煉瓦)のように組積式にするとかという「合理的な」方式を導き出すことは出来ない。木のようなラーメン構造とは確かに「奇妙」な「置換」である。それ以外にも、ペレーは有名なフランクリン街のアパート(一九〇三年、『建築の要素と理論』の刊行の翌年竣工)では、RCの架構を外に示しはしたもののその表面に石を貼っている。これによってRCの一体性は表現されず、切石の単位を積み上げているような表情になった。つまり石のようにも見えるラーメン構造なのだ。三年後のポンティユー街のガレージの架構が継ぎ目のないペンキないしスタッコ塗であるのと比べると、明らかにブルジョア・アパートの保守的な「品位」を求めたためである(それはやがて清算される)。いずれにしてもRCラーメン構造とはロジカルには不思議な形式である。
しかし、それは日本においてたちまちのうちにほぼ自明なものとして定着してしまう。サンフランシスコ大地震というきっかけがあったにせよ、それが奇妙な(あるいはそれ故に革新的な)翻案であるという問題意識はあっさりとパスされている。コンクリート=人工の石という感覚からすれば壁構造でも良かったはずだが、あるいは、すでに耐震のための見直しの際の煉瓦から木造への再評価がその鉄骨による補強に発展し、横河工務所による三井本館(一九〇二年、つまりペレーのフランクリン街の前年の竣工)のような煉瓦の壁構造と鉄骨ラーメンの並立などを経て、ということは材料の如何を問わない架構式構造の主流化の上に、RCラーメン構造の普及があった。鉄骨の補強をされても煉瓦造ではあまり高いものを建てるには耐震上の不安が残っていたのに対して、鉄骨造による六階建ての三井貸事務所(設計横河工務所、一九一二=大正元年)と並んで、RCの導入によっても四階建ての三井物産横浜支店(設計遠藤於莵、一九一一=明治四四年)をはじめとする中層の建物が建てられるようになったのである。

RCラーメン構造とはそれ自体、上に述べたようなロジカルなアンビバレンスを含んだ仮説である。仮説と言ったのは、それが非耐力壁と耐力壁及び軸組の区別の上になされた計算=分析体系でしかないからだ。このうちで耐力壁はラーメン構造という概念を不純化させる。地震や風の水平力への負担という実践的な部分がなければ消去されたほうが形式としてはすっきりとする。つまり理念的には軸組対非耐力壁(=インフィル)という構図である。ヨーロッパの文脈でこの対立を意識的に定式化した最初のひとりはゴットフリート・ゼンパーで、彼はロージェ以来の架構から建築の主要原理を抽出するプリミティブ・ハットの理論に対して、この架構に被される覆い(Bekleidung)に注目した★六。カーテンウォールの遠い理論的先例と見做す説もある。この点でもバンハムが面白い論考を提供している。
一九世紀のゴシック派の構造合理主義者にとってはゴシックは最もその合理主義が貫徹したシステムのはずだった。ゴシック・ヴォールトがリブの骨組によって支えられた軽量パネル構造になっている、つまりパネルが力を負担しない(非耐力)、リブのみによる骨組み構造なのだというデュクの理論がその代表的な議論で、ショワジーもこれを踏襲しているが、ショワジーの弟子のポール・アブラハムが『ヴィオレ=ル=デュクと中世の合理主義』(一九三三)で、実はこれは論駁して、ゴシック構造には無駄と余裕があるという証明をしたというのである★七。これは戦災によって交差リブが失われた事例において、それ自体では支持能力のないはずの天井パネルが残ったりして、実証された。このデュク的な非耐力面(軽量のインフィル)という「仮説」に、ペレーの奇妙な翻案である骨組み構造のモードが重ね合わされることによって構造と被膜の分離が定式化されたというのがバンハムの論旨だが、ここでも(つまりヨーロッパでも)論理の飛躍が結果を生んでいるのだ。実際には、構造計算においては何が荷重を負担し、何が負担しないかという仮説のもとに計算が行なわれるにすぎず、このモデル計算においては実際に働く力の多くは還元的に無視されている。とりわけ一体構造であるコンクリートの場合、架構以外の部分も構造的に縁が切れているのでなければ確実に何がしかの応力を負担する。ただ計算の上で無視されているにすぎない。完璧に合理的な構造とはあくまでこの仮説の上にたってのみ言い得る命題以上ではなく、すべての計算化された構造形式とは近似でしかない。合理主義的関心とは信念にすぎない。イデオロギーと言い換えてもよい。
佐野利器をはじめとする日本の「構造派」に関する中谷礼仁の議論では結局は圧倒的に「用」の専制のもとに行なわれた佐野以下の「構造派」の用美二元論が、技術=ニュートラルという概念を自明化して、それを自然概念のもとに解体しているという(揚げ足取りをするつもりはないが、構造派であれば、ヴィトルヴィウスの三元論から借りるならば、「用」でなく「強」だろうか?)★八。中谷はこの傾向を建築に主体的に絡むことを作為とする宣長的な構造(=自然概念)と呼んでいる。「様式建築が建築内部のみならず社会的な意味をも徐々に失ってゆく大正から昭和にかけての時期に〈構造派〉は様式を捨てるが、それは〈用vs.美の二元論〉を超えたことにはならない」。だが、むしろこの切り捨てによってこそ二元論が確立されたと言うべきだろう。この前半部分は先ほどのガデにおける様式への無関心というテーゼと似ている。中谷は「構造技術者だから外観に言及しないのは当然だという考え方がある」と言いながら、その「当然」性、つまりイデオロギー性を批判していくのだが、ガデの場合はもちろん「構造技術者」ではない(前述したように歴史家であるショワジーは最初技師としての訓練を受けたが)。確かにガデの構成論は、立面に代表されるある種の「作為」を(「詩を加える」とずっと美しく形容はしながらも)排除しているから、同じ論理構造と呼び得るだろう。たかだか十数年にせよ幾分時代のずれもある両者の類似を必要以上に強調するつもりはないが、模倣よりも原理の抽出のほうを尊重するいき方をガデは「シアンティフィック」と言っている。これは実験に基づく実証主義を旨とする近代科学というよりは、ダ・ヴィンチ的な学問、つまり学識+論理的方法というような意味においてだとバンハムは留保はしているが(因みにヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」はガデの本の五年前に出版されている)、それでも佐野が「科学」を志して構造学を専攻したことと比較してみたい誘惑は少なくない。つまり反作為という意味で。
バンハムのRCラーメン構造を「奇妙」とする立場は、同じバンハムが引用したブランの「主題」やガデの「様式」への無関心とも重ねることができる。何故ならそこではシステム(より普遍的な下部構造)と素材(取り替え可能な上部構造)という二元論が透けて見えるからである。そう考えてみれば、仮説体系としてのラーメン構造を科学的真実のように設定した瞬間に、接合部での剛か柔かの違いは別として(それもまた実は仮定に基づく振り分けにすぎない)、素材は鉄でも木でもコンクリートでも良い、という素材への無関心(=利益関与しないこと)が原理的に了解されることになる。ちょうどボザールの後期に「主題」や「様式」が配置原理と結び付いているという了解がもはや成り立たなくなっていたように、素材/構法の一元論がRCという素材の導入ないし普及によってまず崩れるのだ。佐野利器の最大の貢献はこのような構造の仮説的体系を標準化し、更に大きな体系へとくみ上げたことにある。つまり耐震構造学から「市街地建築物法」(一九一九=大正八年)への進化である。これはガデの用意した透明な下部体系のある種の等価物が、構造方式というより一般的にモデル化しやすい体系へと拡張され、更に都市のスケールにまで拡張されたものである。中谷は「佐野が〈構造〉としてつくりあげた新技術は水晶宮やアインシュタイン塔ではなく、あくまでも、柱と梁とを強固なグリッド状で無限につなげることのできる、連続多層ラーメン剛節軸組構造だったのである」と述べ、このグリッド空間をスーパースタジオのグリッド空間に準えている(なかなか卓抜な比較だが、いささか美化されすぎているとは言うべきだろう)が、これは私がガデの「透明な下部体系」と述べたものにあたる。
正確にいえば佐野がつくりあげたのは新技術などではなく(連続多層ラーメン剛節軸組構造自体は彼の発明ではない)、それ自体科学的な装いをとった仮説のシステムであり(佐野は地震力を建物の重量に比例する水平力と見做した。これはアメリカなどで考えられていた風荷重の考え方の応用だが、要するに単純化された仮説である)、都市にまで拡張された学問─行政上のルールなのだ。従って水晶宮やアインシュタイン塔とは論理階梯が違っている。中谷は「ここに現代日本の極端な〈技術(実用)志向〉を保証する論理構造がすでに存在している」としているが、最初に述べたように、ここにあまりに日本的な性格を見出すことは一面的だろう。むしろ折衷様式がその衣装を脱ぎ去っていく過程において、ある種の脱色化が必要とされたということにおいては西欧と日本にさほどの違いはない。少なくともバンハムの認識に従えば、ペレー以降の動向(稲垣の言う「のちの近代建築」)は、この脱一元化から出発しているのであって、最初から統合(稲垣も中谷も前提としている)があったのではない。もちろん、先に述べたように、支えるだけなら壁構造でもいい。しかし透明なシステムとしてはラーメンの「グリッド空間」のほうがそれらしい。自明な秩序と見えるからだ。軸と非耐力のインフィルという理解は、石や煉瓦の壁を見慣れてきた人々よりは、せいぜい土壁のようなものを除けば圧倒的に非耐力に見えるインフィル(建具)を見慣れてきた日本人のほうが受け入れやすいのは当然である。そのために日本人はバンハムが述べたような「奇妙さ」という感覚をほぼ全面的に迂回してしまった。それが中谷の言う日本的(本居的?)な自然だとするならば、そうなのかもしれないが(でも、がちがちの構造主義が「もののあはれ」と同じっていうのは素朴な感想としては──これは揚げ足取りかな?──どうなんでしょう?)、迂回は日本だけで行なわれたわけではあるまい。
バンハムはガデには要素を全体にくみ上げていく手法についての記述が少ないという。構成的な全体という命題とパラダイム軸の実例には富んでいても、シンタグム軸の記述が不在なのは、それがボザール流の軸線構成が自明の前提とされていたからだというのだが、これはシステムには前提におけるある種の自明性が(そのシステムの考案者自身にとってさえ)必要であったということを証している。それを煎じ詰めることはシステム自体を危うくする。ラーメン構造に関しても同じである。それは伝統と渡りをつけるか、または佐野が構造設計をした多くの建物のように、意匠を伴った壁の後に隠れてしまう。システムの支配が重要であれば、つまりそれが透明化され、「抽象」化されるのなら、見える必要はない。ショワジーにとって、ゴシックが点睛を欠くのは、フライング・バットレスが中からは見えないということだったという。これは一元論である。ただ支える(合理的に、あるいは経済的に)のであれば、見える見えないは問題ではないはずだから。ペレーのロジックとその非一貫性ということもまたこの一元論にたってのことである。その上でこそ、ペレーは、例えばヴィクトル・オルタのタッセル邸(ブリュッセル)で鉄やコンクリートを組積造の背後に隠す「二元主義を建築的二枚舌と断じた」(ベネヴォロ)★九。しかし、同じように鉄やコンクリートを組積造の背後に隠す建物の設計に関わったとしても、佐野の興味は表現のみならず、技術そのものにすらない。透明なシステムにだけあったと考えるべきだろう。
とはいえ、この透明なシステムは完全に均質なモデルというわけではなかった。それはあくまで理念形でしかない。軸組対非耐力壁というこの理念形に佐野がこだわったわけでもない。とりわけRCの普及の主要因だった地震、つまり水平力に関してはそれは必ずしも理想的なあり方ではない。軸組構造のモデルからしたら不純であるはずの耐力壁という概念がそのために導入されている(これも厳密に働くか働かないかというだけでなく、数えるか数えないかの問題ではある、つまり「作為」ではあることに注意)。この問題は共に佐野の門下である内田祥三と内藤多仲の対立に誘導する。つまり内田は軸組のみで水平力への耐性を部材を太くし、接合部の剛性を高めることを主唱し、内藤は軸組の間の要所に耐震壁を設ける方式を考案し、結局経済性からすれば後者に分があるという顛末になったという★一〇。藤森照信は、内藤はアメリカ留学では効果的な手法が見つけられず、たまたま別のことからヒントを得たのだというエピソードを紹介しているが★一一、実際にはシカゴ派の建物などにも耐力壁はある。ただ、佐野の計算の仮定の場合と同じく風耐力のためではあったが。いずれにせよ、内藤の「発明」よりだいぶ前に佐野が設計した《丸善》(一九〇九=明治四二年)でも鉄骨に対して被覆として設けられた煉瓦壁には帯鉄や鉄筋が入れられた。これは(またしても計算上の仮定としては)耐震壁ではあり得ず、地震時の壁の亀裂や落剥防止の手段のようなものだろうが、佐野─内藤の壁は、ガラスのような透明な壁にすることはできない文字通り不透明な壁だったことになる。プラグマティックな「見えない」システムは、デュクの信奉者が考えたような意味での「完璧」な透明さを獲得していたわけではないのだ。剥がれ落ちようとしている「様式」のマスクは、この理想主義とプラグマティズムの差異を見えなくするには役に立った。基本的に組積から出ている様式的なファサードでは、そのような不透明性を充分包含できたからである。
ところで、軸組という架構形式のほうは日本人にとってともかく容易に馴染みやすかったとしても、RCという材料(及びそれと軸組構造の組み合わせ)のほうはそうばかりではなかった。曽禰中絛事務所に在籍していた高松政雄が一九一五(大正四)年に書いた「鉄筋混擬土と建築の新様式」は、伊東忠太ゆずりの進化論を適用しながら、RCの「鋳造せらるる構造」に形がない、「それは謎である」と論ずる★一二。石田潤一郎は、高松の設計では、「ラーメン構造であっても柱が独立した構造材として外観に示されることはほとんどない」として、それを高松の組積造好みによるものとしている★一三。しかし、これは造形上の好みだけではなく、コンクリートがそもそもラーメン構造でなくてはならない理由がないという懐疑から生じていると解すべきではないか。高松の意識が特異な例外ではなかったことを証すように、この時期に似たようなタイトルのテクストがいくつも書かれている。例えば後藤慶二による「鉄筋コンクリートに於ける建築様式の動機」(一九一四)でも同様な問題が問われている★一四。「鉄筋又は鉄筋構造と云へば直ちに式建築を思ひ起すことは、今日の場合当然であると云ひ得る。然しそれは今日の場合と云ふ条件のもとにのみの問題である」。「今日の場合当然」なのはそれが簡便であり、計算も最もたやすいからだが、後藤がそれに「今日の場合と云ふ条件のもとにのみ」と条件をつけるのは、「接合の完全を要求することの出来ない」鉄材の場合は式が「最も妥当である」であるとしても、「完全な接合の可能と自由とを有する」「鉄筋混擬土」の場合には「稍妥当と」認められるが、「それで充分とは思はれない」ためである。
これらが書かれたとほぼ同時期に、後藤は同級の山崎静太郎と共に東大教授(つまりは恩師筋にあたる)中村達太郎との「虚偽建築論争」を展開する。同じ問題は前記高松によってももっと早い時期、つまり最初に引いた様式論争と同じ年に提起されているから当時の関心事として広く共有されていたテーマのようだが★一五、このいわゆるハリボテの建物の可否(構造と表現の一致)は、後藤においては「鉄筋コンクリートに於ける建築様式の動機」でも述べられている「リジッド接合の構造即ちリジッドフレーム──広義に解してエラスティック・アーチ」なる概念へと行き着く。「リジッドフレーム」あるいは「エラスティック・アーチ」と式の違いは、前者では横架材が「湾曲し又は屈曲し或いは直線をなす」(石を原形にする式では必ず直線になる)ことと、前者ではジョイントが完全に剛接合であるのに、後者ではどちらでも成り立つことにある。つまりRCのラーメン構造はそのどちらでもあり得るが、後藤はRCなら横架材が直線である必要はないと考える。この一方で後藤は、構造計算を如何に精緻にしても、「それが実施せられたものに比して全く一致するかどうか疑問である」と述べ、「どうせ一致しないのならば或程度まで正しいところの簡便な方式のかはりに面倒な方式を使用せねばならぬと云ふ理由は立たない」と記述をしている。これは「今日の場合と云ふ条件」に関する考察だが、この記述の背後に聞き取れる苦さを思えば、佐野がプラグマティックにあっさりと迂回してしまったアポリアがここでは問い直されていることは明瞭である。つまり後藤は構造合理主義という命題の背後に潜む実用主義の形而上学に気付いている。高松や後藤にはバンハムが「奇妙」といったことへの感覚が備わっていたはずだ。しかし、「エラスティック・アーチ」は高松の「それは謎である」という問いと共にその後に具体的なものとして展開するには至らなかった★一六。稲垣が「のちの近代建築」と述べたものはその奇妙な改革の線上に位置しているのだが。
高松や後藤と同時期にもうひとつ、似たタイトルの卒業論文が東京帝国大学で書かれた(あるい指導教官によるあてがいぶちのタイトルであったかもしれない)。「鉄筋混凝土構造と建築様式」(一九一五=大正四年)と題されたこの論文の「本論の二 材料構造と様式」だけが、同年一〇月の「建築雑誌」に改題して発表された。野田俊彦による「建築非芸術論」である。「建築雑誌」への掲載は指導教官であった内田祥三の推薦だが、内田の直属の上司が佐野である。つまり、このテクストは佐野ら構造派のマニフェストとして書かれた(あるいは発表された)というのが通例の位置付けだが、この有名なテクストに触れる余裕は今はない。それはジャンル論という別の地平に接続されているとだけ述べておこう。


★一──横河民輔「我国将来の建築様式を如何にすべきや」、討論会第二回における発言、『建築雑誌』第二八四号。藤井正一郎+山口廣編著『日本建築宣言文集』(彰国社、一九七三)にも所収。
★二──稲垣栄三『日本の近代建築』(丸善、一九五九、再版=鹿島出版会、一九七九)。
★三──レイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』(石原達二+増成隆士訳、鹿島出版会、一九七六、原著一九六〇)。
★四──ジュリアン・ガデ『建築の要素と理論』からの上記バンハムによる引用。
★五──ベネヴォロ『近代建築の歴史』上(武藤章訳、鹿島出版会、一九七八、原著一九七三)。
★六──ゼンパーのこの問題に関しては、Joseph Rykwert, “Gottfried Semper and the Problem of Style”, Demetri Porphirios ed., On the methodology of Architectural History, Architectural Design Profile, 1981.またジョセフ・リクワート『アダムの家──建築の原型とその展開』(黒石いずみ訳、鹿島出版会、一九九五、原著一九七二)。
★七──この事柄に関しては、バンハム以外にも、鈴木博之『建築の世期末』(晶文社、一九七七)でも記述されている。
★八──中谷礼仁『国学・明治・建築家──近代「日本国」建築の系譜をめぐって』(一季出版、一九九三)。
★九──ベネヴォロ、前掲書。
★一〇──村松貞次郎「構造学発達史の概観」(『近代日本建築学発達史』丸善、一九七二)所収。あるいは、藤森照信『日本の近代建築』(岩波書店、一九九三)。
★一一──藤森、前掲書。
★一二──高松政雄「鉄筋混擬土と建築の新様式」、『現代之建築』第一一三号。石田潤一郎「ブルジョアジーの装飾」(『日本の建築〈明治 大正 昭和〉』七巻、三省堂、一九八〇)に引用。
★一三──石田潤一郎、前掲書。
★一四──後藤慶二「鉄筋コンクリートに於ける建築様式の動機」(中村鎮編『後藤慶二氏遺稿』、後藤芳香、一九二五)所収。
★一五──高松政雄「建築家の修養」(二)(『建築雑誌』第二八四号)。
★一六──後藤については、長谷川堯『都市廻廊』(相模書房、一九七五)参照。しかしこの部分に関しては必ずしも充分な記述とはいえない。また『建築文化』二〇〇〇年新年号の私との対談で岡崎乾二郎氏は、後藤が山崎の論を批判しながら構造と意匠とは論理階梯が違うとしているという理由で構造の問題を解決済みとして語っているが、私はこの議論にも与しない。それでは後藤のアンヴィバレンツは素通りされてしまうからだ。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年生
芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。建築家。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>黒石いずみ(クロイシ・イズミ)

1953年 -
都市建築理論、生活デザイン論、建築設計。青山学院大学総合文化政策学部教授・ペンシルヴェニア大学Ph.D.。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。