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視覚性 | 日埜直彦
Visibility | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。, 2006年09月発行) pp.30-30

ロラン・バルトのもはや古典と言うべき写真論、『明るい部屋』に次のようなくだりがある。

「写真」は、本来的にある性癖を持ち、事物の意味に関しては嘘をつくこともあるが、事物の存在に関しては嘘をつかない★一。


写真に写っている情景があるときカメラの前に実在したことを、その写真は保証する。写真は過去の事物の”存在証明書“となり、過去の事物の実在を目の前の事物の実在とおなじぐらい確かなものとしてわれわれに示す。例えば一〇〇年前の誰かのポートレートは、その容貌を克明に伝え、このような人物が確かにいたと信じさせるだろう。写真はなにか有無を言わせぬ事実性を帯びていて、それがほかの芸術に対する写真特有の性質だとバルトは言う。
しかし写真以前のメディアと比べれば確かにそうだとしても、映画にも同様の性格があるだろう。映画は写真から派生し、同様の化学的作用によって情景を定着するのだから。だが映画を観るものにとって、スクリーンに映し出される情景は、あらかじめストーリーによって意味付けられ、あるいは映画の流れそのものによって秩序付けられ、コード化されている。そのコードに則って映像は進行し、そのコードに従わない要素はノイズとして押し流されてしまう。写真の場合はこれとは異なり、一枚の写真は固定され、こころゆくまでじっくりと注視することができる。一枚の写真上に定着された像は、世界そのものがそうであるのと同じようにポリフォニックで、その内側に矛盾や破れ、破綻を孕みうる。例えば主題となる要素の傍らに偶然紛れ込んだような要素が写り込み、ある種の不安定な緊張関係が写真に定着されることもあるだろう。日々われわれが目にする膨大な写真のほとんどはその意味が読み取られてしまえばその役目を終える類いのものだが、時に写真は世界の不協和音をそのまま定着し特異なリアリティを提示する。
そういう偶然写真に写り込んだディテールを、バルトはプンクトゥムと呼ぶ。プンクトゥムは写真の主題に包摂されないその場の事実の断片であり、それが写真を読み取る視線の想定を裏切り、特有のリアリティを写真に刻み込む。写真はこのような偶然的な要素、あるいは意味によって咀嚼しきれない現実を委細構わず機械的に客体化してしまう。写真的視覚とはこのような無差別的な視覚である。

文学における視覚性についてカルヴィーノは次のように書いている。

物語を考案する時、まず私の心に浮かんでくるものは一つのイメージであって、それはなんらかの理由で意味を担っているもののように現れるのです。(…中略…)それらのイメージそのものがそれ自体に内在する潜在的な可能性を、つまりそれぞれのうちに孕んでいる物語を展開させてゆくのです。こうしたイメージの一つ一つの周囲に、またさらに他のイメージが生まれ、類推や、均整や、対比といったものの場がつくり出されてゆきます★二。


こうした構想プロセスはわれわれが建築を構想する場合と驚くほど似てはいないだろうか。だがそれは決して意外なことではなく、少し視野を広げてみればこうしたプロセスは古典的芸術にしばしば見られるものであることがわかるだろう。例えばクラシック音楽においては主旋律を出発点として対位法が曲全体を組織化していくし、古典的な西欧絵画はイコノロジックなイメージを起点として構図法と遠近法が画面を組織化する。ごく単純な原型から有機的な関係によって調和的な全体を組織するこうした構想プロセスは、古くから用いられてきた。
先の引用においてカルヴィーノがイメージと呼んでいるものは、写真が提供するような視覚像とはまったく異なる。例えばカルヴィーノがある物語の構想段階で「まっぷたつに切り裂かれた男のそれぞれの半身がそれぞれ勝手に生きて行く」というイメージを得たとき、おそらくその男にはまだ名前もなく、生きた時代も定かでない、単なるイメージでしかなかったはずだ。ただカルヴィーノにとって、引き裂かれて半身となった男がマントをひらめかせて立つ姿は、物語を喚起する魅力的なイメージだっただろう。そしてそこに具体性が付与されるにつれて、物語は成長して枝葉を延ばし、陰影を刻むディテールがそこに位置を得て、そうして一個の作品が生まれる。もちろんイメージはアルファベットに定着され、文字の論理に沿って実体化するだろう。カルヴィーノの言い方を借りるならば「何ページにもわたって砂粒のようにびっしりと並ぶこれらの記号が、まるで砂漠の風に吹かれて動いてやまない砂丘のように、表面はいつも同じでいつも違っている、世界の多彩な光景を表している」のだ。

カルヴィーノがイメージと呼ぶものを建築のヴォキャブラリーから探すとすれば、おそらくスキームという言葉がそれに相当するだろう。スキームは一般に枠組みを意味する言葉だが、建築の場合は例えば基本設計のことをスキーマティック・デザインと呼ぶように、そこで実現されるべき建築の基本的な構想を示す。なんらかの水準で形式化されたダイアグラムであったり、あるいは全体を規定する空間イメージであったり、建築家によって求めるスキームの格好はさまざまだろう。だが比較的単純で抽象的なイメージでありながら、構想をドライヴさせる推力を備えたスキームを求めてエスキースは繰り返される。
それをスキームと呼ぶ呼ばないにかかわらず、それに類した原型的イメージは多くの分野で方法論的に位置づけられ、また実践されてきた。定石として習慣化され、あらためてなぜそれが必要なのかと問う必要も感じないほどに、ほとんど無意識化している。いくらかパラダイムとも似て、スキームの形式はゆっくりとしか変化しないが、長い歴史を持つメディアはそれぞれにスキームの形式とそれを展開し全体を生成する手法を形成し、その系譜が伝統を形作っていると言ってもよいだろう。
建築におけるスキームもまたその意味で伝統的なものだ。われわれが現在もスキームという言葉を用いているということは、われわれがそうした伝統の延長線上で考えていることを示唆しているのだろう。例えば近代建築の機能主義的なスキームがいかに旧弊を廃し革新的であったとしても、スキームから出発して建築全体を構想していく方法論自体はきわめて古典的なものだ。
だが同時に、古典建築と現代建築が異質であるのと同じ程度には、かつてスキームと呼ばれたものとわれわれがスキームと呼んでいるものは異なるだろう。実際、建築的なスキームは、平面を基底とする古典的な構想から空間的・立体的な領域へと拡張し、プロポーショナルな幾何学に依存したスケールの規定と同時により実体的な尺度を取り入れて、急速に複雑化する機能に応じてよりダイナミックでノンリニアな関係の組織化を指向しているだろう。こうした変化は概して、扱い易い抽象からより即物的な方向へと進んでいるように思われる。そしてその(おそらく決してたどり着くことのない)究極に写真的視覚のあからさまな直接性があるとすれば、古典的スキームのハーモニックな抽象性から写真のポリフォニックな具象性に至る視覚のグラデーションの一体どのあたりで、今われわれは考えているのだろうか。


★一──ロラン・バルト『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房、一九八五)一〇六頁。
★二──イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』(米川良夫訳、朝日新聞社、一九九九)一四二頁。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。