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ポピュラー・サイエンスは何と等しいのか? | 平田知久
To What is Popular Science Equal? | Tomohisa Hirata
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体, 2006年03月発行) pp.20-22

二〇〇五年の話題のひとつに、「特殊相対性理論誕生一〇〇周年」があった。一九〇五年にアインシュタインによって発表され、その骨子にE=mc²という方程式を持つこの理論は、コペルニクスからニュートンへと至る自然観/自然法則を書き換えたという意味では、第二の科学革命と呼ばれるにふさわしく、この一〇〇年間反証に出会っていないという意味では、万有引力がそうであるように、もはや「理論」ではなく「法則」と呼ばれてしかるべきであるように見える。
ところで、ここでの法則という言葉には、帰結を導く「前提」という意味、また自明の前提としての「公理」という意味が内含されている。もちろん、原子爆弾をはじめ、ブラウン管時代のテレビ、はてはGPSに至るまで、特殊相対性理論が適用された実例には事欠かず、さらに言えば、自然物である私たち人間も、それに規定される存在である。例えば、この「理論」から導き出される帰結に、タイム・トラベルの不可能性がある。質量をもった物体は、光の速度に近づけば近づくほど自重が増加し、加速が困難になるため、光速に至ることも超えることもできない。
だが、上にも述べたとおり、法則が法則たる所以に、「自明」や「前提」といった要件があるのだとすれば、法則はそれ自体としては自存しない。まず、先の「実例」という言葉が指し示すように、その具体的適用物があってこそ、法則はそう呼ばれる。そして何よりも、法則は、それ自体を提示し、実例を踏まえた上で、それを自明の前提とする存在者(普通は人間)に、その存在が委ねられている。
ゆえにここには、法則が存在者を規定するのか、存在者が法則を在らしめるのか、という循環がある。今回の書評では、この循環を巡って、ポピュラー・サイエンスというジャンルに属する二冊の本を紹介してみたい。というのも、時に蔑称として「通俗科学」とも言われるこのジャンルが引き受ける課題は、「いかにして、とある法則を広く自明のものとするべく伝達するか」というものであるからだ。

この課題からすれば、デイヴィッド・ボダニス『E=mc²』は、特殊相対性理論を解説するポピュラー・サイエンスとしては理想的な書物であり、またそれゆえに異例の体裁をとっている。例えば、このジャンルで特殊相対性理論を取り扱うとすれば、理解を容易にすべく、アインシュタインとその周囲の人々の伝記から入り、特殊相対性理論を身近なものとするか、それをいったん具体化し、徐々に抽象度を上げていくか、またはその両方を採用するか、のどれかである。
確かに、この本も多分に伝記的要素を含み、また具体例を数多く配置するように心掛けられている(当然、先に挙げた実例も取り上げられる)。ただし、「世界一有名な方程式の『伝記』」という副題が物語るように、そのような配慮は特殊相対性理論に対してのみなされる。もう少し詳述すれば、──そしてこのことが異例なのだが──、この本ではまず、特殊相対性理論を構成する「E(Energy=エネルギー)」、「=(is equal toイコール)」、「m(mass=質量)」、「c(celeritas=光速)」、「2(square=二乗)」という各部分の伝記と具体例が綴られる。
このような記述が私たちの目を開かせるのは、例えばEについてボダニスが言うとおり、映画『スター・ウォーズ』のオビ=ワン・ケノービですら、エネルギーをフォースと言い換えて、エネルギー保存の法則を適切に説明するという意味で、過剰に人口に膾炙しているにもかかわらず、使用され始めたのは、一九世紀半ば以降だということだ。それゆえ、統一概念としてのEにも、それまでは別のものとされていた磁気と電気を結び付けたファラデーがおり、位置エネルギーと運動エネルギーの総和は常に等しいといった、エネルギー保存の法則が確立し始め、磁気と電気の関係を(この関係の一ヴァリエーションである光線もしたがう)方程式で表現したマックスウェルが続くという、固有の歴史があり、もちろんそれは他の各々の部分についても同じである。
各々の部分の歴史的な含意を明確化するこのような手法で、ボダニスは、特殊相対性理論を私たちになじみのものにしてくれる。しかし、彼の営為は同時に、「=」こそ科学の全てであるということも明らかにする。この本のもっとも短い「=」の章でのボダニスの表現を使えば、科学において「優れた方程式というものは、単なる計算式ではな」く、また「ふたつの物体の重さが、予想どおり同じかどうかを確かめるときに使う天秤のようなものでもない」。それまでまったく独立の保存則にしたがうと考えられてきたEとmを、──後者にかかわるのは、ラヴォアジェによって確認された「質量保存の法則」である──、「c²」を媒介にして結び付け、Eとmの変換可能性を示したアインシュタインの特殊相対性理論は、演算的な「=」の意味に留まらず、「=という記号を想像を越える未知の世界へ意識を向ける道具」として用いる科学の営みを、雄弁に物語っている。

デイヴィッド・ボダニス 『E=mc²──界一有名な方程式の「伝記」』 (早川書房、2005)

デイヴィッド・ボダニス
『E=mc²──界一有名な方程式の「伝記」』
(早川書房、2005)


ただし、アインシュタインのような「=」の使い方がある一方、もちろん計算式や天秤のように、実例として「確認されていく」過程にも、「=」は使用される。そのことは、「E=mc²」の伝記を綴る『E=mc²』の記述が、徐々に(科学)文化史へと変容することからも窺い知れる。
では、この確認はどのようにして終わりを迎えるのか。換言すれば、とある法則によって規定されるとある実例の何をもって、法則は自明のこととして確認済みとされるのか。この問いに関して、各人の理解力や置かれた状況についての個体差を持ち出すことは、結局自明化可能/不可能である人を区別するのみであるという点で、適切かもしれないが有益ではない。
そこで、アミール・D・アクゼル『フーコーの振り子』に目を向けてみよう。ほぼ同名の小説はエーコによっても出版されている。だが、アクゼルの本は、一八五一年にレオン・フーコーによって行なわれた「振り子の科学実験」の含意を描いた著作であり、その含意とは、「地球は自転している」である。
コペルニクスが『天体の回転について』において地動説を提示したのが、一五四三年であったことを慮れば、一八五一年という数字は驚くべきものだろう。ただし、次の二つの事実を明確にしておくべきである。まず、一八五一年の実験までに、ケプラーの惑星運動法則、ガリレオの木星衛星の発見、ブラッドリーの年周光行差など、天文観測上の結果や、ニュートンによる物体落下の実験予測などの状況証拠は出揃っていたということである。次に、フーコーの振り子の実験は、「フーコーの正弦則」と呼ばれる方程式にしたがう。初期条件以外の影響をほとんど受けない振り子を、(両極以外の)地球上の任意の緯度θにおいて、例えば南北方向に振ったとき、その振り子は、次第にその振動面をずらし東西方向になり、最後にまた南北方向に至って一周する。その時間Tは、二四時間を緯度のサインで割った値、つまり「T=24/sin(θ)」という方程式によって示される。
なぜ、フーコーの振り子の実験とそれを説明する方程式が、地球の自転を証明するのか。それは、実際に変化しているのが振り子の振動面ではなく、観測者であることがポイントとなるが、ここでの解説よりも、まさにポピュラー・サイエンスの本としてのアクゼルの記述に詳しいため、実際に手にとって頂きたい。そこには、初期の写真に関与し、それが転じて光速をかなりの精度で測定し、地球の自転を説明するにあたり、振り子以上に明快な器具を開発する過程でジャイロスコープを発明し、そしてなによりも極めて精密な振り子を作った技術者、また、科学アカデミーで議論された重要な科学ニュースを、『ジュルナール・デ・デバ』紙の科学担当編集者として一般向けに報じるという、ポピュラー・サイエンスの著者の原型、さらにナポレオン三世の寵愛を受けた物理学者といった、さまざまなフーコーの像が描かれている。そのような文化史的な観点から一人の科学者を見る際にも、ポピュラー・サイエンスは良き導きとなってくれるだろう。
だが、先の二つの事実から注目すべきは、地球の自転を証明するフーコーの正弦則という方程式が、「E=mc²」とはまったく逆の手順で到達されたということである。すなわち、正弦則は何百年もの実例の集積の帰結として、「E=mc²」は普通の想像を超えるような比類なき洞察として得られたものなのだ。よって、フーコーの振り子の実験とは、言わば「最後の実例」であり、対して、原子爆弾は、それこそ「最初の実例」だと言っておくことができる。
さらに、ここでもし、フーコーの振り子の実験を「最後の実例」の範例と考えれば、その特徴を原子爆弾に比しつつ、第一次近似として次のように表現できる。それは、ごく当たり前のことだが、そこに居合わせる存在者が実例を体感でき、それによって法則を自明のものとすることができる、ということだ(それゆえ、原子爆弾という実例は、なにより法則を自明のものとすることができない存在者が発生する可能性があるという点で、科学に悖る)。だが、これだけでは、自明化可能/不可能である人を区別する二分法が回帰してしまう。
そこで、フーコーの振り子の実験に、宇宙から地球の自転を眺めるという、究極の個体差をもたらす実例を対比させてみよう。そのとき明らかになることは、後者においては視点がひとつであるのに対し、前者においては視点が二つあり、しかもそれらがある前提を持つときに、互いに相反することを教えるということである。つまり、フーコーの振り子の実験は、存在者に地続きに固定されている方位と、存在者の観察で確認される振動面が変化する振り子を同時に見せ、地球が動かない(天動説を採る)場合には、それらが矛盾することを伝える。そして、この二つの視線が共に正しいものでありうる可能性を考察する場合に採られる(仮構される)のが、宇宙から自身と振り子を眺める視線である。法則を自明のものとする最後の実例とは、最後の三つ目の視線を、二つの視線の位置において暗示させるものなのだ。
ところで、この暗示された視線によって、法則に規定された自身を見出し、法則を自明化するというあり方こそ、冒頭に述べた循環を構成するものに他ならない。だとすれば、ポピュラー・サイエンスというジャンルは、そこで産み出されるメディアが、あたかもフーコーの振り子のような実験装置であることを目指しているのだと言える。その意味で、彼らの営為は、「新たなコミュニケーションの座標軸」を見ようとする私たちにも、多大な示唆を与えてくれると言えるのではないだろうか。

アミール・D・アクゼル 『フーコーの振り子── 科学を勝利に導いた世紀の大実験』 (早川書房、2005)

アミール・D・アクゼル
『フーコーの振り子──
科学を勝利に導いた世紀の大実験』
(早川書房、2005)

1851年ローマの聖イグナチウス教会で行なわれた フーコーの振り子の演示実験(Corbis-Bettmann) 引用図版=『フーコーの振り子』

1851年ローマの聖イグナチウス教会で行なわれた
フーコーの振り子の演示実験(Corbis-Bettmann)
引用図版=『フーコーの振り子』

>平田知久(ヒラタ・トモヒサ)

1979年生
京都大学大学院文学研究科研究員(グローバルCOE)。近・現代思想、メディア論、コミュニケーション論。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体