RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.48>ARTICLE

>
『雲岡石窟』を支えるもの──京都・雲岡・サンフランシスコ | 菊地暁
Supporting Yungang Grottoes: Kyoto, Yungang and San Francisco | Akira Kikuchi
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築, 2007年09月30日発行) pp.53-55

引越だ。といっても我が家のことではない。私の勤務先・京都大学人文科学研究所(以下、人文研)が現在地(吉田牛ノ宮町)から京大本部構内(吉田本町)の旧工学部五号館に移転することになった。
距離にしてたかだか数百メートルに過ぎないが、それでも数十年にわたって積み上げられた図書だの備品だのをつつがなく運びおおせるのは簡単なことではない。備品登録されている物件は大丈夫にせよ、それ以外の有象無象はこれ幸いと捨て去られるかもしれない。引越はガラクタ一掃の好機でもあるのだから、それはそれでかまわないのだろう。
ただ、ガラクタと一緒にお宝を捨ててしまうことがあってはならないし、ガラクタを捨てるにしても由来と意義をキチンと確かめることが肝要だ。そんなわけで、この研究所に積み重ねられたモノだのヒトだの作品だのを、今一度、確認してみたいと思う。題して「人文研探検、あるいは新京都学派の履歴書」。屈曲蛇行する探検の道のりにお付き合いいただけたら幸いである。

まず基本情報を確認しておくと、現在の人文研が出来上がったのは一九四九年のこと、一九二九年設立の東方文化学院京都研究所(一九三八年より東方文化研究所)、一九三三年設立の独逸文化研究所(一九四五年より西洋文化研究所)、一九三九年設立の(旧)人文科学研究所、設置目的も所轄官庁も異にする三つの機関が「世界文化の総合的研究」という理念の下に統合されたものである。
設立は最も古い一九二九年から起算することになっているので、まもなく八〇年になろうとしている。大学の附置研究所、とりわけ人文・社会科学系のものとしては最古の部類に属するだろう。この八〇年あまりの歴史のなかで総計四〇〇人あまりのスタッフがさまざまな調査・研究を遂行し、その成果を世に問うてきた。
では、人文研最大の成果とは何だろうか。桑原武夫の率いるフランス研究(ルソー、百科全書、フランス革命……)はなんといっても有名だし、今西錦司・梅棹忠夫らによるフィールドワークもきわめてユニークな存在だ。貝塚茂樹の甲骨文字研究から竹内実の毛沢東研究まで東洋学の伝統も強靭なものがあり、また、戦後いちはやく着手された日本近代化論も米騒動や社会主義運動のオーラルヒストリーに早くから取り組むなど貴重なドキュメントを提供している。
だが、「最大」の成果は間違いなく水野精一・長廣敏雄『雲岡石窟──西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告』である★一。なにせ「分量」が最大だ。本文編・写真編を合わせて全一六巻三二冊。総重量四〇キロはあろうか。詳細な実測図に繊細なコロタイプ印刷の写真図版を載せた贅沢な美本。きめ細やかな階調が再現されたモノクロ図版からは、静まり返った石窟の中に鎮座する石仏群が確かな存在感をもって立ち現われてくる(写真は仏教美術写真の老舗・奈良飛鳥園で修行を積んだ羽館易が専任スタッフとして担当している)。これほど浩瀚な報告書は二度と現われることはないだろう。ちなみにお値段のほうも最大級で古書市場では一セット三〇〇万円を下らない。なんともビッグな報告書である。
とはいえ、『雲岡石窟』が興味深いのはその内容や形態や価格ばかりではない。本書が産み出される数奇なプロセスそれ自体が二〇世紀史の一断面ともいえるからだ。
雲岡石窟の調査は日中戦争の真っ只中、華北地域が日本軍占領下となったことを受けて着手される。占領下という条件は利点であると同時に制約でもあり、軍、当局、国策機関、傀儡政権等々のサポートにより調査は遂行され、また制約されることになる。
調査チームには個性豊かな面々が多かったが、なかでも数奇な前半生を送っていたのが長廣敏雄である。京都帝大文学部史学科考古学専攻卒、美学・音楽にも造詣が深く、ヴァイオリンが得意で、京大オーケストラ部では指揮者を務めるほどだった。その才能を請われ、音楽評を寄稿したのが、京都のリベラル知識人を集め、反ファシズムの論陣を張った総合文化雑誌『世界文化』である。この『世界文化』同人が弾圧・検挙されるのは一九三七年のこと、長廣は検挙を免れたものの警察のブラックリストに載せられ、ために渡航許可が下りず、一時は研究所からの退職も勧告された。
結局、紆余曲折を経て中国渡航は実現するものの、いつ果てるとも知れぬ戦火のなか、実測・撮影の困難な作業が続き、しばしば戦下の不条理を見聞する日々は決して安逸なものではなかった。また、当時の雲岡は占領下に突如出現した一大観光地の趣があり、多くの軍人、政治家、文化人が訪れ(羽仁五郎は「北京のおいしいパン」を手みやげに訪れた)、ときにはナチス・ドイツの武官を案内することもあった。単調な作業と不如意な接待を強いられるなか、夜の読書や音楽論の執筆で気分転換し、緊張感を保とうと務める姿が彼の日記に淡々と綴られている★二。
そして戦後、日中国交断絶により調査継続の可能性は断たれることとなる。調査成果も資金不足その他の理由により陽の目を見ることなく眠っていた。これをなんとかしなければ、と動き出したのは、統合後の人文研で選出された最初の所長・貝塚茂樹である。この時、四五才。
出版にはカネがいる。だが、文部省にはカネがない。政府に直接働きかける必要があった。そこで「雲岡石窟学術調査後援会」が設立され、支援活動の組織化がはかられる。細川護立、谷川徹三、梅原龍三郎といった多彩な文化人、日銀総裁・一万田尚登、朝日新聞会長・上野精一といった政財界の要人が協力した。これらの人脈を通して周到な工作が進められた結果、吉田茂首相の側近で中国古美術の愛好家でもあった白洲次郎とその妻・白洲正子を介して、吉田茂と貝塚茂樹らの面会が実現したのである。
一九五〇年。春の一日、なごやかなムードの面会は一時間あまりで終わり、そして首相は快諾した。

日本が戦争中に、世界的な学術調査を行っていたことを、外国に知らせることはサンフランシスコの講和条約を前にして、大いに意義がある。宜敷い。但し、池田の奴(当時の大蔵大臣)に、今度ばかりは頭を下げて頼まねばならぬのは嫌だな★三。


以後、第一回の配本が急ピッチで進められる。見本刷を見た吉田茂はサンフランシスコ講和会議に持参することを決定、急遽、外務省に届けられた二〇部はアメリカで関係者や文化団体に配布され、うち一冊はカリフォルニア大学バークレー校の図書館に「吉田首相寄贈」というキャプションとともに陳列された。こうして刊行が実現された同書は内外で高い評価を受け、一九五二年、水野・長廣両名は学士院恩賜賞の栄に浴するのである。

どこか「プロジェクトX」めいた話だが、別に美談を語りたいわけではない。ここで確認したかったのは、ごくごくシンプルな事実、学問は時代の産物であり社会の産物であるということである。なにを当たり前なと突っ込まれることを予想しつつあえて述べたのは、研究者は往々にしてこのことを(とりわけ自分自身に関しては)忘れがちだとつねづね感じているからだ。
人文研に話を戻すと、いわゆる「新京都学派」と呼ばれる範囲や時期をどのように設定するかは議論が別れるにせよ、その主要人物が人文研にいたことは事実だろう。だが、いかに彼らの卓越した個性と知性が魅力的だったにせよ、彼らの力量のみでその輝きが産み出されたわけではない。そこには時代や社会の潜在的な知のポテンシャルがあり、さらに踏み込んでいえば、京都盆地というユニークな知のエコロジーが作用している。むしろ、そうしたポテンシャルを呼び込み、エディットすることに優れた「目利き」というのが新京都学派の実態に近いのかもしれない。人文研の知は、さまざまな回路を介して、同時代の京都、日本、そして世界と繋がっているのだ。
そう考えると、人文研という相応に分厚いハイパーテクストは、京都のみならず近代日本の学問を読み込むうえで、格好の「定点観測」ポイントかもしれない。日本の人文・社会学の到達点と問題点を一個のローカル・ヒストリーから試掘してみること。それが、本連載のねらいである。


★一──水野清一+長廣敏雄『雲岡石窟──西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告 東方文化研究所調査(昭和十三年──昭和二十年)』全一六巻三二冊(京都大学人文科学研究所、一九五一─五五)。
★二──長廣敏雄『雲岡日記──大戦中の仏教石窟調査』(日本放送出版協会、一九八八)。
★三──『水野清一博士追憶集』(「水野清一博士追憶集」刊行会、一九七三)。

>菊地暁(キクチ・アキラ)

1969年生
京都大学人文科学研究所助教。民俗学。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築