都市連鎖とは
我々は都市の本質的な性格を「液体」と考えている。時代や社会、そして物質的存在ゆえの性質といったある枠組みの中で制限されつつも流動するイメージとしての都市。過去を分断された過去としてみず、連綿としてつらなる都市の変容を捉える。時間という無数に紡がれた縦糸の中で、流動する都市を捉えようとすることが〈連鎖都市〉の試みである。
都市とは隣接する分子(都市の諸要素)が決定された〈固体〉でも、各分子が自由運動する〈気体〉でもない。次第に隣り合う分子が変化しながら流動する、少し粘り気のある〈液体〉なのだ。
現在、大阪市立大学建築デザイン研究室・中谷ゼミナールでは大阪を対象としてフィールドワークを行なっている。その主眼は、今までの都市研究でそれぞれ別個に培われてきた各時代の都市に関する蓄積を用いながら、過去を継続する現在の要素として捉え、その現代に及ぼす影響を汲み取ることである。
大阪の歴史を大きく振り返れば、[1]古代都市・難波京、[2]石山本願寺寺内町の時代、[3]豊臣政権城下町の時代、[4]商業都市の時代、[5]近代都市計画の時代、となるように、大阪は1000年以上、都市空間が堆積した稀有な場所である。しかし、都市化が進行した現在、普段生活している分にはその歴史の積み重なりを感じることは極めて少ない。古都と呼ばれる京都や奈良と比較して、大阪に住む人々は歴史的な都市であるということを意識することなく日々暮らしている。
はたして現在において大阪の過去は消滅してしまったのだろうか。そうではなく、意識されない歴史というものが存在しているのではないか。そして過去における都市構成物はどのように受け継がれるのか。
今回の特集では、〈連鎖都市〉という観点で捉えなおされた「大阪」の一端を提示したい。
都市は連鎖する
……中谷礼仁
四年前に来阪した。三四年間東京で生まれ育った身としては、はじめての長い移行期間であった。
着いたら、何か普遍的なことをしようと漠然と考えていた。どこでも考えられるような問題の設定の仕方というのがあり、と同時にある場所においてこそ見出すべき問題があった。しかしながらそれらは別々ではなくて、どこかで密接につながっているはずなのだ。ある固有の土地でこその、かつ普遍的な問題を探す。それはいかにして可能なのだろうか。
その始まりは、単身赴任寮での出来事からであった。ある日の夕刻、買い物に出かけた。道路がそのまま進まずに大きく湾曲していた。そのために目的の店にたどり着くには迂回を余儀なくされた。なぜだろうと、その時ふと思った。すると目の前、その道の本当はまっすぐ行き着くはずの先に、夕日をさえぎる何ものかがあった。古墳であった。
空から見る古墳と、脇を通る視点からとの印象の違いは大きい。それは樹木やツタが繁茂し、光は吸いこまれ、丘陵というにはいかにも不自然な名状しがたいシルエットなのであった。その存在が計画道路を不自然に曲げていた。古墳は過去にあったのではなく、今、そこにいた。そんな単純なことに気がつかなかったのは、それが自明なことだと思い込んでいたからである。それを「知っていると思っている」ことと、それが「いることを理解する」こととは、全く違う[図1]。
昼間の勤務先では、ひとつの作業が完成されようとしていた。近世大阪の中心地に残存していた二三軒の長屋群全体の解体実測調査であった。再開発によって破壊されることが決定されていたが、その住人達がせめて記録でも残そうとしたのを請け負ったのである。その群は、まるでノアの方舟のような一体的なバラックになっていた[図2]。木造の伝統的長屋形式が基本なのだが、途中で折れ曲がったトンネルのような、およそ通常では考えられない平面の家があった。皆でバールを持って、その秘密をこじあけるように家たちを壊した。新建材の壁をはぐと、別の壁面がでてくる。さらに除去すると、昔ながらの土壁が現われる。いく層にもわたる増改築のプロセスが全て残っているのであった。よく調べてみると、近代を経るなかでその敷地は道路拡張のために何回にもわたってけずり取られていた。そのたびにこれらの家もまたけずられ、後退し、あるものは成立しなくなった。すると家々がアメーバとなって連結しはじめたのである。先の折れ曲がったトンネルはそのようにして表と裏の住まいがくっついた結果だったのだ。昔も今も都市住宅は都市の敷地との緊密な弁証法によって建てられる。その都市のかたちが変われば、それに応じて家も動く。家という備忘録があり、それが都市の変容を逐一記録していた[図3]。
そんな矢先に、建築家の趙海光氏から、大阪の長屋の改修案件を紹介された。迷うことなく建築実測の分析手法を取り入れた。実測は、既存の建物を相手にした地道な作業である。しかしこの経験によって得た知見ははかりしれない。自分の思い込みより、実際の事物は遥かに多くの課題を問いかけるから。さて寸法をとり、分析をしていくと、デタラメな数値が、一瞬にして体系的な計画寸法の束に変貌することがある。この時、日常のふるぼけた住まいが、まるでホワイトキューブのように抽象化される。そして現在性を伴ったデザイン要素として操作可能となる。過去は使える。それが都市との連関においてつめられた寸法であれば、それはなおさら拝聴すべき師のようなものである[図4]。
実は過去こそが現在であった。日々流動する都市はまさに現在性の象徴であるから、そのドラマに過去は介在していないかのように思える。しかしながら冷静に考えてみると、その現在のイメージは、それ以前の事物の構成から生み出されてきたものである。現在には初めから分かちがたく過去が入っている。それは「過去」という分類を必要とせずに現前する(私が気づく前の古墳のように)。
そのとき、二三件の解体実測現場をはじめとして、私の立ってきたいくつもの場所の定義が変化した。それらが、潜在する層としての各時代が相互に干渉し、変容し、転用されていった結果であったという実感が湧いてきたのである。都市─住まいは「現在」、「過去」という分類記号をはく奪され、現前するオブジェとして立ち現われてきた。都市は形容しがたい可能的な事物の集積になった。
都市は連鎖する。その過程が人間の時間的スケールを遥かにこえてしまっているから、忘れられているだけなのだ。
ある時、卒業論文を専攻している学生に、現在都市における条里制の影響を調べてみてはどうかと促した。半年後、彼は一枚の住宅地図を持ってきた。その住宅地は、一〇〇〇年も前に条里制によって計画された田畑の一つひとつの区画がそのまま用いられた、スプロール条里制住宅街であった(事例1参照)。抜本的研究の必要性を感じたので、研究会を組織した。そして、私と同世代の、同じような移住者である清水重敦(奈良文化財研究所)に協力を乞うた。
大阪と呼ばれている一帯が、ある普遍的な存在として考えうるのは、その内容にあるのではない。それはこの土地が、この二〇〇〇年にわたって、さまざまな都市構造をいくつもの層としてたい積させてきたからである。近世からの東京、中世からの京都に比べて、それは格段に長い時間スケールを伴っている。そしてもうひとつ重要なことは、私たちがその時間的堆積の存在を、常日頃は忘却していることなのである。意識的に継承された伝統は、もはや私たちの興味の範疇外である。むしろ無意識のうちに手渡される構造、あるいはその堆積の複雑さゆえに歴史的アイデンティティの獲得に常に失敗していくような場所(大阪!)のほうが面白いのである。なぜなら意識的伝統は継承者による権威的価値づけを必要とするが、無意識な継続はそのような過程を全く必要としないからである。あの夕刻の古墳のように、不断に現在に影響を与える物質的存在として、そこに「いる」からなのである。
1──大阪古市古墳群と現代都市
出典=『空から見た古墳』(学生社、2000)
2──大阪北区菅原町旧長屋群の俯瞰写真
出典=菅原町再開発組合
3──菅原町旧長屋群のうちのひとつの旧M邸
4──63の断面寸法計画図(尺寸モデュロール)
意図されない過去へ
……清水重敦
一九九九年四月、奈良文化財研究所という職場を得て、生まれ育った地、東京を離れた。奈良文化財研究所に来てまず不思議に思ったのは、関西弁があまり聞かれないということだった。東京の人間が関西に住むとなると、まず立ちはだかるのがことばの壁だと思っていたから、この違和感のなさは意外だった。奈良文化財研究所がフィールドにしている平城宮跡では、古代の建物の復原事業が行なわれている。私が赴任したときには、東院庭園の隅楼の復原工事が進められつつあった。この隅楼は平城宮の東南隅で発掘された二階建と思われる建物で、復原された建物の頂部には鳳凰が据えられた。隅楼に隣接する敷地には、以前からボーリング場があって、ボーリング場の屋根には巨大なボーリングのピンが立っている。隅楼の鳳凰はこのピンと並ぶことになった[図1]。研究所のメンバーからは、あのボーリング場を何とかしないと、という声が聞こえてきた。
私もそこにある違和感を感じた。ただし、ピンに対してではなく、ピンを邪魔だとみなす考え方に対してである。隅楼は古代にはたしかに存在していたとはいえ、今そこにある隅楼は新築の、新参者である。なぜ後から建った建物のために、ボーリング場のピンが邪魔者扱いされなければならないのか。むしろ、鳳凰とピンが並び立つ姿こそ、リアルな風景なのではないのか。現代から隔絶した古代の持つ衝撃力は、こうして現実の風景の中に立ち現われることで実感されるはずで、ボーリングのピンがなければ、それはテーマパーク以外のなにものでもなくなる。しかし、復原事業は現実の風景から隔絶した古代を創る方向に進もうとしている。
奈良といえば「古都」というイメージがすぐに思い浮かぶように、そこには古代以来の長い歴史がある。だが、その古代は、ここにみられるように、現代とは関係をもたない、断絶的なものになっている。京都や奈良は「古都」といわれるけれど、そもそも「古都」というイメージは近代になって創られたものだった。奈良で何にも増して古代の遺跡が尊重されるのも、このイメージから発しているのだろう。「古都」というイメージに代表される恣意的な古代のイメージとは、近代に創られた共通語のようなものなのかもしれない。今そこにある風景とは関係のない、観念的なものという意味で。奈良文化財研究所は、そうした共通語を具現化する組織として機能している。そこは関東弁の組織でないことはもちろんのこと、関西弁の組織でもなかった。
復原事業から、もうひとつ、建築の持つ根源的な性格について考えさせられた。赴任以来三年半ほど、復原の設計に携わってきたのだが、古代建築の復原が、過去を考える意識的な方法としてある種の魅力を持ちながら、同時に抑圧的なものでもあるという思いを強くしている。復原建物が抑圧的に思えるのは、それが時間という概念を全く含み込まない建物だからである。それは永久に、その形のまま建ち続けることが運命づけられた建物である。かつての建物の姿を再現する実物大の模型と考えればそれでもいいのだろうが、それは構造的にも成立するよう考えられた実在の建築物でもある。建築は、時間によって変化していくもののはずなのに、復原建物はその性格を最初から剥奪されているのである。
アロイス・リーグルは、一九〇三年にすでに、モニュメントの価値が、時間の中で生成していくものであることを喝破している(参照=「近代の記念物崇拝──その性格と起源」)。リーグルはまず、モニュメントを意図されたモニュメントと意図されないモニュメントの二つに分類した。前者は、そもそもモニュメントとして造られたものであるのに対して、後者は、時間の経過のなかで価値を持つようになり、結果としてモニュメント化したものであるとする。意図されないモニュメントをモニュメントたらしめる担保としての価値を、リーグルは古びの価値と呼んだ。リーグルはモニュメントの種類の分類としてこうした分析をしたのだが、この概念は過去を現在に継承する方法の分類にも延長して用いることができるように思う。過去の事物は、意識的に継承される場合もあれば、無意識のうちに残ってしまうこともある。また、かつての意味のまま継承されるものもあれば、時間のなかで文脈が忘れられ、その結果異なる意味で継承されるものもある。古びの価値という概念も、過去のものが時間経過のなかで風喰を受け、古び、変形した結果生じた味わいとして受け止めてもよいし、時間の経過のなかで当初の文脈が忘れ去られた結果、意味から自由になって生じる新たな使用価値と読むこともできる。おそらく日本で近代に発見されてきた過去の継承の方法は、こうした枠組みのなかのほんの一部でしかなかったのだろう。復原事業に違和感を覚えるなかで、過去を現在に継承する方法を豊富化しなければならないことを痛切に感じることとなった。
古代の持つ現代における衝撃力、そして過去を現在に継承する方法を、こうして考えていた時、同じく東京から関西にやってきてこの問題を異なるアプローチで考え続けている中谷礼仁氏から、大阪をフィールドに都市における歴史的連鎖を分析するゼミへの参加を請われた。ゼミのメンバーと大阪を歩いてみると、意図されない過去が現在に生きている状況が次々と見出されてきた。それは古代にとどまらず、中世、近世、近代と、各時代層で見出された。いずれも、異質な時代層の複合によって、現在の都市空間に奥行きを与えている。だが、それらが引き起こす違和感はかすかなものなので、なかなか気づきにくいものであった。
意図された過去を継承していく方法に対しては、これまで幾多の考察が加えられてきた。復原事業がそのひとつの極である。それはいわば共通語のようなものである。それに対して、意図されない過去のあり方は、共通語によっては見出しにくいものだったのかもしれない。それはそこで暮らし続けてきた者の視点、いわば関西弁の視点からもなかなか気づきにくいものなのかもしれない。よそ者の感じる違和感。それを頼りに、私はこの連鎖都市分析へと向かっていく。
1──平城宮跡東院庭園の隅楼と
ボーリング場のピンの出会い
筆者撮影
連鎖都市における先行研究
都市を時間軸で捉えた試みとして、『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985)をはじめとす
る
陣内秀信氏の一連の業績を見逃すことはできない。氏は江戸東京を対象として、近世的都市構造と近代のそれとの間に継承性を見出し、その結果生成された都市
を調和的に捉えたのである。氏の見出した東京の都市と比較した場合、大阪の特質として強調しておきたいことが2点ある。ひとつは大阪は近世のみならず古代
から現在に及ぶ都市構造が存在していること、そしてそれらが長い年月のせいか断絶的ともいえること。もうひとつはそれ故その各時代の都市構造が、調和的と
いうよりもむしろ矛盾的な関係で現在に影響を与えているという事実である。
ここでさらに宮本佳明氏による「環境
ノイズエレメント——風景の加工性」(『10+1』No.29、INAX出版、2002)を先行研究として加えておくべきだろう。この論考では時間の関与
で形成された都市の矛盾要素を「ノイズ」として位置づけ、現代への影響を考察しているが、「連鎖都市」研究と重なり合う部分が多く示唆的である。また、氏
は各「ノイズ」を個別的に扱っているが、この点において塚本由晴+貝島桃代+黒田潤三『メイド・イン・トーキョー』(鹿島出版会、2001)の環境版と考えることができる。
それに対し私たちは各時代における都市パターンの全体構造から事物間の影響関係を解明しようとしているのである。
かたちとコンテクスト──引用による都市連鎖的ノート
ここでは巷に溢れる名キーワードの、とりわけ都市連鎖的読み方を紹介する。特に事物が成立するうえでの基本概念「かたちとコンテクスト(キーワード3)」は今回の主人公であり、論理の導き役である。これらの引用を活用したうえで、後に都市連鎖を〈詠む〉にあたっての、さらなる拡張キーワードを提案してみたい。
キーワード1──狼的(巡回空間)/鳥的(放射空間)
人間の空間認識の対立的原理。フランスの人類学者、故アンドレ・ルロワ・グーランの著『身振りと言葉』から。非常に単純化された概念であるが、都市─非都市の初源を考える際の基本として流用可能。
その一方(狼的)は動的で、徘徊する道筋にそって与えられた体験的空間像。筋肉と嗅覚の知覚に結びつき、とくに地上動物の空間知覚を特徴づける。
もう片方(鳥的)は静的で、未知の領域まで拡張された抽象的空間像。地平線でひとつになる空と地表のなかで像を統合する。主として視覚の発達した種に関連する。この視覚の放射は、とくに鳥の場合を特徴づけている。
これらの特徴は全ての高等生物内に共存しているのであるが、特に人間においては、それらは本質的に視覚に結びついている。グーランは以上のような狼的認識と鳥的認識との割合の逆転を、人間の農耕生活の開始に見ている。つまり人間がその生活の糧を土地上に点在するランダムな獲物にではなく、土地そのものに見出した時点と考えることができる。その時に未知に広がる土地の想像的風景を仲立ちとして、空間概念が延長されたのである。
この時点を、古代の開始ととらえてもよい。エジプト、古代中国の事例をはじめとして古代都市の多くが、広大な空間に幾何的な計画性を当てはめようとしたことの背後には、以上のような純粋・抽象的空間把握が存在する。古代日本における条里制は、大陸から伝えられ、都城を養うための、条里地番法を組み合わせた糧としての大地──耕地──であった。と同時に条理を線引きすることによってこそ、国という概念が確立されたのだといえる。もしかりに人間が、白紙の大地に意味あるかたちを作らねばならない恐怖に遭遇した時、幾何学こそは救済である。このようにして古代と巨大幾何学は結びついている。一方で、中世における点的な、あるいは自然発生的な村落の発生は、市場などの具体的コンテクストの蓄積による、その後の狼的空間の復活とも考えられよう(参照=妹尾達彦『長安の都市計画』講談社選書メチエ、二〇〇一)。
キーワード2──無意識
意識に基づいて心を理解しようとする意識心理学に対する精神分析の基礎的概念。記述的な意味のほかに、ここでは場所論的な存在としても認知されたことが重要。記述的用法においては意識されないものはすべて無意識的である。しかし一方、このような抑圧が可能になるためには原抑圧があるという仮定が必要になり、したがって、無意識はただ抑圧されたものというだけでなく、無意識として独自の場所(体系)をもつものと考えられるようになった。これが、心をひとつの装置とみなして、三つの場所、すなわち無意識、前意識、意識からなるという場所論が生まれた(参照=外林大作)。
この場所は人間によるデザイン行為にも、あてはめることが可能である。つまり人間は彼がデザインしようとするかたちのすべてを意識的に作ったわけではない。むろんあるかたちを、意識的に作られた部分と無意識的なそれとに明らかに分けることはできない。しかし意識的には作られなかった部分の存在を認めなくしては、人間社会は地獄に陥ることになる。それは既に作られた事物に対する転用や見立てという後の発見がいっさい起こりえない、つまりは事物が作られた時点以外の用法しか持ちえないという地獄である。
キーワード3──かたちとコンテクスト
都市をも含め、全ての事物は、そのかたちとその意味機能を決定するコンテクストとで構成される。それでは、あるかたちと、それを要望し、役立てようとするコンテクストとは、いったいいかなる関係にあるのか。それが常に固定的であるならば、都市の連鎖的変容など起こりうるはずがない。
両者についての定義は、クリストファー・アレグザンダー著『形の合成に関するノート』(稲葉武司訳、鹿島出版会、一九七八)の冒頭部分に最も明解なかたちで定義されている。それによれば、かたちとは、我々がコントロールできる世界の一部分であって、その世界のほかの部分をそのままにしておきながら、我々が姿を与えることのできる部分である。またコンテクストとは、この世界のかたちに対して要求を提示する部分である。この世界でかたちに対する要求となるものはすべてコンテクストである。
この定義においては、一見かたちはコンテクストの優勢によってのみ決定される従属的なものであるかのようである。しかしながら、同時にこの記述は集合論的でもあることに注意せねばならない。つまり両者の関係は区分なのであり、その区切りは可変である。彼はヤカンを例にこう述べている。
「アンサンブルを形とコンテクストに分ける方法は、一つだけではないことを知るべきである。(…中略…)非常に多くの実例では、幾つかの異なった、そして重複するアンサンブルの分け方を同時に考慮することがデザイナーにとって必要になってくる。(…中略…)別に考えれば、デザインのやり直しを必要とするのはヤカンではなく、ヤカンを熱する方法である。(…中略…)この場合ヤカンはコンテクストの側となり、コンロがかたちの側となる」。
キーワード4──セミラチス∋ツリー
今まで不当に見過ごされてきたツリーとセミラチスの連続性。これまで両者は、断絶的に語られすぎた。両者の関係性を認めることは、ある限られた目的によって製作された事物が、なぜ他の目的を持った事物になりうるのかという神秘に対して、決定的に有効である。その関係性は実はこの用語の発明者であるアレグザンダー自身が、論文「都市はツリーではない」末尾の絵画論を用いて、既に示唆的に述べていることでもある。
まずツリーとセミラチスとは、小さなシステムがどのようにして大きく複雑なシステムを形成するかについて考える方法であり、その違いは図のようにあらわすことができる[図1]。ツリーでは各エレメントは一義的でその集合に全く重なり合いがない。車道は車道であり、歩道は歩道である。一方セミラチスではひとつのエレメントは多義的で、さまざまな集合に属している。伝統的都市が豊かで多様な生活をもたらすのは、その構造がセミラチスになっているからである。車道が一時の祝祭空間となるように。
それに対して、計画者が作った新しい都市は常にツリーである。というのは、人間がデザイン的課題を解決するためには、その解法を単純で明快なツリー構造にしないかぎり把握しづらいからである。この限界性もまた基本的な人間の能力である。
しかしながらセミラチスは、そこに時間差を含めれば、実は事物の一義的状態としてのツリー構造が重合したものとして解釈できる[図2]。つまり両者の対立は、時間概念を含めれば、連続的になる。祝祭空間として用いられた車道は、同時に時の車道にはなれないのもまた真である。
1──ツリー(左)とセミラチス(右)
2──セミラチスとツリーの時間差的解釈(中谷、2002)
キーワード5──資材性
事物の潜在的有用性のこと。レヴィ=ストロースが、そのブリコラージュ論(参照=「具体の科学」『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、一九九一)において、その事物の特殊な状態を表現するために用いた言葉。コーリン・ロウも『コラージュ・シティ』において、一回だけその
ブリコラージュとは「未開人」がありあわせの道具材料を用いて自分の手でモノをつくることである。通常の科学的製造概念とそれが決定的に異なるところは、科学者が理論と仮説(=構造)から出発するのに対して、器用人は既に作られた事物から出発して構造をつくりだすことである(事物の優位性)。それゆえ事物における潜在的有用性は、事物に本来的に内在している性能と見るべきでなく、事物が初期設定以外の複数のコンテクストとの連関(=構造)を持ちうる未知の可能性を持ちえているという意味である(=可能な変形の一覧表)。
キーワード6──ティポロジア
超歴史的概念としての類型(タイプ)を基本にした街区再生手法(tipologia edilizia)。七〇年代のイタリアの歴史的街区再生における画期的手法。
「あらゆる他の文化活動におけると同様に建築においても、人間は、類似の問題に関してすでに成された解決についての記憶を通じて経験を役立てるのである。(…中略…)このような経験は、統一的な最終目的に従って様々に異なって構成される概念としてこの文化領域、つまり真の建築的有機性のなかに先験的に存在する」(ジャン・フランコ・カニッジャ)[陣内秀信『イタリア都市再生の論理』(SD選書、一九七八)より]。
ティポロジアが現在においても有効なのは、歴史価値的保存一般に対する根底的批判が隠されているからである。ティポロジアによる批判の矛先は、歴史的建造物の保存手法一般に向けられていた。それは日本でもなお主流である歴史的に貴重な建造物のみの保存、あるいはファサード保存である。ティポロジアの推進者たちは、これらを文化的アリバイとして批判した。しかしこの批判にはさらに大きな問いが隠されている。歴史的価値は、いったい誰がいつどのような理由において決めることができるのかという難問である。歴史的価値は、現在の私たちからしか決めることができない。つまり隔離され、あがめ奉られた「過去」とは、「現在」の私たちが自らの都合で決めているのである。しかし両者に属するのは共に現前する事物である。事物をこのような不自由な枠組みから救い出すには、両者をつなげるティポロジア─タイプという超歴史的な視点を設定する以外にない。そんな彼らが武器としたのは、ある街区の部屋割りから都市配置までを一元的に切断した連続平面図であった。このとき通常の都市─建築という階層は消えさり、潜在する層としての各時代の平面類型が相互に干渉し、変容し、転用されていく様が映し出されたのである[図3]。
3──サンタ・マルゲリータ島に生きる原初ラグーナ組織
出典=陣内秀信『イタリア都市再生の論理』
キーワード7──都市の建築≠都市と建築
建築家、故アルド・ロッシが主著に与えたタイトル(L'architettula de la citta)。なぜ「都市と建築」ではなく「都市の建築」なのか。
彼の言う都市とは、建築を収納する別スケールの構築物として計画された都市ではない。それは建築を形成するソースとしての環境(=コンテクスト)そのものである。彼が「都市の建築」としたのは、個別性の徴としての建築(=かたち)が、その資源としての都市との相互的、時には対立的連関性を保ちつつ不可分に成立していることを主張したいがためであった。彼が、都市が個別の建築を時とともに呑み込んでしまい、その機能を消滅させてしまう去勢のイメージに取り憑かれているのは、そのためである。ソースとしての都市は、個別性を解体し、それを無尽蔵のバンクへと幽閉してしまう。彼は、そこから再び建築を救済し、再定義しなければならなかった。彼はその解答として、転用されても依然として存在してしまう、その事物に込められた「出来事とその出来事を示すしるし」──いわばモニュメント──的要素の存在を主張した。(中谷)
セヴェラルネスと層組──都市連鎖詠みのための拡張キーワード
ここでは、先にあげた引用ノートを基本にしつつ、都市連鎖詠みのための拡張概念を提案する。その拡張性は、特に、事物の時間的変容を可能にするメカニズム解読とその実体的拡張(デザイン)に関するためのものである。
キーワード8──弱い技術
再定義され、残り続ける技術のあり方。
都市連鎖詠みにおいては、土地のみならず、そこに建っている建造物の姿において、都市連鎖の過程を復元できる。例えば、大通りに面した建物が何故か通りに対して垂直な奥行きを持たず斜めに接していれば、それは大通りが、以前の建物の建ち方に無関係に通された結果である。このような都市の履歴を明瞭に刻みうるのは、建造物が弱い技術によって構成されていることが十分条件である。
キーワード3で示したように、かたちとコンテクストとの関係が可変的であるならば、それは応答的でもある。もしかりにある事物のコンテクストが激変した時、その事物はいったいいかなる変化を被るであろうか。もしその事物が、コンテクストの激変に対して非追従であれば、その事物は消滅するか、あるいはコンテクストに勝利して、不可侵のモニュメントとして存在し続けるであろう。いずれにせよその場合の選択は勝つか負けるかの二者択一である。逆にもしその事物の資材性(キーワード5)がより豊富であるとすれば、その事物は新しいコンテクストの要求に一定の範囲内で応えることができるであろう。
これを技術論的に考えてみた場合、テクノロジーと個別的なテクニックに相当する。テクノロジーとは技術的共同体であり、そこに内在する個々の技術の使われ方は厳格に定められている。一般に「高度」とされる現代テクノロジーが、不定期さや、突然の変化を「故障」や「ノイズ」として排除するのは、それらがテクノロジーであるためである。それに比較して個別的なテクニックは、それ自体では自立しえず、他者とのその時々の契約関係によって用法を一時的に定める。これらは一般的に原始的な道具や伝統的な技術体系の可変性に象徴される。菅原町旧長屋群(参照=中谷「都市は連鎖する」)で見たように、すぐにでも壊れそうな木造の伝統的住まいが一〇〇年以上の時を経て存在し続けたのは、それらの技術基盤がテクノロジーとして弱かったことによる。新しいコンテクストにあわせて自らの用法を再定義しえたからこそ、それらは様々な改変をうけつつ残存した。むしろ「高度な」技術体のほうが残らない可能性がある。
キーワード9──セヴェラルネス
事物の連鎖を可能にする、そのかたち的性能一覧。
都市はそのタイムスケールが人間のライフスパンを遥かに上回る。そのため、ある都市構成物がいったいどのような意味機能を担っていたのか、そういったコンテクストが伝達されることは、むしろ稀なことと考えてよい。一般に伝統的都市は、そのコンテクストがよく伝達されていると理解されやすい。しかし、私たちはこれと全く正反対の主張を行ないたい。
伝統都市の連続性を保証するのはコンテクストではなく、もう一方のかたちのほうである。かたちの資材性における一定の限界が、そのかたちに対するひとつのコンテクストが消滅しても、かたちの用い方に無意識のうちに枠組み(一覧表)をはめるのである。これが意識的でもないのに、都市のかたちがほぼ妥当的に継承された場合のメカニズムである。もちろん現代都市はそれを見失っているように見えるが。
この主張をつきつめれば、それは様々な意味機能の差違を保証する事物のかたち的限界(同一)性の検討へと行き着く。セヴェラル─ネス(several-ness、いくつか性)はそれを記述するための用語である。ゆえにそれは、事物のかたち的可変性の有限性と、同時にその組み合わせの無限性を説明する概念でもある。ここでは話を単純にするために、バケツを事例として考えよう[図4]。
バケツにおけるセヴェラルネスは(たたくというカリブ的転用をのぞけば)、「蓄える─かぶせる」と「運搬する─仮置きする」という二つである。それ以外の性能を考案することは非常に困難である。しかしながらその実際的な用法は、私たちが実践するように、非常に多岐に渡っている。
結論として以下のことが言える。特定の事物におけるツリー(=コンテクスト)が移行するためには、そのかたちの持つ有限性が、逆に可変のための限界的基準とならなければならない。その基準があるからこそ、転用者(ブリコルール=ブリコラージュをする主体)は、新しい要望に対してそのかたちが耐えうるかどうかを、厳密に推測することが可能となる。つまり意味や機能の移動を保証するのは、その事物における限定的性能リストなのである。その限定された性能を別の意味機能(=ツリー、コンテクスト)に接続することによって、その目的を果たすのである。
4──バケツにおけるセヴェラルネスと実際の用法
キーワード10──層組(そうそ、そうぐみ)
各時代の都市パターンの受け継ぎ方の組み合わせによって生じたヴァリエーション。
セヴェラルネスを基本にすえ、都市連鎖のメカニズムを考えていくと、そのヴァリエーションの総体はどのように整理することができるだろうか。
するとそのための基準に値する筆頭は、まず「コンテクスト─かたち」の軸である。つまり都市転用の主体が、都市のコンテクストを受け継ぐか、あるいはかたちを受け継ぐかによって発生する割合のレンジである。もうひとつはその受け継ぎ方が都市のどのようなスケールを相手にしているかである。これは端的に「部分─全体」という幅で考えることができる。
そのヴァリエーションは、いずれにせよ都市転用者による都市《詠み》の技法の諸相を映し出すであろう。意識的にモニュメントのみを残す、知らぬ間に地割りを受け継いでいる等……。そのヴァリエーションが、「枕詞」、「序詞」、「掛詞」、「縁語」、「本歌取り」、「歌枕」、「見立て」、「物名」、「体言止め」等といった和歌詠みの技法に類似していると思われる理由は、双方がなんらかの編集を先行物に対して行なうからである[図5]。
いずれにせよ先の二つの軸の交差によって《詠み》の技法空間をとらえた場合、その手法はセヴェラルである。しかしながら、都市の連鎖はその有限の《詠み》を、各時代ごとの複数回、選択的に行なうことによって、豊富な展開を示した。つまりそれは可能性の乗算的増加をもたらすのである(参照=「連鎖都市年表」)。これら各時代ごとの詠みの技法の複数回の組み合わせによって現在の都市の部分部分は個別的な性格を持つ。このプロセスが層組である。
名著『日本の都市空間』(彰国社、一九六八)では、伝統的都市空間のパターン解析を巧妙な命名によって魅力あるものにしている(例=布石・あられ・したがえる、など)。しかしながらそれはできあがったかたちのみを問題にしていた。私たちはむしろ詠み方の選択パターンによって、都市の姿を区分しようとしているのである。(中谷)
5──都市連鎖詠みの技法空間