東京のイメージとして日比谷公園は今、なんら象徴的な力をもっていない。かつては日本初の近代洋風庭園として、モダン都市東京を象徴するトポスであったこの公園は、いまや、公園だけの比較で言っても、東京を代表するものとして多くの人に認識されているかというと、はなはだあやしい。事実、現在の大学生世代にアンケートをとったり、インタビューをしたりすると、日比谷公園を名前としては知っていても、実際に行ったことがあるかどうかとなると、ぐんとその数が減る。東京の公園としてまず名があがるのは、代々木公園、井の頭公園あたりである。私の周囲を見回した時、日比谷公園にわざわざデートに出かけたというカップルは、六〇代に多いが(数組)、若くなるにつれその数は減る。四〇代になるとほぼ皆無と言っていい。もちろん、日比谷界隈に勤務する人たちにとって日比谷公園はいまだに、デートや憩いの場所であるわけだろうが、わざわざ遠くから日比谷公園を目指して出かける人間は、まあ、奇特ということになるだろう。先日、何社かの旅行ガイドブックの「東京」という巻に目を通してみたが、日比谷公園についての記述は極めて小さく、スポット的に紹介したものは皆無だった。このところの「丸の内」ブームで、多少は日比谷公園もおこぼれにあずかっているのかなと思いきや、そんな気配はまったくない。むしろ、丸の内の近くにあってますますブラインド・スポット化しているのかもしれない。
今年の芥川賞を受賞した吉田修一の『パーク・ライフ』は、そんな日比谷公園を舞台にしている。その帯のキャッチコピーにも、「東京のド真ん中『日比谷公園』を舞台に、男と女の〈今〉をリアルに描いた最高傑作!」とあるが、タイトル自身が示しているように、この小説において日比谷公園は、単なる舞台以上のものとして登場している。淡々とした──中性的という形容をしたくなる──文章による軽い恋愛スケッチのように読めるこの物語は、意外に豊かで繊細な神話的想像力の立体交差を見せていて、日比谷公園は、後で見るように、その交差の水平的な広がりと垂直的な上下運動を起こす媒介者として機能している。そして、そのローカルな物語の表面に、東京という都市の現在が断片的に写しとられている。
眼差し──闘争と救済
近代的な都市空間において、それまでの人間社会にはなかった特異な眼差しのあり方が日常化したことは、もうここで繰り返す必要はないだろう。ポー、ボードレール、萩原朔太郎など、群衆という現象に魅せられた作家たち、さらに彼らの仕事を受け、「遊歩者」や「野次馬」といった新種の人間の存在様態を論じたベンヤミンやジンメルの名をあげれば、ことたりる。消費空間としての都市の中で、見ることの快楽が掘り起こされ動員されるようになった事情は、今も変わらない。広い意味での窃視の快楽として組織されるようになった眼差しのあり方は、見る主体が見られる主体を、自らは見られることなしに離れて捕捉するという関係性に根ざしている。暗闇の中の観客と舞台上に晒された役者たちという劇場的な関係性が市街へと敷衍されるわけだが、しかしそうなると当然、舞台上の役者たちが無名の観客たちの眼差しを「見せる」ことによって逆支配することがあるように、都市の中に晒されて存在する役者たちも──それは往々にして女性だが、人間だけではなく商品たちも同様に(商品である女性、すなわち娼婦は両者を橋渡しする)──見つめられることに対して見せることによって防衛・懐柔・反撃を開始する。眼差しは闘争のメディアとなる。
この闘争のメディアとしての眼差しということを、消費空間特有の問題としてではなく、普遍的な実存の次元において捉えたのはサルトルだが、彼は、人間同士の眼差しの交換を、相手を物象化──石化──する力のぶつかり合い、相互的な交渉/闘争と考えた。興味深いのは、その闘争の場としてサルトルが例に出すのが、公園での二人の人間の対峙なのである。逃げ場のないオープン・スペースでの距離を隔てての対峙。眼差しはその時、まさに決闘の矢であるかのように互いの存在を貫き、補足するための「飛び道具」と化す★一。
では、『パーク・ライフ』の日比谷公園ではどうなのか? この小説もやはり、現代の東京という都市における眼差しの様態を一貫したモチーフにしている。そして、その眼差しの様態は、微妙に変化するヴァリエーションを含みこんでいる。上記の二種類の眼差しの闘争をやはり前提としているのだが、それにも還元できない新たな眼差しの可能性が模索されているようでもある。
まず、この小説は、最初地下鉄の車内で偶然言葉を交わした男女が、日比谷公園で再会し、以降、公園を舞台としながらその曖昧な関係を変奏していくという設定だが、その主人公の男女──この二人には、最初から最後まで名前がない──が作る眼差しの関係性は、なんと言うか、優しさに、あるいは傷つけてしまうことの恐れに満ちている。相手を貫くことを恐れつつ、その皮膚の手前で立ち止まっている。
最初の出会いは、地下鉄の車内だ★二。男は、すでに降りてしまった同僚の近藤さんがまだ背後にいると思って話しかけてしまう。「ちょっとあれ見てくださいよ。なんかぞっとしませんか?」。車内から見えた臓器移植ネットワークの広告『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です』を見て言ってしまった言葉だ。近藤さんはすでにいなく、後ろをふりむくと彼の眼前には見知らぬ女性がいる。その女性は、しかし、なぜか平然と彼の問いに答え、相槌を打つ。
そのすぐ後、この男女は日比谷公園で再会するのだが、その時に女は、以前から男の姿を公園でよく見つめていたという。「私ね、この公園で妙に気になっている人が二人いるのよ。その一人があなただったの。こんなこというと失礼だけど、いくら見ててもなぜかしら見飽きないのよね」★三。まさに、男は女の眼差しの対象だったのだ。女の方が見る主体としての主導権を握っているというこの設定そのものも興味深いが、そのことは後で論じるとして、ここで重要なのは、この女の眼差しは、サルトル的に相手を石化してしまう眼差しとは違う種類のものに思えることだ。たとえば、男がボーっと過去の記憶の連鎖に心を奪われていて、ふと我に返る場面がある。その時男は、自分が座っているベンチの前を通り過ぎていったサラリーマンが自分の方を一瞥したのを感じ、「いま自分が見ていたもの、記憶のような、空想のような、どこかあいまいで、いわばプライベートな場所を、通りすがりの人に盗み見られたような気がするのだ」という感想を漏らす。同じような不安をいつも「向こうのベンチ」に座って男を見ている女にも感じ、「ここから見ると、ぼくが何を見ているように見えるのかなと思って……」と問う。その時の彼女の答えはこうだ。
大丈夫よ。あなたが見てるものなんて、こっちからは見えないから★四。
このセリフに象徴されるように、男を見つめる彼女の視線は、どこか優しく、言ってみれば母親的な、見守る視線なのである。そしてその視線は、自分の内面までをも盗み見られてしまっているのではないかという不安の中にいる男に対して、救いの手をさしのべる。ちょうど、地下鉄の車中で、決まりの悪い思いをしかけていた彼に言葉で救いの手をさしのべたように。そしてこの主人公の男は、女の見守る視線に手繰りよせられるように寄りかかる(この心理的な寄りかかりは、二人の会話が、小説を通じて男が女に対して丁寧語を使い続けるのに対して、女はぶっきらぼうに、むしろ年下の男に話しかけるような口調で話をすることにも暗に示されている)。
この見守る視線への寄りかかりというモチーフは、吉田修一の小説には繰り返し現われるモチーフである。「最後の息子」や「破片」に見られる、カメラやビデオ映像によって自己や恋人を撮影することへの異常なまでの執着も、その一変奏とみなしていいだろう★五。『パーク・ライフ』においても、女の視線以外に、後で見るように写真が重要な役割を果たす場面がある。都市という眼差しの劇場にあって、見られることはもはや逃れられない存在の基本条件と化しているのか。そうであるならば、こちらに突き刺さらない、こちらを殺さない、柔らかで無人称な眼差しをどうにかして手にいれることはできないか。そんな希求に吉田の小説の登場人物たちは疼いているように見える。
では、ベンチの女は、ただ、柔らかな眼差しを男に投げかける天使のような超越的な存在なのだろうか。もちろんそうではない。彼女自身、熾烈な眼差しの闘争の中で疲弊し摩耗しているからこそ、公園内では柔らかな眼差しを回復することができるのだ。そして、公園外の眼差しの闘争が凝縮され、否定的な形で純化されているのが、スターバックスという空間なのだ。そのスターバックスで毎日コーヒーを買って公園にやってくる彼女は、男とその同僚の近藤さんから「スタバ女」と密かにあだ名をつけられるのだが、そのスターバックスについて当の女は、嫌悪感を露に表明する。「なんていうんだろう、あの店にいると、私がどんどん集まってくるような気がする」、「次から次に女性客が入ってくるでしょ?それがぜんぶ私に見えるの。一種の自己嫌悪ね」というのである★六。
この女性客たちは、男の観察によれば、ファッションを含め完璧な都市的外見を決めているにもかかわらず、どの女も「私を見ないで」と言っているように見えるような女たちである★七。女たち自身も、誰一人として外を見ていない。そして、その「見ないで」という女たちの拒絶の装いは、スタバ女の解説によれば、「何も隠すものがないことを隠すための」擬態としての装いだという。そこには、演劇的な眼差しの交差する空間にいて、自己像の支えを無意識的には完全に他者に預けてしまっているのにもかかわらず、その事実を認めないために自ら見ることも見られることも拒絶するという、二重の疎外が生じている。これは、比喩的に言えば、アルコールや薬物の中毒者の自己誤認にも近い一種の視線中毒とでも言うほかない状況である。もちろん、自己誤認に対して、無限定な自己正認などありえようもなく、正しいか間違っているかという静的な対立で語ることはできない。しかし、中毒を中毒と認め、引き受けることから対話的あるいは行為的な可能性が生じることは確かで、眼差しの問題も「見られることの必要性」あるいは「見られることの不可避性」に対して「見ないで」という盲目的な拒絶をしている限り、自己が動く、あるいは動くものとしての自己を構築する場がない。
スタバの女は、そうした動けない自己、表面への還元とその否認に絡めとられてしまった「私」を裏側に抱え込んでいる。公園における柔らかな眼差しは、そのような都市という舞台上の交換可能なエキストラとしての私への嫌悪によって支えられているのである。
内部の空洞、あるいはレンタル身体
その嫌悪は、ひとことで言えば、内部の空洞化への不安ということになるだろうか。交換可能な「私」。借り物の私。この小説において最後まで主人公の男と女が無名であることもその不安を反映している。公園における眼差しの対話が、「私」が私であるための再生の可能性を探る方途だとすれば、一方で、この内部の空洞化の不安は、繰り返し登場する身体の仮構性、臓器移植のイメージによって増幅される。
前言したように、そのイメージは、まず小説冒頭、地下鉄車内から男が臓器移植ネットワークの広告を目撃する場面に登場する。「死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です」。前言したように、これを読んで男は、「なんだかぞっとしませんか」と不在の近藤さんに問いかけ、女も、「ちょっと怖いっていうか、不気味な感じするよね」と答えるのである★八。このやり取りがあったあと、男と女は日比谷公園で再会し、互いに、ぞっとするからと言って、それは臓器を提供する人の意思を馬鹿にしたのではないことを確認している。では何に彼らはぞっとしたのか。まさに、死んでからも生き続ける臓器、つまり、人格から自立した命を持つ臓器のイメージに対してだろうと推測できるが、やがてその推測は、より具体的な臓器イメージの登場と反復によって補強されることになる。その最初は、主人公が友人のマンションで目にするレオナルド・ダ・ヴィンチの人体解剖図で、性交中の男女の人体の断面図を描いたその図の中に主人公は誤りを見つけるのである。そして、あたかもそれが導き手になったかのように、次には、マンション近くの駒沢公園のそばにあるアンティーク屋で、二体の人体模型に出会う★九。
この二体は、両方ともが女性であり、その意味で、一人格の分身ともとれるわけだが、そのうちの一つは身体部の蓋が開かれていて内部の臓器が剥きだしになっているのに対し、もう一体のほうは、閉じられていて内部が見えない。その閉じられたほうの模型を見ながら主人公が抱く疑念は、内部の空洞化への不安をそのまま表明している。
なぜかしら閉じられた腹のなかが空洞であるような気がした。とすれば、中身はどこに置いてあるのか★一〇。
内臓は蓋を閉じると消えてしまう? あるいは、晒されているほうの内臓は、借り物に過ぎない? そういった不安を裏打ちするかのように、その二体の手前のショーウインドウの表面には、向かいのビデオ屋の「レンタル」というネオンサインが反射している。
さらに別の場面では、レオナルドの人体解剖図の話をきっかけにして、主人公の男女が臓器売買をビジネスにするアメリカの会社について話をする場面がある(その会社の名はCryoLife──生に向かって叫ぼう──という)。そこではこんなやりとりが登場する。
「だって、なんていうか、たとえば俺の心臓だとか肝臓だとか眼球なんかも、いずれは他人の物になるんだって考えたら、なんだか自分のこのからだが、借り物みたいじゃないですか」
「借り物かぁ……、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身が私物で、外は共有だもんね」★一一。
内部の空洞化に拮抗してよりどころになるかもしれない身体そのもの、自分の臓腑でさえ、やはり借り物にすぎなく、その所有権は「私」にではなく、人類にあるのかもしれない。だがその借り物の身体を、我々は抱えて生きていくほかはない。その身体の借り物性の感覚は、自己の身体だけではなく、地下通路という空間、そして公園そのものの身体的なイメージと響きあっていて、この小説では東京という都市空間全体が身体的に、しかしいつでも移植される可能性のある借り物的身体として捉えられていることへと遠心的に反響していく。しかしその話に移行する前に、少し触れておきたいもうひとつ別の次元の問題がある。
性差──その仮構性と揺らぎ
この小説を貫く身体の違和感、借り物性、そしてより抽象的には、内部の空洞化への不安の問題は、明示されているわけではないが、少なくとも比喩的な、あるいは語り口の次元においては、性の同一性障害を思わせる様々なディテイルに溢れている。
まず指摘できることは、主人公の男の、この物語の進行の中で果たす役割の一貫した受動性である。その意味で、この男は古典的な恋愛譚において男性の方が果たすことの多い物語の牽引役としての主体的な役割を放棄している。このほのかな恋愛譚において主導権を握るのは、地下鉄での出会いから日比谷公園での出会いまで一貫して女の方である。いや、その出会い以前から、女は日比谷公園で頻繁に男の姿を眺めていたことがあるわけだから、出会い以前から男は見られる対象として受動的に構成されていたと言ってもいい。また、男が友人の宇田川夫妻のマンションに半居候状態で滞在しているのは、彼の「先輩」である宇田川瑞穂に頼まれたからである。また、男の不在のアパートに居候し我が物顔に振舞うのは田舎から出てきた彼の母であり、かつての片思いの対象である「ひかる」が近々結婚することを男に告げるのも共通の高校時代の同級生の女性である。
要するに、この小説の主人公の生活圏に登場して様々な行動を主体的に引き起こすのはすべてが女性なのである。男性として行動的な役回りを与えられている唯一の人物は会社の同僚である近藤さんであるが、この近藤さんに対して、男は親しみを感じながらも「まったく別種の人間」という感想を抱いている。そして、男性で重要な役割を与えられているもう一人の人物は、公園の中で奇妙な赤い気球を飛ばそうと試みている六〇代の男性だが、この男性は、社会的な存在感の皆無な公園の住人──「私たちの先輩だと思うのよ」と女は言う──であり、やはり外部への主体的な働きかけをまったく感じさせない。
さらに象徴的なのは、ひかるの結婚を告げる高校時代の同級生とのかなり親密な関係である。その親密さに性愛を感じさせるものはいささかもない。彼女は、ひかるの近況を電話で男に告げるのだが、彼女自身もその時、出産したことを告げる★一二。実は、以前に彼女は死産をしていて、精神的ショックを受け入院をしたことがある。その時、主人公の男は、足しげく、有給休暇までとって見舞いに通ったという経緯があった。その時彼女には夫がいたにもかかわらず、その彼女のもとに彼は友人として頻繁に通ったのである。「二人目」の出産──今回は無事に男の子を産む──のことを告げられ、彼は一度目の死産の時のことを回想するのだが、この二人の関係に、異性間の恋愛を感じさせるものはまったくなく、むしろ、死産というとてもプライベートな出来事の心理的アフターケアという面もふくめて、女性間の友愛といった趣のほうが強いのである。主人公が、駒沢公園近くのアンティーク屋で発見する人体模型が二体とも女性であったという事実や、宇田川先輩との無性的な関係なども思い起こされ、この男の存在からは、古典的な男性性の符牒がことごとく剥ぎ取られている。それに、これはシニフィアンの次元の問題だが、この高校時代の同級生の女性の名が、会社の同僚の男性である「近藤さん」と同じ「近藤」であることも、その性のゆらぎの感覚、あるいは反転の可能性を読みの体験の中で感じさせる。「近藤」と呼び捨てにされるその女は、最初、むしろ男性を想像させるのだが、読み進むうちにそれが女性だったとわかる仕組みになっているのである。
主人公の女性性に話を戻すならば、では高校時代のひかるへの片思いはどうなのか、という疑問が残るかもしれない。しかしここでも彼は、ひかるに「弟にそっくりだから」という理由で恋愛対象とみなされず、日比谷公園のスタバ女にひかるとの話をうちあけると、彼女には、「……ねぇ、そのひかるって子、ほんとにいるの?」と聞きなおされ、うろたえてしまうのだ★一三。私は、だからこの男が実は同性愛者だといいたいのではない。このひかるとの恋愛の希薄感、透明感、弟のようにみなされてしまう無性性が、彼の一貫した受動性とあいまって、女性としての男性とでも言いたくなるような、あるいはどちらにひっくり返ってもおかしくはない潜在的な身体のゆらぎと不安を感じるのである。
この性差のゆらぎの問題は、あるいは東京の現在を映し出している面があるかもしれない。スターバックスに象徴されるように、消費都市としての東京の現況は、その再開発のほとんどが、消費の主体としての女性を主なターゲットにして成立している。東京が近代都市としての姿を現わしはじめた「銀ブラ」の時代からそれはそうかもしれないが、近年の消費空間開発においては、見る─見られるの関係が、見せる─見るの関係へと再構造化──それは、ガラス張りなど、透明で開放的な舞台としての空間の増加によって促進される──され、見る主体であると同時に見せる主体でもあることをこれまで以上に要請される空間になってきている。つまり、これまで積極的に舞台の上に上ってこなかった男たちの多くが、居心地の悪さを感じる空間が日常化しているということであり、女性たちの手引き──たとえそれが「見ないで」という否定的な手引きであるにしても──なしには、その舞台を演じることができなくなりつつあるということである。そこまでの一般化には少々無理があるにしても、男性たちの寄生性が問題になるということでは、この主人公の住居がまさに寄生的であり、仮設的だということも気になることだ。友人のマンションでの半居候状態は、彼の身体の借り物性と響きあって、生存そのものの仮住まい性を際立たせている。
直交する都市空間──神話と写真
さてしかし、この生存そのものの仮住まい性、内部の空洞の拡張は、救いのないものなのだろうか。眼差しのセクションでも触れたとおり、そんなことはない。あらたな眼差しの可能性が模索されているのであり、かつその再生への希望は、かつてのモダン、つまり過去の未来である日比谷公園というトポスにおいて模索されているのである。
先に私は、臓器移植のイメージを、内部の空洞性、仮構性という観点から論じた。がしかし、それはこのイメージの一面でしかなく、あらゆる神話的イメージがそうであるように、逆方向から見れば、同時にたしかな手ごたえへの希求と再生への希望が託されてもいる。二体あるアンティーク人形に対して、内部が空洞なのではないかと思う反面、手にもつとずっしりと重く、「実にリアルな重さ」を感じること。また、高校の同級生の近藤の二人の赤ん坊が、死と生の紙一重の対峙を暗示しているように、臓器のイメージもやはり両義性を帯びている。その希望と再生の含意を支えているのが、まさに臓器としての日比谷公園である。
二人が日比谷公園で再会するのは、すでに「心字池」のほとりである。そして臓器としての公園のイメージが、よりはっきりとした形で表明されるのは、主人公が、夜の日比谷公園を散歩しているときに見る幻影である。昼間、公園によく来るバルーンの男性との会話に触発された幻影だが、それはこんな具合だ。
噴水広場を離陸した気球が、ぐんぐんと高度を上げて、公園全体を俯瞰しはじめる。上空から見れば、公園は縦長の長方形で、ちょうど人体胸部図のように見える。心字池がその形の通り心臓の位置にある★一四。
つまり、垂直に上昇した気球から見下ろせば、日比谷公園そのものが人体解剖図のように見えるというのだ。とすれば、当然主人公たちは、日比谷公園という人体の内部に存在していることになる。仮の身体をもった不安定な存在が、迷路のような人体の内部にいる。その幻想の中で、人体のイメージは、日原鍾乳洞を訪れた過去の記憶と交錯する。暗い鍾乳洞の中が人間のからだの中のように感じられたことが、いつの間にか公園の体内のイメージへと転化するのである。そしてこの一種の胎内めぐり的な幻想は、光へと通じる。なぜなら、この幻想が終わるときに男は、眼前の夜の公園を再認識するのだが、そのときに見た暗闇は、「なぜか眩しかった」のである。
この眩しい暗闇というイメージは、実は、小説の冒頭で説明される、主人公の公園での日課と呼応する。彼のそのささやかな日課は、まさに都市における再生の儀式であり、儀式らしくその行為には細部にまで定式化したしきたりがある。それはこんな具合だ。まず、地下鉄構内から出て公園に向かう途中では、なるべくうつむいて歩き、遠くのものを見ないように心がける。そして、噴水を囲むベンチの一つにゆったりと座ったあと、ネクタイを緩め、地下鉄の売店で買ってきたコーヒーを一口なめる。そして、
顔を上げる直前に、数秒だけ目を閉じたほうがいい。ゆっくりと深呼吸をし、あとは一気に顔を上げて目を見開く。カッと目を見開けば、近景、中景、遠景をなす、大噴水、深緑の樹々、帝国ホテルが、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる。狭い地下道に馴れた目には少し酷だが、頭の芯がクラクラして軽いトランス状態を味わえる★一五。
この場合、暗闇である地下道から出てきた直後の、闇から眩しさへの反転が、日常のすべての光景の遠近感を喪失させるトランス状態を生じさせるわけだが、これが神話的な再生の瞬間でなくてなんであろう。そして、それはやはり公園という人体を通過して達成される再生なのである。
そして、その公園を通過する時間、再生にいたる時間というのは、水平軸に沿って一方向に流れる時間ではなくて、地下から地上へという運動や、上昇する気球とそこからの見下ろしという運動に暗示されているように、何か垂直に体積し輻輳する時間を示唆している。だからこそ、公園のベンチに座りながら、この主人公の男は、ほとんど夢の世界ともみまがうような、水平的な時間の脈略を超越した記憶の連鎖の立ち戻りに襲われるのである。その瞬間にさす光、そしてトランス状態が、文字通りの赤子の誕生を思わせることに触れて詩人の吉田文憲は、この小説の短い書評の中でこんなことを言っている。
おそらく地下道は人がそこをとおってこの世界にやってきた暗い産道なのだ。この男の儀式めいた所作──それはどこか人体の暗い胎内をくぐり抜けて、はじめて地上の光を浴びた赤ん坊の、この男の世界への驚き、擬似的な(秘やかな)いのちの誕生を語るかのようである。そして彼が脱け出たところ、そこに地上の楽園のような公園がひろがっていた★一六。
この小説世界の神話的構造を的確に分析した言だが、吉田は、小説のラスト・シーン──女は男を誘って、銀座の地下にあるギャラリーに写真展を見に行く──においても、同じように神話的構造を見出している。
この作品のラスト・シーンは深く印象的だ。女の故郷(「杉浦産婦人科」)を写した写真展を見て、二人は地上へ出てくる。その階段の途中で、女が呟く、「よし。……私ね、決めた」、と。なにを決めたというのか。それは不明だ。けれど、ここでも、地下から地上へと出てきたものの、なにか新しいいのちの誕生、決意の瞬間が語られていることだけは確かである★一七。
本当に、何を決めたというのか、様々な想像を誘うオープン・エンディングだが、私がこの新たないのちの誕生のイメージについて一点気になるのは、これが写真との接触によって起こっていることである。もう少し詳しく言えば、このエンディングの場面において写真が登場するのは、女が自分の故郷の写真──自分が生まれた産婦人科の写っている写真も含めて──に出会う場面だけではない。彼女の故郷、秋田の角館あたりの写真を見ながら、男も、「写真やなんかで見たことあるんですよ」と言うのである★一八。正確には、彼のインターネット上の分身が角館を旅して、その写真イメージをネット上で見たということなのだが、それを聞いて、彼女は、「そっか。あなた私の田舎を知ってるのね」とうれしそうな顔をする。つまり、彼女の決心は、二重化された写真の経験によって媒介されているのだ。この媒介項としての写真の重要性は、垂直軸上の対称点、地下から反転した上空に浮かぶ赤い気球にとりつけられたカメラ──もう一人の公園常連である六〇代の男は、気球にカメラをとりつけて、上空から日比谷公園の写真を撮ろうと目論んでいる──によっても暗に主張されている。公園の体内での再生の経験は、上空のカメラから写されることによって、より確かなものになるのだ。
写真によって賦活させられる時間とは、水平連続的な時間ではなく、原則的には、過去のある一点と現在を中間地帯を飛び越えて直接的に接触させる垂直的な時間であり、かつそのことによって、死んだ瞬間に生を取り戻させる、いや、死んだものとしての生を、いわば仮死仮生状態で眼前に置く。そういったメディアとしての写真の特性が、女そして気球男が生きる神話的時間を発動させている。そして、それを意識しながら再度、男のトランス状態の描写を読み返せば、まさに、その眼差しのvる──「カッと目を見開けば、近景、中景、遠景をなす、大噴水、深緑の樹々、帝国ホテルが、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる(傍点林)」。この眼差しは、すべてのものを同等に受け入れようとすることにおいて、何も見ていない。
公園のベンチで長い時間ぼんやりしていると、風景というものが実は意識的にしか見えないものだということに気づく。波紋の広がる池、苔生した石垣、樹木、花、飛行機雲、それらすべてが視界に入っている状態というのは、実は何も見えておらず、何か一つ、たとえば池に浮かぶ水鳥を見たと意識してはじめて、ほかの一切から切り離された水鳥が、水鳥として現れるのだ★一九。
これは、心字池の前で男が過去の記憶の連想に入っていく前の描写だが、モデルとしてのカメラの眼差しが、まさに、このように、すべてをまずゼロ次元に還元しようとする眼差しではないだろうか。だからカメラといっても、カメラ・オブスクーラのような、徹底して受動的で、すべての細部に対して均質で平等なカメラを想像すべきかもしれない。したがってこれは、我々が現在の都市空間における眼差しの闘争の中で、頻繁に出会っている写真イメージとは少し違う。欲望の蠢きを誘導し特定のベクトルを与えるカメラ=欲望の機械を一旦停止して、水鳥が水鳥として現われる以前のいわば空なる眼差しを取り戻すことはできないかという問いかけなのである。そして、その存在の未分化状態をそのまま見守る眼差しからはじめて「私」を構築することができないかと。
その意味で私に重要と思えるのは、この小説中に具体的には描写されないが、行間にあり続ける心字池の動かぬ水面のイメージである。男と女のあいだや眼前にあって、周囲のすべてを反転して映し出し、静かに動かない水面。垂直軸の神話的時間と連想の展開をうけとめその上に堆積させてゆく自然の受容器=印画紙。この公園の心臓部にじっと在り続ける水平面こそ、ひょっとすると、「死んでからも生き続ける」もの、その表面に世界のすべてを写し続けるものなのかもしれない。
註
★一──ジャン=ポール・サルトル『存在と無』(人文書院、『サルトル全集』第一九巻)、第三部第一章四節(まなざし)を参照。
★二──吉田修一『パーク・ライフ』(文藝春秋社、二〇〇二)、八─九頁参照。
★三──同、二一頁。
★四──同、三四頁。
★五──両篇とも『最後の息子』(文藝文庫、二〇〇二)に収録。
★六──『パーク・ライフ』三一頁。
★七──同、四二−四三頁。
★八──同、八頁。
★九──同、三七─四一頁。
★一〇──同、六三頁。
★一一──同、六八頁。
★一二──同、五四─五五頁。
★一三──同、七〇頁。
★一四──同、九一頁。
★一五──同、一〇頁。
★一六──『東京新聞』二〇〇二年九月二二日。
★一七──同。私自身の地下イメージの考察については,本誌一九号(二〇〇年)、一四七─一五五頁を参照。
★一八──この論では触れなかったが、地方と東京の相違・格差は、吉田修一の小説にしばしば登場する問題である。『最後の息子』に収録された「破片」や『パーク・ライフ』収録の「Flowers」などを参照。
★一九──『パーク・ライフ』二五頁。