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バカボンのパパたち | 平倉圭
Papas of the Genius Bakabon | Kei Hirakura
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32, 2007年12月25日発行) pp.59-61

赤塚不二夫の『天才バカボン』に、バカボンのパパが自分をいじめた友人を藁人形で殺そうとする話がある。しかしパパは絵が下手だったため、藁人形と同じ顔をした別の人物の心臓が貫かれてしまう(「催眠術の呪いなのだ」)[図1]。(赤塚の)マンガのなかでは、人物の表象とそれを写した表象の表象は絵柄として区別されないために論理が踏み抜かれているわけだが、そこで示されているのは、イメージの「宛先」とはなにかという基本的な問題でもある。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第一部の最後で、同じ問題にとりつかれている。

わたくしがある頭部を素描する。あなたが「これは誰を表象しているのか」と尋ねる。──わたくし「Nのつもりだ。」──あなた「でも、それはかれに似ているようには見えない、むしろまだMに似ているように見える。」──わたくしが、それはNを表象している、と言ったとき、──わたくしは、ある繋がりを作り出したのか、それともある繋がりについて報告したのか。いったいどのような繋がりが成り立っていたのか★一。


私はNの頭部を描いているつもりなのだが、どこからか来た「あなた」=他者は、それはむしろまだMに見えると言う。私が描いている素描とNの頭部との結びつきは、素描それ自体のなかには存在しない。では結びつきは私の「意図」のなかにあったのか。それとも私の報告が結びつきを作り出したのか。二節前でウィトゲンシュタインは問うている。

ひとは、もちろん「あなたはかれに呪いをかけたこと、かれとの結びつきが作り出されたことに確信があるか」などとも問いはしない。
すると、そのような結びつきは、あるいはひとがそれについてかくも確信をもちうるほどに、きわめて容易に作り出せるものなのか?! 結びつきが的外れにならないことを知りうるほどに。──ところで、わたくしがひとりの人に(手紙を)書こうとして、現実には別の人に書いてしまう、といったことがわたくしに起りうるのか。だとすれば、それはどのように起りうるのだろうか★二。


かれに向けた呪いの的が外れることはあるのだろうか。呪い=手紙は自らの宛先を必ず持つ。にもかかわらず、別の人物に呪い=手紙を届けてしまうことがあるだろうか?この問いは言うまでもなく、Nを素描する問題とパラレルになっている。私はたしかに、Nの頭部を「宛先」として素描している。それは私の意図であり、求められればいつでも報告しうることである。にもかかわらず紙の上の素描には、けっして消去されえない誤配の気配があり、私がNを描いていることは自明ではない。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第二部のなかで、アメリカの心理学者ジョセフ・ジャストローが一八九九年に発表した「うさぎ─あひる図」を自ら描いて引用することでこの問いを継続する[図2]。ウィトゲンシュタインは言う。私たちはこの図を、うさぎの頭としても、あひるの頭としても見ることができる。つまりこの絵は、二つの(そしてそれ以上の)異なる「アスペクト」で見られうる。しかし私たちは、いま自分にその図がどのように見えているかを、その図を描いたり、模写したりすることによっては示しえない。
イメージはそれ自身において、それを描く者や見る者たちのアスペクトを保存しない。私がNを描いたかどうかは素描のなかでは確かではなく、「宛先」は保証されない。「宛先」をもたないこのイメージは、イメージの即物的基底であり、その即物性においてイメージはたえず誤配される。言い換えればイメージは、その即物性において、そこに宛先Nを見る「私」と、宛先MないしXを見る「他者」を分岐させる地点を開いている。ひとつの素描が作成するのは、この即物性以外ではない。バカボンのパパの釘が二つの異なるアスペクトを貫いて突き刺しているのは、即物的に「同じ」であるところのこのイメージにほかならない。

現在(─二〇〇八年一月一四日)、森美術館で開かれている「六本木クロッシング二〇〇七:未来への脈動」展に出品されている吉村芳生の《ドローイング新聞:毎日新聞(一九七六年一一月六日号)》(一九七七)は、新聞紙面を原寸大で克明に「素描」したものだ。展示されていたのは毎日新聞から見開き八枚。細かい活字の一つひとつ、広告、罫線、写真の網点から四コママンガにいたるまでが、鋭く尖らせた鉛筆で模写される。おそるべき労力と集中力だ。しかしその画面は、人を圧倒するようなケレンを欠いている。一九七〇年代に世界を席巻した表象批判の文脈もそこにはない。
知覚からさまざまなアスペクトを拭い去り、イメージをその即物性において露わにするという物語は、周知の通り、モダニズムの美術のクリシェに属している。世界を意味から解放された純粋なパターンへと還元すること。意味なき世界の姿に触れて感嘆し、あるいはそこに「リアル」の残酷な露出を見て恐怖すること。それらのことは今日、美術をめぐる制度的反応の一部をなしている。吉村の素描は、一見そのような制度のなかで消費されうるものに見え、私はいちど素通りしたのだが、画面に近づくと特異な抵抗を示し始める。それは画面の、ある種の不活性性、効果のなさ、ここまでいけば「美術」として成り立ちうると私の制度的身体が漠然と知っている場所からずれていく感じであり、そのずれたところで、吉村の素描は、なんらかの準─安定的なシステムを形成している。紙面を縦横に滑ろうとする目の動きを殺し、文字列を内なる声に変えようとする黙読のスピードを殺し、放っておけば大小の差異を生み出そうとする手の動きを殺して紙面に垂直に打ち込まれた線は、見る私の目の速度にも抗って、画面を隈なく埋め尽くす〈新聞─身体密着体〉とでも言うべきものの準─安定的なリズムを作り出している。そのリズムは、最後の二枚の見開き(一四・九面、一〇・一三面)の本文においてとつぜん崩れているが、私が知っている「美術」の基準が、画面の「弱さ」として、修正することをほとんど身体的に求めてしまうこの「崩れ」が、いったいほんとうに作品の「弱さ」なのかどうかはよくわからない。なぜなら、新聞と自分の身体とをこのように密着させるということが、結局のところどういう実践なのかが私にはわからないからだ。このわからなさのなかで吉村の素描は、「すごいこと」や「気持ちよいこと」の制度的消費にすぎないような現在の美術の外側に落ちていく。その素描は、画面の強度をけっしてゴールとはしないその準─安定的なリズムと破れのなかで、描くことの即物性を、他なる「宛先」へ指し向けている。

同展覧会に出品されている小林耕平のビデオ作品《2-6-1》(二〇〇七)は、さらに徹底した不活性性を作品に導入することで、おそらく自覚的に「美術」の外に踏み出している(この作品が「六本木クロッシング」に展示されていることは驚異である)。ループ再生される約一三分間の映像は、一六のショットに分かれている。ショットの約半分は三脚で固定して、残りは手持ちで撮影されているが、なかには手持ちの固定ショットも含まれ、混在の理由は明らかではない。画面には小林自身が演ずる男が登場し、ソフトボールを手にしたり、果物をカバンに詰めたり、板や鉄棒を地面に投げつけたりする。
正確に言って、なにが行なわれているのかがよくわからない。「なにも起きない」と要約したくなるショットがつづく。男は車道脇でソフトボールをもてあそぶが、なにも起きない。板をつかって木の上に登るが、そのまま消えてなにも起きない。カバンに果物を詰めて重さを確かめ、不意になにかを思いついたようにフレームアウトして戻ってくるが、変化が見えない。振り子のように揺れるバケツの中の果物を出したり入れたりするが、なにかを実験しているようでいてその規則が見えない[図3]。しかし「無意味さ」が強調されているわけではない。たしかに構造は感じられるのだが、そこになにを見て取れば「理解した」ことになるのかがわからないのだ。納得の形式に落ちない、と言ってもいい。ループを四周ほど見続けると、構造はかなりはっきりと感じられてくる。しかしそれは「腑に落ちる」こと、論理=身体的な快の感覚に落ちることからはるかに遠い。だがその「落ちなさ」の度合いがなにやら正確に一様であることにおいて、石のような抵抗の気配がしだいに現われてくる。
小林は以前、「ボルトを少しずつ緩める」という言葉でこの作品について筆者に語ったことがある。小林は自作についてあまり多くを語らないが、「ボルトを緩める」とはおそらく、感覚にやすりをかけるようにして、少しずつ、締まった、絞られた、「キマった」作品の状態からそれていくことを指している。キマるはずのない場所で、それでも作品がキマるということがありうるのか。そのとき、キマるという事態はいったいなにを意味するのか。すべてを一様に緩めていくとき、作品はほとんど不明のものとなる。「足し算には別の規則がありうるはずだ」と予感して黒板の前で立ち尽くす子供のように、小林は躊躇し、ある一様さに向けて、感覚の布置をずらしていく。その一様さは、観者の身体に効果を与えることから離れた場所で、おそらく小林自身にとっても不明の宛先を構成している。
無意味でも意味ありげでもないひとつの構造へ向けられたその予感は、いわば私たちのなかにある別の身体、私より古い場所から届く身体、あるいは、新たに到来するものたちの身体に触れて淀んでいる。それは石のように不活性で不明な身体だ。しかし、「芸術はそのいかなる作品においても、人間に注目されることを前提としてはいない」★三、と、ときには断言しておこう。いつか私たちは石の声を聴き、未来に生み出されてくる石たちの思考を知るだろう。──「石を眺め、それが感覚をもっていると考えてみよ!」★四──。ボルトを緩めるということ、それは私のアスペクトに翻訳すれば、私のなかにある、私ではないような他なる身体が、隙間から漏れ出してくるようにしてイメージを処することにほかならない。

1──赤塚不二夫「催眠術の呪いなのだ」 引用出典=赤塚不二夫『天才バカボン8』 (竹書房、1995)

1──赤塚不二夫「催眠術の呪いなのだ」
引用出典=赤塚不二夫『天才バカボン8』
(竹書房、1995)

2──ウィトゲンシュタイン「うさぎ─あひる図」 引用出典=『ウィトゲンシュタイン全集8  哲学探究』(大修館書店、1976)

2──ウィトゲンシュタイン「うさぎ─あひる図」
引用出典=『ウィトゲンシュタイン全集8
 哲学探究』(大修館書店、1976)


3──小林耕平《2-6-1》(2007)

3──小林耕平《2-6-1》(2007)


★一──『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』(藤本隆志訳、大修館書店、一九七六)三四〇頁。
★二──同、三三九─三四〇頁。
★三──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」(『ベンヤミン・コレクション2──エッセイの思想』[内村博信訳、ちくま学芸文庫、一九九六]三八八頁)。
★四──『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』一九五頁。

*データベース収録にあたり、図3は提供者の意向によりカラー図版としました。[編集部]

>平倉圭(ヒラクラ・ケイ)

1977年生
横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程講師。芸術論、知覚論。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。