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観念的建築空間の不可能性、不可避性 | 丸山洋志
Impossibility and Inevitability of Ideal Architectural Space | Maruyama Hiroshi
掲載『10+1』 No.27 (建築的/アート的, 2002年04月20日発行) pp.21-23

ポスト構造主義の建築とは、建築言語における時間の空間化に向かうレトリカルな実践である……前回このように記したが、賢明なる読者は気づいている(何人かは、何をバカ言っているのだ、と罵倒したであろう)ように、ポスト構造主義が叫ばれて久しいにもかかわらず、「建築において何らかの時間性が問題になったところで、結局のところ……」といった感想に帰するその「歴史」を総括したにすぎない。あるいは「時間とは歴史である」を素直に実践したポストモダンの建築を標的にした言説であるとも言えるかもしれない。私などよりもはるかに「ポスト構造主義」に自覚的なピーター・アイゼンマンならば、例えば「時間」に対しても、「物理的時間」(アリストテレス)とも「心理的時間」(アウグスティヌス)とも異なる、それゆえにわれわれの経験から切り離された時間の在り様──ベルクソン流の記憶の様態としての時間が主観的経験の基礎ではないにしろ、そのような時間が一体「誰」に対して「何」に対して開かれているのかを彼は明確にしていない。anyone に対して、あるいは記憶そのものに対してという答え方が「いつかきた道」であることに誰もが気づいている──を抽象的に並べたてるであろう。そのようなアイゼンマンに対して、批評家フレドリック・ジェイムソンは、そんなことを言っても結局のところ、時間は建築において空間に「なる」でしょうと茶々を入れることになるが、そのジェイムソンも基本的にはカント以来の近代的主体に基づくいかなるア・プリオリな判断も通用しなくなっている状況変化のなかで「空間」なるものを再考せよ、と気の遠くなるような難題を建築(家)に突き付けているだけだ★一。

このような議論──正直に述べるならば、彼らの議論はあまりに広範で、難解すぎる──での私の関心事は、ジェイムソンの「(建築においては)「『時間』は『空間』になるのでしょう」、すなわち表現媒体としての「建築」においては時間は結局のところ三次元空間にプラスされるもうひとつの次元、力学・物理学において先験的に説明可能な「時間」に回収されるしかない、それゆえに(表現媒体としての)建築は何らかの方向転換すべきであるといった見解と、建築は二重の独自性──建築という表現媒体の固有性と、媒体が有するべき本質論的固有性──を固持すべきであるといったアイゼンマンの主張がすれちがうなかで、一体何が本当に問題になっているのか明確に見極めることにある。ジェイムソンとアイゼンマンが共通して槍玉にあげているのが「近代的主観」にせよ、素朴にそんなものを忘却してしまえばジェイムソンが建築に要求していることは、とりたてて「気の遠くなるような難題」でもなかろう──もっとも、彼が中間において言及しているメルロ=ポンティ的な現象学的時間やフッサール的な「内的時間意識」を建築において「志向」することは気の遠くなるような難題であろう──し、アイゼンマンが危惧するほどに建築という表現媒体が近代的主体と原理的に表裏一体の関係にあることなど意識されているわけではないので、これ以上言及するとせっかく「身近な話題」から出発したのにとんでもないところに迷走していきそうだ。何よりも前回最近の建築の特徴である「わかりやすくて非作家的」な作品に充満している「大衆の侮蔑」(ペーター・スロターダイク)を問題にすると予告したではないか。

「わかりやすく非作家的な」……。前回述べたように、私自身そのようなカテゴリーが明確にどのようなものかに、そして彼らの作品自体に対して特に精通しているわけではなく、実際に経験を通して語れるのは手塚貴晴手塚由比両氏の作品ぐらいなものである。その彼らの作品の特徴を手短に述べるなら、建築的アイデアとその実現へのプログラム・プロセスの明解性──例えば、《バルコニーの家》はバルコニーのごとくに開放感のある居室があるだけの住宅であり、《空をつかむ家》は文字どおり空に向かって開口があるだけの住宅だ──となるであろう。明解さ、抑圧のなさゆえに昨今の建築家予備軍(=若者)にとって格好の見学対象になっているのだが、当然のことながら、そこには彼らの相互承認的な水平的コミュニケーション(=生ぬるさ)が充満することになる。その器として、手塚両氏の建築がなぜか調和することになる。

私に言わせるなら手塚貴晴・由比両氏の建築的所作は、ルネサンスにおいて引かれた建築家の役割を近代という歴史的発展にそって忠実になぞっているだけである。もちろん、彼らの作品がルネサンス的であるなどと言っているのではない。いささか挑発的に彼らの振る舞いを青年ヘーゲル派──大衆を魅了せよ──に譬えることはできるにせよ、見事なまでにコミュニケーションにおける垂直的な「上下関係」の敷居が取り払われた──これも建築における実体的な垂直関係や部材のことなどを言っているわけではない──その作品群をわかりやすい「一発芸」などと揶揄する声に与するつもりはない。私の彼らの建築に対する──そして、他の「わかりやすく非作家的」な建築に対しても──批評は「ルネサンスにおいて引かれた建築家の役割を近代という歴史的発展にそって忠実になぞっているだけ」という言葉にすべて込められているが、ただ、その意味を説明するとなるとせっかく断ち切ろうとした迷走に舞い戻ることになる……。確かに彼らの建築所作においては観念性が希薄であるが、単なる心理状況に属する観念として問題にしたところで始まらないであろう。空間の「観念性」とりわけ建築空間の「観念性」といった自明なようでいて、まったく明確でないものに言及しなければならないからだ。

私は、最近ずっとルネサンスの画家ピサネロの遠近法に関する習作ドローイングを見つめていた。本来の目的は画家と建築家のどちらが偉いか──こんな振る舞いこそ、垂直的コミュニケーションに冒されているのかもしれないし──をこのドローイングだけで検証しようとしていたのである。彼のドローイングに表われているものと言えば、遠くにいればいるほど小さく見える人物と、そのことを自明なものとして保証する「枠組み」としての抽象的建築スケルトンである。ここに生まれている知覚空間に対して、おそらくアルベルティならば建築(家)は一切口出しをするなと言ったであろう。
空間の観念性なり、表象性などは、建築が自明のうちに示唆する枠組みのなかに画家が問うことであって、建築(家)の役割は単に形の結合を整え、物理的実体の算定をするだけであると。だから、建築家は透視図法(単なる図法だけではなく、その概念的原理)に対して観念的に対応する必要はなく、他者に対する見栄えの説明のための道具でしかないのだ──もちろん、画家を気取って透視図法に表象された空間の良し悪しを語るのは自由だが★二。極端に述べるならば、遠視図法にもとづく視覚性を問題にするかぎり、建築空間を「観察」するのは画家の役割であって、建築家などは、事物の実体的な算定を果たした後の身分はピサネロのドローイングに描かれている人物と同格なのである──その限りにおいて、建築の使用者との水平的コミュニケーションも確かに可能となろう。遠視図法そのものに対する建築(家)の態度の変遷──画家への奉仕、裏切り、科学への擦り寄りあるいは自律──は、ルネサンス以降の建築の歴史からある程度了解できることだから、くどくど説明しない。ここで問題にしているのは、あくまで「観念的」の建築的意味なのだから。

知覚空間を可能にする「枠組み」としての建築。その空間に対して、建築(家)はアルベルティが示唆したように観念的である必要など(歴史的に)なかったのであろうか。再び、そもそも建築空間の観念性とは何であろうか。ピサネロの習作ドローイングは単純なゆえ
にそれが何であるかを教えてくれているように思う。彼のドローイングの含意されている総体を観察している私の「内」に入れるかぎりにおいて、まさに観念的であると同時に空間経験に対する私の可能的条件を提示するものとなろう。観察している私の「外」に留めているかぎり、対象的可能性としての空間が投げ出されているだけである。
ピサネロのドローイングは極端に抽象化──画家の眼からも、建築家の目からも──されているので、このような主観的な関係以外は問うても無意味であることを気付かせてくれると同時に、建築空間の「観念性」──私の「内」私の「外」──を端的に示している。ある意味で、私は当たり前なことを述べている。しかし、かのクレメント・グリーンバーグも絵画の媒体とは平面性にあると、極めてばかばかしいことを神妙に述べていたではないか。私も媒体としての「建築空間」を述べようとしているだけなのである。建築家は、意識しようとしまいと、このような主観意識に基づく観念的振る舞いなしには、例えばスケールの移動(縮尺模型から原寸実体)に平静でいられるはずがない。

私がピサネロのドローイングで問題にした「内」と「外」は絵画にもあてはまると考える者がいるだろう。そして、主観にまつわる空間の観念性と実在性の両立を告げるものとして建築があるのだ、と。逆なのである。建築は経験的実在(=自明性)から出発して、ろくでもなく「観念的」な主観を擁護する──批評性という名のもとに──装置としての役割をルネサンス以来果たしてきたのである。建築以外の諸芸術はもはや主観にまつわる空間の観念性、つまり透視図法的世界観などもはや相手になどしていないはずだ。空間の観念性にしがみつきながらスケールを移動させる建築(家)を嘲笑したのが、モンドリアンでありリチャード・セラであったことを思い出してほしい。それゆえに、旧態依然としてある建築への批判は、まず主観なるものの批判から始まらなければならないのだ。

建築空間における主観に結びついた「観念性」を忘却するかぎり、あるいは、建築空間を諸事物──カントなら私の「外」にある対象であり、それには私の(諸事物と同一の資格を持った)身体が含まれると言うであろう──を見出す枠組みとして使用するかぎり、知覚空間としての建築と、現実の外を空間的に区別するものなどありそうにもない。いや、むしろその自明性はアルベルティが指摘したように現実(で起きていること)の模倣──模倣の仕組みそのものは変化するにしても──の場、すなわち現実社会の忠実な「鏡」になるしかない。建築の観念的外部、外部的観念が政治学的に、社会学的にルネサンス以降どのように展開してきたかを私などが説明することもないであろう。
私が「わかりやすく非作家的」な建築家たちに対して、あえて「ルネサンスにおいて引かれた建築家の役割を近代という歴史的発展にそって忠実になぞっているだけ」といった意味は以上である。だからといって、建築「空間」が現実の忠実な鏡、それゆえにイメージの消費の場(=スペクタクル)に成り下がったなどと垂直的に批判するつもりなど毛頭ないこと(批判などできないこと)を、迷走によって敢えて示してきたのだ。次回は、ろくでもなく「観念的」な主観がなぜ建築において生き延びてきたかに言及したい。

ピサネロ、インテリア・ドローイング

ピサネロ、インテリア・ドローイング


★一──ピーター・アイゼンマンとフレドリック・ジェイムソンのやり取りに関しては、『Anytime 時間の諸問題』(NTT出版、二〇〇一)参照。
★二──この見解に関してはレオン・バティスタ・アルベルティの『建築論』と『絵画論』を注意深く読んでいただきたい。

>丸山洋志(マルヤマ・ヒロシ)

1951年生
丸山アトリエ主宰、国士舘大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.27

特集=建築的/アート的

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>フレドリック・ジェイムソン

1934年 -
文芸評論家。デューク大学で教える。

>手塚貴晴(テヅカ・タカハル)

1964年 -
建築家。手塚建築研究所共同主宰、武蔵工業大学准教授。

>手塚由比(テヅカ・ユイ)

1964年 -
建築家。手塚建築研究所共同主宰、東海大学非常勤講師。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...