身の回りにある「住設」(住宅設備)を見てみると、自分たちの意思とは関係なく勝手に動き出す機械が増えていることに気づく。人の動きや照度などに反応する照明器具、人のいる位置を目指して調和された空気を吹きかけるエアコン、室温に反応して作動する暖房機、便座を立つと吸気をはじめる脱臭器、浴槽の水温を感知して湯を沸かす給湯器、気温や日照に反応して開閉する窓やルーバー、ほかにも煙感知器や熱感知器、防犯設備や水栓器具、ドアなど、住宅のなかにある〈勝手に動き出す住設〉を数え上げれば枚挙に暇がない。私たちはいつからこんなに自律的に動く機械たちに囲まれるようになったのだろう。SFの古典に描かれた状況はもはや現実のものになっている。しかし、そこにはどこか割り切れなさや不気味さがある。それは、なぜだろうか。機械に動いてもらうために標準化された行動様式に合わせて行動しなければいけない不自由さや、環境を監視しているはずの自分たちが逆に監視される側に立たされている不愉快さ、過剰な環境制御によって自分たちの感覚機能が変わっていってしまうのではないかという不安など、技術と意識の間には埋めがたい溝があるように思える。それでいながら、身体は〈勝手に動き出す住設〉たちに順応し始め、身体機能や感覚機能が拡張してきているとさえ言えそうな状況になってきている。意識のうえでは違和感を覚えながら、身体が馴化され拡張されていくような感覚。この二つの感覚が同時に存在することによって、不気味さが駆り立てられているのかもしれない。一方で、こうしたテクノロジーの変化は、単に身体的なエフォートレス化(前号参照)を進めるだけでなく、建築や都市に対して新たな解釈やロマンを生み出す可能性を秘めている。機械の変化によって空間も変わらざるをえないし、見方によってはすでに変わり始めていると言えるのかもしれない。この状況を建築家は看過すべきではない。
今回はセンシングテクノロジーによって生み出される「感応空間」をテーマにする。まず、センサの仕組みや住宅内での使用の状況を概観し、これらの技術を組み合わせた近未来型の実験室と実験住宅を紹介する。また、GPSの仕組みとそれがもたらす空間認識の変容の可能性について記述する。「感応空間論」では歴史的な空間認識などを交えながら環境感知と身体、感覚機能などの関係を考察し、感応空間とそれを認識する私たちの意識の変化について論じる。キーワードでは、機械の自律的な作動に着目した「オートノミー化」と、センサの発達に伴う身体反応に着目した「アレルギー化/鈍化」を定義する。 [SY]
センシングとは
人間は何かに興味を惹かれるとき、五感を動員してそのものの情報を得ようとする。しかしそれに成功すると、さらなる情報を精確に獲得したいという欲望が働く。手の届かない規模の情報ともなれば、感覚機能だけでは限界を迎える。山崎弘郎『センシングの基礎』(岩波書店、二〇〇五)によると、センシングとは「人間の感覚の機能を専門化して、人工的に拡大発展させた機能である。それは、また、対象についてあいまいさをなくしたいとする欲求にもとづく活動である」とある。センシングとは、人間の欲望が生み出した身体に最も近いテクノロジーといえる。[MO]
感応空間とは
センシングが機能や行為を意味するならば、ここではその領域(空間)を表わす言葉を定義する。住宅の環境を制御する住設において、環境の何らかの情況を検知して(感知)、その環境が変わる(応答)までを「感応」と定義する。「感知」は、環境を検知した結果、得られた情報を計測し、処理しやすい信号へ変換することを指し、「応答」は、その信号を有用な情報へと処理し、動作に換えることによって環境が変わることを指す。こうしてセンシングされた領域(空間)を、ここでは「感応空間」と呼ぶ。[MO]
センサ技術論
センシングの過程において情報源に最も近い要素であるセンサについて説明したい。センサには、光や音、磁気、温度、圧力等の物理量を検出する物理量センサと、ガス等の化学量を検出する化学量センサがある。どちらも基本構成は、センサ素子と呼ばれるあるエネルギーを電気信号などに変換する部分と、判断・情報処理部分からなる。
センサ素子(光起電力型光センサ)
引用出典=佐藤一郎『図解 センサ工学概論』
(日本理工出版会、2000)
多様なるセンサの仕組み
センサは、ひとつの現象に対してひとつのセンサ素子で対象を検出するものが基本となる。温度計がそれである。しかし、それだけでは世に起こるさまざまな現象を検知できない。センサのなかには、例えば、前回取り上げた「Wiiリモコン」に内蔵される三軸加速度センサのように、速度や加速度、傾斜など、いくつかの現象に対して複数のセンサ素子を組み合わせて検出するものがある。複雑に重なり合った現象を、ある簡素化された基本の現象まで分解し、それぞれに応じたセンサ素子でセンシングするという仕組みだ。これぞまさにセンサを多様化したテクノロジーである。
センサ図解
人間の欲望から生まれたセンシングテクノロジー。センサは欲望の数だけ存在する。住設に覆われた住空間には一体どれほどのセンサがあるのか。センサの種類とセンサ素子の一覧を作成し、それを住空間におけるセンサ図解として示す。[MO]
センサの種類とセンサ素子一覧
センサ図解
参考文献
稲荷隆彦『基礎センサ工学』(コロナ社、二〇〇一)、佐藤一郎『図解 センサ工学概論』(日本理工出版会、二〇〇〇)、都甲潔+宮城幸一郎『センサがわかる本』(オーム社、二〇〇二)、山崎弘郎『センシングの基礎』(岩波書店、二〇〇五)
センシングルーム
無数のセンサを埋め込み、人間の行動を計測、記録する六畳ほどの実験室。計測だけでなく集積される多様なデータから、人の気づかなかったような支援につながる知見の発掘を狙う。テレビ、ベッド、机、床から収納の引出し、中の物品まであらゆるところに五〇〇個以上のセンサを配置。これらをネットワークで結合し、データを総合的に分析する。住人の生活パターンを記憶したり、次の行動を予測するためのデータベースを構築することで、住人の生活や行動がいつもと違っていれば、それを認識して遠隔地にいる家族に知らせたり、起床するとその日の予定を投影するなど、生活をサポートする機能を持った空間の実現を目指す。人間の行動をデータに分解し再構築しようという試みである。ここでセンシングの対象になっているのは環境よりもむしろ人間の身体、行動であり、環境制御のためのセンシングとは一線を画している。[SI]
プロダクトデータ
●東京大学大学院情報学環・学際情報学府の森武俊助教授による「部屋型日常行動計測環境」としての実験室。
●前身は「ロボティックルーム」という病室を前提とした医療系の計測、観測研究だったが、現在はそれが居住系に発展している。
●センサ技術とネットワーク技術を連携させ、生活をサポートする「知能住宅(中で生活する人の生活を実際の多種多様なセンサを用いて測って覚え時に応じて助ける知能を持っているかのような住宅)」★への応用を目指す。
生活パターンを覚えて
助ける知能住宅
(センシングルーム2005)
引用出典=http://www.irc.atr.jp/ieice_nwr/pdf/Lifepattern.pdf
註
★──社団法人電子情報通信学会「生活パターンを覚えて助ける知能住宅──センシングルーム2005」(森武俊)
多様なるセンサの仕組み
GPS(Global Positioning System、全地球測位システム)とは、二四個の人工衛星から発信される電波を利用して、地球全体を「センシング」可能としたシステムである。
元来、米国で軍事目的として用いられていたが、現在ではカーナビや携帯電話などをはじめ、われわれの身近なツールとして浸透しつつある。EU(欧州連合)ではGPSの独占を阻止すべく「GALILEO」をESA(欧州宇宙機関)と協同で開発中であり、また日本をはじめ、中国やインド、ナイジェリア、トルコなどにも同様の動きがある。GPSとの関係、各国のライヴァル関係により、今後世界の測位環境の飛躍的な向上が予想される。
「GALILEO」とGPSの原理は、四つの衛星を用いて場所を計測することである。衛星から目的地までの距離を半径に持つ三つの球の交点から目的地を特定、残りの衛星が時間を補正し、瞬時に目的地を知ることができる。たとえるなら、三つのコンパスが描いた円の交点が目的地である。
GPSを用いた都市計画の提案として、橋本しのぶ氏の「chip city(縫う都市)」を挙げる。プロジェクトの概要は、「現在までの都市構造は、主要な通りに沿って建物をはじめ広告やサインが立ち並んでいたが、人々がGPSを用いることで、広告やサインの必要性はなくなり、建物は道路から拡散されていく。やがて道路は排除され、車はそれぞれの目的地へ向かう。結果、これまで都市を形成していたすべてのツールが排除された均質な都市構造となる」といったものだ。GPSによる都市の均質化が可能になれば、目的地までの行程は排除され、従来の大通りのように、人の数だけGPSの道ができ、人と目的地が一対一で直結したプリミティヴな都市へと回帰する。
都市のみでなく、空間に対してもGPSは不可視のテクノロジーであることからも、空間に対しても均質化が実現可能となるだろう。
前回のリモコンのような、人をエフォートレス化に導く住設と異なり、GPSというテクノロジーは身体行為を省くことのない「便利さ」に価値がある。そもそもが「測位」という距離スケールの欲求であり、そこにテクノロジーと建築が手を取りあう可能性がある。エフォートレス化することなく、人と目的が一対一で直結した構造は、元来人間にとって好ましい。GPSは人に「地球全体をセンシングする」という新たな感覚器を与えたと言っても過言ではないだろう。[KK]
地球に張り巡らされた
24個のGPS衛星
引用出典=http://www.orixrentec.co.jp/tmsite/know/know_gps65.html
「chip city」(左から:主要な通りに沿って建物や広告、サインが立ち並ぶ/GPSの導入により徐々に広告やサインは道路から拡散していく/道路と建物は拡散し、車はそれぞれの目的地へ向かう)
引用出典=『AXIS』「特集=トーキョーモビリティ」(APRIL 2003、アクシス)
参考文献
ユニゾン『図解雑学 GPSのしくみ』(ナツメ社、二〇〇三)、『AXIS』「特集=トーキョーモビリティ」(APRIL 2003、アクシス)
トヨタ夢の住宅PAPI
愛知万博に合わせて建設された実験住宅。一九八九年に作られた「TRON電脳住宅」の発展型。センサによる計測だけでなく、居住者に「ユビキタス・コミュニケーター(UC)」という携帯端末を与え、よりインタラクティヴな空間制御を目指している。UCは個人特化され、その人がどのような温湿度、明るさ、音楽等を好んでいるかを知っていて、その人のために環境を制御する。また、ひとつのセンサで得た情報─例えば、人感センサで得た「人がいるかどうか」の情報─を防犯、空調、照明、音響など、さまざまなシステムで共有することで「多方面の最適制御」★一を行なう。壁にはスイッチがなく、多くの機能が「自律的で半自動化」★二しており、住設を協調動作させて快適な環境を作り出すことを目指す。また、センサによる情報収集と同時にUCを用いて身体が発する情報も判断材料となる。これはセンシングが消去しようとした「曖昧さ」を許容していることであり、現段階でのセンシングテクノロジーと身体の関係として、ひとつの在り方を示しているといえるだろう。センシングルームのような徹底的に身体をデータ化するテクノロジーが進化すれば、いずれこの「曖昧さ」も消去されるのかもしれないのだが。[SI]
プロダクトデータ
●設計:坂村健+トヨタ自動車住宅技術部一級建築士事務所+大林組名古屋支店一級建築士事務所、施工:大林組
●「豊かさ二倍、環境負荷半減」の実現を目指し、ユビキタスネットワークを駆使して近未来のライフスタイルを提案する実験住宅。
ユビキタス・コミュニケーター
引用出典=http://www.ubin.jp/press/pdf/TEP040915-u01.pdf
註
★一、二──『新建築』二〇〇五年二月号(新建築社)。
感応空間論
曖昧さを嫌うまなざし、残すまなざし
ルネサンス期に発明された遠近法は、空間をひとつの消失点に収斂する連続するものとして捉え、曖昧さをなくし、部分は全体に調和するという認識を形成した。それは単なる絵画技法や「視覚」を超えて、世界を掌握する「形式」の発明だった。対象について曖昧さをなくしたいというわれわれの願望がセンシングテクノロジーをもたらしたとすれば、遠近法はセンシングの原点といえるかもしれない。同じ頃日本では《洛中洛外図屏風》で空間を平行透視の方法で描いていて、遠近法とはまったく違ったものの見方をしていたことがわかる。そこで興味深いのは視点がずれながら複数存在していて、都市の多様な様子を生き生きと描いていることである。ところどころ雲を使って空間を縮めたり伸ばしたりしながら統合させる手法は、西洋の「世界をひとつに統合するまなざし」とは対照的に曖昧性や余白を引き受けたまなざしといえよう。遍在的に生成される出来事の接続部分が雲によって隠蔽され、個々のエレメントが不連続のままに配列されている。そこには現代の都市的状況さえ感じられる。
《洛中洛外図屏風》
引用出典=日本の美学編集委員会編『日本の美学』No.16(ぺりかん社、1991)
プロセスの縮減、それとも創造
そもそも都市とはアンリアルな存在ではなかったか。都市はエレメントの相関関係によってしか捉えることのできない、不可視のものが充満した雲のような存在といえるかもしれない。一八五八年にナダールが気球からパリを写した写真によってはじめて、実体としての街はカメラによって“センシング”されメディアとなって相対化され、「都市」という概念が生まれた。GPSは地球全体をセンシングして個体の正確な位置情報をプロットする。われわれはその場その場で必要な情報を受信しながら無駄なく都市空間を移動することができる。ランドマークとしての駅や建物は相対化され、場の固有性は失われ、都市が記号化していく。もはやその流れに抵抗することはできない。一方でわれわれの身体はリアルで生き生きとその街に暮らす。GPSを載せたカーナビは現在地と目的地を入力するだけで終わるのでない。実際には目的地までの道行を女性の声で案内していることに気づく。GPSという理論をカーナビというOSに落とし込む時に、人への親和化と事象のプロセス化を図っているのだ。普段、車に乗り付けない者にとってはちょっとしたガイド付きツアーだ。GPSが純粋に点と点を示す一方で、その道行を最短で結ぶか寄り道するかはOS次第なのである。最短距離を目指していたのにセンサに応答して寄り道したくなるかもしない。新しい観光ツアーができてもおかしくない。車の中が瞬時に「感応空間」に生まれ変わる。
現われのユビキタス化
「開放環境における休みなき管理の形態に比べるなら、もっとも冷酷な監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に思えてくるでしょう」★。一九九〇年にジル・ドゥルーズが情報管理社会の姿を描いたとおり、現在のわれわれは社会の透明性を求めるあまり、自らが匿名でいられない環境に身を晒している。街のいたるところで監視カメラに見られ、実際には作動しないダミーカメラさえ正規に製造販売され、銀行はもちろん商店街からマンション、個人住宅まで監視ネットワークが拡大している。カメラは目撃者となって情報を記録し蓄積し送信する。われわれはカメラに見られることと引き換えに安心を得るものの、どこかで誰かに見られているという不気味さが付きまとう。この不気味さを解消する方向は二つあるように思う。カメラの存在を希薄化する方向とカメラの存在を親和化する方向だ。超小型化して建築や環境に取り込み気づかれないように隠すか、見られることで付加価値が得られるようにして現わすか。例えば、強力なネットワークを活かして緊急時の通信手段としたり、匿名性を制御することで交通量や入館者数などの環境情報として提供することもできる。双方向オンライン型のテレビ電話の端末として機能することも可能なはずだ。インターネットにおけるブログ人気が示すように、「匿名性を確保した私」は本来、隠れるよりも現われることを望んでいるのだとしたら、管理と匿名性という対立項をも相対化する術が残されているように思う。
フィードバック機能としての感応空間
住宅の分野ではセンシティヴなまでに進化を遂げたセンシングテクノロジーは、セキュリティからはじまりホスピタリティを提供する段階にまで至っている。寝室では季節の変化に応じた温度、湿度の調整が行なわれ、低めの照度と色温度で眠気を誘う光環境が提供される。設定した起床時間と睡眠周期がシンクロするよう人工照明とブラインドシャッターが連動して光が調節される。発光素子と受光素子で構成された生体センサを手首に装着して眠りに就くと、脈拍に応じて変化する血液流量の多少によって光の反射量が変化することを利用して脈拍が測定され、データを解析して睡眠の深さが推定される。センシングテクノロジーは眠りの深さをチェックし、身体と環境が応答するオペレーターの役割を果たしているのだ。身体はセンサを付けてしまえばあとはどこまでも自由だ。これを管理されていると捉えるのではなく、センサを仲立ちとして身体と環境が応答していると考えたほうが人とテクノロジーの進化の過程に相応しい。つまりわれわれは、身体の外部にこれまでの身体では交感しえなかった繊細な“身体メディア”を手に入れて環境負荷や精神負荷からも解放されたといえよう。環境が身体と応答しフィードバックして身体へ働きかける。それが「感応空間」なのである。
身体メディアとしての方丈
鴨長明が六〇歳を過ぎてから今の京都伏見区日野の山中に営んだ三坪の草庵は、身体のセンシング能力を高める空間だった。長明は、都での生活を懐かしむこともなかったわけではないが、それにもまして草庵を取り巻く木々の音、若芽の香り、獣の気配、月の明るさ、葉を打つ雨音に自らの感覚を研ぎ澄ましていく。身体そのものがセンサであり、草庵を取り巻く森羅万象がセンシングエリアだった。現在、空間内に仕込まれた数多くのセンサによってわれわれ自身が読み取られていることを考えると、主客が逆転してしまったように思える。人は感じ取る存在から感じ取られる対象に変わってしまったのだ。しかし一方で、自然環境から都市環境へと身体を取り巻く環境が変化するなかで、感覚器の機能強化を必要とし、その延長線上にセンサ技術が生まれ発展したという機械論的な見方もできる。であれば、身体と環境との境界が変わっただけといえる。あるいは今なおわれわれが長明的感覚を持ちえているとすれば、「多層化する私」を切り替えるための複数の境界を手にしたともいえよう。[SJ]
註
★──ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(河出書房新社、一九九二)二八八頁。
過防備都市
人間にとって根源的な他者への不安は、排除というかたちで都市に出現する。ホームレスを拒絶するベンチや要塞化する小学校、完全防犯住宅など、五十嵐太郎『過防備都市』(中央公論新社、二〇〇四)では、豊富な都市現象が紹介され読み解かれていくのだが、それらがどことなく不気味に感じられるのは、本来ならば排除されることはないはずの私たちまでが一様に拒否されているように感じさせるからだろう。それは感応というよりはヒステリックな拒絶反応に近い。そのなかで監視カメラの出現にみる情報管理都市の到来は感応空間にとって示唆的である。五十嵐はドゥルーズが予見した管理社会のイメージをそこに重ねるが、そこでは監視カメラやセンサという認識のテクノロジーと安全に対する希求が結びつき、都市全体が一個の認識システムとなり、免疫のように他者を排除するものとして機能する。認識し排除する都市。そこにはポジティヴではないものの感応空間の萌芽がある。[GA]
眼の隠喩
眼は人間が元来備えるセンサである。その仕組みをモデル化しようとした作図法としての遠近法は、それ自体が世界のとらえ方の思考であったために、必然的に眼の外化の可能性を孕んでいた。多木浩二は『眼の隠喩──視線の政治学』(青土社、一九八二)で、写真の発達による人間の感覚の変化について述べているが、そのように人間の知覚が技術とともに拡張されるにつれ、世界はもはや主体的な視線によってとらえられるものではなくなり、人々は見られることを意識せざるをえなくなったのである。[KM]
keyword
ステルス化
対象を探索するセンシング技術が進化すればするほど、逃れる技術もまた進化する。レーダーに捉えられないステルス戦闘機の出現は、センシングから逃れる技術の極といえよう。センシング技術が高度に発達した開放系社会は、われわれの行動をつねに監視し続ける。われわれはそこから逃れたいという欲求が募り、行動にでる。携帯電話が普及し始めた頃サラリーマンが仕事から逃れるため電波の届かないところへ一服しに行ったように、監視から逃れる術を身に付けるようになる。それを「ステルス化」と名付ける。
われわれが「監視されたくない」「人目を気にせず行動したい」という欲求を持ちつづけるなら、自らの存在を消す「ステルス化」という進化が、ますます求められていくのかもしれない。[SM]
オートノミー化
autonomy=自律性。装置が出来事に対し自律的な応答を起こすようになる変化をさす。
住設において感応空間が成立するためには、まずそこに何があるのか、それが誰なのかがわからなくてはならない。次にその対象が何を望んでいて、何がなされるべきかを予測しなくてはいけない。そして最後にそれをきちんとしたかたちで現実として体現したときに、はじめて空間は感応したと言えるだろう。例えば自動ドアを例にとってみよう。自動ドアは赤外線センサによってそこに人がいることを認識する。ドアの前に立つほとんどの人はドアを開けて欲しいだろう、だからドアを開けるべきだという推論がなされ、スイッチが入りモーターが駆動して自動的にドアが開く。そこでは推論の誤謬は捨象され看過されてしまう。
センサはあらゆるかたちで発達したが、それはあくまで対象を認識する手段にすぎない。人に頼らず、機械が自律的に次に何をするべきかという判断を下すには、心理学や統計学による解析が必要となる。そしてそのうえで、例えば自動ドアならばセンサの位置や方向など、デザインの問題まで含めた総合的な解決が求められるのである。いわば身体を記号化するテクノロジーが必要なのだ。そのような身体を抽象化し、判断や推論を機械や装置に組み込むことを「オートノミー化」と呼ぼう。
人が動く。高精度化した赤外線、磁気共鳴センサーが脳の血流を瞬間的かつ微細に読み取る。蓄積された膨大な行動パターンの記録から「私」が何をしたいのか、統計的推論が瞬時になされる。空間が反応する。それにまた人が反応し行動する。それに対してセンサが反応し空間が応答する。そしてその繰り返し。感能空間の究極的なすがたは人をもはやパブロフの犬と同様の存在にしてしまう。実際の現実とわずかにずれる、不完全な抽象的人間像との隙間だけが人間らしさの牙城となるのだ。[GA]
アレルギー化/鈍化
センサの発達にともない、人の生活は便利で快適なものとなった。しかし、その一方で、その正確さゆえに人が必要以上にセンサに敏感になってしまうことがある。例えば、エアコンにこの傾向が顕著に現われている。エアコンは、人間が感じることのできない部分までセンサで正確に察知し、人に居心地のよい環境を提供する。本来曖昧であった、暑い、寒いという感覚は、エアコンを通して温度という数値により具体化され人に認識される。その結果、人はわずかな温度変化に過剰に敏感になる。生活を快適にするはずのセンサ本来の役割が、逆に、人の生活を窮屈にしているように感じる。これは、人が指標化されたものばかりに気をとられてしまうことに起因する。このような傾向を「アレルギー化」と呼ぼう。人は、さまざまなものにアレルギーを持つが、ここでいう「アレルギー化」は数値化された感覚や環境に反応を示すものだ。センサにより経験が拡張され、人は、微妙な差異まで感じとってしまうようになった。経験の数だけさまざまなアレルギーが生まれ、以前は気にならなかったことに過敏に反応を示すようになる。また同時に逆方向の進化もありうる。それが「鈍化」である。今や、状況や環境の判断はセンサに委ねられ、人は自ら感じとることを必要としなくなった。センサに依存しきった生活により、感覚器は麻痺し鈍感になる。センサなど存在しなかった時代と比べれば、その差は歴然であろう。鈍くなった感覚器は、汗をかくという人の自然な行為さえ忘れさせてしまうかもしれない。「アレルギー化」も「鈍化」もテクノロジーの発達による身体的な変化である。この変化が、人間にとって有益な進化なのか有害な病気なのかは、現段階では誰にもわからない。[SN]
エピローグ
「感応空間」と題し、われわれをとりまくセンシングテクノロジーについて見てきた。今回のリサーチを通じ、センシング対象は住宅内部のわれわれの身体にとどまらず、都市空間における人々の活動から地球表面で起きている森羅万象にまで広がっていることを知った。そして、センシングテクノロジーの進展とともに、われわれの身体が物理的にも精神的にも確実に変わりつつあることを認識した。
今やセンサ素子の多くは、人間の知覚能力を遥かに超える性能を備えている。センシングテクノロジーは執拗に事象を数値化し、仕分けし、相対化する。いままでは数値化されようもなかったおいしさや心地よさなどといった曖昧で輪郭の不明瞭な領域にまでその触手を伸ばそうとしている。今われわれはあらゆるものの境界について、その捉え直しを迫られている。
さて、次号は「象徴としての家族」を取り上げたい。男女の関係や親子の関係が従来の規範から外れ、生活のためのさまざまな共同のありかたが出現している。その時、かつて家族に貼付いていた象徴性はどう変わったのか? 住設に込められた家族の象徴性を探りながら考えてみたい。 [MY]