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『日本の都市空間』の頃──『建築文化』、「間」展、デリダ | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Around "Japanese Urban Space": "Kenchiku Bunka","MA-Espacel Temps auJapon", Festival D'Automne á Paris,Jacques Derrida | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法, 2004年12月発行) pp.187-199

1──「構造設計への道」、「都市デザイン」、「日本の都市空間」

日埜──『日本の都市空間』は都市デザインやアーバン・プランニングが注目を浴びた六〇年代から七〇年代ぐらいまでの時期を先駆けた本で、大きくはそうした問題への関心の高まりにおいて位置づけられる本だろうと思います。しかしながら、のちの宮脇檀を中心としたデザイン・サーヴェイや原広司の集落調査と実体的には似た対象を見ているようでいて、この本にはそれとどこかしら違うような印象があります。『都市空間』は、当時明らかになりつつあったモダニズムの硬直的な都市計画の問題に対して切り込んでいく「技法」を、日本というバックグラウンドから探しています。観察それ自体よりも「技法」に重心があり、そのことを言い換えれば空間をつくることに向けた建築家の視線がはっきりと感じられるということでしょうか。そしてさらに言うならば、磯崎さんが書かれた序文と結論では、「間(イマジナリー・スペース)」「シンボル」「見えない都市」といったそれ以降の思考に連なる概念にまで一気に手を伸ばしていて、それはとうていサンプリングやフィールドワークという枠にとどまるものではありません。その点かなり独特な本だと思います。
まず、この本の成立過程からお話しください。
磯崎──この本は『建築文化』一九六三年一二月号の特集をもとにつくられています。版が小型になったので、図版がすべて小ぶりになっている。順序も内容も変わったないのじゃないかな。一九六〇年頃『建築文化』が特集号形式を始め、最初の特集が六一年四月号の「構造設計への道」で、僕はまずそれに付き合いました。その頃たまたま数学教室に遊びに行ったときに立体幾何学の石膏模型を見つけた。おもしろいから石膏模型を特集の一部に入れようと、撮影に行ったことを記憶しています。最近になって、いま日本の構造界をになっているそうそうたる人たちの多くが、この特集号で触発されて建築構造の道に入ったと聞いて、学会とは無関係の雑誌が影響力をもっているのだとあらためて感心しています。それまではラーメン・システムの解析をやることが建築構造の主流でした。かたちから建築構造にアプローチしていく方法論があるのではないかと考えたんですね。それまでの日本の建築構造のシステムのなかにはこんな発想がなかった。その点が今日再認識されつつあるのかもしれません。
このあいだマン・レイの展覧会のカタログをあらためて見ていたら、彼がパリからハリウッドに帰った頃描いた油絵が数点あって、数学模型を描いています。それらの抽象絵画作品では三次元模型を二次元で描いているわけですが、その表現を彼がどのようにして見つけたのか、最近そのあたりを調べている研究者も出てきたようです。マン・レイが描いた数学模型も戦前のものですからおそらく東大にあったのと同じような模型だったんではないですか。東大のミュージアムの人たちがあのときの模型の由来なんかを調べていると聞きました。
僕の関心は、都市についても同様ですが、かたちから建築構造にアプローチすることでした。それは、現在佐々木睦朗さんと一緒にやっている、かたちをコンピュータでつくっていくシステムにつながるものだと考えています。解析力が上がったいま応力の分布状態がすぐわかる。こういう解析ができるようになった時代にあらためて見直すと何を探していたのかわかるわけです。
六一年に一一月号「都市デザイン」という特集、六三年の「日本の都市空間」は三番目の特集です。そしてさぼっていてなかなできなかったのですが七二年に「情報空間」という特集をやりました。僕はこのあたりの特集号など『建築文化』にときどき原稿を書いていました。この『日本の都市空間』に即して言うと、すべての原稿は無署名です。「都市デザインの方法」を書いたのは僕、「形成の原理」は伊藤ていじが書いたと思います、ここから後の「構成の技法」は手分けして書いたんじゃないかな。全員で議論したからもちろん全部付き合っているんですが、僕はほかにはシンボルとなるパターンのグラフィックを描いた記憶がある。
ノーテーションはそのとき一番関心をもっていた部分でした。現代音楽のグラフィック・スコアなんかを思い浮かべていたと思います。実際サーヴェイした図面は大学院のマスター組。土田旭、林泰義、富田玲子、大村虔一、鳥栖那智夫、福沢健次などが二年生、ほかの三人が一年生だったように思う。彼らが夏休みを全部投入してやった。「日本の都市空間」の前の「都市デザイン」特集は本にならなかったけれど、歴史的に都市のかたちを形態分類をして、その実例も全部出ていましたから、こちらのほうが教科書的でポピュラーになったんです。その数年前、ハーヴァード大学のデザイン学部にGSDという都市デザイン学科ができたんですが、「アーバン・デザイン」という言葉は、そこから出てきたと記憶しています。ハーヴァードはシティ・プランニングではなくてアーバン・デザインという言い方で少し差をつけた。アーバン・デザインは、ル・コルビュジエなんかの言う「ユルバニスム」の英訳だと思います。日本には都市計画、いわゆるシティ・プランニングしかなかったところにアーバン・デザインが出てきたので、僕はなんかとっかかりがつかめそうだと思っていました。シティ・プランニングにはないことを理論化する方法はないかと探していたんです。そうやっていいかげんにやった「都市デザイン」特集が逆にハーヴァードのGSDの教科書として使っているという情報が流れてきました。それくらい世界でもそのような角度から都市を見る研究は少なかったということです。

『建築文化』1961年4月号

『建築文化』1961年4月号

『建築文化』1961年11月号

『建築文化』1961年11月号

『建築文化』1963年12月号

『建築文化』1963年12月号

2──「日本の都市空間」が成立するまで

磯崎──この頃伊藤ていじと川上秀光と僕と三人で「八田利也(はったりや)」という共同ペンネームで、匿名で原稿を書いていました。これも『建築文化』に発表したものが主です。だから、「八田利也」の発表舞台は『建築文化』だったわけですが、まあこれは署名入りではにらまれるおそれのある内容をこんなペンネームで発表していたわけで、『現代建築愚作論』(一九六一)として本になったときにやっと本名をバラしたんじゃなかったかと思います。いまで言えばインターネットに匿名で文章を書くようなものです。いつの時代でもこんなやり方が必要なんですよ。だから『日本の都市空間』でもそんな無署名の名残があったんでしょう。
当時『建築文化』に金春国雄さんという編集長がいました。伊藤ていじさんが「狂い咲きの桂離宮」(『建築文化』一九五六年一一月号)を書いてデビューをしましたが、金春さんと彼の仲がよくて、おそらく伊藤ていじが「日本の都市空間」の企画を売り込んだのだと思います。われわれ側としたら調査費をとったということが一番の手柄で、建築雑誌が出してくれた旅費で日本のいくつかの都市の調査をやりました。実際は調査をまとめるためではなくて、遊びにいく費用を探していたんです(笑)。デザイン・サーヴェイという言葉はまだなかった。だから僕らはサーヴェイに行ったつもりはなく、その都市空間がもっている特徴とそのコンセプトを取り出すことによって適切な事例になるかという視点でセレクションをしました。妙心寺、姫路城、日光や平戸などいろいろなところを引っ張り出し、パターン分類しました。個々の建築を調べることを目標に行ったのではなく、使えるもののなかから適切な事例を探して、写真撮って実測をした。デザイン・サーヴェイと呼ばれるようになって、何でもかでも精密に記録するようになったじゃないですか。アカデミックには成り立つでしょうけど、その背後に潜むコンセプトを取り出したりするのは主観的解釈で、ルール違反とさえ考える人が出てきた。システムが退廃していくときの共通現象ですが、僕はそんなのはひまつぶしだと思っていました。
僕は個人的には「都市デザイン」特集のとき勉強をしようとしながら書けなかった原稿があって、これを載せてくれと頼んで特集号の「日本の都市空間」の冒頭に入れてもらいました。だから僕のこの冒頭の原稿は実は『建築文化』の「都市デザイン」特集に載せるべき原稿だったのです。このテキストだけほかのものと違うのです。書物の後半に収録されている部分は雑誌の企画のときに考えました。このときは基本的にはコスモロジーにつなごうとしていた感じですね。都市空間の形成が日本のコスモロジーの空間的な形成の仕方とパラレルになっているということは、みな直観的にわかっていました。
この本のなかで「形成の原理」としてあげている「真行草」や「布石」などは日本の美学と言うと語弊があるかもしれませんが、僕は手法だと考えたようですね。後年になって、手法をクローズアップすることになる遠因です。また「かいわい」も「形成の原理」にぜひ入れたいと考えました。都市計画のゾーニングに対する批判をやりたいと思っていたのですが、それまで手がかりがなかったんです。それからもうひとつは「ひもろぎ」、つまりテンポラリティのようなものを「構成の技法」に入れています。「かいわい」が空間性なので、当然ながら「ひもろぎ」が時間性として浮上してきました。とはいっても既成の都市空間の概念には扱われることもなかった。だから注目したんです。そして、これを僕は「都市デザインの方法」の最終部分の象徴論的段階に一気につなごうとしている。霧状の動きです。いまならばライプニッツのモナドなんかで説明したかもしれないけど、まあこんな知恵はありませんでした。こういったパターン分析をやり始めたのは、伊藤ていじの蘊蓄によっていると思います。彼はその頃日本のかたちやデザインに関わる本を書いたり、二川幸夫の『日本の民家』の原稿も書いていたので、彼がその領域からのさまざまな情報を提供してくれています。「構成の技法」の項の「見えがくれ」や「生けどり」などの内容は彼の資料によるところがかなり多かったという記憶があります。それらに対してどのような説明をするか、みなで議論した記憶があるんですが、やはり伊藤ていじの知識がかなり頼りになりましたね。
この本ではそれぞれの項のタイトルの英訳が重要問題だったんです。日本語で考えているコンセプトを英語のタームにしていくのですが、これは必ずしも直訳になっていない。日本にいたネイティヴの連中をつかまえて、根掘り葉掘り聞いた記憶があります。「見えがくれ」の英訳は「seen and hidden」なのですが、彼らといろいろ考えてやっと出てきた言葉で、いまでもよい訳だと思います。それから「生けどり」を「Borrowing Space」と訳しています。英語のタイトルをつけようと思ったのは、日本の伝統的なコンセプトを英語圏、あるいは横文字圏に伝達するときに、日本語から直訳でいってはいけない、むしろひとつの状況に対して日本語の説明と英語の説明が並列することによって初めて伝えようとすることが浮かんでくるという見方を、このときに意識していました。そのコンセプトを同時にインキングされた図面と、僕が一筆がきでかいたイラストをやはり併記していることにも注意しておいて下さい。異なる言語間だけでなく、異なる表現領域も併記すること、今日ではコンピュータのモニター上で日常的に起こっている光景ですが、あのころはそんなやり方もひとつずつ見つけていかねばならなかったのです。いまなら普通のことですが、これは僕にとってはよい経験でした。この経験があったがゆえに、一五年後に「間」展をやるときにメジャー・コンセプトをそこから取り出したと思います。「間」というコンセプトをまったく無関係の事例に分解して、その事例を例えば「うつろひ」は直訳ならmovementやtransitionになるわけですが、それでは駄目で、瞬間というのが重要なのだからmoment of movementと訳すわけです。そういう表現でいくことになりました。このようなことを手がかりに「間」展は逆に組み立てられています。つまり日本文化、あるいは日本の事情を海外の連中にわからせるには、単純にものを見せただけでは駄目だし、コンセプトを日本語で出しても駄目で、彼らのもっているロジックで説明しないといけない。こういう二重の見方が必要で、事態をバイリンガルで考えるということです。このことの重要性が、このあたりで少しずつわかってきたと思います。

3──伊藤ていじ、神代雄一郎のサーヴェイ

日埜──「都市空間」でとられた方法というのは、フィールドワーク的な調査からの抽出ではなく、あらかじめ用意したキー概念からその具体的事例に向かうという順序だったわけですね。
磯崎──どこからアプローチしていいかわからないわけです。その点、伊藤ていじはその前から日本の民家を調べていて、地域ごとにまったく資料をもたずに面白いものを探しながら二川幸夫と出歩いていた。あの山奥はおもしろそうだというので行ったら駄目だったというような話がたくさんあったらしい。調査もされていなかった頃です。そういう過程のなかで高山の日下部家などが見つかり、今井町もそうです。いまでは民家も重要文化財になっているけれど、当時は名前も聞いたことない、そんな時代でした。
いわゆるデザイン・サーヴェイは空間だけではなくて材料や集落の建て方、それから生活の仕方などを同時に考えながら、それがどうデザインにつながっているのか、そういう視点でサーヴェイしていくわけでしょう。正直なところ、そんな手間暇かける余裕なんかない。直観的に見当つけていってみる。僕は二川幸夫とそれを世界の都市でやりました。一九六四年のことです。このときも原研究室の集落調査は広い意味でのパターン分類で、そのパターンがそれぞれの地域の宇宙観や生活習慣とどうつながっているかという視点で取り出そうとしている。宮脇檀が次にやっていたのはどちらかと言えば吉村順三さん的な視点で、数寄屋ではなくて民家を調べるということだったのではないですか。神代雄一郎さんがやった日本の共同体調査は、堀口捨己さんがお茶について調査をやった方法を受け継いでいますね。日本の集落の形成の仕方をいままでと違う見方でやること。集落のなかでの氏神、神社の位置関係や神の移動、神の降臨の仕方と集落の関係、こういう視点を見つけようとしている。これは他の建築家のサーヴェイとは違います。むしろ文化人類学的な調査ですね。いま振り返ると、神代さんの調査のほうがいわゆるデザイン・サーヴェイよりも正統的なサーヴェイだったのではないかという印象があります。つまり伊藤ていじと神代雄一郎はだいたい同世代で、彼らはなんとかして日本のアカデミックに整理されていない領域──それは町家や民家、集落なのですが──の具体的な調査とサーヴェイをやっていた。これはある意味で、歴史家が特定の場所に行き、さまざまな古文書を集め、そこから経済活動や自分の興味のある文化などを取り出してくるという、網野善彦さんが始めた歴史の研究方法を無意識にあの世代はやっていたのではないかと思います。しかしこれは歴史家としてやっているので、僕はそこまでは付き合いきれませんでした。
日埜──そうなると建築家の見方ではないでしょうからね。
磯崎──僕の関心は、非西欧的な要因、要素が日本の都市、集落にどれだけ見つけられ、かつ説明可能か、そういうところにあったと言えますが、実際の民家や集落を歴史的に調べるというものではなかった。だから僕のやったことは、近代の一種の解釈学につながるのではないか。あるものをどのように見るか、解釈するか、この解釈の仕方が建築のつくり方とも絡んでくるわけです。むしろそちらに僕は関心をもっていました。
日埜──そこには日本人としてその都市空間を生きてきて、西洋にはない無意識の形式をそこから掘り起こし、明示的にしてやろうという意図が背景としてあったわけですね。
磯崎──例えば「間」の感覚というのは日本人は言わなくてもわかっています。だけどヨーロッパの人たちは言葉もわからないから、そういう感覚もないだろうと薄々わかっています。そういう場合に、単純に俺たちは違うと言ったのではコミュニケーションにならないから、この違いの部分を彼らの言葉やロジックで説明する。そうすればこちらのロジックがよりはっきりわかると同時に、向こうにも伝えられる。言い換えると、ヨーロッパの近代的見方で日本という非近代、非西欧の世界を読むわけです。これはある意味文化人類学と似ているのだけれど、それを建築や都市の領域に限定してやるとそこで解析されたものが道具として使える可能性がある。だけど日本の伝統的な手法のままでいくと、それは職人がもっているだけ、あるいは集落が無意識に生成させているだけなので、それ以上の解釈は不可能です。これは異物としてしか存在しないと見られてしまう。西欧から見れば固有性として認めることはできるかもしれないけれど別世界になってしまうのです。例えば小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の仕事を見て下さい。彼が日本に来たのはマルティニアックやニューオーリンズのようなクレオール文化を探していたためだと言われていますが、本人が抜群の英語の表現力をもち、さらには文学的想像力にすぐれていた。そんな人の手によって、英文で記録されたものを、僕たちは日本の怪談そのものと受け取っています。言い換えると、彼のような解釈がないかぎり、この日本の固有性と見られたものの一部分は伝達不能だった。日本の伝統と一口に言ってもそんな手続きを介して、フィルターにかかったものなのです。

磯崎新氏

磯崎新氏

4──フェノロサ、ラフカディオ・ハーン、天心の位置

日埜──日本でも近代的な都市計画のボキャブラリーは西欧的なスタンダードによって組み立てられていいるわけですが、そこからとりこぼされている何かを、単に感覚的につかむだけではなくて言語化し、それをベースにコミュニケートできるものにまでにしていくということですね。
磯崎──話は少し離れるのですが、来年ワタリウム美術館で「岡倉天心展」をやることになっていて、僕はそのアドバイザリー・コミッティに入っています。岡倉天心についてはときどき読んではいたのですが、体系的に考えていなかった。展覧会の関係で必要に迫られて勉強しているうちに、フェノロサとラフカディオ・ハーンに関心をもちました。岡倉天心はこの二人の隙間におけばどうにか説明がつくと思っているんです。
フェノロサはスペンサーの社会学、つまりダーウィニズム的な社会の理解を日本に紹介した人です。彼はそのうち美学、美術史に入り込んでいくのですが、日本の美術を見ながら養った鑑識眼は体系化され明快で、日本と中国と朝鮮をアジアの美術史として書いていますが、その一部に日本があるという見方です。それに対し天心は日本からアジアを論じている。だからその後の日本のイデオロギーには天心の影響が強く、フェノロサはほとんど忘れられていますが、大きな意味での東洋に対する分析になると彼のほうが天心よりもすぐれていると思います。
おもしろいのはフェノロサの漢字と能についての遺稿をエズラ・パウンドが整理をしています。この能の研究はイェーツに伝えられ、エリオットなどの当時のイギリス詩人は、エズラ・パウンドの漢字の分析を手がかりにしているのではないかとさえ思えます。そんな具合で英詩の革命が生まれる。その遠因が東洋に流れた人たちの日本文化の研究にあるのはおもしろいじゃありませんか。
フェノロサのノートをエズラ・パウンドが書き換えると、同じ文章でもすばらしい英語で詩的になる。フェノロサは社会学者ですからロジックでしか考えていない、という違いがあるのですが、同じ物語の書き換えをラフカディオ・ハーンがやると、これはもとの物語よりもはるかに文学になっています。二人が活動したのは一九世紀の終わりですから、世界的な文化コロニアリズムに組み込まれていて、東洋に対する視点には限界があるのは当然のことです。ハーンという人は本来弱者というか、女性的なものに対する関心から日本に来ています。だから、むしろ日本文学の伝統にもぴったりだったんでしょうね。フェノロサは、建築でいえば正統的な書院造だけをやって数寄屋は論じないということを美術でやった人だと思います。彼が初めて発見したものが多くあります。
天心の『茶の本』は本来は茶道論ではなくて、いけばな論をやろうとしていたところお茶について余計に書いてしまったから、タイトルをお茶にしたのではないかと言われています。しかも「茶道」だからタオで、おそらくそれに引っかけて道教とみて、禅も道教のうちだという説明です。「茶道は変装した道教であった」と言っているくらいです。それが世界的に理解されやすかったのでしょう。『茶の本』でも禅や日本の美意識というのは論じているけれど、大きな枠組みからすると、道教で説明しつくそうとしている。そこであの本は売れたという気はします。外部の人間が日本の美、東洋の文化をどのように記述するかということと、その中にいる人がどう説明するかということ、そしてそれを何語でやるかということはすごく大きな問題です。岡倉天心は全部英語で書いていますが、それはヴィクトリアンの英語だそうです。日本で言うと明治初期の美文調の文体かな。
そしてフェノロサや天心たちは日露戦争直後ぐらいまでにみな亡くなっています。それから後の日本というのは天心たちのように、英語やほかの外国語と日本語との関係で見るのではなく、純粋日本というものに帰っていきました。国学の復活から日本浪漫派に至る流れになります、バイリルンガルではなくなっていく。外国人から何を言われようと構わないということになる。そこでタウトが微妙な立場になります。タウトは桂離宮を発見したと日記に書くほどでした。タウトの日本文化論は外国人の見方というよりも、ドイツ語で建築を通じて明治維新のイデオロギーを表に出したのだとも言えますね。明治時代の海外よりの研究者とはまったく違う見方、表現の仕方だと思います。しかしタウトはそのような表現をしないかぎり、日本で亡命生活はできなかった。巧みに演技のできた人だとは思います。

5──「間」展

磯崎──話を戻しますと、一九六〇年頃、都市空間をどう解釈したらいいのか、僕の個人的な関心は、無意識ですけれどその視点の形成にあった。『都市空間』を書いていた頃、六三年に初めて海外に行き、半分ぐらいの人が夏休みにサーヴェイに行っているところを、外国旅行してつき合わなかったという記憶はある(笑)。
日埜──海外のボキャブラリーと日本のボキャブラリーを考えるうえで、実際の都市を見比べることは視点としては必要だったでしょうね。
磯崎──そのポイントしかないと思いました。これは刷り込まれているから、その後も僕自身の考え方はあまり変わらないですね。
日埜──『都市空間』は基本的には国内向けで、部分的に客体化するように英訳が付されていますが、「間」展の場合は逆に、日本というものを海外でどのように見せるのかということが問われ、それは裏腹の関係にあると思います。「都市空間」特集が出てから「間」展まで一五年あるわけですから、磯崎さんの視点も当然移動しているでしょうし、でき上がったものの意味もかなり違っていると思いますが、いかがでしょうか。
磯崎──もちろんテーマもシチュエーションも違うんですが、その一五年の間、日本については意図的に何にもやらなかったと思います。だけど、現代美術や現代音楽、それから他の領域や思想的な本、あるいはロラン・バルトの『表徴の帝国』もこの一五年の間に書かれていますから、そういう本があったということで「間」展が始まっているとは言えます。
日埜──「間」展はそもそもパリで開催されましたね。
磯崎──ええ。パリの秋芸術祭は七〇年代の半ばから毎年、主としてパフォーミング・アートを軸にして催され、今日でも続いていますが、これを始めて、初期のディレクターをやったのが、ジスカール・デスタンのときに文化大臣をやったミッシェル・ギーという人です。ちょっとばかりド・ゴールのときのアンドレ・マルローを意識していたふうでした。一九七八年秋を日本特集にすることにして、独自の調査スタッフを日本に派遣したりして、企画をつくりました。国際交流基金などに頼むとわれわれは出る幕はないとわかっていたので、彼は日本政府とは関係なく武満徹と大島渚と僕を指名したんです。ロラン・バルトにシノプシスを書かせて大島に日本文化の短編映画をつくらせようという目論見があったのですがぽしゃった。大島のアイディアは、天皇陵の盗掘ドキュメントをつくることだった。もちろん駄目になった(笑)。そこで武満が音楽、僕が美術という分類で二人で組んでやることになった。しかし交流基金は自分のところの企画なら資金は出すが、承認していない向こうの企画になぜ資金を出すのかというわけで、予算化にはかなり苦労したんです。一度潰れ、もうやめようとしたんだけど、突然フランス大使などが日本の政治家などに根回しをやっているうちに交流基金の予備費を引き出せばいいことになり、やっと成立したといういきさつがあります。外からの目と、内側からの外に対する出し方が交錯すると常に事件が起こるわけです。僕がバイリンガルでものを考える必要があるというのは、ひとつは日本、もうひとつは近代、戦後に関してのことですが、この視点が問題を立体化するのです。
日埜──建築は基本的に西洋のベースがオーソドキシーとしてあるわけで、そこでオリジナルなもの、固有のものをつくるときには、その基底面上で客体化ないし対象化していくことを具体的に行なう必要がある。それはモダニズムからこぼれ落ちる要素というだけの問題ではなくて、建築そのものがそういう問題を孕んでいるのでしょう。
磯崎──日本と西洋の問題を考える際に、例えば日本の古典、近代、現代、それぞれの美術を紹介する展覧会は無数にあるわけです。とはいっても、ここには二つのカテゴリーしかない。ヨーロッパのジャポノロジー流行にどんな美術作品が供給されたのかという、主として、江戸末から明治にかけての輸出美術。いまも盛んで、根つけ、甲冑の類から浮世絵など。もうひとつは近代化が始まった以降にヨーロッパ美術を日本がいかに学んだかという輸入美術。例えばポンピドゥ・センターで日本のアヴァンギャルドの展覧会がありました。パリがつくり上げてきたアヴァンギャルドの型が日本にどのように流れてきたかという事例を探すことが主眼でした。言い換えると、それはフランス文化帝国主義の展覧会にすぎないわけです。実はこれは「間」展の後に催されました。わざと日本に持ち帰らなかった。それに対して「間」展はもともと素材そのものが違う。あとはコンセプトの問題だけです。美術で言うならば、日本のシンギュラリティをどう取り出すかということです。だから日本的な前衛とは何か、そのなかでの禅的なものは何かというかたちでシンギュラリティを取り出すことになりました。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

6──「間」は「虚」につながる

日埜──そのときは「間」というものをどのように捉えられていたのでしょうか。
磯崎──最初に何か提案をしろと言われてシノプシスを書いた記憶があります。そのときにすでに「間」にしようと思っていました。先ほどのポンピドゥー・センターの日本のアヴァンギャルド展のときには、向こうも日本から集められた事例はあるけれど、成功しないだろうとわかってきていた。それでポンピドゥーのデザイン部門がデザインの展覧会として追加の企画を依頼されました。「間」展の経験を生かしてのことですが、ソリッドで永遠で硬いものに対して、はかなくて瞬間的にすぐ消えていくような概念、フランス語の「エフェメール」で展覧会を編成しようと思いました。徹底的に日本文化論として組み立てることも可能だなと思って、そのシナリオも書いた記憶があるんですけれど、結局は時間と金がなくなってこの企画は流れてしまった。だから僕も自由に文句が言えるという立場ではなかったんだけど(笑)。僕にとって「間」は抽象化された「虚」(老子)につながるような概念で、「エフェメール」とはそれとは別の、ヨーロッパではつかみにくい現象としてあると思います。あらためて、このアイディアを掘り起こすことも今日意味あるかもしれないけれど、僕個人はもうやる暇がない。
それから後はアメリカ向けの展覧会をいくつかやったりしました。これはいわゆる西欧中心主義に対抗する周辺からの提案でした。八〇年代になって、いわゆるポストモダンの時代になってからは、この種の視点に変化が起こっています。とりわけ九〇年代以降は、もう固有性なんて問題さえ消えていき、ひたすら世界はスクランブル文化状況です。国別地域別テーマパークなんかが世界中に広がり、それが普通の都市の表層にまで出現している。こんな有様では固有の価値なんかありえない。戦略の変更が要請されますね。「間」展をやった頃までは、あの「都市空間」は通用していたと思っています。だから、どうしていまもこの本が読まれているのか、むしろ僕のほうから聞きたい。この本が四〇年ももっているのは一体なぜなんでしょうか。
日埜──結局この本で言われていること、取り出そうとしているものについての不自由がいまだに実感されているからではないでしょうか。なにか捉えきれていないという思いがおそらくある。例えば「かいわい」という言葉が指し示す空間の生き生きした有り様をどうにかつかまえたいという思いは、建築家であれば誰でもあるでしょうが、それに対して満足な答えはない。それは計画ということと相矛盾するような問題ですから、そういうフラストレーションはつねに残ると思いますけれど、そういう問題に対するアプローチにおいてこの本が未だにアクチュアルだということじゃないでしょうか。ヴァナキュラーなものに対する好奇心というよりも、実際に生活が営まれる具体を捉えることへの関心ですね。現代的な技術を持ってすればたいていのことは実現できるけれど、それだけはうまくいっていないという意味ではより切実かもしれません。生き生きとした空間、あるいは生き生きとした都市空間というのは一体どのようなものか、例えばマスター・プランニングという問題領域を考えてみると、われわれは驚くほど貧困なヴォキャブラリーしかもっていませんよね。

7──デリダの「間」/コーラ論

磯崎──それは、いまだに解けてない大きな問題だと思います。
それから「間」展の続きで言うと、先日ジャック・デリダが死んで追悼文で彼との付き合いのことを書きました。デリダはラヴィレットでピーター・アイゼンマンと共同して、「コーラの庭」をつくるというプロジェクトをやったのですが、これはできなかった。できなかった理由はいろいろありますが、コンセプトとしてできなかったということが大きいと思います。結局、デリダの考えているものをピーターが解釈してかたちにしても、デリダは間違っていると言い、最後にもうこれはやれないという結論が出たと思っています。僕は、デリダから「間」についての話をしたときに、この「コーラ」という言葉を聞きました。八四年に日本で日仏文化サミットが開かれて、デリダはフランス側の代表で来日し、僕は日本側で出席していました。そしてフランスの代表団はみな来日の少し前に「間」展を見ていた(笑)。それで必ず「間」展について触れ、いろいろ解釈して議論をする。ところが日本人の出席者はこんな展覧会が催されたことも知らなかったくらいでした。「間」展は日本にはもってこなかったし、ジャーナリズムも伝えていないから日本側はわからない。ところがあまりフランス側の代表団が「間」展について言及するので、日本の代表団は困ってしまった。そこでデリダは見かねて、日本の代表団に「間」について僕よりもよほどうまく説明してくれたわけです(笑)。さらに彼は「コーラ」と「間」がとても近いと言いました。当時場所論がはやっていて、場所論のひとつに西田幾多郎の「場所の論理」があり、西田は場所のコンセプトを「コーラ」で説明しようとしているのですが、ほとんど失敗している。それで「コーラ」については僕も若干知っていました。「間」と「コーラ」をつなぐ、これは思考の補助線を見つけるようなものです。突然ギリシア(西欧)、日本(東洋)それに現代(世界)の関係が別の見え方をして立ち上がります。僕はそのとき「間」についてデリダからヒントをもらった。ただ「間」とコーラをつないでいる部分についてはこれからもいろいろな解釈が出てくると思うし、いまだに問題として残っています。ハイデガーの存在論についてはいろいろな議論がされているけれど、ハイデガーの言う「被投性」もこんな場所につながる要素があると思われます。同じような例で言えば、タウトが伊勢神宮がパルテノンに匹敵すると言いました。そこにはまったく論理がない。単純に建築の凡例として最高だと思われているパルテノンに伊勢神宮を引き当てることによって、伊勢神宮の評価を上げただけで、その関係を説明できるロジックはありません。だからタウトの語り方の政治性だけが残りました。しかし「間」と「コーラ」はもう少し問題として整理がつくのではないかと、僕は考えています。誰かこれを軸に展開してほしいですね。
日埜──なにしろ「コーラ」は西欧思想の源流とも言えるプラトンに由来するわけで、それと日本の伝統的な「間」が繋がるならば、これほど深い通底もないでしょうね。
磯崎──そういう僕の関心はすべて「都市空間」をつくった頃に始まったと言えます。このときには書かなかったけれど、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』との関係もあります。もののあり方の部分とものの外との相互関係がいろいろあり、その関係はさらに広がっていき、ばらばらで説明がまだつかない。そこで過去一〇年くらいを何でつないだらよいかと考えているのですが、それを英語で言うと「ゴースト」、日本語の「影」が、そこの間の関係を説明する手がかりになるのではないかと思っています。これについてはまとめないといけないと思っていますけど、僕の言う「影」は、河合隼雄が『影の現象学』で扱っている「影」とはまったく違うものです。それをいつかやりたいと思っています。日本の都市空間や建築空間論にずっとつながっているのは実はこのあたりではないかと思っています。理屈にならない部分がたくさんあるのでなかなか説明できないのですけれど、誰でもいいからやってほしいな。
「間」─「エフェメール」─「コーラ」─「影」。『日本の都市空間』の作業につきあって以来四〇年が過ぎて、やっとこんな一連のヒントが取り出されてきました。まだ直観的に並べてあるだけですが、僕はその背後にある物を身体的に感知していると考えています。いや身体的に感知しているからロジックを介さずに並べているのです。まあ、これが普段の僕のやり方でアカデミックが嫌いでアクロバット(?)のほうが好きな理由でもあります。先ほど「コーラ」についてジャック・デリダの名前を出しましたが、何度か出逢うことがあり、いつも雑談ばかりやった記憶しかありませんが、何しろ語られること、書かれることの明快性には感嘆するばかりです。内容をフォローするのは困難だけど、そんな思考の生まれる過程は少しずつ推測できる。わかることは、フランス語の思考の特権的なところでしょうが、ロジックが明解にまず語られている。言葉がそのロジックをナイフで刻むように切り分けていく。これが僕の発想の対極だと思います。そのうち彼はロジックでつかまらないものを語り始める。例えば『マルクスの亡霊たちSpectres de Marx』(一九九三)では「ファントム」や「ゴースト」に近いようなイメージが出てきます。このあたりが僕にはとてもおもしろいことで、彼もまたロジックでつかまらない、ぼんやりしたものを探しているのです。僕は言葉やロジックにならないイマージュにあらかじめひっかかってしまう悪癖、いや日本語で思考するものの陥りやすい罠があることを自覚しています。だから、ぼんやりした何ものかが先に居座ってしまう。それを「見えない」と言ったり、「霧」とか「雲」とか言ってきましたが、それも「ゴースト」なのです。これをさしあたり「影」と記してある。こんな調子なので、デリダが入り込もうとしている物を裏側から追っかけている、こんな具合なのかもしれません。あれやこれやも、やっぱり四〇年前の『日本の都市空間』に送り返されていく。四〇年やってきてあんまり変わっていないんですね。
[二〇〇四年一一月一三日、礒崎アトリエにて]

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.37

特集=先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法

>日本の都市空間

1968年3月1日

>宮脇檀(ミヤワキ・マユミ)

1936年 - 1998年
建築家。日本大学教授。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>佐々木睦朗(ササキ・ムツロウ)

1946年 -
構造家。法政大学工学部建築学科教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ポンピドゥ・センター

フランス、パリ 展示施設 1977年

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...