RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.50>ARTICLE

>
「死体」について | 木村覚
About a Corpse | Satoru Kimura
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960, 2008年03月30日発行) pp.37-39

すべてがリアクションであるようなダンス

これまで「タスク」「ゲーム」と、一般にひとがダンスなるものについて抱くイメージからはほど遠いキーワードをとりあげて、今日的な「もうひとつのダンス」の在処を探ってきた。言い換えればそれは、米国のジャドソン教会派を中心とする一九六〇年代のアヴァンギャルドなダンスのムーブメントへと立ち戻り、さらにそこに示されたアイディアを現在のさまざまな身体表現と照らし合わせてみる、という試みだった。振り付けとは、一般にそう思われているように観客に美的なイリュージョンを提供するための理念型であるだけではなく、むしろイリュージョンを最少にし、その代わり、いまここで生きて働く身体の状態へ観客の注意を喚起するための単なる制約でありうる、そう捉え返すことは可能か。どちらのキーワードも、振り付けに関するこうした思考の転換をわれわれに促す装置として、ここで取り上げてみたわけである。
今回はそこに、さらに「死体」というモチーフを重ねてみようと思う。勿論、これは暗黒舞踏の創始者・土方巽に纏わる概念である。ジャドソン教会派と同時期に「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」という謎めいた言葉を残した土方もまた、振り付けという規則のもとに身体を飼いならす既存の西洋的ダンスから離れることで、リアルな──命掛けで突っ立った──身体の状態をひらこうとした一人にほかならない。その身体を指すのに、土方は「死体」なる語を用いたのだった。
なぜ「踊り」とは「死体」なのか。暗黒舞踏の根幹に関わる議論の大風呂敷を広げる余裕はない。そこで、ある個人的なエピソードへと迂回することで、この問いから「もうひとつのダンス」の輪郭を、その片鱗だけでも掴まえてみようと思っている。
それは、一年ほど前、土方が一九八六年に急逝する直前に薫陶を受けていた舞踏家の一人にインタヴューしたときのこと。ぼくが「暗黒舞踏とは要するに何ですか」と愚直な質問を投げかけると、ドトールの席から自動ドアの辺りに目をやった彼は「もしあそこで誰かが躓いたら、誰だって見ないわけにはいかないですよね」と切り出したのだった。
躓きが暗黒舞踏? さらに話を聞く内に、晩年の土方が弟子に与えた稽古の多くが、正に舞台上でリアルに「躓く」ために、豊かなイメージに基づくインストラクション(指令)へ身を投げ入れる試みであったことがわかってきた。
例えば、次第に爆発的に数を増してゆく蟻が体を這い回っているその足を感じろとか、水銀の入ったお盆を頭に載せカミソリの刃の上を真っ直ぐ歩けとか、目をガラス玉にしてその代わり額に目を描いたら周りの風景を見るのではなく全身に映せとか……。こうしたインストラクションは、身近な素材をイメージに用いながら、身体を危機的な状況に、あるいは純粋に反応するだけの状況に導いていく。リアルにイメージすればするほど、蟻の足やカミソリの感触に過敏になって、身体の細部は一つひとつ活性化しはじめる。そこでは諸々のイメージは、観客の前に表象するために用意するものではまったくなく、ただ身体が外側からの刺激を繊細に察知しそれを動機に動くための単なる制約なのである。それによって身体は、沸騰した湯のように、あらゆるところがバラバラにでたらめに運動するようになる。
なるほど、がに股、白塗り、白目などのキャッチーでショッキングな外見を一旦削ぎ落として、暗黒舞踏をほかならぬダンスとして理解するならば、その本質として浮かび上がってくるのは、あらゆる時間にあらゆる身体の部位が同時多発的に運動している状態、すなわち突発的に生じるハプニングに次ぐハプニング(躓きに次ぐ躓き)なのである。
それは、能動的アクションというよりすべからく受動的なリアクションのダンスとでもいうべきものではないか。先の舞踏家によれば、土方は弟子たちが混乱するよう矢継ぎ早にいくつものインストラクションを課し、またときには、それに対する反応が遅いといって責めたという。身体を意識的にコントロールできなくなり、そうして、すべての動きがリアクションの集合体と化すこと。観客がそこに、ダンサーや振付家からの一貫したメッセージ(作品性)を感知することは難しい。いや、メッセージを運ぶどんなイメージも身体からはがれて、むしろ身体に時々刻々起こる出来事が観客の目撃する興味深い事件になる──そうした事態こそ、ジャドソン教会派と同時代に誕生した暗黒舞踏が目指した「もうひとつのダンス」の進む方向だったのである。
さて、そこでこうした問いが生じるかもしれない。メッセージなき作品など観客にとって愉しいのか、と。いや、まさにそれこそ誰もが「見ないわけにはいかない」ものなのではないか。先に触れたように、土方は、自らの踊りを指すのに「死体」という語を用いた。例えばそれを、相撲でいう「死に体」とそう大差のない状態を指すものと考えてみたらどうだろう。「力士の体勢がくずれて立ち直ることが不可能になった状態」(『広辞苑』)とされる「死に体」は、周知のように、勝敗の決する直前に、事実上勝負ありとみなしうる数秒後の敗者や数秒後の勝者が、互いに無駄な怪我を被ることを避けるために用意された用語である。「死に体」はだから、もはや自らの力では情勢を覆すことの不可能な、故に徹底して受動の状態にある身体である。程度はどうあれ、闘う二人のどちらかが必ず最終的に「死に体」(敗者)と化すのが相撲である。ならば、相撲する身体の魅力は、勝者のみならず敗者も分かちもっているかも知れない。思えば、相撲好きのぼくの父は、闘う二人のどちらを応援していても、いつも必ず最後に「ああ負けたー!」と無意識的に叫んでしまうのである。本人に自覚はないのだが、どうも敗者の体のほうに父の目は釘付けになっているようなのだ。
すべての相撲ファンが父のように「負けたー!」と叫ぶかはわからない。けれど、対戦相手から受ける過剰な情報を処理しきれず「死に体」と化してしまったその敗者の身体は、土方のような人間の視線からすれば、ダンスというものに必須の「完全な受動性」を宿していると言っていいだろう。「刑務所へ」と題するエッセイで死刑囚に「ぼくの舞踊の原形をみる」と断言して、さらにこう土方は続けている。

歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間……この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない★一。

1──「疱瘡譚」1972年 撮影=小野塚誠

1──「疱瘡譚」1972年
撮影=小野塚誠

2──手塚夏子「プライベート・トレース」

2──手塚夏子「プライベート・トレース」

身体──芸術が終わった後のアートが愛を傾ける対象

「タスク」や「ゲーム」というアイディアはダンサーを、自らの内面にあるイメージの表現者ではなく、むしろ外側に設定した課題に応答する一人の単なる行為者あるいはプレイヤーにする。「死体」とは、そのベクトルを極端なレヴェルにまで推し進めた末の身体のモードを指している。そこにあるのは、内面のイメージを完結した作品として観客に呈示し賞味させる、いわゆる芸術作品ではない。むしろ既存の芸術のフレームから逸脱し「人間的自然の根源的なヴァイタリティ」を引き出そうとする仕掛け、そうした意味における「もうひとつ」のアート(技)なのである。
目の前の身体に規約的な仕方で内面性を想定してしまうわれわれの通念へ異議を申し立て、内面の読めない空っぽの身体を舞台に放り投げること、まとわりつくさまざまなイメージから身体を一旦解放するか、少なくともイメージと身体との緊張関係をだぶつかせること、そうした目的の下にアート(技)が仕組まれるのは、いまここにいる現実の身体を愛したいが故、なのである。連載第一回で「タスク」を論じる際にとりあげたイヴォンヌ・レイナーが、こう述べるように。

私は身体を──その現実の重さ、マッス、また増進されていない肉体の性格を愛しています★二。


さて、紙幅が尽きてきた。あと手短に三つの事柄に触れて、ひとまずこの連載を閉じることにしたい。最近、電車のなかや道端で見かける、携帯電話に没頭中の身体が気になってしょうがない。不快なのだ。公共的な空間にいるのに、それにふさわしい演技をし忘れている気がして不快なのである。入力というタスク(あるいはゲーム)に集中し、一方で周囲にいるリアルな人間との関係を完全に無視するこの「死体」は、隣の家族や恋人さえも無視していると見えるときがある。一方で、翻ってみるならば、そうした母親役を、恋人役を、友人役を演じ忘れたこの「死体」にぼくたちは日々接し、それに愛情を傾けてもいるわけである。そこには、レイナーや土方のような作家がアートというフレームによって切り出して身体を愛することとは異なる、現実的で切実な問題が生じているに違いない。いずれにせよ、益々加速する「非人間化」の渦のなか、「人間」という失効しつつある観念を召喚することなく、あるいはその「人間」を演じることもまたひとつの「タスク」と考える反省的な思考を携えて、現実の身体を愛するアート(技)をぼくたちは見出さなければならなくなっている。
だからこそ、声のアンドロイド(=ヴォーカロイド)である「初音ミク」が「歌う」(いわば声をもって踊る)そのさまに、ぼくたちは過剰に反応してしまうのかもしれない。「初音ミク」というソフト(=身体)は、人間に近づいたヴォーカリストなのである以上に、人間のほうこそ日々タスクに応答し続ける「初音ミク」なのではないかこうした感覚こそ重要だろう。人間の身体というソフトとどうつきあうべきか十分理解しないまま、ぼくたちはそこに「人間」という枠を被せすましている。その事実が今後「初音ミク」現象とともに浮かび上がってくるのではないだろうか。
ところで「私的解剖実験」などと称し、ダンサー・手塚夏子が孤軍奮闘し続けているのは「人間の身体はそれ自体として何か」という問いに対してである。その問いを通して彼女は、感情が身体に作用するというよりもむしろ身体の内に感情は住まっていると考えるようになったという。昨年三月の公演「プライベート・トレース」では、自分と家族とが過ごした極々ありふれた日常の一コマをヴィデオに写し、その映像をスコアとみなし、身体にその完全なトレースを課した。映像に残された一瞬のしぐさにきわめて微細に反応する「リアクション」を手がかりに、彼女は身体に住まう「あのとき」の感情へアクセスする。そのとき観客が目の前にした手塚の身体は、絶望的にぶっ壊れ、おぞましいほどむきだしのまま「死体」としての身体を曝していたのだった。
けれども、その身体にこそ、ぼくたちが愛したいと思っている当の身体、現実の身体が映りこんでいたではないだろうか。そして、困難なトレースの作業によって手塚の身体が起こす震えにこそ「もうひとつのダンス」の新たな相貌が立ち現われようとしていたのではないだろうか。[了]

3──VOCALOID2 キャラクター・ボーカル・シリーズ01 「初音ミク HATSUNE MIKU」 (クリプトン・フューチャー・メディア、2007)

3──VOCALOID2 キャラクター・ボーカル・シリーズ01
「初音ミク HATSUNE MIKU」
(クリプトン・フューチャー・メディア、2007)


★一──土方巽「刑務所へ」『土方巽全集I』(河出書房新社、一九九八)二〇〇頁。
★二──Yvonne Rainer, Work 1961-73, The Press of Nova Scotia College of Art and Design: Halifax, 1974, p.71.

>木村覚(キムラ・サトル)

1971年生
日本女子大学専任講師。美学、パフォーマンス批評。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960