ヴォッヘンクラウズール(WochenKlausur)。「閉鎖週間」とでも訳すのだろうか。そんな風変わりな名前を冠したオーストリアのアーティスト集団が、福岡に昨年の一一月から二カ月間滞在し、現地の教育に──彼らの言葉を使えば──「介入」(intervention)するプロジェクトを行なった。
私は、ちょうどその頃、ニューヨークに住んでいたために、プロジェクトそのものを実見できなかったが、今手元に、その報告書がある★一。去年のヴェネツィア・ビエンナーレで、初めて彼らの活動を知って以来、まさに私の考える「脱芸術」との関連で、ずっとその動向が気になっていたグループである。ゆえに、プロジェクトこそ直接体験できなかったが、報告書その他の資料を参考にして、あえてここで彼らの活動を「脱芸術」の視点から考察してみたい。
彼ら自身の活動紹介によれば、ヴォッヘンクラウズール(以下WKと略す)は、「芸術という手段によって小さな社会・政治的変化をもたらす」ことを目的としている★二。彼らはまず、彼らを招いた芸術・文化施設の属する地域がどのような社会問題を抱えているかを徹底的に調査する。次に、地域住民との対話を重ねつつ、調査によって摘出された問題の解決策を模索する。そして、最終的に提案した解決策を実現しうる社会的・政治的環境を整え、実行に移す(ヴォッヘンクラウズール「閉鎖週間」という名は、別にグループの閉鎖性を示すものではなく、むしろこのような活動プロセスにおけるメンバー間、そして他のスタッフや地域住民との、限られた時間における、徹底的な対話の強度を示すものだろう)。こうして、一九九三年以来、オーストリア、スイス、イタリア、ドイツ、マケドニアで、ホームレス、麻薬、高齢者、難民、教育、町おこし、失業、リサイクルなどに関する一〇のプロジェクトを行なってきた。
今回の福岡のプロジェクトは、初めて非ヨーロッパ圏で行なわれたものである。言語上の障害がありながらも、彼らは二カ月間精力的な活動を行なった。関係者や住民との対話の場としてカフェを設けたり、「アートピクニック」なるワークショップを小学生と行なったり、はたまた餅つき大会などに参加したりしながら、アジアの一地域の社会の成り立ち、文化の在り方、教育の問題点を探り、結局、この地の学校(特に小学校)を社会により開かれたものとするために、「プロジェクト型授業」と「エージェンシー」の設立を提案するにいたった。
いじめ、不登校、学級崩壊などに兆候的に見られるように、今や日本の教育システムは危機的状況にある。そんな中、文部省は二〇〇二年度より学習指導要領を変更し、例えば「総合的な学習」の時間を導入しようとしている。WKは、日本の教育システムがかような危機に陥った原因のひとつを、学校と社会の間にダイナミックな交流がなく、学校の仕組みが硬直化してしまったことに求める。そこで、彼らは、その交流のダイナミズムを取り戻すために、社会の様々な分野の専門家を学校に講師として招き、生徒や先生とプロジェクト型の授業を行なうことを提言した。そして、学校側と専門家たちの出会いをコーディネートする「エージェンシー」なる組織を設立することも合わせて提言した。
そのとりあえずのパイロット・ケースとして、福岡市内および近郊の三つの小学校でそれぞれ次のような試みが行なわれることになった。
一、商店街活性化プロジェクト授業(小学生が地元の商店街に活気を与えるような活動を展開する)。
二、「私たちの新聞をつくる」(仮称)授業(新聞製作の面白さを体験しながら、実際の新聞紙面をつくる)。
三、「ぼくらの家をつくる」(仮称)授業(家作りのプロセスを学びつつ、実際に自分たちの手で家をつくる)。WKの帰国後も、上記のエージェンシーがこれらのパイロット・ケースを含め、様々なプロジェクト型授業を立案・コーディネートし、持続的に活動を展開していくことになっている。
以上が、ごく大まかではあるが、WKのこれまでの活動状況の報告である。ここで、改めて「脱芸術」の観点から、彼らの活動を検討してみたい。
彼らの活動の特徴はまず、メンバーのみならず、地域住民との徹底的な対話にある。そこから彼らは、地域の社会における本質的な問題を探り当て、それを解決するような社会的な変化をもたらそうとする。しかし、彼らは、決して社会全体の大きな変革を企図するのではない。逆に小さな変化しか目指さない。しかも、抽象的なプロパガンダではなく、あくまで地域の現実に具体的に介入する。それも、一時的な介入ではなく、彼ら自身が立ち去った後にも継続するような介入である。
このように、対話の強度、脱全体主義、脱イデオロギー、脱イヴェント等々に性格づけられた彼らの活動は、おそらくその介入が社会の現実の深部にまで至るがために、その内容だけを見ると(たとえどんなに「芸術」という枠組みを押し広げたとしても)もはや「芸術」とは呼べないような様相を呈する。これまでのほとんどすべての「提言」の内実は、通常の文脈では「社会政策」、「市民運動」あるいは「国際協力」と呼ばれるたぐいのものである。その活動が「芸術」であると社会的に認知される唯一の根拠は、彼ら自身がそれを「芸術」として行なっているということであり、そしてそれが(彼らを招聘する機関も含め)「芸術」という制度的な場──ブルデューの言う「芸術場」★三──の内部から生起しているということである。
この点について、福岡のプロジェクトにスタッフとして参加したアーティスト、藤浩志も指摘している。WKの活動は「社会の中では何も特化されない一般的なことであり、逆にアートの中でしか生きてこない活動なのではないかという疑問です。アートの中で活動しているからこそ、国際展にも呼ばれ、こういう形で力を持つ事ができる。そういう面があるのではないでしょうか?」。WK自身、この種の疑問を常日頃投げかけられるらしく、ホームページ上、あるいは(ヴェネツィア・ビエンナーレの会場で配布していた)パンフレットなどで、この質問に答えようとしている(彼らの答えには文字通り「でも、それってアートなの?」という題が付いている)。しかし、実際のところ、彼らの「答え」は、この疑問に対するまともな答えとは──作為的だろうか──なっていない。
福岡のプロジェクト全体のコーディネート役のひとりであった長田謙一が言うように★四、彼らは、自分たちが行なっている(あるいは提言している)ような一見「アート」と見えない活動がすべて「アート」である、とより多くの人に自覚してもらいたいがために、このようなプロジェクトをあえて行なっているのだろうか。もし本当にそうならば、(極論すれば)例えばボイスが唱えたアートのユートピアニズム──すべての人が潜在的な創造性を発揮できるように、すなわちすべての人が芸術家となるように、社会を彫刻する──と思想的に大同小異ではなかろうか。しかし、彼らはもう少し狡猾である。「[社会問題を解決しようという]行動が、社会や官僚主義のハイアラーキーの中に抜け道を見出さなくてはならなかったり、あるいは具体的な方策を遂行するために、政治や行政やメディアの世界で責任ある立場にいる人物を速やかに動かさなくてはならないときに、アートというコンテクストは種々の利点をもたらしてくれる。アート機関から招聘されることによって、われわれはインフラ的枠組みと文化資本を得ることができる」★五。
彼らは、本来必ずしも社会的に「アート」として認知される必要のない社会的行動を実現しやすくするために、「アート」という「文化資本」を利用するのである。「芸術作品は、お守りや種々の秘跡などの宗教的な財やサービスと同じく、集合的に生産され再生産される集合的誤認としての集合的信仰からしか、価値を受けとることはない」(ブルデュー★六)。「芸術」としての正統性を認定するこのような「集合的信仰」は、(少なくとも「近代化」がある程度まで浸透している社会においては)いまだ根強く機能している。ある社会的に意味のある(非「芸術」的な)活動を遂行しやすくするのに、「芸術」という「集合的信仰」に利用価値があるならば、なぜそれを使ってはいけないのだろうか。WKの活動の、「芸術」をめぐる両義性は、畢竟、「芸術」という(「信仰者」にとっては)絶対的な価値から、(彼らの戦略によって)相対的な社会的使用価値を引き出すことにあるのではないだろうか(なお、言わずもがなだが、芸術の市場においては、そのような絶対的価値からいかに相対的な交換価値を引き出すかが問題となる)。
社会を脱資本主義化するのに、全体主義的なイデオロギーによるプロパガンダやスペクタクルが無効であると歴史的に立証された現在、地域との対話による小さくとも具体的でかつ継続的な活動が、ますますその政治性を発揮するようになっている。それらの活動に、「芸術」という「集合的信仰」は無縁である。唯一関わりがあるとすれば、WKのように、「芸術」から社会的な使用価値を引き出すことだけではないだろうか。しかし、こうも言えるのかもしれない。今、社会の中に、脱資本主義的な「事」を生み出していくのに、「芸術」とは異なったある創出する「力」が必要とされているが、WKは実は、「芸術」という口実のもとに、この「力」をこそ探求しているのであり、そしてこの「力」こそ、「芸術」以降のクリエーションを推進する──今までの人類には未知な──力ではないのだろうか、と。
ミュージアム・シティ・プロジェクト
註
★一──『公開討論会──ヴォッヘンクラウズールが提案するアートと社会の新しい関係』(ミュージアム・シティ・プロジェクト、二〇〇〇)。
★二──WochenKlausur: Art and Concrete Intervention, 1999(ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストリア館で配布されていたパンフレット)。
★三──ピエール・ブルデュー『芸術の規則I』(石井洋二郎訳、藤原書店、一九九五)。
★四──『公開討論会』。
★五──WKのホームページでの発言。URLは以下の通り。
http://wochenklausur.t0.or.at
★六──ブルデュー、前掲書、二六九頁。