歌川広重による浮世絵シリーズの傑作「名所江戸百景」。この一二〇枚ほどの浮世絵は、安政三(一八五六)年から五年にかけて出版された。つまりそこに描かれているのは江戸といっても明治の世からわずか一〇年ほど前の風景ということになる。名所と銘打たれてはいるが、いわゆる名所図会のような単なる有名スポット紹介の絵はあまりなく、どちらかといえば「いかにも江戸らしい名景色集」といった趣が強い。
このシリーズほどさまざまな江戸の地形をまとめて数多く色鮮やかに描いている浮世絵はない。誇張した描写などの演出もあり、まったくの写実画という訳ではないが、広重の「ほどよい」誇張はそれほど虚構性が強くなく、むしろ江戸の地形的特徴をそれらしく強調し、わかりやすくする結果になっている。積極的に地形を描くことで、それぞれの名所の特性を表現しようとしたのだろう。広重が描こうとした一〇〇あまりの江戸らしい風景を支えているのは、間違いなくその「地形」である。
江戸–東京の地形は面白い。だが現在の東京では視線は常に遮られ分断され、拡がりをもった地形を風景の一部としてこの目で見ることは難しい。仮に視点を高く鳥瞰図の位置に取っても、眼下は高さがまちまちなビルなどの人工物にびっしりと覆われ、その下の地形の高低差を読み取ることはほとんど不可能だ。その点、江戸は実に具合がいい。かなりの面積が人の手で「開発」され視線を遮る森林は刈り込まれている。そして規模の小さな人工の構造物は地形を見通す邪魔にならず、むしろ高低差を認識する目印になっている。住居の密集地域でもその高さはほとんどが二分の一層程度と狭い範囲内で揃っているので、下に隠れている地形がほぼそのままスカイラインに反映されている。
ここに紹介するのはほんの数例だが、大判の画集なども過去何回か出版されている。「摺り」の良いものを探して、ぜひ全点ご覧になることをお勧めする。
その美しい風景はもう見ることができない。だがその場所とわれわれがいま生きているこの場所は、まちがいなく、時代を超えて「地続き」である。足下には同じ地面が広がっているのだ。
1──霞かせき 現在の財務省上交差点あたりと推測される。眼下の日比谷ごしに海が見える、正月の風景
2──廣尾ふる川 山手の丘と谷による典型的な東京西南部の地形。水流がややゆったりと蛇行を始めている
3──柳しま 江戸東側エリアの見渡す限りまっ平らな土地に、いかにも人工の水路然とした川が流れている
4──せき口上水端はせを庵椿やま 現、文京区関口。右手の椿やまは現在椿山荘がある急峻な丘である
5──湯しま天神坂上眺望 湯島天神の丘から、不忍池とその向こうの「上野山」をのぞむ。雪の中に静かに沈む下町
引用図版=『広重 名所江戸百景』岩波書店、1992 地形図出典=国土地理院 「数値地図 5mメッシュ(標高)」