RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.47>ARTICLE

>
鉄骨造の歴史 | 桑村仁
A History of Iron and Steel Structures | Kuwamura Hitoshi
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?, 2007年06月発行) pp.205-212

鋳鉄・錬鉄・鋼技術と力学の発展

桑村仁──今日のテーマは鉄骨造の歴史ですが、鉄骨造の歴史を単独で語ることは不可能です。製鉄技術、接合技術、力学理論の発展が実にうまく時代とともに組み合わさって鉄骨造の歴史が形づくられてきたからです。鉄は汎用性の高い材料で、建築だけに使われているわけではありません。そのため鉄の製造技術、接合技術、力学理論、それぞれの歴史は実に豊かなものです。それに比べると鉄骨造の歴史は小さな領域の歴史ですが、この三つの分野と関連づけて考えると、鉄骨造の歴史の面白さが見えてきます。
一七〇〇年初頭からおよそ一五〇年間が鉄の時代ですが、この時代は鋳鉄から錬鉄に変わっていく過程でもあります。その後一九〇〇年までがヨーロッパにおける鋼の時代で、二〇世紀は日本とアメリカの鋼の時代になります。
鋳鉄の時代では、一七三五年にイギリスのダービー二世がコールブルックデールで石炭高炉の操業を始め、鋳鉄の工業生産に成功します。鉄は鉄鉱石からつくりますが、鉄鉱石は酸素と結合した化合物なので、酸素を取り除いてやらないとFeが出てきません。還元するには炭素が一番有効で、石炭高炉は還元剤に石炭を使うのですが、それまでは身近にある木材を使っていました。産業革命の勃興とともに、鉄の需要が急増し、それにともなって木炭が大量につくられました。その結果、樹木が伐採されて森林資源が枯渇荒廃したので、木炭の代わりに石炭を使うことにダービー一世が着手して、息子のダービー二世の時に成功しました。当時の石炭高炉は図1のような徳利形をしています。この中に鉄鉱石と石炭をいれて燃やします。石炭の炭素が鉄鉱石の酸素と結びつく酸化発熱反応で高温になり、その燃焼熱で鉄鉱石が溶けて鋳鉄が液体状になって下から出てきます。その鋳鉄を使ってダービー三世が一七七九年にアイアンブリッジをつくりました。これは世界遺産になっています。鋳鉄は還元剤として使った炭素が余分に入っているため脆い材料なので引っ張り力を受ける部材に使うのは危険です。当時からそのことはわかっていましたから、アイアンブリッジは圧縮応力によって荷重を支えるアーチ構造になっています。ワットが一七六九年に蒸気機関を発明し、この辺から産業革命で鉄が重要な役割を果たすようになります。鉄は貴重な材料でしたから鋳鉄製の工場建物はつくられましたが、住宅にはまだとても使えませんでした。工場建物はそれ以前、木材でつくられ、なかは可燃物だらけですからよく火事を起こしました。鋳鉄はこの問題に対して抜本的な解決となる材料でした。

1──石炭高炉 引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』(市ヶ谷出版社、2001)

1──石炭高炉
引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』(市ヶ谷出版社、2001)

次に錬鉄の時代に入ります。それは一七八四年コートによるパドル法の発明に端を発します。パドル炉はトンネルのような形をしています[図2]。鋳鉄の炭素を取り除くことが最大の課題で、いろいろな工夫がありましたが、パドル法は画期的なものでした。高炉から出てきた鋳鉄を炉の凹んだところに入れて、炭素の燃焼による火炎をそこに導き、鋳鉄に含まれている炭素を再び酸素で酸化させて溶かしてしまうのです。これによって、引っ張りにも大丈夫な鉄、すなわち錬鉄──鍛鉄とも言います──の工業生産ができるようになりました。その結果、鉄道駅舎がたくさん建設され、ロンドン万博のクリスタルパレスも錬鉄でつくられました。クリスタルパレスはイギリスが鉄の生産で世界の産業界をリードしていることを誇示する壮大な建築でした。
ここでひとつ注目すべきことは一八二四年にポルトランドセメントが発明されていることです。しかし、この発明から鉄筋コンクリートの出現まで五〇年くらいかかっています。錬鉄を鉄筋として使えばすぐ鉄筋コンクリート造ができますが、当時錬鉄は機械や鉄道に使われる貴重な材料でした。それをコンクリートの中に埋め込んで構造材として使うという発想は簡単には出てこず、ある程度鉄が普及してから鉄筋コンクリートが出てくるわけです。一八三二年に板ガラスの工業生産の方法が発明されます。鉄とガラスの建築の出発点をここに見ることができます。
鋳鉄と錬鉄の時代には偉大な力学理論がたくさん発見されました。一六七八年に発見されたフックの法則は、力を加えるとそれに比例する変形が発生するという「バネばかり」の原理で、弾性力学の萌芽と言えます。注目したいのはヤコブ・ベルヌイによる梁のたわみ理論です。それを継承したオイラーが一七四四年に座屈とたわみ曲線の方程式を発表しています。ベルヌイはオイラーの先生で、二人とも著名な数学者ですが力学的な現象を数学を使って解くという数力の創始者です。それからヤングとポアソンがいます。構造物を弾性範囲で解析するときにヤング係数とポアソン比がでてきますがその発見者です。今僕たちが知っている材料の弾性定数はヤング係数とポアソン比とせん断弾性係数の三つですが、独立なものは二つです。このように、鋳鉄と錬鉄の時代に弾性力学の基本が成立しました。産業革命の基幹材料であった鉄を合理的に使うためにサイエンスが必要になり、科学者が鉄の利用技術と大いに関わったわけです。

2──パドル炉 引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』(市ヶ谷出版社、2001)

2──パドル炉
引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』(市ヶ谷出版社、2001)


引用出典=桑村仁『鋼構造の性能と設計』(共立出版、2002)

引用出典=桑村仁『鋼構造の性能と設計』(共立出版、2002)

次に鋼の時代です。鋼の時代もヨーロッパから始まります。一八五六年イギリスのベッセマーが転炉法を発明し、鋼の工業生産ができるようになります。少し後にシーメンスとマルタンが平炉法を発明しますが、転炉法と平炉法ではプロセスが違っています。図3は転炉法の操業の様子です。転炉法は高炉で溶けた鋳鉄──銑鉄とも言っています──を炉に入れて酸素を吹き込みます。鋳鉄に含まれる炭素を取り除かないと脆いので、炭素を取り除くために酸素を吹き込み、酸素と炭素を結合させてCOやC O2として排出して鋼を生み出します。これは発熱反応ですからエネルギーを与える必要がありません。一方の平炉法ではエネルギーを与えます。図4のように、下層の蓄熱炉で石炭を炊き、熱と火炎を炉内に導きます。銑鉄をその火炎に触れさせ、炭素を取り除く方法です。一八九九年にエルーが電炉法を発明し、電気エネルギーでスクラップの溶解ができるようになり、平炉は廃れていきます。
この頃になるとアメリカが鋼の利用に興味を持ち、鋼橋がアメリカで初めて建設されました。それから世界初の鋼船として知られている軍艦アイリス号がイギリス海軍で進水しています。一八八五年にアメリカでは鋼による最初の高層建築、ホーム・インシュアランスビルがシカゴに建てられました。日本では一八九四年に秀英舎印刷工場が鋼で建てられましたが、当時はまだ日本に鋼の技術がなかったので、鉄骨は全部輸入されていました。
一八八七年、ロシアの技術者ベナードスがアーク溶接法を発明し、鉄骨構造の接合技術の重要な出発点になりました。アーク溶接法は電気エネルギーでアークをとばし、熱で鉄を溶かす溶接法です。その後さまざまな溶接方法が発明されましたが、今でもこのアーク溶接法が主流です。
鋼の時代にも力学理論の発見は次々と続き、ジョラウスキーによる梁のせん断応力度の解析方法もこの頃出てきますが、これはせん断応力度に関する古典理論と呼ばれているものです。それからサン・ブナンのねじりの理論があります。ねじりの問題は構造工学では最も難しい問題で、一八五五年にサン・ブナンが自由ねじりの問題を初めて精確に解きました。注目すべきは一八六〇年にリューダース降伏線が発見されたことです。延性のある鋼を引っ張ると、降伏という現象が起こって、その現象が表面に現われます。例えば鋼材の引っ張り実験で、せん断応力度が最大になるところに筋状の模様が出てきます。リューダース降伏線が発見され、技術者は材料の降伏現象を明確に認識するようになりました。同じ頃にドイツのヴェーラが、疲労曲線、いわゆるS─N曲線を発表しています。産業革命の過程で酷使されてきた鉄や鋼が疲労破壊するという事故が多発し、その問題に学術的なメスが入れられたわけです。
さて二〇世紀の鋼の時代は、日本とアメリカの独壇場です。一九〇一年に官営八幡製鉄所が操業を開始し、同年USスチールが設立されました。これは日米が二〇世紀に鋼の時代を築く象徴的な出来事でした。図5は官営八幡製鉄所の高炉がほぼ完成した頃の写真です。この官営八幡製鉄所を出発点にして鋼の建築が始まるはずだったのですが、日露戦争、日中戦争、第一次、第二次世界大戦により日本の鉄鋼産業は戦争に巻き込まれ、生産された鋼が軍事に投入されてしまいました。そのなかで特筆すべきは一九二九年に竣工した三井本館です。旧三井本館は関東大震災で建物は壊れなかったのですが類焼しました。三井財閥は志気を鼓舞するために旧本館を取りつぶして新館を建てる決心をしたわけです。これが官営八幡製鉄所で製造された鋼による本格的な鉄骨造建築です。当時の日本には鉄骨造の設計技術が未熟だったため、設計はアメリカ人のチームがやりました。彼らはASTMというアメリカの材料規格で設計したのですが、日本の鋼材規格と微妙に違っていたため、官営八幡製鉄所はASTMの規格にあわせて鋼材を製造したそうです。ロールを組み替える大変な作業を強いられたため建設工期に間に合わず、建物の下の部分の鋼材はUSスチールが肩代わりし、官営八幡製鉄所は上階の鋼材を供給しました。
わが国は、終戦後やっと鉄骨構造が普及し始めることになります。一九六二年には建築基準法の改正で高さ制限が撤廃され霞ヶ関ビルができます。そこで使われたのがH形鋼です。日本のH形鋼は一九六一年に生産が始まっています。その後はアメリカに続いて日本も超高層建築の時代に突入していきます。
ここで注目しておきたいのは高力ボルト接合です。この頃まで機械的接合はリベットが主流でしたが、リベットは施工の効率が悪く、騒音も発生します。そこでアメリカで高力ボルト接合が開発され、日本に導入されました。近年では高力ボルト接合が当たり前のように使われていますが、高力ボルトの材料が通常の鋼の二、三倍の強度を持っている超高張力鋼であるため実用化は溶接に比べると随分遅れました。
二〇世紀の鋼の時代でも力学理論の発見はいろいろありました。サン・ブナンが導いたねじりの微分方程式はごく特殊な場合しか解けなかったのですが、プラントルはサン・ブナンの方程式がシャボン玉の膜の方程式と一致することを発見しました。つまりねじりの問題はシャボン玉の膜の形の問題に置き換えることができ、ねじり問題の解決に前途が開けました。この頃になると鋼の性能も強靱で、強くてねばり強いものになってきます。そうすると、材料が降伏した後の性能を利用する動きが出てきます。プラントルは金属の塑性挙動の数理的解明に大きな功績を残し、ミーゼスは四方八方から作用する力の組み合わせがどのようになったら降伏するかについて、今も利用されている仮説を発表しました。またこの頃、鋼はある条件が整うとガラスのように破壊することに気がつき始めます。それを最初に理論化したのがグリフィスで、その後破壊力学の分野が発展していきます。第二次世界大戦中、アメリカの溶接船が脆性破壊を起こして沈没する事故が多発し、グリフィスの理論が見直されて発展したわけです。フォン・カルマンは二〇世紀の構造工学のキングと言われている人物ですが、材料力学のさまざまな問題で大きな影響力を与えたと同時に、流体力学でも貢献をしています。

3──転炉 引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』

3──転炉
引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』

4──平炉 引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』

4──平炉
引用出典=藤本盛久『構造物の技術史』


5──官営八幡製鉄所 引用出典=新日本製鐵株式會社『八幡製鐵所案内』(1984)

5──官営八幡製鉄所
引用出典=新日本製鐵株式會社『八幡製鐵所案内』(1984)


鉄骨構造理論の特殊性

さて、ここで鉄骨造固有の力学理論について少し紹介しておこうと思います。鋳鉄、錬鉄、鋼という発展の過程で発見された力学理論は木造や鉄筋コンクリート造にも応用されましたが、鉄骨造だけに関わる力学理論があります。それは部材の断面形状に起因します。木材や鉄筋コンクリートは中が詰まっているずんぐりした断面です。ところが鉄骨造の部材はH形鋼、溝形鋼、山形鋼のほか角形断面、円形断面などいずれも薄い板で構成された断面です。さて、断面にせん断力が作用すると、断面の中にはそれに見合ったせん断応力度が発生します。その算定には、先ほど触れたジョラウスキーが導いた式があり、古典理論と言われています。この式で計算すると、中が詰まった長方形断面のせん断応力度の分布は図6の放物線になります。最外縁のせん断応力度はゼロで、断面の真ん中で最大のせん断応力度が発生し、それは平均せん断応力度の一・五倍となります。この古典理論を図7のH形鋼に適用すると、二つ問題が生じます。ひとつはH形鋼のA点はフリーエッジですからせん断応力度はゼロであるはずなのに、わずかですがせん断応力度が発生し、明らかに力学の法則に違反しています。もうひとつはフランジとウェブが交差するB点でフランジ側とウェブ側のせん断応力度に差が出ます。固体として連続しているのに隣同士のせん断応力度が連続しないのはおかしいことになります。すなわち、古典理論が破綻してしまいます。そこで登場するのが、せん断流理論です。せん断流理論では、図8のように、せん断力に見合って発生するせん断応力度は水のように流れ、板の厚みの部分をあたかも水路のように流れていくと考えます。フランジの端はフリーエッジになるのでせん断応力度はゼロで、フランジの中央に向かって増え、ウェブとの交点で合流してウェブに流れ込み、再び下の交点で二股に分かれるわけです。板の厚みの方向にはせん断応力度は存在しません。断面を溝だと考えればそれに沿う方向にだけ水が流れているのと同じです。フランジではせん断応力度の分布はまったく古典理論とは違ってきます。フランジとウェブの合流点でせん断応力度が大きくなるという不連続性の問題も上手に説明することができます。その後、せん断流理論はせん断中心(ねじりを生じさせないせん断力の作用点)の位置を見事に言い当てたことから信頼を得、今や鉄骨構造では不可欠の理論となっています。ずんぐりした断面を使う木造やコンクリート造では不要な理論です。
次に世紀の論争となった「Column Paradox(柱の不思議)」について紹介します。オイラーが一七四四年、弾性座屈の問題を初めて解きました。両端がピン支持されたまっすぐな柱に作用する圧縮力がある大きさになった時に横の方向に曲がって崩壊します。その時の荷重はπ2EI/L2という式で表わされ、これが弾性座屈の解です。ところが材料はずっと弾性を保っているのではなく、非弾性の状態を扱わざるをえなくなります。応力とひずみの関係がヤング係数のままならオイラーの式は正しいのですが、材料はそれほど理想的なものではありません。一八八九年この問題に対してエンゲッサーは応力──ひずみ曲線のタンジェントモデュラスを使えば答えは出ると主張しますが、ジャシンスキーが誤りを指摘しました。その理由は、まっすぐだった棒が曲がるときに、凹んだ側は元々かかっていた圧縮力による応力度に曲げによる圧縮応力度が付加されるので、圧縮応力度が増えます。だから凹んだ側はエンゲッサーが言うように接線の方向へ向かいますが、凸側は曲げによって引っ張られる応力によって圧縮応力度が減ります。材料は非弾性域で応力が減るときは接線の方向へは行きません。応力は弾性のヤング係数に従って下がろうとするから凸側はタンジェントモデュラスではなくて、ヤング係数を使わなければおかしいと指摘したのです。エンゲッサーは理論の誤りを認め、タンジェントモデュラスはリデューストモデュラスに修正されました。まっすぐな状態から曲がった状態に変化する際に荷重は変化しないという条件から、リデューストモデュラスが導かれたのです。その後カルマンがリデューストモデュラスロードにお墨付きを与えました。ところが実験と合わないという事態が続出します。二〇世紀になると試験装置の精度がよくなって、座屈荷重も精確に測定できるようになったからです。そうしたところ、いくらやってもエンゲッサーのリデューストモデュラスロードに到達しない。むしろ最初に彼が提唱したタンジェントモデュラスロードに近い結果が続々と出てきました。この問題をめぐって「Column Paradox」という論争が続くわけです。最終的に、この論争に決着をつけたのが一九四七年アメリカのシャンレイです。彼はロッキード社の技術者だったので会社の試験装置を使って、まっすぐな棒がどこで座屈して曲がり始め、横にどういうふうにたわんでいくかを詳細に観察しました。すると、タンジェントモデュラスロードで曲がり始めて横にたわみながら荷重が増えるけれど、リデューストモデュラスロードには到達しないという実験データを得ました。その結果を基に、圧縮された棒が座屈して崩壊する時の最大荷重はタンジェントモデュラスロードとリデューストモデュラスロードの間にあることを理論的に証明して見せました。ヨーロッパで提起された構造工学の難問に新興国のアメリカ人が解答を与え、構造工学がヨーロッパからアメリカに移っていくという象徴的な出来事でした。

6──長方形断面の古典理論 筆者作成

6──長方形断面の古典理論
筆者作成

7──H形鋼の古典理論 筆者作成

7──H形鋼の古典理論
筆者作成

8──H形鋼のせん断流理論 筆者作成

8──H形鋼のせん断流理論
筆者作成

鉄骨構造の基本は座屈と破壊

さて鉄骨構造に携わる人たちが真剣に考えなくてはいけないのは、鉄骨構造学の基本は何かという問題です。将来、新しい鉄鋼材料やその構法に挑戦する際、どういう知識を担保しておけば成功できるかという問いに答えられなければなりません。私たちは今後どういう学理を伝えていく必要があるかということです。例えば、まだ実現していない薄肉軽量のステンレス住宅をつくる時に、鋼構造の技術として何を押さえればよいのかということです。鉄骨構造が本来得意とするのは薄肉軽量構造ですが、局部座屈という板の座屈で終局耐力が決まってしまうので局部座屈に対する性能を把握しなければステンレスの軽量構造は実現できません。それに、薄板のボルト接合部にはある特有の破壊が起きます。ボルト接合部を引っ張ると有効断面部分が破壊しますが、この部分が普通の厚い板と異なった変形になります。ボルトの背後にある板が圧縮応力場になってしまうので不安定な現象が起きてしまうわけです。こういうことに注意しないと、接合部の耐力を過大評価してしまいます。一見不思議とも見える座屈や破壊がやすやすと起こってしまうのです。こういうことを技術者がしっかり見抜くために、座屈と接合の力学を伝えていかなければいけないと思っています。
もうひとつ心に留めておく必要のあるのは事故や災害です。鉄骨造が崩壊したとき、その本当の原因を知るために何を調べればいいのか、その問いに答え続けられるかということです。原因がわからなければ正しい対策は立てられないからです。一九九五年兵庫県南部地震で鉄骨の脆性破壊という被害をわが国は初めて経験しました。図9のように実験室で脆性破壊を再現すると、破面にギラギラした山形の模様が肉眼で見られます。これは破壊の様式が脆性破壊であることを物語っています。部材はダイアフラムの左右から溶接しています。溶接品質は非常に優れているのにどうして脆性破壊したのでしょうか。溶接金属と母材との境界、熱的な変化を受けたところが弱点となって破壊がスタートしています。そこをよく見ると亀裂が厚みの方向に進行しています。しかし途中で様相がまったく違います。境目を電子顕微鏡で拡大観察すると、1はディンプル模様になっていて、ここが初めに延性破壊を起こしたことがわかります。2はリバーパターンと呼ばれる模様で、剥ぎ取られたようになっています。筋状模様が地図に描かれる川のようになっているのでリバーパターンと言いますが、これが脆性破壊の決定的証拠です。したがって、表面から少しの範囲は延性破壊がじわじわと進行して、ある瞬間に一気に脆性破壊を起こしたのです。こういう破壊のメカニズムを学問として伝えていく必要があると思っています。
私が何より伝えたいと思っている鉄骨構造学の基本は座屈と破壊です。座屈に対して正しい認識を持ち続けるには、産業革命の頃から蓄積されてきた弾性力学、二〇世紀に発展した塑性力学の学理を身につけておく必要があります。もちろん、日々進化するいろいろな鋼材の性質についても知っておかなくてはなりません。それから、溶接やボルト接合の技術を支える接合力学をしっかり修得しておけば、破壊の問題に対峙し続けることができると思っています。こういうことが鉄骨構造学の基本だと考えています。

9──脆性破壊 引用出典=桑村仁『鋼構造の性能と設計』

9──脆性破壊
引用出典=桑村仁『鋼構造の性能と設計』

質疑応答

佐々木睦朗──鋼構造のほうから破壊に対して設計に役立つデータが提供される見通しはあるのでしょうか。
桑村──鋼構造の破壊は疲労破壊、延性破壊、脆性破壊の三種類があります。さらに特殊な状況で環境要因による破壊があります。おそらく今一番大事なのは脆性破壊に対する対策だと思います。これは兵庫県南部地震で鉄骨の脆性破壊の被害が、日本の建築構造学の歴史で初めて登場したからです。その前年一九九四年の同じ一月一七日にアメリカのノースリッジで地震があり、鉄骨の脆性破壊が起こりました。その後アメリカと日本で研究会をつくって、協力して脆性破壊に対する対策を考えてきたのですけれど、アメリカと日本はかなり異なったアプローチをしています。日本は材料と接合、特に溶接接合、それからディテールを総合的に考えて脆性破壊の対策をたてるスタンスです。アメリカはディテールで対処しようというスタンスです。日本の鉄骨・鋼構造は製鉄技術、接合技術、それから設計技術ともにレベルが高いので総合力を発揮して脆性破壊の対策を考え、かなり知見が蓄積されています。しかし脆性破壊の研究の歴史は長くはありません。神戸の震災直後、材料の研究者や橋梁、船舶の専門家などが、建築鉄骨の脆性破壊を解決しようと大勢の人がなだれ込んできました。ところが彼らはやがて退散してしまいました。彼らは脆性破壊は塑性変形をしないで起こると思っていたのですが、日本の鉄骨は性能がよくて、大きな塑性変形、つまり弾性限をはるかに超えた領域で脆性破壊をするきわめて難しい現象であることがわかったのです。建築の終局耐震設計を理解している人でないと到底太刀打ちできない難問なのです。全貌の解明にはかなり時間がかかると思いますけれども、悠長なことを言っていられない状況もありますので、脆性破壊に関する実験データを取りまとめ、対策技術が近々、日本建築学会から発表されることになっています。
伊藤毅──建築と鉄という関係をどう見るかが気になりました。私は建築史をやっていますが、歴史学の一般史と呼ばれる分野では建築は個別史になるわけです。しかし建築から発信する、逆からみた歴史の見方、ある立場だから言える見方があると思っています。技術者や科学者としては破壊、座屈がどの程度で起きるかについてきちっとした答を出さなければならないと思うのですが、一方で鉄の建築だからこそできることは学問体系としてはありえないのでしょうか。
桑村──鉄骨構造をやっている人はいつもそのことを考えていると思います。歴史認識があれば、鉄骨造はどこまでやってきたのか、その延長線上にどういう展開があるのか、を考えると思います。過去の歴史をたどりながら、同時に新しい展開、躍動感ある革新的な渦の中に身を投じたいというのは当然だと思います。だんだん技術が成熟してきているとはいえ、鉄固有の性質を発現させた新しいストラクチャーは今でもいろいろ出現しています。技術の積み重ねの上にあるであろうさらなる展開に当然チャレンジしていくべきだと思います。その過程で学問の体系が枠をはめられることなく膨らんでいくものと思いますし、今までもそうだったと思います。
[二〇〇四年一二月一六日]

>桑村仁(クワムラ・ヒトシ)

鋼構造、材料力学など。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?

>佐々木睦朗(ササキ・ムツロウ)

1946年 -
構造家。法政大学工学部建築学科教授。

>伊藤毅(イトウ・タケシ)

1952年 -
建築史、都市史。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。