銀座に店を構えるギャラリーのオーナーが東京から車で一時間半ほどの場所に農家を購入し、ウィークエンドハウスとして利用したり、若いアーティストに製作スペースとして貸し出したりしている。敷地には母屋、離れ、蔵、作業小屋の四棟があって、すこしずつ改修しながら機能の充実をはかろうとしているのだが、次の改修の目標は規模に対して小さすぎる水周りの補完だ。私たちへの依頼は、キッチンと風呂がはいる小さな小屋を建ててほしいということであった。
四棟の建物はロの字型に配置されていて、それらに囲まれた場所は中庭となっている。各棟の出入り口や縁側はすべて中庭に面しており、生活は中庭を中心に行なわれている。敷地の外はゆるやかな高低差と共に田畑がひろがる風景だ。しかし一分も車を走らせれば不必要に立派な新設の道路がみえてきたり、廃タイヤが山積みになっていたりするような光景が広がる。つまりは日本中のどこにでもある田舎で、脈絡のないもの同士が即物的に隣り合うようなミスマッチが方々に観察される風景なのだ。農業の本質がそうであるのか土地は即物的に利用される。使えるものは使われていて、そうでないものは見向きもされない。非情ともいえるその態度によって形成される光景は、田舎に素朴さを求める都市生活者の期待をあっさりと裏切る。敷地の周辺のこうした風景には正直なところがっかりした。都心から車を飛ばしてくるほどの価値のある場所だとは思えなかったわけだ。都市の強度に対峙し、都市生活を浄化してくれるような自然を見出すことが難しかったのである。期待していたのは別荘地のようなもっと均質で純度の高い自然で、とにかく、敷地やその周辺環境はそうしたものとは大きくかけ離れていたわけだ。
小屋が置かれる裏手のあたりは、敷地内でも特に寂れた感じの場所だった。しかしながら施主を観察していると気にしている様子がない。農家出身の施主と、郊外育ちの私とでは、風景の見かたが違うのだろうか。その違いを乗り越えるべく注意深く敷地を眺めてみた。まずよくある感じの緑色のフェンスが北東のあたりから南へ向かって走っているのが目にはいる。その向こうにはたった一メートルほどの幅の利根川の支流がある。さらにその奥には竹薮がうっそうと茂り、県道からの視線をさえぎっている。北西側は地面が大きく盛り上がり雑木林となっていて、足元には雑草がびっしりと生えている。北側は朽ちた感じの石垣と防風林の向こうに視線がすこし抜け、錆びで真っ黒になったフェンス越しに見えるのは梅林だ。石垣の上には手入されていない石灯籠がぽつんとおいてある。西側には古びた板塀が立っていて、南側には母屋と離れがみえていた。このようにつぶさに観察してわかったのは、むしろパーツそのものは面白いことであった。石灯籠の寂しい感じのあり方などなかなか味わい深いではないか。それでも全体としてわびしい感じにみえるのはやはり周辺の田舎の風景と理由が同じで、さまざまなパーツが脈絡なく並列的にならんでいるからだ。
敷地風景
提供=乾久美子建築設計事務所
このようなパーツのごった煮をやめて風景を分別すると何かが変化するかもしれない、そうした仮定を元にプランニングしてみた。正方形を母屋に対して四五度ほど回転させて配置する。ひとつの角は母屋に近づけて渡り廊下で接続し、残りの三つの角を風景が切り替わるポイントに置く。ひとつは緑色のフェンスが終わる北東のポイント。次は北西の板塀が始まるポイント。最後は母屋が視界にはいってくる南西のポイントである。こうして風景の切り替わるポイントに建物の角をあわせると、外壁に穿たれる窓からみえる風景はひとまとまりのグループに分類されることになる。フェンスと小川と竹薮、下草と雑木林の世界、石垣や灯篭による庭園の名残、そして母屋の裏側である。さらに内部空間を四つに大きく分割して間仕切壁によって正方形の対角線を形成するようにした。つまり×の形。すると四つの部屋はそれぞれ直角二等辺三角形となっていて底辺が外壁となり、その外壁の外には四つに分類された田舎の風景がひろがる。そして部屋から部屋へ移動するたびに窓から見える風景がぱらぱらと変化する。
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スペクタクルな風景に対して窓を構えることはたやすいが、目の前に広がる風景がとりたてて素晴らしいともいえないとき、私たちはどうすればいいのだろうか──この小屋の計画の関心はそこに集約される。風景など無視しても建築はつくれるが、しかしそれだとつまらない。見たくないようなものにこそなにかがあるはずだ。そうした仮説は建築だけに限られた話ではない。むしろ映画や小説や美術などの写実という手段をもった領域が得意とする。たとえば阿部和重は積極的に「見たくない」タイプの人物を登場させる。常識に欠け、状況把握に乏しく、思考が飛躍しがちで、周囲の人間に不快な感情をばらまくが本人は気づいていないような、「イタい」タイプとでもいえばいいのか、それがとことんまで社会との接続に失敗する。短編の「無情の世界」を例にとると、妄想癖のあるいじめられっ子の男子中学生が、のぞきを実行すべく訪れた公園で女性の死体を発見し、しかもその犯人が実の父親であるという妄想にとらわれ、さらに危機的な自分の状況をウェブに書き込むことで助けを求めようとする。だが最後の数行で、これまでの内容がウェブの書き込みにすぎなかったと思わせるようなプロット(ネタバレ失礼)になっている。こうしたどんでん返しはご存知のとおり阿部作品の定石で、「妄想癖」と「ウェブ空間における匿名の書き込み」という二重に「信用できない」入れ子の構造をもつことで、地の文のレヴェル設定ですら完全に宙吊りになってしまう。読者は無限に後退する(もしくは前進する)リアリティの迷宮の中に巻き込まれながら、その中に「イタい」タイプの男子中学生像が見事に生け捕りになっていることを発見する。ウソかホントかわからないような世界の中になさけない男子中学生に象徴されるような倒錯した精神が漂っている、なにかその状況は大変に切実でリアルな感じなのだ。
こうしたリアリティの追求は入れ子の構造がなければ達成できないだろう。男子中学生のだめさを記述するだけのベタなやり方では、彼らの狂気など記述できないのだから。とまれ短編「無情の世界」では入れ子というプロットによる物語世界の錯綜が、遊びの要素としてではなく男子中学生の精神のリアリティに肉薄するためにあるのだが、私はこうした作品のあり方にすごくあこがれる。
阿部和重『無情の世界』
(新潮社、1999)
外壁による外形と敷地との関係で風景を分類する、そして外に広がる風景の違いをもっとも端的にインテリアに影響させるべく、外壁の一辺に対してひとつの部屋を割り当てる。つまり強制的に風景を分類して、さらにインテリアで間仕切壁を介してつなぎ合わせているのだが、それにより風景を構成するパーツ同士の唐突な出会いをインテリアの雰囲気の違いへと変換しようとしている。雰囲気の違う風景をもつ部屋が間仕切壁一枚を隔てて隣り合っていることに、ミスマッチとまでいかないまでもそこに違和感を覚えるはずだ。それが田舎のミスマッチな風景をみるときに近い感覚になればいいと思っている。さらに風景に対する即物的な態度そのものが、田舎の風景のつくられ方に同調するような気がしている。田舎の風景に対して過度の期待も落胆せず、ただただ向きあえる小屋をつくり、田舎という状況そのものを生け捕りにすること──目指しているのはそういうことだ。脈絡のないもの同士が隣接する田舎の即物的でわびしい風景を明るく肯定し、そしてそれを凝縮したような場をつくる。なにかそうでもしないかぎり、都会からひょっこりと訪れた私の作業が田舎のミスマッチのひとつになりかねないのだから。[了]