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記念碑の事情──モニュメントのモニュメントと擬モニュメント | 吉村靖孝
Affairs of the Monument: The Monument of Monuments and the Fake Monument | Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義, 1999年03月発行) pp.34-36

東京タワーはいつも唐突に顔をみせ、またいつのまにか消える。それは粗悪なフォト・モンタージュさながら継ぎ目も未処理のまま強引に近景と接ぎ合わされ、その肌合いの隔たりこそがしばしば都市を行き交う人々の目線を奪うが、しかしあるときは気付かれることすらなく、ふたたび忘却の彼方へと去る。まるでそこにははじめからなにもなかったとでもいうように。
エッフェル塔建設反対派だった作家モーパッサンが、塔の落成後パリで唯一それを見ずにすむ場所として塔内のカフェを愛用したなどというエピソードと比べると、こうしたタワーの見え方はいかにも雑然とした東京の街並みを謂うような気がしてならない。東京の都心部では、どんなに高い構築物であろうとも大きさも色もまちまちで並びの悪いビル群の谷間に立ち現われては消えるしかないのであり、したがって当然東京には東京タワーを見ずにすむ場所などいくらもあるからだ。セーヌ川を貫通し、シャイヨー宮から陸軍士官学校へといたる明快な都市軸上に鎮座するエッフェル塔と比べると、東京タワーへと至る道はどれも迂遠であり、付近をかすめる幹線でも常に消失点から僅かに外れたタワーを拝むことになる(レム・コールハースによるヴィラ・ダラヴァのドローイングにみられるような遠くエッフェル塔を望むアシンメトリカルな構図は、むしろこの東京タワーの見え方を想起させる代物だといえよう)。また、たとえ足下までたどり着いたとしてもそこは見栄えのしないマッスが占拠してタワーが真下から見られるのを阻んでいる。つまりビルの背景にコラージュされるあの見え方こそ東京タワーの唯一の鑑賞法なのだ。
東京タワーには、こういった視線の操作をしなければならないわけがある。昨年、日本─フランス年のために遙々東京湾岸に流れ着いた「自由の女神」を目にしたときには、そのデタラメなエネルギーに感心さえしたが、しかし同時にこれと同種の居心地の悪さを以前から知っているという記憶が脳裏をかすめた。それが対岸に見える東京タワーである。全体を一〇四パーセントに拡大した結果、紅白に醜くモアレを生じたカラーコピーのエッフェル塔。しかもその低解像度ぶりは徹底している。細部はことごとく省略され、近寄れば張り子のような儚ささえ湛えている。本来、電波塔というビルディング・タイプに要求されるのは高さと位置のみであり、その条件を満たす意匠には無数の選択肢があるはずである。しかし、いや、であるからこそ東京タワーはエッフェル塔をモティーフとして選んだ。エッフェル塔同様四脚とするも、結局のところ別の立体に阻まれてその間を通り抜けることすらできないといったありさまなどは、これが借り物のデザインであることをよく示しているといえよう。つまり東京タワーとは、はじめから東京タワーではなく遠景のためのエッフェル塔であった。そして今日も愛すべき東京の気ままなパノラマを演出しているのである。

「一〇〇〇フィートのエッフェル塔は、一フィートに換算するとわずか七グラムである」。すなわちエッフェル塔は軽さの象徴であった、とバルトは言う。しかし今日でも多くの観光ガイドブックに引用されるこのフレーズの反芻には慎重を期す必要がありそうである。計算上事実に違いはないのだが、重さは高さではなく体積に比例するのであって、高さを一〇〇〇分の一にすれば重さが圧倒的に軽くなったように感じられるのは当然といってよいからだ。たとえば半分ならすでに重さは八分の一、一〇分の一なら重さは一〇〇〇分の一にまでになる。ここには表記のトリックが策動している。装飾が削ぎ落とされた東京タワーはエッフェル塔よりさらに軽いし、あるいは軽いということでいえば、ロシア・アヴァンギャルドの技術者ウラディミール・シューホフの設計した三五〇メートルに達するラジオ塔の原案など、わずか二二〇〇トンで済むと計算されていた。こちらは高さ一〇〇〇分の一なら二グラムということになるが、こうしてしまえば二グラムも七グラムも大差はない。逆に、エッフェル塔が仮に総重量で一〇倍の七万トンにおよぶグロテスクな物体だったとしても、三〇センチメートルに換算すればたったの七〇グラムである。それでも土産物屋に並ぶ模型などより遙かに軽いという驚きは少しも減じはしないだろう。
ところでこのシューホフのラジオ塔はやがてやはりここ日本で、ある遠景用モニュメントヘと変奏されている。伊東豊雄による《せんだいメディアテーク》のスラブを縫う網状の柱である。「電化+ソヴィエト=共産主義」を掲げたレーニンのデモンストレーション的意味合いが強かったラジオ塔も、ここでは幾重にも偽装が施され、一見それとは気付かぬようになってはいるが、立面図的視点、すなわち無限遠の視点を獲得したとき、屹立するラジオ塔を去勢していたスラブは消え去り、ふたたび不可視をシンボライズするモニュメントとして浮かび上がる。
「軽さ」とは重量のことではないし、無論材質や構法の問題でもない。東京タワーやメディアテークが軽く見えるとしたら、重囲するコノテーションを脱ぎ捨て、コンテクストの海の上を縦横に闊歩する所作がそう見せるのであって、その「軽さ」は新たな計器を要求していると言えよう。

さて、フランス革命二〇〇周年のさまざまなイヴェントを経て、いまやエッフェル塔が革命一〇〇周年を記念して建てられたことは日本でも周知のこととなった。しかしいくら「革命一〇〇周年」といえども、それがあの威容を誇る塔の存在根拠になどなりようもない。まして高さや軽さの象徴としてなら適役がほかにいくらもあるはずである。むしろエッフェル塔は、なにひとつ意味しないことによって次第にモニュメンタリティを研ぎ澄まし強度を獲得していったのであって、結局のところそれはモニュメントのモニュメント、バルトに倣えば「記念碑の零度」として存在している。一方の東京タワーは無益のモニュメントなどではない。その実は前田福三郎社長以下「日本電波塔」が経営し首都圏各テレビ局ほかの雑居する正真正銘の総合電波塔である。つまりこちらはエッフェル塔のごとく無益であることによってその芸術性や記念碑性が保証されないかわり、日々、東京中に向け電波を発信しているのだ。
そもそもこの種のインフラストラクチャーには、シルエットの類似や周囲との隔絶具合によって図らずもモニュメンタリティを身につけるものが散見する。たとえば『東京物語」に描かれた煙突を思い出してみればよい。逆光に浮かぶ煙突は高度経済成長の表裏を射抜くモニュメントとして十分な存在感を漂わせていたはずである。モニュメントたることを目的とせず、被爆のような外科的な変質によってモニュメントに昇華するでもなく、ただそこにあることがモニュメンタルな存在と映る建物が確かにある。最近では、そのような第三のモニュメントに対して、本来の役柄に似つかわしくない英雄性を排除するための隠蔽工作が施されることも多い。ある時は煙突や換気塔にそれが周囲から目立たぬよう窓らしき穴を穿ってオフィス・ビルのような顔をさせ、またある時は巨大看板で巨大インフラを覆い隠すといった具合で、その手つきといえば決してスマートとは言い難いものばかりだ。
東京タワーの場合もそのあたりの事情は同様であって、見えにくさは半端な自粛の結末と言うべきかもしれない。出資者や周辺住民の注視を逸らし、建設を有利に進めることも必要であっただろう。ただし東京タワーは最終的にまったく逆のベクトルを進んだ。目立たないよう取り繕ってひた隠しにするのではなく、大胆にもエッフェル塔という「記念碑の零度」を借りていわばモニュメントそのものを偽装したのである。

地上放送のデジタル化をにらんで地上七〇七メートルにもなる「新東京タワー」の構想があるという。羽田空港から東京都心部一帯にかかる航空法の高さ制限を超法規的にクリアできた場合、現在の東京タワーのすぐ脇、ボーリング場などがある一帯にそれは建つ。都心に電波塔を建設する理由として、その観光収入によるアンテナ使用料の軽減が計上されているとも聞く。すなわちこの塔は、ふたたび観光資源に足るモニュメタリティを纏う運命にある。

1──東京タワー 「エッフェル塔100年のメッセージ 建築・ファッション・絵画」展カタログ (麻布美術工芸館、1989)より

1──東京タワー
「エッフェル塔100年のメッセージ
建築・ファッション・絵画」展カタログ
(麻布美術工芸館、1989)より

2──エッフェル塔、1889年 「エッフェル塔100年のメッセージ 建築・ファッション・絵画」展カタログより

2──エッフェル塔、1889年
「エッフェル塔100年のメッセージ
建築・ファッション・絵画」展カタログより


3──フランス年で来日した「自由の女神」 写真提供=フジテレビジョン

3──フランス年で来日した「自由の女神」
写真提供=フジテレビジョン

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。