鍛えられた身体がフォルマリスティックに描く、ときに美しく、軽く、速く、強い運動……。「ダンス」という語についてひとが一般的に思い抱くのは、こういったイメージだろう。バレエしかりモダンダンスしかり、日本舞踊もストリートダンスだって、技巧を持った踊り手が理想的な運動のフォルムを(それは現実の身体を覆い隠すイリュージョンとなる)を舞台に出現させる。その点において、どれも大差はない。
ダンスとは普遍的な価値あるフォルムを生み出す妙技──なるほど、一片の真実ではある。ただし、それだけがダンスだろうか。こうした一般的な(形式主義的でモダンな)思考習慣に従っていては埋もれてしまう〈もうひとつの〉ダンスが、ぼくたちの周りにありはしないだろうか。この連載で筆者が試みたいのは、旧来の価値観でははかれないオルタナティヴなダンスを突き止め、その特殊な方法論を浮き彫りにすることである。その際、フィールドワークの範囲を、狭義のダンスというジャンルに限らず、広く身体をメディア(媒体)とする表現全般にわたるものとしよう。そうすることで、身体をめぐる今日的なリアリティを持ったアプローチが──「ダンス」という語の意味の更新とともに──明らかになればと望んでいる。
まず、現在の日本のコンテンポラリー・ダンスにおける異端児、身体表現サークルを紹介するところから切り出してみよう。彼らのパフォーマンスは、一般的なダンスのイメージとは著しく異なっている。
それはどのようなものか。昨年の七月、日本のコンテンポラリー・ダンスのなかで最大のコンペティションであるトヨタ コレオグラフィー アワードで披露された《広島回転人間》を例に挙げてみる。生白い肌をあらわに(それはあまりにやわで、おおよそダンサーの身体とはかけ離れている)、ふんどしをつけただけの男たちが舞台に現われる。公園の遊具かなにかのようにひとりが床につけた片腕を軸に回り出すと、逆向きに走る別のひとりは黙々と、その伸ばした足を飛び越え続ける。かと思えば、両腕を水平に伸ばして廻るふたりの男の間で、あたかもベルトコンベアーに乗っているかのように、もうひとりがほっぺたをぶたれながら行き来する。ときに、組み体操のようなフォーメーションを作ると、無理な姿勢がたたってあっけなくバランスを崩すこともある[図1]。
複数の生身の体が絡まる。機械的な動作が延々とかたちを変えながら続く。絡まるとき、互いに頬や尻をビンタしたり、体を床に叩きつける。「ペチッ」と鈍く響く。その音で、観客は不意に爆笑してしまう。人間がロボットのごとき存在になろうとしてなりきれない。そのおかしさと面白さ。彼らの魅力は、まずはそうしたところにある。
ならば、これは性能の悪いロボットを模した(故にユルい)ロボット・ダンス? 誤解してはならないのは、彼らがしているのはロボットの演技ではないということである。滑稽な誤作動をわざと演じて笑いをとろうとねらっているわけではない。故に、そこには何らの技巧的達成も示されない。「黙々」と一定のスピードで進む「ベルトコンベアー」のように、彼らは演技というよりロボットの状態を自らの身体に課し、その有様を舞台上に露呈している、ただそれだけなのである。
それはどんな状態か。内面を欠いている、ということである。とはいえ、内面を欠いているかに見える彼らも本物のロボットではないので、当然ぶつかり合えばくらくらするし、叩かれれば無表情ながら痛々しい。そうした彼らの生半可なロボット状態にこそ見る者を思わず笑わせてしまうポイントがあるわけで、しかも、そうした彼らのありのままの状態が露呈しているからこそ、むしろロボット的な存在というものが抱える「やらされているとしてもやらざるをえない」という事態が、舞台の上で浮き彫りになっているのである。
内面を欠いた「やらされているとしてもやらざるをえない」状態にある身体の運動が彼らのダンスなのである。しかし、それは「ダンス」と呼びうるものなのか。一年前、この作品を見たとき、ぼくはそこにダンス的な何かを感じつつも、それにどういう説明を与えればよいか皆目見当がつかなかった。ぼくのみならず、外国の審査員を含めた誰ひとり、この作品を「ダンス」として評価し、ダンス・ヒストリーの内に位置づける者はいなかったのである(少なくとも管見の限りでは)。
一年経って気づいた。いまのぼくならばこう言いたい。彼らのダンスはタスクとしてのダンスである。
タスクとしてのダンスは、一九五〇年代後半から六〇年代のアメリカ合衆国で起きた。当時のダンス界において、メインストリームはバレエでありモダンダンスだった。ジョージ・バランシンは形式主義者としてバレエの模倣性や再現性を否定し、その代わり、感覚的な運動の優美を追求してバレエの純粋化を企てていた。また同じ頃、アメリカ人の無意識をネイティヴ・アメリカンのスピリットのなかに求めたマーサ・グラハムは、象徴的にまた形式的にそうした無意識を表現する媒体へとモダンダンスを高め、そうすることで「権威ある芸術」に昇格させようとしていた。そうしたメインストリームを尻目に、西海岸でワークショップを開いていたアン・ハルプリンとその参加者だったジャドソン・ダンス・シアターのメンバーは、タスクという概念をダンスに導入したのである。
彼らは、理想的な運動のフォルムを退け、代わりに日常的なありふれた動作をダンスとした、としばしば言われる。ただし、それが単なる日常的身振りの演技ではなかった点に注意するべきである。確かに、彼らにとって日常の動作は──マルセル・デュシャンのレディメイドが「ファウンド・オブジェ」だったように──「ファウンド・ムーヴメント」であり、彼らがそうした動作をオブジェとして舞台上に置いたという面はある。とはいえ、重要なのは、日常と同じ動作をすることというより、日常の動作に必要なのと同じ程度のエネルギー量で具象的でも抽象的でもあるさまざまな動作を行なったこと──しかもタスク(課せられた仕事)として──なのである。
ジャドソンのメンバーのひとりイヴォンヌ・レイナーは、自分たちのダンスをこう述懐する。
立つこと、歩くこと、走ること、食べること、レンガを運ぶこと、映画を見せる、自分自身でというより何かものに動機づけられて動きあるいは動かされること★一。
最後の部分に、タスクの性格が端的に示されている。タスクとは、ダンサーが身体の運動を、外部から与えられた課題として行なうことなのである。
バレエやモダンダンスといった旧来のダンスは、全身のエネルギーを最大限に発揮する。それが、美しく、軽く、速く、強い理想的な運動のイリュージョンを生む。一方、タスクのダンスは、日常的なエネルギー量の運動しか行なわない。それはイリュージョンを消去し、それに反比例するように、いまここにある身体のプロセス(生成する時間)を、その労働(タスク)性をあらわにする。
そもそも、どんなダンサーにとっても振付とはタスク以外のなにものでもないはずだ。ただし、可能な限りダンサーは、振付というタスクの指示するフォルムに身体を溶け込ませ、身体を振付へ一体化させようとする。軽々とやってのけることでタスク性を消去し、同時に身体のプロセスをイリュージョンの陰に隠すわけである。だからバランスを崩す、転ぶなど論外。ぎこちない身振りが振付の指示する軌道からぶれると、身体の素の表情が表に出てしまい、その反面見せるべきイリュージョンは消滅してしまうのだから。
他方、タスクのダンスはこのイリュージョンを積極的に消去する。そのとき、振付と身体の融合が弛む。すると振付はクリアすべきタスクとなり、身体はダンサーがプレイヤーとなって操作するロボットとなる。先に挙げた身体表現サークルの主宰者・常樂泰が「身体って自分の乗り物ですよね」と発言しているのは、この点で興味深い。
全身が操作レバーあるいはボタンみたいになり、一応自分は「人」ってことわすれちゃうんです。(…中略…)おのおの操縦者に楽しそうな操作マニュアルというか、図面?サーキットコースを用意して、とにかく最終的に迷わないで時間をやりすごせるか。これが振付家といったら引かれますかね。もう飽き飽きなのです★二。
振付はサーキットコース。ダンサーは表現すべき「内面」など見せることなく(「人」ってこと忘れちゃう」)、乗り物(身体)に跨がりコース(=タスク)を進む。そのときダンスは、イリュージョンの機能を放棄し、現実の身体が不断に生む出来事そのものになる。不思議なのは、そんな労働としてのダンスを見ていて面白い、ということだ。表現者であることを放棄し一プレイヤーとなったダンサーもまた、その状況を無表情であるとはいえ嬉々として享受しているように見える。
イリュージョンではなくプロセスを重視し、表現者ではなくプレイヤーになること。ダンスに限らず、こうしたタスクのアイディアは、例えば美術作家・泉太郎の作品からも垣間見える。《ゲーム台(倉)》と題する新作展があった(二〇〇七年六月二三日─七月三一日、HIROMI YOSHII)。《ゲーム台》は、スクリーンに貼り付いた人形が、マリオのごとく、泉の撮った日常の風景に現われるさまざまな稜線(塀や屋根のみならず野原にいるひとの頭など)を歩きジャンプする作品。実際は、人形は固定してあるので、人形がゲームをプレイしているかのごとく見えるようカメラを四苦八苦しながら動かしていただろう撮影中の泉の姿を想像し、その無駄な努力の結果に見る者は苦笑せずにはいられない。《シューティングスター》では、ポケットからこぼして地面に散らばった小銭を自分で拾い、泉はその姿を自分の目線に合わせたカメラから俯瞰で撮る。泉の作品はどれも、作家の技量やメッセージを伝える媒体というより、直接的また間接的に、自分で課したタスクを黙々と遂行するプロセスを見せるものだった。
ところで、考えてみれば、こうしたタスク的状況下にある身体を面白がるセンスは、アートの分野に限ったものどころか、多種多様な場で見出されるというべきである。いまや世界的人気テレビ番組である「風雲!たけし城」(やその系統の番組)、あるいはダンスダンスレボリューション、あるいはアルゴリズム体操(「ピタゴラスイッチ」)……。むしろアートの分野こそ、このセンスから目を背けてきたというべきではないだろうか。
さらに、こう考えてくると、身体表現サークルや泉を含め、これらの内には一種のゲーム性がともなっていることに気づかされる。振付がタスクなら、振付はゲームのルールともなり、ダンサーはプレイヤーともなる。タスクのダンスは、ダンスをゲームとして見る視点をひらくのだ。そこで、次回はオルタナティヴなダンスをゲームというキーワードから捉え、議論をさらに深めてみることにする。
身体表現サークルのパフォーマンス
撮影=青地大輔
身体表現サークルのパフォーマンス
撮影=清水俊洋
註
★一──Yvonne Rainer, Work 1961-73, New York University Press, 1974, p.66. なお「映画を見せる」とは、公演中、舞台に置いたスクリーンで映像を流したことを指している。
★二──二〇〇七年二月に上演された身体表現サークル《しんぱい少年》フライヤー掲載の文章より。