RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.39>ARTICLE

>
自由な三次元 | 日埜直彦
Three Dimensions, Unfettered | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間, 2005年06月発行) pp.41-43

あるときジェームズ・スターリングは次のように語っている。

建物のカタチは、住む人の使い方や生活様式を表したり、おそらく示したりするべきであると信じる。したがってその外観は豊かで多様で、その表現はシンプルではあり得ない。普通の人々が日々の生活の中で連想を抱いたり、親しみをもっている、そしてアイデンティファイできるような形態や形状を集めることが、私は重要だと思う。(…中略…)機能と象徴の両方の要素を一緒にする特別な方法が、おそらく建築における〈アート〉なのだと思う★一。


六〇年代のスターリングのこうした考え方は、本論において問題としてきたことにかなり近い。それが意味することの具体的な例として《レスター工科大学》をここで取り上げてみたい。そこでは局所的な要求が注意深く汲み取られ、それに応じてしつらえられた「部分」によって立体的なコンポジションが組み立てられている。タワー棟と実験工作棟はその機能に応じてまったく異なった性格を与えられ、タワーは二分割されて、一方は基壇と階段教室と事務室、他方はいくらか小さい階段教室と実験室へとさらに分化している。こうした「部分」はそれが格納するプログラムに対応してそれぞれ形態的にも構法的にも徹底して違った扱いをされており、ガラスや空隙、面の切り替えによってしっかりと分節されている。分節された要素が立体的に組み合わされることで周囲に多様な場が規定され、この建築の全体像は要素が互いに呼応することで形成されている。特殊解としての形態が個々にかき集められているだけで、ある意味でこの建物にはまるで一貫性がない。しかしそのことはこの建築の固有性をすこしも損なっていないだろう。
先の引用は、現実の多様性に応接する建築は単純ではあり得ず、複雑で多面的な関係を引き受けて、あるいは少なくともそれを経由して形成されるべきだ、という建築家の考えを述べている。ここで注目すべきは彼がアイデンティファイ可能な要素とその編成を重要視していたという事実だろう。スターリングのこうした指向はすでに一度言及したミハイル・バフチンが言うところのポリフォニー性と並行していないだろうか。

ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによってホモフォニー(単声楽)よりも高度な統一性を実現することにある★二。


個々の声を個々のプログラムの要求と読み替えてみれば内容としては同じことである。《レスター工科大学》は本論においてアレンジメントという言葉で指摘してきたことの先駆的な例のひとつと言ってよい。
これに対して現代の建築はどうだろうか。例に引くには少々古いがプログラム的に類似するレム・コールハースの《エデュカトリウム》をここで対照してみたい。この建物は二つの階段教室と三つの実習室を囲い込む、二つのフォールドされたコンクリートの面、そして学生食堂と隣接する建物を結ぶ通路となる地表面からなる。この建物を構成する要素は基本的にこの三つの面であって、それらが内部で複雑に関係してそれぞれのプログラムを成立させている。外観に明確に表わされたこれら三つの分節は内部でも貫徹されており、地表面とフォールドされたコンクリートの面が接するエントランス周囲の意外に繊細な処理(たった一点で接する)を見ればかなり明確な意識がそこにあることがわかる。これら三つの面以外の要素、とりわけ平面を区切る間仕切壁は素材的にはさまざまだが一貫して乾式の組立構法によっており、その仮設的な表現はコンクリートの恒久性との対比を見せる。ここでフォールドされたコンクリートは、
 《レスター工科大学》と同じ意味でアイデンティファイできる形態だとは言えないだろうか。三つの要素がここで立体的に重なり合い、隔てられ、また結びつけられることで建築の機能と象徴が一気に実現されているのである。
あるところで岡崎乾二郎は《レスター工科大学》に注目し、その三次元的な編成と古来の伽藍配置が共通のシンタックスに依っていることを指摘している★三。この指摘は重要である。つまりアレンジメントはある三次元的なフィールドを前提しており、それは一個の建築というよりも一群の建築物の配置においてかつて扱われてきた問題なのである★四。ゲシュタルトにおける地として、仮想的な支持体として、ある三次元的なフィールドが前提されない限りアレンジメントを見る観点は成立しない。相対的に言って《レスター工科大学》は機能を細かく分割し、《エデュカトリウム》はより緩やかに機能をまとめて扱っているとは言えるかもしれない。しかし結局フォルマリスティックな視点から見れば、そうした違いは程度問題であって、注目すべきは一様で稠密な単一体という建築の古典的イメージと根本的に異なる編成にそれがたどり着いているという点である。建築が要素に分裂し、一個の建築がいわば街角のようになる。建築の内部が都市的様相を呈し、都市的交錯が建築の重要な効果と見なされ始める。《レスター工科大学》や《エデュカトリウム》を見てみればよい。外観はいわゆる建築写真の様式で撮りうるのに対し、内部はほぼ街角のスナップ写真と同質ではないだろうか。建築の構成を全体として一挙に透視するアングルなどどこにもない。おそらくそれを一望することができるのはアレンジメントを提示する模型においてであって、そのギャップは都市の全体模型を目にしたときの不思議な説得力に通じる。
アレンジメント的な傾向は、きわめてラディカルな変質を建築にもたらす。一方でそれはモデュール化に似ていて、融通無碍に必要なものを必要な箇所に実現する柔軟性をもたらすだろう。それは局所的な最適化に徹することを許し、選択の自由度を与え、定型的とは言い難い具体的で特殊な要求への複雑な応答を可能にするだろう。しかし同時に、古典的な建築のフォーマットを放棄することは、いわば無際限に存在する潜在的可能性をしらみつぶしに検討することを建築家に要求するだろう。あるアレンジメントと別のアレンジメントを客観的に評価しうる基準もおそらく存在せず、可能性の幅は圧倒的に広がるが、定石的なルールを取り払えば一寸先は闇である。

しかし、こうした領域がまったくの未開拓地であったわけではない。《レスター大学》とほぼ時を同じくしてアリソン・スミッソンが'How to Recognise and Read Mat-Building'★五というテクストを書いている。マット・ビルディングとは、低層の反復するセルと中庭、そしてそれを結ぶ動線からなる面的な広がった建物のことであり、基本的には六〇年代から七〇年代初頭までのチームXの世代の建築家の作品にこうした新しいタイポロジーを見出す小論である。そしてこのテクストのアップデート版といった体裁の"Le Corbusier's Venice Hospital and the Mat Building Revival"★六が二〇〇一年に出版された。スミッソンのテクスト以降に成立した多くの建物を同じ切り口で検証しながら、現代建築において構成の可能性に注目した希有な種類の論文集である。スミッソンはマット・ビルディングが局所的な変形にきわめて寛容であることに着目したが、実際そこで列挙される建築の多様性はきわめて豊かである。おそらくマット・ビルディングは本論で議論したアレンジメントの特殊な場合と考えることができるのではないだろうか。言うなればマット・ビルディングは図というよりも地であり、地に対して局所的な変容がむしろ図となる。二次元的な拡がりに限定されてはいるが、マット・ビルディングが注力するのは最低限の空間的フォーマットによって、最大限の自由度、あるいは寛容さを成立させることである。こうした事例に見られる蓄積はおそらくなんらかのかたちで三次元的なアレンジメントにアプローチする布石となり、野生地を歩む光を与えてくれるだろう。
いずれにせよこれまで検討する必要がないと思われていた茫漠たる領域に、建築的な可能性が存在することを示す事例が現われつつある。その成果の現状における巧拙は評価が分かれるところだろうし、おそらくこれまでに実現した事例はいまだ発展途上の段階にあるに違いない。しかしそのような方向にいまだ試されたことがない可能性が存在するということをすでに現代の建築家の多くがはっきりと意識しているはずだ。いまさらパンドラの箱を閉めることなどできるはずがない。懐古趣味と好奇心のどちらに建築家が向かうか。敢えて問うまでもないことではないだろうか。[了]

1──《レスター工科大学》アクソメ 引用図版=James Stirling Buildings and Projects,  Rizzoli International Publications,1984.

1──《レスター工科大学》アクソメ
引用図版=James Stirling Buildings and Projects,
Rizzoli International Publications,1984.

2──《エデュカトリウム》平面図 引用図版=ELcroquis 53+79, Cristina Poveda, 1998.

2──《エデュカトリウム》平面図
引用図版=ELcroquis 53+79, Cristina Poveda, 1998.


★一──「表現の方法と材料」(ジェームズ・スターリング『ジェームズ・スターリング』[ロバート・マクスウェル編、小川守之訳、鹿島出版会、二〇〇〇]一一八頁)。
★二──ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男+鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫、一九九五)四五頁。
★三──「忘却され反復される英雄」(『20世紀建築研究』(INAX出版、一九九八、一四六頁)。この論文は本論と交錯しつつ、その結論はかなり異なっている。ここではその点を扱うことはできないが興味深い論点であり、別の機会に検討してみたい。
★四──この点はコーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』(渡辺真理訳、鹿島出版会、一九九二)が関係してくる。
★五──邦訳は知る限りないが、『スミッソンの建築論』(岡野真訳)、『スミッソンの都市論』(大江新訳、共に彰国社、一九七九)に類似したより詳細な議論がある。
★六──Hashim Sarkis ed., Le Corbusier's Venice Hospital and the Mat Building Revival, Prestel, 2001.("How to Recognise and Read Mat-Building"も併録)。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>チームX

チームX(チーム・テン)。CIAMのメンバー、アリソン&ピーター・スミッソン 夫...

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>コラージュ・シティ

1992年4月1日

>渡辺真理(ワタナベマコト)

建築科、法政大学デザイン工学部建築学科教授。設計組織ADH代表。