RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.42>ARTICLE

>
鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》(承前) | 清水穣
Risaku Suzuki Mt. Ste-Victorie, Part Three | Minoru Shimizu
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体, 2006年03月発行) pp.17-18

鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》連作が問題としているのは、対象に「見入る」こと、すなわち「奥行き」という空間性の創出についてであった。言うまでもなくこれは遠近法的な消失点をもった奥行きではなく、『知覚の現象学』におけるようなそれである。「感官というものはすべて、それらがわれわれを存在の何らかの形式に到達させるはずであるというかぎりで、すなわちそれらが感官であるというかぎりで、空間的なのである」。「感覚する人と感覚的なものとの関係は、眠る人とその眠りとの関係に比較することが出来る」。「眠り」としての奥行き、「始原的な奥行き」とは「事物なき媒体の厚み」であり、そのとき「色はもはや表面色として凝縮されることなく対象の回りに拡散して空間色となる」。基本的に、透明なレイヤーに基づいてしまう写真というメディアは、前存在的に未分化状態で拡散するそのような空間色を、どのように表現できるのだろうか。「われわれはア・プリオリに、どんな感覚も点的なものではないこと、感受性はすべてある種の領野を、したがって共存を前提とすることを主張(する)」。しかし焦点という「点」をもたざるを得ない、そして対象にレンズを向けて焦点距離という隔たりを必ず前提とする写真に、このように共存する「対象の深み」が表現できるのか。
メルロ=ポンティのディスクールは、液状化(前存在的な未分化状態への没入)と固体化(諸感覚への分離と生きる空間の構成)のリズミカルな(「実存のリズム」)往復運動である。「見入る」経験を彼は次のように語るが、それはすでにこの種の芸術的経験の語り口のひとつの典型である(こういう場合、なぜか色は必ず青)。「天空の青をながめる私は、(…中略…) それをに身をゆだねる。私はこの神秘のなかへ入り込む。それが〈私のなかで己を思索する〉のだ。(…中略…)私の意識はこの無限の青によって満たされる」★一。 例えばこれを写真で表現するとせよ。おそらく海がよいだろう(青色に拘らなければ砂漠でも大森林でもよい)。フラットでオールオーヴァー、無限に拡がっていく海、いや海と名付けられる以前の無限の青い広がりが鑑賞者を包み込んでしまうように、青いカラーフィールドの大型写真をプレゼンテーションする。あるいはまた、逆光も便利な手法であろう。彼方からの穏やかな光が眼球を優しく満たすように、木漏れ陽や水面の戯れを撮影しよう。ブレや暈けは効果的である。それは硬く縮こまっていた(=シャープなピント)存在が、ゆっくりとほぐれ本来の流動状態を回復する(=ブレや暈け)表現に適している。というわけで、パステル調癒し系写真が氾濫する。メルロ=ポンティまで騙せるかどうかは知らないが。
鈴木理策の《サン・ヴィクトワール山》や《桜花》のシリーズを、この類の癒し系写真から際どく区別しているものが、ディフェレンシャル・フォーカシングなのである。それは暈けとピントを両方実現する。美しい暈けは対象の回りに拡散している連続体を表現しているようでありながら、同時に、ある焦点距離の地点にピントが合うことによって透明なレイヤーが発生し、空間を層状に分離してしまうからだ。鈴木理策の場合、このレイヤーは写真空間の中くらいの深さに設定されていることが多い。つまり暈けた空間が、ピントのクリアなレイヤーの前後に分割されることとなる。これは「事物なき媒体の厚み」の拒絶に他ならない。言い換えれば、この連作のテーマは「写真にXができるか」ではなくて、「Xは写真には出来ない」ということなのだ。写真はセザンヌに屈する。《サント・ヴィクトワール山》連作は写真の不能についての写真なのである。
写真論の支配的なディスクールは「ストレート」と「ピクトリアル」の二元論であると先に書いた。それぞれ「流動化(ストレート)」と「固体化(ピクトリアル)」は、モダンな「写真のディスクール空間」の基本的なベクトルなのである。それは「リアルなもの」をめぐる疑似神学的なディスクールであり、最も一般的には「表象体系」と「リアルなもの」という二極のあいだで、すなわち「人間社会」と「無人の砂漠」のあいだ、「人為」と「自然」のあいだ、「芸術表現」と「ありのままの現実」、「ピクトリアル」と「ストレート」、「カラー」と「白黒」、「鏡」と「窓」、「デジタル」と「アナログ」等々……のあいだの往復運動として展開される。
この空間は、そこで要請される「ありのままの現実」ともども、歴史的な産物である。それはスティーグリッツによって確立され(「イクイヴァレント」)、エヴァンスによって純化され(「リリカル・ドキュメンタリー」)、やがて一九六〇年代後半から七〇年代を通じて有効性を失っていった。大雑把に言えば一九二〇年代から七〇年代、約半世紀にわたって写真を、そして今だに写真論を、支配している言説の布置である。ストランド、ウェストン、エヴァンス……の発言をパラフレーズしてみよう。人間の眼は文化的背景や歴史的文脈、時代の美意識や価値観によって曇らされているため、人為なき自然、世界の素の姿、裸の事物を認識することができない。しかしカメラの眼なら、ありのままの現実にじかに到達できる。したがって写真家の倫理とは、写真というメディアのこの本性に忠実であること、人間社会が覆い隠しているあるがままの世界を洗い出すこと、色眼鏡を脱色し裸の世界を曝露(expose)することである。つまり表現者としての自己を無化し、できるだけ透明にあるがままの世界を写し取る点に存する。それは空虚の倫理である。
では個々の写真家の芸術的行為はどうなるのか? フレーミング、コンポジション、プリントなど、広義の写真美を構成するさまざまな要素は、現実を一段高い(「シュール」)本当の現実へと純化するための、還元的な引き算の技法としてのみ理解される。例えばアンセル・アダムズのゾーン・システムは、ツーリズムによって汚された崇高な自然を洗い出すためのものであり、《用の美Beauties of the Common Tool》のシリーズにおいてウォーカー・エヴァンスが用いたシンプルな構図やセッティングは、「日用品」を「モノ自体」へと還元するひとつのスタイルである。人為はあくまでも自然のために、表現は無表現のために行使されるのだ。
七〇年代中葉以降、この言説の布置が揺らぎ始めた時期、言い換えれば「ありのままの現実」という超越的で中立的な存在への信頼が失われ始めた時期、多くの写真家たちは意識的・無意識的にそれに反応したと言える。そのひとつの典型は空虚の倫理をさらに徹底化して、「ありのままの現実」をネガティヴに、ひとつの不在として表現するという態度である。こうした写真家たちは、まずあえて「人為」を撮影する(杉本博司のジオラマや柴田敏雄のコンクリートで固められたダムなど)。構図とプリントに最大限の努力を払い写真美を実現する。この写真美は本来、真の現実を曝露するための引き算の技法であるが、その結果曝露されるものとは、たんなる人為に他ならないので、写真美そのものが無意味化する。つまり被写体の人為と写真技法の人為が相殺し合って、空虚が表現される。このタイプの作家たち(最後のモダニストたち?)にとって、作品とは反復されるストレート写真の美学の自殺である。
たとえば、エメット・ゴーウィンの空撮作品集『Changing the Earth』(二〇〇二)を見よう★二。地下核実験場、巨大農場、ゴルフ場建設地、鉱山の廃坑などを空撮した写真群は、母なる大地に対して愚かな人間たちが冒した環境破壊の痕跡である。アダムズで典型的に見られたように、ストレート写真の倫理が要請する「あるがままの現実」は、アメリカにおいてアメリカン・サブライムの対象たる「大自然」と同じ位置を占めた。人間の表象能力を超える対象は「崇高」であり、それこそがフロンティアの「彼方」に拡がる「砂漠」であり、「裸」の岩山であり、人跡未踏の大自然なのであった。いま、無垢の大自然は人間の自然破壊のせいでもはや存在しない。ストレート写真の倫理を支えていた「あるがままの世界」=「大自然」にはとっくに人間の手が入り、放射性物質で汚染されている。このときゴーウィンの写真は、アダムズのように反動的に「無垢の自然」を捏造する代わりに、破壊された自然を「あるがまま」として救出するものである。美しい抽象図形を描くその自然破壊の痕跡は、高度なプリント技術によって作品化される(=人為)が、その結果顕わになるのも愚かしい人為の痕跡にすぎない。人為と人為が相殺し合って空虚が表現され、写真美と空虚が重なり合って、鑑賞者に一種のカタルシスを与える。
鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》連作は、この系列からプリントの美学=空虚の美学を抜いて、無神論的にしたヴァリエーションと見なせるだろう。カタルシスのなさは、連作がカラーであることとも相応している。「ありのままの現実」をひとつの不在、空虚として表現するのではなく、たんなる不可能性として提示するのである。「リアル」は写真には写らない、写真にできることは純粋に空虚であることのみ、というのが最後のモダニスト達であるとすれば、鈴木は「リアル」は写らないのだから「写らない」ことを提示する。ピクトリアルな効果が期待させるものを、ストレートの効果が裏切り、それによって、「見入る経験」すなわち未分化状態の世界との遭遇が、写真には不可能であることを明示する。本当の未分化状態の世界は、作品と作品のあいだに、文字通りの非存在として、写真集のページの合間、画廊の壁としてあるのだ。連作が不自然なほどあるひとつの風景を異なるアングルから撮影し並列して提示しているのはそのためである。もちろん、ここには一種の否定性がある。このようなネガティヴな方法論において、連作はまだ、最後のモダニスト達と接している。

鈴木理策《桜花》 引用図版=鈴木理策『hysteric eight』 (hysteric glamour、1993)

鈴木理策《桜花》
引用図版=鈴木理策『hysteric eight』
(hysteric glamour、1993)

柴田敏雄《兵庫県穴栗群波賀町》1995 引用図版=『Visions of Japan, SHIBATA Toshio』 (光琳社出版、1998)

柴田敏雄《兵庫県穴栗群波賀町》1995
引用図版=『Visions of Japan, SHIBATA Toshio』
(光琳社出版、1998)


★一──M・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』第二巻(竹内+木田+宮本訳、みすず書房)。順に、二四、一五、九三、二九、一九頁。
★二──ストレート写真がきちんと「自殺」している柴田敏雄のシャープさに比べると、ゴーウィンの写真はどこか神の救済を信じている甘さがあり、それが空中撮影という視点を選択させている。

>清水穣(シミズ・ミノル)

1963年生
現代写真論、現代音楽論。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体