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都市のアニミズム──小さなカミたちの人類学に向けて | 田中純
Urban Animism: Toward the Anthropology of Little Gods | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅, 2005年12月発行) pp.2-8

1 類似の存在論

ロジェ・カイヨワは『神話と人間』のなかで、「動物界の二つの分岐した進化、すなわち、それぞれの進化が人間と昆虫に帰結するような、もっとも完成した進化の二つのモデルを比較するなら、両者の間の、端的にいえば、一方の行動と他方の神話との間の対応関係を求めることは、無暴ママではないはずである」と主張している★一。彼がそこで取り上げるのはカマキリであり、あるいは擬態を行なうさまざまな生物たちだ。
カイヨワはカマキリが神話や民間伝承のなかにいかに広汎に現われ、人々の想像力を強く駆り立ててきたかを例示する。それは昆虫学者たちがこの虫の生態を記述する際に、客観的な記述の枠を越え出る感情表現に及ぶことにもうかがえる。こうした傾向はとりわけ、交尾中かそのあとで雌が雄を食べてしまうというカマキリの習性に関わっている。カイヨワはそこに、生殖行為とセックスとのあいだに宿る深いつながりをめぐって、人間とは異なる種の生物の行動に反応して幻想が形成されるプロセスを見ている。

すなわち、感情のもっとも意図的な潜在的性質を、外界に物的に実現した、一種の客観的表意文字として、かまきりは現われる。それはけっしておどろくには当らない。この等質な世界において、昆虫の行動から人間の意識まで、道はつながっているのであるから。雌かまきりはその雄を性交中に喰べてしまう。人間の男性は女性がその腕の中にひき寄せてから自分を喰べてしまうと想像する。行為から表象にいたる違いがそこに存するが、同一の生物的指向が、平行関係を構成し、近似現象を決定する★二。


カマキリにおいて、その行動を決定づけている生物学的法則は、人間にあっては、表象のみを条件づけている。カイヨワは、神話の構造を決めている、人間の原初的な感情的反応という、なかば生理学的で、なかば心理学的な要因の背後に、昆虫の本能的行動との連続性を見ているのである。つまり、想像力は生物学的に条件づけられている。
こうした視点から見るとき、昆虫をはじめとする人間以外の生物における擬態は、人間の精神衰弱に対応するものととらえられる。擬態とは生物が自己と環境との区別を解消しようとする活動であり、環境への同化にほかならない。コノハチョウが本物の葉と対称なかたちをなして、その下翅の突起が葉柄と同じ位置を占めるように停まるとき、そこにはあたかも「空間の誘惑」が働いているかのようだ、とカイヨワは言う★三。それは純粋な空間への回帰現象と見なしうるからである。
カイヨワはここで、ピエール・ジャネの研究を参照しながら、スキゾフレニーの患者たちにとって空間はひとつの貪欲な力であり、空間は彼らを追いかけ回し、包囲し、ついには喰らいつくして消化してしまうのだ、と言う。空間への同化による人格の喪失がそこに生じる。それは、空間に身体がとって代わられるという経験にほかならない。

そのとき身体は思考から離れ、個人はその皮膚の境界を超えて出て、五感のむこう側に住む。身体は空間の任意の一点から、何とか自分を見ようとする。身体はそれ自身が空間になったように、物を置くことのできない暗黒空間になったように感じる。身体は似ている。何かに似ているのでなく、ただ単に似ている★四。


このような類似そのものとしての身体を形態的に実現しているのが擬態にほかならない。そのとき、多くの場合、生命は一段階後退し、さらには腐敗した生物や無機物にまで同一化してゆく。カイヨワのように、こうした傾向性を自己放棄本能とか、フロイトの言う「死の本能(衝動)」と呼んで一般化すべきかどうかは措くとして、注目すべきは、昆虫などの生物の擬態と神経衰弱やスキゾフレニーが、いずれも「空間の誘惑」との関係でとらえられている点である。
カイヨワによるこうした立論に、一九世紀末における、シャルコーらの神経病理学に発する都会人の神経衰弱をめぐる議論とアール・ヌーヴォーの室内装飾との密接な関係の反映を見て取ることもできよう★五。この当時、室内装飾が神経衰弱の緩和に役立つと考えられたことは、そこで空間の誘惑力が強く感じられていたことを示している。さらに、アール・ヌーヴォーの場合、その誘惑力は、空間を埋め尽くす、繁茂する植物にも似た装飾文様に求められていた。ときに室内は総合芸術作品として、一定の様式で統一された家具や壁面装飾で飾られ、住人の衣服もまた同じ扱いを受けた。カマキリが去勢恐怖をはじめとする幻想の「客観的表意文字」であったとするならば、このようなアール・ヌーヴォーの室内とは、室内空間のなかに自己を消し去ってしまいたいという、自己消滅の衝動の「客観的表意文字」であったと言ってよいかもしれない。つまり、それはみずからの巣に同化してしまうような擬態なのだ。住人の身体はそのとき、類似そのものになろうとしている。
さて、一方、『メドゥーサと仲間たち』でカイヨワは、自分の姿を見えなくする擬態とともに、それとは正反対の、眼状紋による威嚇作用を取り上げている。この両者はときには、偽装によって姿を隠し、威嚇作用のある恐ろしい姿で突然出現するといったかたちで結びつく。そのとき、昆虫の眼状紋は人間の仮面に対応する。仮面は怪物じみた、もうひとつの顔を示し、本来の顔を覆い隠すと同時に恐怖を与える。つまり、そこでは擬態と眼状紋の二つの機能が結び合わされている。

仮面と向かい合う時、私は、視線から遁れながら、身の毛もよだつような見物によって突如その視線に不意打ちをかけるという二重の特性をそなえたかくも多くの昆虫たちの行動と示威、突如として生ずる威嚇、痙攣、身振りによる擬態、変身などを同列に並べて考えざるをえないのである★六。


人間の仮面と眼状紋をはじめとする昆虫の威嚇的形態との類似は、恐怖を与える外観のレパートリーそのものが限られていることの帰結である、とカイヨワは主張している。例えば、ワニの頭に似た突起をもつビワハゴロモは、ワニを模倣したものではない。威嚇作用のある形態のふたつの変形として、ワニの頭部とビワハゴロモの突起がそれぞれ生み出されているのであり、類似はそのことの事後的な結果に過ぎない。眼状紋もまた、異なる生物の眼の模倣ではなく、紋様がもつ効果に基づいた同様の形態形成による。
動物の行動に対して人間の神話という対応について言えば、擬態は姿を消すマントやサンダルの伝説に、眼状紋は言うまでもなく、人を石に変えてしまうメドゥーサの神話に結びつく。しかし、擬態と室内装飾、威嚇的形態と仮面といった関係においてはもはや、昆虫と人間、行動と神話、行為と表象の区別自体が消えているように見える(カイヨワは、ワニの頭部に似た突起を「断固として」ビワハゴロモの仮面と呼ぶ、と宣言している★七)。いずれにせよ、そこに対応関係があることは見逃せない。
カイヨワのように、「同一の生物的指向」をここで仮に設定するならば、そのような指向性を語るためには、自己破壊本能や死の衝動のような一般原理を仮定した、何らかの擬人化によることになろう。しかし、この擬人化とは、見方を逆転させれば、擬昆虫化であり、つまりは、人間のふるまいが昆虫のそれに、昆虫の行動が人間のそれに似ているという、相互的な類似そのものが問題であって、そのような類似をどのようにとらえるべきかという点に帰着する。
カイヨワが「対角線の科学」と呼んだものは、こうした類似を扱いうる視座を開くべき知として構想されていた。それは、一見したところ、根拠のない表面的な類似と思われるものの背後に、共通する同一の原理を見出そうとする。なかでもとりわけ、人間と昆虫といった種をまたいだ類似性のほかに、動物界・植物界・鉱物界などという界の境界も横断し、そのことによって、通常はそれぞれの界と対応した既存の科学の区分けを踏み越えてゆくことを特徴とする。そうした根源的類似現象のひとつが、例えば、カイヨワの取り上げた対称と反対称の問題であった。
対角線の科学は類似の存在論であり、あらたな基準で世界をとらえ直す分類学と言ってよいかもしれない。それはいかにも大胆な知的冒険に見えるが、この試みを根底で支えているのは、カイヨワの合理主義的精神である。類似は擬人化をともなうアナロジーを誘発しつつ、最終的には眼状紋の威嚇作用のような基本的原理によって合理的な説明を与えられる。対角線の科学は、それゆえ、知的構築物としてはきわめて安定している。
一方、ここで注目したいのは、カイヨワのアプローチそれ自体もまた示している、いわば、類似の認識論とも呼ぶべき次元である。カマキリに男を貪り食う神話的な女の怪物を見てしまったり、眼状紋をもつ蛾にメドゥーサの頭を見出してしまう、その驚きに満ちた発見とは何なのか。それは、アナロジー思考のはじまりにある経験を問うことにほかならない。

2 カミの空間構造

この点で「対角線の科学」を方法論的に自覚して合理的に整理したのちの著作よりも、カイヨワの処女作と言ってよい『神話と人間』のほうに、文字通り神話ないし神話の発生を糸口とした展開の手がかりがあるように思われる。カイヨワは、カマキリがもつ感情に直接作用する能力を指摘し、それは基本的で自発的な反応であって、集団表象のような公的な媒介なしに働きかけると述べている。そうした経験は神話形成以前のものである。それゆえに、「かまきり自体、社会決定が神話の構造を確定する以前に、まさに発生状態の神話がいったいどんなものであるか想像するのを助けてくれるに違いない」★八。
カマキリを通してそこで想像されようとしているのは、発生状態の神話であるとともに、神話発生の現場である。
それゆえここで、「神」からは区別された「カミ」という概念を導入したい。この区別は岩田慶治による★九。カミは生活の場に時を定めずに出没し、教義をもたず、文化的に十分にかたどられるにいたっていないのに対し、神は文化的な意味と言語の場に組み込まれており、出現と退出の決まった時と場所をもっている。こうした弁別は、いままでシャーマニズムや多神教、一神教に先立つ未開な神観念と見なされてきた、アニミズムのカミ観念の再評価と結びついている。
しかし、岩田はさらに、カミ観念ではなく、カミそのものの発端はどこに見出されるかを問おうとする。そのとき実証的な経験科学である人類学にとって、方法的な冒険が必要となる。この問題に踏み込むためには、自己自身の経験に基づく直観的な追体験を通して、カミの出現する場が反復されなければならない、と岩田は言う。この直観は知なのか、それとも信なのか、にわかには見きわめがつかない。だが、いずれにせよ、それが必要不可欠とされるのは、岩田がアニミズムのカミ観念、カミ経験を性急に虚構的なものとは見なすまいと努めるからにほかならない。
では、カミの出現について、どんなことが言えるだろうか。岩田はまず第一に、カミは衝撃のなかに出現する、と指摘する。その衝撃の時、あるいはその場は、出現したかと思うと消え去ってしまうような、はかないものである。それは朝露のように現われては消える。

驚いて、ハッとして、立ちどまり、立ちつくす。そのときそこに異様な、不思議なものにふれる。あるいは対面する。カサッと、積もった枯葉のなかに音がして、そこにトカゲが顔を出した。異様に眼の光るヘビがいた。風もないのになぜか、そこだけ木の葉の茂みがゆらぐ。あるいは、そこに静けさをたたえて坐りつくしている乞食がいる。これらの姿を見、音を聞いてハッとする。ハッとして、その場に吸い寄せられると同時に、言葉によって表現できない不思議な存在感を感ずる。万物のいのちの底に足が届いたかのような安堵感を覚える★一〇。


そこで直観されるのは、自分とヘビ、自分と風の音、自分とその乞食とが、同じひとつの究極の場を共有しているという事実ではないか、と岩田は言う。そのとき、自分がその灰色の眼をもったカラスに変身し、両者が互いに変換しうる場所が開かれる。そこにカミの出現する不思議の場所の構造がある。
岩田はその場所の構造を解明する手がかりをラオ族、タイ族における精霊を意味するピー(phi)の研究から得ている。彼らは巨石、大樹、川、獣といった生物、無生物のいずれにもピーが宿っていると考えている。虎の身体にはピー・スーア(虎)という精霊が、山の頂上付近にはピー・ドーイ(山)という精霊がいるといった具合である。このピー観念を分析した結果として岩田が得た結論は、一見したところ矛盾するような、次の二つの性格である。
一──ピーはかたちを離れない。虎のピーは虎というかたちから離れることなく、あくまで虎と一体である。
二──ピーはひとつである。虎のピーも、カラスのピーも同一である。
まず第一に、ピーはケシ粒かゴマ粒のような、実際には存在しない微小な物体ではありえない。ピーが誤解に基づくそうした虚構的観念でないならば、この二律背反が解決されるような構造がそこに存在しなければならない。岩田はそれを世界についての、二元的にして一元のとらえ方に見出す。天と地、あの世とこの世、眼に見えない世界と眼に見える世界、かたちとそのかたちを支えるもの、現われた自然と隠れた自然などとして表現される、柄と地からなる二元世界が、ピーのカミ観念には封じ込められているが、そこで柄(かたち)とは地(かたちなきもの)の自己表現なのである。ピーというカミは地をなす隠れた自然の別名である。柄としてのカミは千差万別であっても、地としてのカミはひとつなのだ。

カミは虚なのである。しかも、それがときとしてカラスになり、トカゲになる。そういう生きものの姿と別物ではない。別物ではないが、それは同時に、裏側であり、他界であり、虚空である★一一。


森の闇のなかから突然現われたカラスやトカゲに対面する。すると、それらの生き物と同時に、その背景をなす眼に見えない自然が見えてくる。カラスやトカゲはこのピーの世界の自己表現となる。そのような二元世界の開かれた風景を一挙にとらえる知を、岩田は「日常の知」とは異なる「微かなる知」と名づけている★一二。それは、中井久夫の言葉を用いれば「微分回路的認知」とも、あるいはカルロ・ギンズブルグの言葉を借りて「徴候的な知」とも呼べるだろう★一三。
これは不意に出現した動物たちや唐突な木の葉のざわめきといった局所的な現象を通して、見えない世界、あるいは他界に接するという経験である。岩田は宇宙飛行士たちが宇宙空間で経験した神秘経験を引いたうえで、そこで彼らが体験したような「ほんとうの空間」は、トカゲの背が青く光り、クモの死骸が転がり、アリがせわしなく走り回り、草葉の陰には死者の魂が潜んでいるような、すぐそこの局所空間でもありうる、と指摘する。それこそが岩田の言う「新アニミズム」の空間構造である。カミとの遭遇とは、この微小な局所空間との出逢いなのだ。
そうした遭遇の経験が、特殊な部族に限られたものではないことを、大学生を対象にした調査から、岩田は「私という空間構造」の様相として明らかにしている。その設問とは、「こころのなかの風景」ないし「私にとっての原風景」とは何か、というものであった。それに対する回答を整理すると次のような三点に要約できるという。
一──ミクロコスモスとしての故郷と、その象徴としての小さい生き物たち。セミやトンボ、バッタ、カブトムシ、蝶を追い回し、捕らえて遊んだ思い出。
二──背景としての自然の風景、あるいはものの匂い。海の青や森の緑、あるいは闇夜の経験。
三──一と二を結びつける驚き、恐れ、不思議、神秘感。竹藪の奥にある薄暗い沼のほとりの、幽霊が出てきそうな恐怖感など。
アニミズムのカミ経験と同じく、ここでは、風景における柄と地が驚きや恐れによって結びつけられて構造化されている。「私」とはこうした風景の持続であり、その原型がここで言う原風景なのである。
昆虫の擬態と威嚇効果のある紋様を執拗に論じるカイヨワの知的関心の背後にあるものもまた、アニミズム的な、と呼ぶことを許されるような、こうした原風景ではないだろうか。それは発生状態の神話ないし神話の発端となる経験を問い直している点で、カミ経験に触れていると言ってよい。そして、ときとして擬態によって空間に同一化する一方で、一種の仮面性によって衝撃を与えるという、カイヨワがとくに注目している昆虫の生態そのものが、カミ経験と同じ構造をもっている。擬態は自己破壊本能や死の衝動の表われというよりも、地としての眼に見えない自然という他界への同化ととらえられる。外界の徴候に対して極度に敏感になった神経衰弱状態での「空間の誘惑」とは、日常の知に代わる「微かなる知」によって感じとられた、他界の誘惑であると言えるかもしれない。いずれにせよ、人間と昆虫の相互的な類似の発見それ自体が、自他が互いに変換しうる場としての、カミが出現する不思議の場所を経験させているのである。アナロジー思考のはじまりにあるのは、こうした意味におけるカミの出現なのだ。

3 野生の都市

カイヨワは『神話と人間』に「パリ──現代の神話」という論考を収めている。近代都市がアルカイックな神話を呼び覚ます場になっているという認識はベンヤミンの都市論にも認められる。では、その神話性とはどのようなものだろうか。コスモロジカルな空間構造という点では、東西の古代都市がすでに秩序だった体系を備えていた。カイヨワは一九世紀の文学におけるパリ神話の発生を跡づけているが、その起因となったものを、フェニモア・クーパーの冒険小説におけるサバンナや森林が、探偵小説における都市という舞台装置に置き換えられた点に見ている。「サバンナや森林では、どんな折れ枝でも不安か、さもなければ希望を意味し、どんな木の幹でも、敵の鉄砲や、見えざる無言の復讐者の弓を隠しているからである」★一四。これは、都市がサバンナや森林になったということ、つまり、文明化されたコスモロジカルな構造体から野生に回帰したということを意味するものと言ってよかろう。
問題はここでも、社会化された神話の構造であるよりは、発生状態における神話であり、神話発生の場の様相である。古代以来の都市の構造を規定しているものは多くの場合、宗教的ないし民俗的なコスモロジーであり、それは文化的な教義と呼ぶべき所産である。しかし、そうした構造が資本主義の発展による空間の再編成によってなし崩しにされてゆくとき、都市経験の様相が一変する。街は予感を誘う徴候に満ちた野生の空間となり、ダンディたちをはじめとする英雄神話の舞台となる。そしてそれはさらに、アニミズム的とも呼べるような、カミとの出逢いの場ともなるのではないだろうか。そのカミの名は都市の「イメージ」という。都市神話はこのイメージのまわりに結晶してゆく。
そのような都市イメージを執拗に追求したのがシュルレアリスムだった。一時この運動に参加していたカイヨワは、シュルレアリスムの特徴を、イメージに特権的な優位性を与える点に見ている。そのイメージは人々に不意の驚きをもたらすものでなければならなかった。そのようなイメージとは、慣習的な意味を伝達する記号ではなく、確固たる意味作用をもたず、衝撃以外には何も伝えないような記号である★一五。アンドレ・ブルトンの『ナジャ』をはじめとして、シュルレアリストたちがパリという都市に求めたものも、そうしたイメージにほかならなかったと言ってよい。
そんなイメージとの遭遇とは、われわれの言葉で言えば、野生化した都市におけるカミの出現である。例えばシュルレアリストは、ウジェーヌ・アジェのパリ写真にとてつもなく古いカミの現われを見たのだ。そこには都市のアニミズムがあった、と述べてもよいかもしれない。そうしたシュルレアリスムにおけるカミとの遭遇をベンヤミンは「世俗的啓示」と呼んだ。
岩田は「草木虫魚の人類学」の視点から、あくまで自然との関係におけるカミの不思議の場所についてしか語らない。現代の都市生活は、カミのみならず神以後の、眼に見えない自然や他界を欠いたまま、世俗的な文化の差異によって断片化された場と見なされている。しかし、アニミズムのカミ経験に発して、シャーマニズムや多神教、一神教にいたる神の空間構造は、カミないし神の場を自然から寺院などの文化的構築物に移行させ、コスモロジーのかたちで都市空間の形態を規定していた時代を経て、「神の死」以後の近代においては、サバンナや森に見立てられる、いわば第二の自然、人工的な擬似自然としての近代都市で、アニミズム的な構造へと回帰したのではないだろうか。大学生たちの原風景が示すように、現代においてもまた、自然を背景とした驚きとしてのカミ経験が失われたわけではない。神観念や宗教文化を背後で支えるカミ経験はしぶとく生き延び、第一の自然のみならず、第二の人工自然のなかにも、つかの間の局所空間を無数に穿っているのではないか。
例えば現代の子供たちにとっては、『ポケットモンスター』や『ムシキング』の甲虫こそが、原風景をなす小さな生き物たちであろう。この小さなカミたちは、第一自然と第二自然、現実空間と情報空間とが重なり合って融合した領域から姿を現わす。『ポケットモンスター』のゲームデザイナー田尻智は東京郊外の町田で育ち、田んぼや森で虫を捕ったり、ザリガニを飼育するのが好きな子供だったという。彼はポケットモンスターをつくるとき、自分が子供のときに何を考えていたのかを懸命に思い出し、そんな思い出のなかから、よく観察して記憶していたおたまじゃくしに似た水モンスター「ニョロモ」が生まれた★一六。ポケットモンスターたちは田尻の原風景の一部をなす小さな生き物たちが変容した姿なのである。そして、『ポケモン』に夢中になった子供たちは、近所のちっぽけな藪や公園の草むらから、不意に「ポケモン」のような生き物が飛び出してきそうな気配を感じるようになって困ったという★一七。子供たちはこうした恐れを通して、この小さな生き物たちをミクロコスモスの象徴として内面化し、原風景としてゆく。
都市におけるカミとの遭遇もまた、自然のなかのアニミズム同様、あくまで局所的に起こる。そこにもアニミズム的な、柄と地からなる二元世界の構造があるのだとすれば、そうした局所空間とは、眼に見えない隠れた他界がつかの間、「イメージ」というカミのかたちをとったものなのだ。それが果たして、自然のなかでのアニミズムとまったく同じ構造であるかどうかは定かではない。明確な意味作用をもたない記号としてのシュルレアリスム的な都市イメージは、人を不安のなかに宙吊りにしてしまうようにも見える。だが、予測することなどできない衝撃こそがカミの出現であってみれば、こうした不安もまた、不思議の場所には付きまとうものであるに違いない。
都市を舞台としたアニミズムをめぐる「草木虫魚の人類学」が書かれうるのではないだろうか。それによって、都市構造に組み込まれたコスモロジーからその宗教的な位相を探るアプローチではなく、断片的でつかの間のカミの出現をすくい取った、経験の場の構造が明らかにされなければならない。その出現は局所空間での出来事でありながら、単に大域的な都市空間と関連するばかりではなく、むしろ、眼に見えるかたちを支える隠れた異界というひとつの場に通じている。カイヨワが擬態と神経衰弱を結びつけたように、大胆に対角線を引きながら、自然とテクノロジー、森と都市が混ざり合う不思議の場所を核として、現代におけるカミの原風景が描かれなければならない。カマキリやビワハゴロモと同じく、ポケモンをはじめとする小さなカミたちを通じて、都市というアニミズムの宇宙が、そこに参与した観相学のまなざしを待っているのである。


★一──ロジェ・カイヨワ『神話と人間』(久米博訳、せりか書房、一九七五)二三頁。
★二──同書、六七─六八頁。
★三──同書、一一五頁。
★四──同書、一一六─一一七頁。
★五──この点については、拙論「装飾という群衆──神経系都市論の系譜」(『10+1』No.40、INAX出版、二〇〇四、七〇─七九頁)参照。
★六──ロジェ・カイヨワ『メドゥーサと仲間たち』(中原好文訳、思索社、一九七五)一四六頁。
★七──同書、一六七頁。
★八──カイヨワ『神話と人間』四〇頁。
★九──岩田慶治『カミと神──アニミズム宇宙の旅』(講談社、一九八四)、同『カミの人類学──不思議の場所をめぐって』(講談社、一九七九)参照。
★一〇──岩田『カミと神』二五〇頁。
★一一──同書、四〇頁。
★一二──岩田『カミの人類学』三三六頁。
★一三──この点については、拙論「『メタ世界』としての都市──記憶の狩人アルド・ロッシ」(『10+1』No.36、INAX出版、二〇〇四、一〇─一一頁)参照。
★一四──カイヨワ『神話と人間』一七一頁頁。
★一五──ロジェ・カイヨワ『斜線──方法としての対角線の科学』(中原好文訳、思索社、一九七八)一八七─一九二頁参照。
★一六──一九九七年三月五日、中沢新一との対話より。中沢新一『ポケットの中の野生──ポケモンと子ども』(新潮文庫、二〇〇四)一三─一六頁参照。
★一七──同書、一一九頁参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅